第86話 看板が二枚
朝、教室に入ったら、机の上に賞状が置いてあった。
俺の机である。
開いて見たら、三年一組の名前が書いてあって、その下に〈第二位〉と印刷してあった。体育祭の総合の順位らしい。
「なんで、俺の机にあるんだ」
俺は熊沢に聞いた。
「いちばん働いてない奴に持たせようって話になった」
「俺はいなかった」
「だから、いちばん働いてない」
理屈は通っている。
◇
「で、聞けよ」
熊沢が椅子を回してこっちを向いた。
「土曜の二百メートル。俺、三位だったんだよ」
「そうか」
「三位ってのは、まあ、悪くない。悪くないんだけどな」
「なんだ」
「四人で走った」
熊沢は机に肘を載せた。載せて、体重をかけた。
「一人こけたんだよ、途中で。だから実質、三人中の三位」
「四人中の三位だ」
「そこは実質って言えよ」
言い方の問題らしい。
◇
賞状は、そのあと美咲が持っていった。
持っていって、教室の後ろの壁の、上のほうに貼った。貼るときに、椅子の上に立った。椅子を押さえたのは熊沢である。
「高町くん、あなたのぶんの得点、二点入ってる」
「出ていません」
「用具は、当日の得点じゃないの。準備の分が入るのよ」
美咲は椅子から降りた。
「二点って、玉入れの籠一本ぶんよ」
◇
二時間目のあと、廊下に人が出ていた。
出ていたのは、うちのクラスの前だった。えんじ色ではない上履きが、ドアの両側に並んでいる。そのうちの何人かは、両手に何も持っていなかった。
「なあ高町、あれ、いつまで続くと思う?」
「わからん」
「俺、下の階の女子に、お前の時間割を聞かれたぞ」
「教えたのか」
「教えるかよ。教えたけど」
「教えたのか」
「一時間目だけな」
◇
昼休みに、早坂が俺の机の前で止まった。
止まって、そこに立ったまま、言った。
「日曜の、最後の」
「見たのか」
「見た。うち、母と二人で見た」
「そうか」
「終わったあと、二人とも十分くらい黙ってた」
早坂は自分の手のひらを見た。見て、また上げた。
「それだけ。じゃあ」
早坂は行った。
その十分のあいだのことを、俺は聞かなかった。
◇
一時四十分に早退した。
黒板の右端に、〈6/20(金) 高町 公欠〉と書いてある。
書いたのは宮坂先生である。
◇
局に着いたのは十四時半だった。
裏口の受付の人が、俺の顔を見て札を出した。
「Gスタジオです」
「はい」
「今日、楽屋が二つ上の階です」
「上がったんですか」
「今日は人が多いので」
人が多いらしい。
◇
二つ上の階の廊下は、下の階より狭かった。
狭いところに台車が二台停まっていて、そのあいだを人が横向きで通っていく。俺も横向きで通った。
途中で、壁に貼ってある紙を見た。〈本日 ミュージックゲート 20:00〜〉と書いてある。右下の余白に、今日も鉛筆で書き足しがあった。
〈押し 5〉
鉛筆の字は、前に見たのと同じ人の字だった。数字のところだけ、二重に濃く書いてある。書き直したらしい。
◇
楽屋は広かった。
机が二つあって、椅子が四つあって、奥に小さい流しが付いている。鏡の縁の電球は、十二あった。全部点いていた。
有本さんが紙を持って入ってきた。
「高町さん、今日の流れです」
紙を受け取った。
いちばん下のほうに、見たことのない行があった。
〈20:40〜 発表コーナー(出演者全員 板付き)〉
「これは、なんですか」
「発表です」
「何を発表するんですか」
「私も聞いていません」
「板付きというのは」
「カメラが回りはじめた時点で、もうそこに立っている形です。歩いて出てこないで、最初から並んでいます」
有本さんはタブレットを見た。
「今日、事務所から四人来ています」
「四人ですか」
「いつもは私だけです」
◇
俺は椅子に座った。
座って、机の上を見た。机の上には、ペットボトルが二本と、紙コップが四つ置いてある。四つとも空だった。
鞄を開けて、人形を出した。
(今日は歌わないらしい)
「歌わないの?」
(並ぶだけだと書いてある)
「並ぶだけで四時間待つの?」
(そうなる)
「あんた、それでいいの」
(弁当は出る)
「……あんたのそれ、才能よ」
才能らしい。
◇
十五時から十七時まで、何も無かった。
楽屋の椅子は四つある。俺は入口に近いほうに座っていて、あとの三つは空いていた。空いている椅子を見ていても仕方がないので、壁を見た。
壁に、四角いテープの跡が二つあった。一つは大きくて、一つは小さい。大きいほうは、剥がしたあとを誰かが指でこすった跡が残っている。
