第84話 無表情で歌う男
朝、下駄箱の前で、知らない男子が俺の顔を見て、こう言った。
「うわ、本物だ」
偽物がいるらしい。
下駄箱の扉を開けたら、中に紙が一枚入っていた。
二つ折りで、開くと、まんなかに一行だけ書いてある。
〈がんばってください〉
名前は無かった。俺は紙を四つ折りにして、鞄の内側のポケットに入れた。
入れてから、上履きに履き替えた。えんじ色のやつだ。
◇
教室に入ったら、熊沢が携帯を持って待っていた。
待っていた、というのは、俺が来たら見せるつもりで持っていたということである。ドアのほうを向いて座っていたので、たぶんそうだ。
「高町、これ見ろ」
「なんだ」
「いいから見ろ」
画面の中で、俺が歌っていた。
◇
金曜の夜のやつだった。
ただし、頭から終わりまでではない。真ん中の、上がるところの前後だけが切ってある。十秒くらいで終わって、そのまま最初に戻って、また同じところが流れた。
三回目で、俺は言った。
「これ、止まらないのか」
「止めなきゃ止まらねえよ」
熊沢は指で画面を押した。
止まった。
◇
「で、これ、何がすごいと思う?」
「わからん」
「顔だよ、顔」
熊沢は画面を指で叩いた。
「ここ、音がいちばん高いとこだろ。普通、こういうとこって、顔がこうなるんだよ」
熊沢は自分の顔で何かをやった。眉が上がって、目が細くなって、口が横に開いた。
「お前、なんもならねえの。眉毛一本動いてねえ。それで音だけ上に行くから、見てるほうが変な感じになるんだよ」
「変な感じですか」
「変な感じ」
◇
画面の下に、字が並んでいた。
いちばん上の行に、こう書いてある。
〈無表情で歌う男〉
◇
「これ、誰が付けたんだ」
「知らね。俺が見たときにはもう付いてた」
「勝手に付けていいのか」
「よくはねえけど、止まらねえだろ、こういうのは」
止まらないらしい。
◇
俺は字を下へ送った。
同じ字が、形を変えて何度も出てくる。〈無表情で歌う男〉。〈顔が動かない〉。〈眉毛〉。〈眉毛〉。〈眉毛〉。
眉毛が多い。
俺は指を止めた。止めて、熊沢に携帯を返した。
熊沢は受け取った携帯を、制服の袖で一度拭いた。拭いてから、画面をもう一度自分のほうへ向けた。
◇
一時間目は現代文だった。
宮坂先生が出席を取って、俺の名前のところで止まらずに次へ行った。
窓側の列のいちばん後ろの席から、廊下側の窓が見える。廊下側の窓の下半分は曇りガラスで、上半分は透明である。透明なほうに、頭が三つ並んでいた。
三つとも、上履きの色がえんじではなかった。
◇
二時間目の途中で、頭は五つに増えていた。
宮坂先生が黒板を書く手を止めて、廊下のほうを見た。見て、また黒板に戻った。
三時間目の前に、頭は無くなっていた。誰かが片付けたらしい。
◇
休み時間に、宮坂先生に呼ばれた。
廊下の、教室のドアから三歩のところである。先生は出席簿を胸のところで持っていた。
「高町。廊下のことは、こっちで言っておくから」
「はい」
「三年が言うと角が立つ」
「言ってません」
「言ってないのは知ってる。だから、こっちで言う」
先生は出席簿の角で、自分の肩を一度叩いた。
「あと、二年の担任からも言われてる。うちの生徒が三年の廊下に行くのをやめさせてくれ、と」
「それは、俺が言うんですか」
「言うな。頼むから言うな」
◇
無表情で歌う男は、そのあいだ、教室の窓際で腹を鳴らしていた。
◇
昼休みに、美咲が来た。
紙を一枚持っている。上に〈体育祭 実行委員 三年〉と印刷してあって、下に枠が五つ並んでいた。
「高町くん、名前」
「用具でしたね」
「用具」
俺は用具の欄に名前を書いた。書いたら、その下に六人ぶんの名前がもう入っていた。
