第85話 歌番組の裏側は忙しい
昼休みのグラウンドで、俺は玉入れの籠を担いでいた。
籠は棒の先に付いている。その棒を、地面に埋まっている支柱の穴に差す。差すのが俺で、支えるのが熊沢で、位置を決めるのが美咲だった。
「もう少し右」
「右ですか」
「もう少し。……行きすぎ」
二回やり直して、最初の場所に戻った。
「高町くん、あなた、今日は何時に出るの」
「一時四十分に早退します」
「じゃあ、あと二十分ね」
「はい」
「明日いないんだから、今日のぶんは働いてもらうから」
「働きました」
「まだ二十分ある」
◇
熊沢が棒の下を支えたまま言った。
「高町、お前、明日いないの、ずるくね?」
「仕事だ」
「仕事なら仕方ねえけどさ。俺、明日、二百メートル走らされるんだぞ」
「頑張れ」
「他人事かよ」
美咲が地面の白い線のほうを指した。
「熊沢くん、そっちの籠も出して。三年は二つ要るの」
熊沢は俺を見た。
「な。こういうときにいなくなるんだよ、こいつは」
◇
一時四十分に、俺は職員室に寄って、早退の紙に印をもらった。
黒板の右端に、字が書いてあった。
〈6/13(金) 高町 公欠〉
書いたのは美咲ではない。宮坂先生の字だった。
その下に、別の字で一行足してあった。
〈明日の用具は六人で回します〉
こっちは美咲の字である。
◇
裏口の受付で、札のほうが先に出てきた。
机の向こうの人は、名前を書く紙を出さなかった。俺の顔を見て、引き出しを開けて、札を一枚寄越しただけだった。
「高町さん、Gスタジオです」
「はい」
「楽屋、前と同じところです」
覚えられていた。
◇
十四時に入って、本番は二十時である。
六時間ある。
その六時間で何をするのかは、車の中で有本さんが説明してくれた。説明は三十秒で終わった。終わったあとで、俺は聞いた。
「六時間、何をするんですか」
「待ちます」
「六時間ですか」
「待つのも仕事です」
◇
廊下に人が多かった。
台車が三台、続けて通った。一台目には衣装が掛かっていて、二台目には黒い箱が積んであって、三台目は空だった。空の台車を押している人がいちばん速かった。
壁に紙が貼ってある。〈本日 ミュージックゲート 20:00〜〉と書いてあって、その下に時刻が並んでいた。
紙の右下の余白に、鉛筆で何か書き足してある。
〈押し 10〉
◇
書き足したところだけ、芯が紙に食い込んでいた。
その下に、消した跡がある。消したのは数字で、消し方が雑だった。〈8〉の輪郭が薄く残っていて、その上に〈10〉が重ねて書いてある。
通りかかった人が、紙の前で足を止めた。
止まって、ポケットから鉛筆を出した。出して、〈10〉のところを一度なぞって、それから何も書き直さないでポケットへ戻した。
台車を押して、行った。
◇
楽屋には、弁当が先に置いてあった。
机の上に、二つ。片方に付箋が貼ってあって、〈高町さん 先に召し上がってください〉と書いてある。
字は、丸い字だった。書いた人の名前は、どこにも書いていなかった。
付箋は、四角の角が一つだけ折れていた。折れているほうを上にして貼ってある。
俺は座って、割り箸を割った。今度はまっすぐ割れた。
蓋を開けたら、白飯の上に梅干しが一つ載っていた。おかずの側は、揚げ物が三つと、卵と、緑のものが少し。緑のものは、名前が分からなかった。
俺は緑のものから食った。味は、ほとんどしなかった。歯ごたえだけが残った。
梅干しは最後に食った。
◇
食っていたら、ドアがノックされた。
入ってきたのは、前に俺の背中を叩いた人だった。首の札の名前を、今日はちゃんと読んだ。
伊佐という人だった。
「高町さん、今日の流れです」
紙を渡された。行が上から下まで詰まっている。
「十五時からドライです」
「ドライ」
「カメラを回さないで、立つ位置だけやります」
「はい」
「十七時からカメリハです。こっちはカメラが入ります。歌はサビだけ」
「はい」
「十八時半にランスルー。これは頭から全部やります。ただし高町さんは歌いません」
「歌わないんですか」
「口だけ動かしてください。ランスルーは、歌の中身を見る時間じゃなくて、カメラとカメラのあいだが繋がるかを見る時間なので。歌が入ると、みんなそっちを聞いちゃって、繋ぎ目のところを見落とすんです」
喉が減るらしい。
◇
俺は紙を見た。
紙には、時刻と、部屋の名前と、人の名前が並んでいる。
いちばん下の行に、〈20:54 OA終〉と書いてあった。
