第87話 先に折れたのは先輩だった
入口から三枚目の板が、ぎ、と鳴った。
鳴らしたのは俺ではない。俺より先に鷲尾さんがそこを踏んで、踏んでから足元を見た。
「これ、いつも鳴るんですか」
「鳴ります」
「直さないんですか」
「知らんです」
鷲尾さんは眼鏡の位置を直して、部屋を一度だけ見回した。
床板の話をしに来たわけではないと思う。
二十畳。三面が鏡。壁にバー。いつもの部屋だ。
いつもと違うのは、譜面台が二つ立っていることだった。二つのあいだは、二歩ぶんくらい空いている。
鏡には、譜面台も二つ映っていた。斜めの鏡のほうでは、二つが重なって一つに見える。一歩ずれたら、また二つに戻った。
左の鏡と正面の鏡のつなぎ目に、いつからあるのかわからないテープの剥がし跡が細く残っていて、そこだけ表面が白く曇っていた。
◇
鷲尾さんが紙を寄越した。
「二人ぶんに直した」
鷲尾さんは、説明を一言で終わらせる人である。
俺は紙を見た。曲の名前は変わっていない。字の並びも、だいたい同じところにある。違うのは、行の頭に丸と三角が付いていることだった。
丸を数えたら十九あった。三角は十四あった。
俺の紙の行は、全部で三十三行ある。
「丸が俺ですか」
「三角が君」
「三角ですか」
「深い意味は無いです」
深い意味が無いなら、丸のほうがよかった。
◇
「四か所、ハモります」
鷲尾さんは紙の上を指で押さえた。押さえたところに、細い線が二本引いてある。
「ハモ」
「同じ言葉を、違う高さで同時に出すやつです」
「二人でですか」
「二人でです。君が下」
「下ですか」
「君は下で鳴る人なので」
わからん。
わからないが、下でいいなら、たぶん楽なほうだと思う。
「楽じゃないですよ」
鷲尾さんは先に言った。
「下は、相手の音に引っぱられます。引っぱられたら、二人とも同じ音になる」
「同じだと、まずいんですか」
「まずくはない。ただ、二人でやる意味が無くなります」
鷲尾さんは指を紙の四か所に順番に置いた。一か所目は一番の終わり。二か所目と三か所目は二番の中。四か所目は、最後の四行の頭だった。
四か所目のところだけ、指が長く止まった。
「ここが本番です」
「はい」
「ここが決まらないと、前の三か所は要らないので」
◇
十七時に、有本さんが紙を持って入ってきた。
紙は一枚で、上から順に日付が並んでいる。
「十五日と、十六日です」
「はい」
「どちらも、十七時からこの部屋です。本番は二十五日」
「二十五日ですか」
「金曜です。ホールに入るのは昼から」
有本さんはタブレットを一度触って、それから顔を上げた。
「あと、今日、局から三本ありました」
「はい」
「折り返しは、こちらでします」
有本さんは紙を譜面台の下の棚に置いて、出ていった。
置き方が斜めだったので、俺はそれをまっすぐに直した。
◇
十七時半に、澪さんが来た。
ドアを開けて、入って、三枚目を踏まずに歩いた。踏まない歩き方が自然だったので、今日覚えたことではない。
黒いシャツと、膝までのパンツだった。髪は後ろで一つに束ねてある。タオルと、水のボトルと、紙を一枚持っていた。
紙は俺が持っているのと同じやつで、端のほうが丸まっていた。
ボトルを床に置いたとき、右手が窓の光の中に出た。
人差し指と中指の付け根に、皮の硬いところが二つ並んでいた。片方は色が変わっている。指を開いても、そこだけ形が戻らなかった。
「頭から、通しましょう」
鷲尾さんは壁際に椅子を置いて、そこに座った。座って、膝の上に紙を広げた。
◇
一回目を通した。