「多いですね」
「用具はみんな書くの。いちばん楽だと思われてるから」
「楽ですか」
「楽じゃないわよ。当日いちばん走るのが用具」
美咲は紙を回収した。
「あなたはいいの。当日いなくても回るようにするから」
「はい」
「その代わり、前の週の水曜、放課後に一時間だけ空けておいて。倉庫の中身を出す日だから」
「わかりました」
「それも無理なら、言って。動かすから」
美咲は紙を持って、隣の列へ移った。
◇
早坂が、廊下側のドアのところで立ち止まった。
止まって、教室の中を見て、それから入ってきた。
俺の席の前を通るときに、机の上に何か置いた。置いたのは、飴だった。袋に入っている。
「なんだ、これ」
「配ってる」
「誰が」
「わたしが」
早坂は自分の席へ戻っていった。
教室の中を見たが、飴が載っているのは俺の机だけだった。
袋の口を切って、中身を出した。
中身は透明で、丸くて、味の見当がつかなかった。舐めたら、桃だった。桃だと分かったところで、袋を見た。袋には、りんごの絵が描いてあった。
俺は袋を裏返した。裏にも、りんごの絵があった。
早坂のほうを見た。早坂は前を向いていた。
◇
六時間目は体育だった。
種目はバレーボールで、俺はいちばん上の欄に丸を付けた組にいた。四月に丸を付けたときは、いちばん上だから付けた。
俺は網の前に立たされた。立たせたのは熊沢だ。
「高町、そこで手上げてるだけでいいから」
「上げてるだけですか」
「お前、背が高いんだよ。上げてるだけで向こうが打つとこ無くなるんだよ」
俺は手を上げた。
上げていたら、向こうのチームが三回続けて外に打った。四回目で、下を通された。
「動けよ」
「上げてるだけでいいと聞きました」
「限度があるんだよ」
限度があるらしい。
◇
五時間目のあと、廊下で下の学年に呼び止められた。
三人いた。真ん中の一人が携帯を持っている。
「あの、写真、いいですか」
「だめだと聞いています」
「だめなんですか」
「事務所がだめだと言っています」
三人は顔を見合わせた。
「じゃあ、握手」
「それは聞いていません」
俺は手を出した。
三人と順番に握手をした。三人目が、握ったまま二秒くらい動かなかった。
「あの、俺」
「なんだ」
「歌、聴きました」
「そうか」
三人は階段を降りていった。
降りるとき、いちばん下から二段目で、真ん中の一人が足を踏み外しかけた。
◇
放課後、教室に残ったのは五人だった。
熊沢が俺の机の横に椅子を持ってきて、座った。座って、また携帯を出した。
「見ろ、増えてる」
「何がだ」
「お前の切り抜き。朝と違うやつが出てる」
画面の中で、また俺が歌っていた。今度は上がるところではなく、いちばん最後の、小さくするところだった。
その次のやつは、都築さんが俺の名前を呼んでいるところだけだった。歌っていない。
「なんで、こんなに切るんだ」
「切りたくなるんだろ」
熊沢は画面を送った。送りながら、笑った。
「これ、俺のいちばん好きなやつ」
画面に、静止した俺の顔が出た。目が半分だけ開いている。口も開いている。歌の途中の、たまたまそういう形になったところである。
その下に、字が付いていた。
〈月曜の朝の俺〉
◇
「俺じゃないだろ」
「お前だよ」
「月曜の朝、俺はこんな顔をしていない」
「知るかよ」
熊沢は自分の携帯をしまった。
しまってから、こう言った。
「でもさ、これ、全部お前の顔だからな。誰も、お前が何かやったとは言ってねえんだよ。お前は歌っただけで、あと全部、他人が勝手にやってる」
熊沢は椅子を戻した。
「なんか、腹立たねえの」
「立たない」