その行だけ、上の行との間隔が広い。空いたところに、細い横線が一本引いてある。定規で引いたものではなかった。真ん中のあたりで、線がわずかに下へ折れている。
俺は紙を折らないで、鞄の上に置いた。
◇
十五時にスタジオへ降りた。
床のテープは、今日は客席寄りに貼ってあった。黄色が二本、直角に交わっている。
伊佐さんが膝をついて、テープの角を指で押さえ直した。
「毎回、貼り直すんですか」
「毎回です」
「同じ場所ではないんですか」
「同じ場所なら、貼り直しません」
言われてみれば、そうだ。
◇
立つ位置を決めて、体の向きを決めて、それで一時間かかった。
俺がやったのは、立つことと、向きを変えることだけである。あとの五十分は、他の人が動いていた。
カメラの人が三回位置を変えて、そのたびに照明の人が上を向いた。上を向いて、無線で誰かと喋って、天井の枠のどこかが動いた。
俺は同じところに立っていた。
立っているあいだに、天井の枠が二回動いた。二回目は、動いたあとで元へ戻った。
◇
途中で、上のほうから声が降ってきた。
「高町くん、あと二十センチ下がれる?」
スタジオの奥の上のほうに、窓のある部屋があった。窓の中に人が何人か座っていて、その一人が手を上げていた。
「あれは、なんですか」
「サブです」
「サブ」
「副調整室。あそこで全部決めます」
「決めるのは、あそこなんですか」
「あそこと、あそこじゃないところです」
わからん。
伊佐さんは無線に何か答えて、床のテープのほうへ戻っていった。
◇
十七時のカメリハで、サビだけ歌った。
サビだけというのは、真ん中の上がるところの前後のことだ。
俺はそこだけ歌った。歌っているあいだ、客席は空だった。空の椅子が上まで並んでいて、その列のあいだを、係の人が二人、紙を配って歩いていた。
配っている紙は、たぶん客席に置くやつだ。
配り終わった二人は、いちばん上の列の端で、余ったぶんを数えていた。数えてから、一人がそれを二つに分けて、片方をもう一人へ渡した。
◇
「はい、ありがとうございます」
サブから声が降りてきた。
俺は袖に戻った。
戻る途中で、伊佐さんが早足で横を通った。通りながら、無線に向かって喋っていた。
「二番、尺で三十切ります。頭のナレ、二行落としてください」
◇
楽屋に戻って、椅子に座った。
十八時前である。本番まで二時間ある。
俺は鞄から人形を出した。出して、机の上に置いた。
(暇だ)
「あんた、それ、贅沢よ」
(何が)
「六時間待って、四分歌うんでしょう」
(そうらしい)
「四分のために、あれだけの人が朝から動いてるのよ」
人形は机の上で、弁当の空箱のほうを向いた。
「あんた、さっき、テープを貼り直してた人のこと、何て言った?」
(毎回貼るんですかと言った)
「そう。それでいいわ」
◇
十八時半のランスルーは、歌わなかった。
立って、口を動かさないで、曲が終わるのを待った。曲が終わったら袖に下がる。それだけをやった。
やっているあいだ、都築さんが白いテープの上で二回言い直した。
二回目のあとで、原稿に線を引いていた。
◇
十九時十分に、客が入りはじめた。
俺は廊下の椅子に座っていた。
廊下には椅子が四つ並んでいる。壁に固定されているやつで、座面が硬い。座ると、少し前に滑る。
目の前を、人が通っていく。誰も止まらない。
ここから走れば、十九時十四分の電車に間に合う。間に合ったら、二十時前に家に着く。
着いたところで飯は無い。
俺は座り直した。
◇
十九時四十分に呼ばれた。
「高町さん、十分早くなりました」
「早くなったんですか」
「壁の紙の数字、さっき私が消しに行ったんです。前の収録が予定より早く終わって、そのぶんがそのままこっちへ戻ってきたので」
「はい」
「戻ってきたぶんは、たいてい、始まるまでのどこかでまた無くなります」
◇
袖の机に、紙コップが並べてあった。
水の入っているのを一つ取って、一口だけ飲んだ。
二口目は置いた。
◇
袖の反対側の壁に、モニターが二つ並んでいた。
上のモニターに、いまカメラが映しているものが出ている。下のモニターには、四つに割れた画面があって、その四つが全部、違う角度の同じ場所だった。
俺はしばらくそれを見ていた。
上の画面が、下の四つのうちのどれか一つに、順番に切り替わる。切り替える人が、あのサブの部屋にいる。
どれを選んでいるのが誰なのかは、ここからは見えなかった。
◇
二十時になった。
スタジオが明るくなって、都築さんが喋りはじめた。一組目が歌って、二組目が歌って、そのあいだに一度コマーシャルが入った。