弁当は出なかった。出るのは終わってからだと、今日も言われた。
俺は自動販売機を探しに廊下へ出た。出て、突き当たりまで歩いて、そこに自動販売機が無いことを確かめて、戻ってきた。
戻ってきたら、椅子の一つに有本さんが座っていた。
「高町さん、どこへ行きました」
「自販機です」
「この階には無いです」
「無かったです」
有本さんは鞄から、缶コーヒーを一本出して、机に置いた。微糖だった。
「これは、有本さんのですか」
「私のです」
「では」
「差し上げます。わたし、いつも二本持ってるので」
有本さんは、もう一本を自分で開けて、それを飲んだ。
二本持っている人だったらしい。
◇
十七時から、リハーサルがあった。
立つ位置を決めるだけのやつだ。今日は出演者が七組いて、七組が横一列に並ぶ。並ぶ順番は、床のテープの色で決まっていた。
俺は右から三番目だった。
伊佐さんが膝をついて、俺のテープの角を押さえ直した。
「高町さん、今日は歌わないんですけど」
「はい」
「立ってるだけです」
「はい」
「立ってるだけなんですけど、四十秒あります」
「四十秒というのは、どのくらいですか」
「立ってると長いです」
「はい」
「見てるほうは、あっという間です」
伊佐さんは膝の埃を払って、立ち上がった。
◇
十九時に、廊下が急に混んだ。
事務所の人が四人、廊下の端に固まっていた。四人とも上着を着ていて、一人が紙を持っている。持っている紙を、四人で覗き込んでいた。
俺が通ったら、四人が同時に顔を上げた。
「高町くん、今日、いい日になるから」
誰の言葉だったのかは、四人が同じ向きに立っていたので分からなかった。
◇
二十時ちょうどに、番組が始まった。
一組目が歌った。二組目が歌った。俺は袖に立って、それを見ていた。
袖は暗い。暗いところから明るいところを見ていると、床のテープの色がよく見える。赤、青、緑、白。今日は色が三つ増えていて、全部で七つあった。
袖のモニターに、いま映っているものが出ている。
三組目のあとで、モニターの中身が変わった。歌ではなく、短い映像が流れはじめた。
映っていたのは、知らない子だった。
◇
髪が長い。制服ではない服を着て、白い部屋の真ん中に立って、歌っていた。
十秒くらいで切れた。
切れたあと、モニターは客席を映した。
「あの子、うちですよ」
横で、事務所の人の一人が言った。
「うちというのは」
「ソレイユです。高町くんの二つ下。立花っていいます」
「知りませんでした」
「まだ出てないので。今日が最初です」
その人は、モニターのほうを見たままだった。
「あの子、来年は真ん中に立ちます」
◇
二十時四十分になった。
俺は右から三番目のテープの上に立った。
両隣に人がいた。左は二組目の人で、右は一組目の人だった。七人が横に並ぶと、端の人の顔は、ここからは見えなかった。
都築さんが白いテープの上に立った。
立って、原稿を持たずに喋りはじめた。
◇
「七月二十五日、金曜日。ミュージックゲート、サマースペシャル」
客席から声が上がった。
「三時間、生放送でお届けします。会場は、この局を出ます」
また声が上がった。
都築さんは、そこで一度、袖のほうを見た。見て、こっちに戻した。
「本日ご出演のみなさんに、そのままご出演いただきます」
俺の左で、二組目の人が小さく息を吸った。
◇
「そして」
都築さんはそこで切った。
スタジオの上のほうから、光が下りてきた。俺のところではない。俺の三つ左のあたりが、明るくなった。
明るくなったところには、誰も立っていなかった。
◇
「サマースペシャルの中で、一曲だけ、特別なものをやります」
都築さんは言った。
「『ノーフェイス』。今夜も何度も名前が出ました、あの曲です。これを、サマースペシャルでは二人で歌っていただきます」
客席が、少し静かになった。
「歌うのは、高町灯真さんと」
俺の名前が呼ばれた。
呼ばれたので、俺は少しだけ顎を引いた。それ以外にやることが分からなかった。
「神楽坂澪さんです」
◇
客席の音が、いちばん大きくなった。
上の列から順に来て、下まで来て、それから全部が一緒になった。両隣の二人が同時にこっちを向いた。右の人が何か言ったが、聞こえなかった。
俺は前を向いていた。
前を向いたまま、四十秒が終わるのを待った。
◇
そのとき画面に映っていたのは、七人のうち右から三番目で、顔を一度も動かさなかった男だった。
◇
袖に下がった。
下がったところで、事務所の人の一人が携帯を耳に当てていた。歩きながら喋っている。声が大きい。