音は鷲尾さんが携帯から出した。壁際の小さいスピーカーに繋いだやつだ。低いところが少し足りない。足りないことは、鷲尾さんのほうが先に言った。繋いだ線は途中で一度だけ床のテープの剥がし跡に引っかかっていて、鷲尾さんはそこを跨ぐたびに足を少しだけ高く上げていた。
「ここで作った低さは、当てになりません」
一行目は俺で、二行目が澪さんだった。三行目から重なる。
重なるところで、俺の声が下に落ちた。
落ちたのが自分でわかった。わかったが、行は止まらずに進んでいくので、そのまま次の行に入った。
澪さんの声は落ちなかった。落ちないまま、俺の落ちたところを通り過ぎていった。
曲は止まらなかった。終わりまで鳴って、切れた。
澪さんはタオルを首にかけて、こっちを向いた。
「入りが一緒じゃないの。私が息を吸う音、聞こえるでしょう。あれと同じところで吸って」
「はい」
「もう一度」
二回目。
「まだ遅い」
「はい」
「もう一度」
三回目。四回目。五回目。
五回目のあとで、澪さんは自分の胸の下あたりを指で二回叩いた。
「ここ。ここが動いてから、口を開けるの」
「はい」
六回目。
「今の」
「はい」
「今の、合ってた」
俺は紙を持ち直した。
◇
合っていたところから、先へ進んだ。
澪さんの言うことは、一つ終わるたびに細かくなった。
語尾を伸ばす長さ。伸ばしたあとの切り方。切ったあとに息を吸うか、吸わないか。吸わないなら、次の行のどこで吸うか。
俺は言われたとおりにやった。
やって、違うと言われたら、また言われたとおりにやった。
七回目。
「語尾、切りすぎ」
八回目。
「今度は伸ばしすぎ。さっきの半分」
「半分ですか」
「半分。私が手を下ろしたら切って」
九回目。
澪さんは俺の横に立って、右手を上げた。上げた手を、俺の視界の端に置いたまま、一緒に歌った。手のひらは俺の目の高さより少し下にあって、指の先だけが窓のほうの明かりを受けて白く見えていた。
三行目の終わりで、手が下りた。
俺は切った。
「そう」
澪さんは手を下ろしたまま、そこから動かなかった。
「そうなの。今のが十だとして、さっきまでのは、二か十二だったの」
九回目のあとで、鷲尾さんが壁際で紙を一枚めくった。その音が部屋の端で鳴って、それきり何も鳴らなかった。
◇
傍から見ると、上の人の要求に何度でも応える、根性のあるやつだった。
◇
十九時に、五分だけ止まった。
止めたのは鷲尾さんで、止めた理由は自分が電話を掛けるためだった。鷲尾さんは廊下へ出ていった。
俺も廊下へ出た。
突き当たりに自販機がある。二階のやつは、ゼリー飲料が三つ並んでいる。青と、白と、緑だ。どれも百八十円する。三つのうち青だけが二本並んでいて、白と緑は、取り出し口の上の見本が一本ずつ立っているだけだった。
青が一番うまい。次が緑で、最後が白だ。白は重い。飲むと腹が膨れて、あとで飯が入らなくなる。
俺は青を押した。
押してから、もう一本ぶんの金があるかを考えた。あった。
◇
部屋に戻ったら、澪さんは鏡の前に立っていた。
立って、口を開けないまま、口の形だけ動かしていた。指が、体の横で拍を取っている。
拍は、俺には聞こえない速さで進んでいた。指だけが動いて、口は音を出していない。
五分の休憩で、休んでいたのは俺だけだった。
俺は緑のほうを差し出した。
「いります?」
「なに、それ」
「ゼリーです」
「いらない」
「そうですか」
「あなた、それ、飲むの」
「飲みます」
「歌う前に?」
澪さんは俺の手の中の青いやつを見た。
「歌う前に、そういうの入れると、下が鳴らなくなるのよ」
俺は蓋を閉めた。
閉めて、鞄の横に置いた。