コマーシャルのあいだに、床の上の人の数が倍になった。
三組目が俺だった。
伊佐さんが背中を叩いた。叩き方が軽かった。
◇
テープの上に立った。
都築さんが名前を呼んだ。今日は三行とも読んだ。
顔を上げた。
背筋が伸びた。
◇
拍手が鳴っていた。
都築さんが二回目に名前を呼んでいる。俺はそれを、袖へ歩きながら聞いた。
歩いているあいだに、ケーブルを二本またいだ。
またぎながら、弁当のことを考えた。十五時に食ったやつである。あれから六時間近い。
◇
袖の暗いところで、壁に手をついた。
ついたところで、伊佐さんが横に来た。
「大丈夫ですか」
「歩けます」
「椅子、ありますよ」
「あとで座ります」
俺は歩いた。
歩いて、袖を抜けて、廊下に出た。廊下には椅子が四つ並んでいる。座面が硬いやつだ。
いちばん端に座った。
◇
座ったら、立てなくなった。
膝が抜けたわけではない。腕も上がった。ただ、立つという動作の順番が、頭の中で並ばなかった。
廊下の天井の蛍光灯を見ていた。四本のうち、いちばん奥の一本が、ときどき暗くなる。
誰かが通った。通って、少し先で立ち止まって、また歩いていった。
その次に通った人は、俺の正面で止まった。
衣装の人だった。腕に、たたんだ布を何枚も掛けている。
「高町さん、それ、脱ぎますか」
「あとで脱ぎます」
「じゃあ、置いていきますね」
衣装の人は、俺の隣の椅子にハンガーを一本置いた。置いて、そのまま行った。
ハンガーには何も掛かっていない。俺が脱いだぶんを掛けるための一本だった。
俺は自分のシャツのボタンを見た。上から二番目が、少しだけ外れかけていた。
直そうとして、手を上げた。上げたところで、そのまま膝に戻した。
◇
番組は続いていた。
壁の向こうで音が鳴っている。音が鳴るたびに、廊下の空気が少しだけ動く。
俺は腹が減っていた。
弁当は十五時に食った。
◇
有本さんが来た。
紙袋を持っている。中に何が入っているのかは、上から見えなかった。
「高町さん、立てますか」
「あとで立ちます」
「そうですか」
有本さんは紙袋を俺の隣の椅子に置いた。
置いて、自分は立ったままでいた。
「二十一時に車を回します」
「はい」
「それまで、ここにいてください」
有本さんはタブレットを開いて、そこに何か打った。打ってから、閉じた。
「今日、電話は四本でした」
「少ないですね」
「そうですか」
◇
二十時五十四分に、壁の向こうの音が止まった。
止まって、そのあと拍手が長く続いて、それも止まった。
ドアが開いて、人が出てきた。
出てくる人はみんな早足で、誰も俺のほうを見なかった。見ないで、廊下を右へ左へ通り過ぎていく。
通り過ぎるついでに、二人だけが会釈をした。
◇
都築さんが通った。
原稿を丸めて持っている。丸めた原稿で、自分の肩を一度叩いた。
「高町くん、来週も来る?」
「たぶん来ます」
「じゃあ、三行のうちの一行、来週は読むから」
都築さんは、言い終わる前からもう歩きはじめていた。
歩きながら、振り返らずにもう一言足した。
「私、あの一行、けっこう気に入ってるのよ」
どの一行かは、今日も聞きそびれた。
◇
伊佐さんが通った。
台車を押している。台車の上に、黒い箱と、丸めたケーブルが載っていた。
「お疲れさまです」
「はい」
「高町さん、来週もですよね」
「たぶんです」
「じゃあ、テープ、また貼り直しますね」
伊佐さんは台車を押していった。
押していく音が、廊下の突き当たりで小さくなって、消えた。
◇
二十時五十四分から、二十一時までのあいだに、廊下は空になった。
人が三十人くらい通って、そのあと誰も通らなくなった。蛍光灯のいちばん奥の一本が、また暗くなって、また戻った。
俺は膝に手を置いた。
置いて、押した。
立てた。
◇
隣の椅子に、有本さんが置いていった紙袋がある。
中を見たら、俺の上着が畳んで入っていた。楽屋に置きっぱなしにしていたやつだ。
俺はそれを出して、広げた。
右の袖に、腕を通した。
通したところで、袖の中で手首が引っかかった。裏地が内側で丸まっている。俺は袖口から手を入れて、それを伸ばした。
直してから、左の袖にも腕を通した。
◇
鞄の中で、人形が動いた。
(うるさい)
「まだ何も言ってないわよ」
(これから言うだろ)
「言うわよ。来週も来なさいって、二人に言われたじゃないの」
(言われた)
「あんた、二回とも『たぶん』って答えたわね」
俺は鞄を肩に掛け直した。
掛け直して、廊下を歩いた。歩けた。
(たぶん行く)
「そういうところよ」