「――ええ。出ます。うちの看板が二枚、同じ画に並びます」
その人は、俺の横を通った。
通るときに、こっちを見て、片手を上げた。上げた手は、携帯を持っていないほうだった。
「――いや、こっちが頼んだんじゃないです。向こうから来ました。向こうから」
声は廊下の突き当たりまで行って、そこで曲がった。
◇
袖の暗いところに、出演者が七組ぶん下がってきた。
下がってきた順に、それぞれの担当の人が近寄って、何か言って、離れていく。俺の左にいた人のところには、三人来た。
俺のところには、まだ誰も来なかった。
一組目の人が、俺の前で足を止めた。
止まって、口を開けて、何も言わずに閉じた。閉じてから、手を出した。
俺はその手を握った。
握ったら、二回振られた。振ってから、袖の奥へ歩いていった。
◇
携帯が震えた。
犬飼さんからだった。
〈聞いた〉
それから、二十秒くらいあって、もう一通来た。
〈飯は食え〉
俺は〈まだです〉と返した。
既読は、すぐに付いた。返事は来なかった。
◇
残りの二組が歌って、番組の終わりが近づいた。
最後に、全員がもう一度スタジオの床に出た。今度は並ばなかった。散らばって立って、音楽が鳴っているあいだ、それぞれが好きなほうを向いていた。
俺は前を向いていた。
カメラの長い腕が、上から下りてきて、俺の前を通って、また上がっていった。上がっていく途中で、腕の先の赤いランプが消えた。
消えたところで、客席の上の列の人が立ち上がりはじめた。
◇
番組は二十時五十四分に終わった。
終わってから、楽屋に戻るまでのあいだに、何人かに声をかけられた。知らない人ばかりだった。
楽屋に戻ったら、有本さんがタブレットを持って立っていた。
「高町さん、電話が十二本きました」
「今日ですか」
「番組が終わってからです」
有本さんは、タブレットを胸のところで伏せた。
「今日はもう出ません」
◇
廊下で都築さんとすれ違った。
今日は原稿を丸めていなかった。両手が空いている。
「高町くん、読んだわよ、あの一行」
「はい」
「気がついた?」
「気がつきませんでした」
都築さんは、そこで一度立ち止まった。
「わたしね、いい紹介文を読むと、そのあと本人が出てきたときに、お客さんの顔が変わるのが分かるの。今日は、変わる前に発表のほうが来ちゃったから、そこだけは残念だったわね」
「はい」
「来月、あらためて読むから」
都築さんは歩いていった。
その一行がどれだったのか、俺には見当がつかなかった。
◇
鞄を開けたら、中で人形が動いた。
(うるさい)
「あんた、いま、名前を呼ばれたわね」
(呼ばれた)
「二つ呼ばれたわよ」
(そうだな)
「一つ目のあと、あんた、顎を引いたでしょう」
(引いた)
「二つ目のあとは、何もしなかったわね」
俺は声を出さなかった。
出さないで、鞄の口を閉めた。
◇
俺は上着を着た。
着ながら、机の上のペットボトルを見た。二本のうち一本は、誰かが開けて、半分飲んで置いていったやつだった。
弁当は、まだ来ていなかった。
◇
裏口に降りたら、車が三台並んでいた。
一台目に事務所の人が二人乗った。二台目に、あとの二人が乗った。二台目のドアが閉まる前に、中から声が漏れてきた。声は喋っている声ではなく、笑っている声だった。
◇
俺は、出ていく車を見送った。
テールランプが二つずつ、四つ。四つとも、道路の先で右へ曲がって、見えなくなった。
残ったのは俺と、警備の人と、壁の非常灯だけだった。
三台目は、まだ来ていない。
◇
後ろで、自動ドアが開いた。
「高町さん、お待たせしました」
有本さんだった。
紙袋を持っている。中に、弁当が二つ入っていた。
「三台目、遅れています」
「はい」
「あと十分だそうです」
「はい」
有本さんは紙袋を俺に渡した。
渡してから、こう言った。
「七月一日、火曜日。二階のレッスン室Aです」
「何がですか」
「合わせです」
合わせらしい。
俺は紙袋を開けて、蓋を取った。
立ったまま、白飯を口に入れた。
梅干しは入っていなかった。今日の弁当には、白飯の真ん中に黒い粒がまいてある。粒は塩の味がした。
二口目を入れたところで、有本さんが横で言った。
「高町さん、立ったままだと、こぼれます」
俺は蓋を閉めた。
閉めてから、紙袋の底を見た。底に、割り箸が二膳と、おしぼりが二つ入っていた。
二つとも、袋の底に平らに寝ていた。
閉めたところで、道路の先に、三台目のライトが見えた。