置いてから、あと二時間ある、ということを思った。
二時間のあとに電車がある。電車に乗ると、桜坂に着くのが二十一時前後になる。駅前のパン屋は二十時で閉まる。閉まったあとに開いている店は、コンビニだけだ。
コンビニでもいい。いいのだが、パン屋のコロッケパンは百四十円で、コンビニのは百八十円する。中身は、たぶんそんなに変わらない。
変わらないのに、四十円ちがう。
その引き算を、俺は二回やった。二回とも同じ答えが出た。
◇
「何してるの」
澪さんが鏡のほうを向いたまま言った。
「計算です」
「なんの」
「パンです」
「……そう」
いつもの返事だった。
◇
携帯が一度だけ震えた。
美咲だった。
〈来週の火曜から。範囲、送っとく〉
そのあとに、科目と、ページの数字が並んでいた。九行あった。
九行のうち、四行に印が付いている。印は、俺が付けたものではない。
俺は〈わかった〉と返した。
返してすぐに、また震えた。
〈印は、あなたが去年落としたところ〉
落としたところを、俺は覚えていない。俺のかわりに、誰かが四つ、印を付けてきた。
俺は携帯を鞄に戻した。
◇
「立ち位置を決めます」
澪さんは自分の譜面台を、俺のほうへ半歩寄せた。寄せて、また戻した。
「本番、私が右。あなたが左」
「はい」
「二番の頭で、私が半歩前に出る。あなたは動かない」
「はい」
「動かないっていうのは、足のことじゃないの。顔も動かさないで」
顔は、動かさないでいられる。動かないのは顔だけで、足の裏のほうは、さっきから同じところが痺れている。
「十回目」
十回目をやった。
やっているあいだに、窓のほうが暗くなった。床に伸びていた四角い光が短くなって、途中から消えた。
消えたあとも、ドアの下の隙間からは光が入っていた。廊下の蛍光灯である。四角い光があったところには床の艶の違いだけが残っていて、その形は、さっき見たときより細長くなっていた。
◇
二十時に、鷲尾さんが立ち上がった。
「僕、そろそろ出ます」
「はい」
「二十二時に別の人が入ってるので、それまでには終わってください」
鷲尾さんは椅子を壁に戻して、紙を鞄に入れて、鞄を肩にかけて、部屋を出ていった。
出ていくときに、三枚目を踏んだ。
「ぎ」
澪さんが、そっちを見た。
◇
二人になった。
澪さんは水を一口飲んで、蓋を閉めて、ボトルを床に戻した。戻した場所は、さっきと同じところだった。
澪さんは、水を置く場所を決めている人である。
「もう一度」
十一回目をやった。
「もう一度」
十二回目をやった。
十二回目の四か所目で、俺の声が澪さんの音に寄っていった。寄っていって、途中から同じ高さになった。鷲尾さんが言っていたのは、たぶんこれだ。
「戻して」
「はい」
「あなたのほうが下。私に合わせないで」
「はい」
「合わせようとしてるでしょう。合わせないで、って言ってるの」
「はい」
澪さんは譜面台を回して、紙の下のほうを俺に見せた。
最後の四行のところに、鷲尾さんの線が二本引いてある。線と線のあいだが、他の三か所より広かった。
「ここ、鷲尾さんは何て言ってた」
「本番だと言っていました」
「そう」
澪さんは紙から目を離さなかった。
「私も、ここが要らないなら、二人でやる意味が無いと思う」
「はい」
「もう一度」
十三回目。
十三回目の前に、澪さんは水を飲まなかった。ボトルに手を伸ばして、途中でやめて、その手で髪を結び直した。
結び直すのに時間がかかっていた。二回、ゴムが指から落ちた。
落ちたゴムを拾うとき、澪さんは膝を曲げないで、腰から折れた。床までの距離が、俺の半分も無かった。
十三回目の途中で、澪さんの声が一度だけ細くなった。細くなったところは、俺の声が下に落ちるところとは別の場所だった。
曲は終わりまで行った。
行ってから、澪さんは何も言わなかった。
◇
言わないで、譜面台の紙を見ていた。
それから紙を取って、両手で持った。
持った紙が、少し揺れた。
揺れているのは紙ではなく、それを持っている手のほうだった。人差し指の付け根の、硬いところが白くなっていた。
「……もういい」
澪さんは紙を譜面台に戻した。
「今日は、ここまで」
「はい」
「まだ二時間ある」
「はい」
「あるけど、ここまで」
澪さんは壁際まで歩いて、そこに座った。膝を立てて、その上に腕を置いた。
壁際で膝を立てて座るのは、三月にも見た形である。
◇
「あなた」
座ったまま、澪さんが言った。
「なんで平気なの」
「平気とは」
「十三回。私、十三回言ったのよ。途中で一回も、嫌な顔しなかったでしょう」
顔は動かない。
嫌な顔のほうは、やり方がわからない。
澪さんは俺の顔を見た。上から下ではなく、顔だけを見た。
喉が渇いていた。青いやつは鞄の横にある。取りにいくには、部屋を横切らないといけない。
「腹は減りました」
「聞いてない」
「すみません」
「謝らないでよ」
澪さんは前髪を後ろへ払った。払ったが、すぐに戻ってきた。戻ってきた前髪の先が汗で束になっていて、二回目に払ったときは、そのまま額に貼りついて動かなかった。
「私ね、下の子に十三回言ったこと、無いの」
「はい」
「五回で終わるから。五回目で、みんな泣くか、怒るか、上手くなるかするの」
俺は譜面台の前に立ったままでいた。
「あなた、どれもしないのね」
「はい」
「はい、じゃないでしょ」
澪さんは膝の上で腕を組み直した。組み直して、床の一点を見た。何も落ちていない場所だった。見ていたのは、鏡の下の幅木と床のつなぎ目のあたりで、そこだけ塗りが薄くなって、下の木の色が細く出ている。
「私、今日、あなたを困らせようとしてたの」
「困ってないです」
「知ってる。それが困るの」
澪さんはタオルの端を指で折った。折って、また開いた。
「十三回目、私のほうが先に落ちたのよ。三行目の頭。気づいてた?」
「はい」
「言わなかったのね」
「言うことじゃないと思いました」
澪さんは俺のほうを見た。見て、二秒くらい何もしなかった。
「その言い方、私が前にしたやつよ」
「そうですか」
「そうよ」
澪さんは膝の上の腕をほどいて、床に手をついた。ついた手で、体を起こした。
起きるときに、右の膝が一度、内側に入った。
◇
俺は額を拭いた。
拭いたのは袖で、袖はもう湿っていたので、あまり意味が無かった。
澪さんは立ち上がって、タオルを首にかけ直した。ボトルを持って、ドアのほうへ歩いた。
歩いて、途中で止まった。
「次は十五日ね」
「はい」
「それまでに、一つだけ直しておいて」
「どこですか」
「全部」
澪さんは三枚目の板を、今度は踏んで出ていった。
「ぎ」
鳴ったあと、部屋には俺と、譜面台が二つ残った。
俺は自分の紙を鞄に入れた。ゼリー飲料は二つとも、まだ蓋が閉まっている。青いほうは飲みかけで、緑のほうは開けてもいない。
緑は明日でも飲める。
壁の時計は二十時二十分を指していた。二十二時に別の人が入る部屋の、電気はまだ全部ついている。
澪さんの譜面台には、紙が置いたままになっていた。
俺はそれを取って、追いかけようとした。
追いかける前に、目が行った。
三角の行に、細い字で書き込みがしてある。丸の行には、何も書いていない。
三角は十四行ある。字が入っていたのは、十三行だった。