「立てよ、少しは」
◇
熊沢は椅子に座り直した。
座り直して、机の上に肘を載せた。載せてから体重をかけたので、机が少し傾いた。
「なあ、聞けよ」
「なんだ」
「俺、こないだの日曜、うちの母ちゃんと姉ちゃんと三人でお前のドラマ見てたんだけどさ。母ちゃんが泣いて、姉ちゃんが泣かなくて、二人で喧嘩したんだよ。泣くところじゃないだろって」
「そうか」
「で、金曜の歌のときは、二人とも黙ってた。喧嘩しなかった」
熊沢は肘をどけた。机が戻った。
「なんかさ、お前が出てると、うちがうるさくなるか静かになるかのどっちかなんだよ。真ん中が無いの」
「悪かった」
「謝られると余計に困るんだわ」
◇
帰りの電車は、金曜の夕方なので混んでいた。
ドアの横に立った。前に立っている二人が、一つの画面を見ていた。
画面は、こっちからは見えない。見えないが、二人の指が同じところで同時に止まって、また戻して、また止まった。
同じところを三回見ていた。
俺は窓の外を見た。
窓の外は、まだ明るかった。空の下のほうだけ、色が薄い。
次の駅で人が降りて、前の二人も降りた。降りるとき、片方が振り返った。振り返って、隣の人の袖を引いた。引かれたほうは、そのまま歩いていった。
ドアが閉じた。ガラスの向こうで、二人が同じ方向を向いて止まっていた。
電車が動いた。
◇
桜坂駅の階段を下りた。
上から九段目は、今日も欠けていた。乾いていたので、踏んでも滑らなかった。
駅前のパン屋に寄った。コロッケパンが四つ残っていた。
四つあるので、迷わなかった。
◇
家に着いたら、妹が玄関にいた。
いた、というより、待っていた。靴を脱ぐ前から喋りはじめた。
「兄ちゃん、うちのクラス、今日、朝の会が五分潰れた」
「なんでだ」
「先生が『高町の妹』の話をしたから」
「先生が?」
「先生が」
妹は俺の手からパンの袋を取った。取って、中を見て、返してきた。
「一個ちょうだい」
「四つある」
「じゃあ二個」
「四つしかない」
妹は袋から一つ取った。取ったが、食わないで手に持っていた。
「兄ちゃん、あたし、今日、三回名前呼ばれた」
「先生にか」
「知らない人に。廊下で。全部、上の学年」
「そうか」
「返事したよ、全部」
妹はコロッケパンの端を千切って、口に入れた。
「そのうち、返事するのやめるかも」
「なんでだ」
「疲れるから」
妹はパンを返してきた。返ってきたパンは、さっきより短くなっていた。
◇
夕飯のあと、母さんが台所で言った。
「今日ね、スーパーで、知らない人に声かけられたの」
「はい」
「息子さん、見てますって」
「はい」
「わたし、そのとき、大根を持ってたのよ」
母さんはそこで一度、手を止めた。
「大根を持ったまま、ありがとうございますって言ったの」
母さんは手を動かし直して、鍋を火にかけた。
「そのあと、大根を戻して、別のを取ったのよ」
「なんでですか」
「見られてると思うと、いいほうを選ぶでしょう」
母さんは火の大きさを一段下げた。
「二十円高かった」
◇
部屋に上がった。
ドアを後ろ手に閉めて、鞄を床に置いて、電気を点けた。
照明の下に、影が二つあった。
一つは俺の影で、もう一つは、机の上に立っているものの影だった。俺は今朝、それを棚に置いて出た。
「おかえり」
「ただいま」
「あんた、今日、何回見られたの」
「数えてない」
「そう」
◇
「あんた、あの短いやつ、見た?」
人形が言った。
「見た」
「どう思ったの」
「眉毛が多かった」
「……眉毛?」
「書いてある字に、眉毛が多かった」
人形は机の上で腕を組んだ。
「あんたね、あの字を、何行読んだの」
「五十行くらいだ」
「それで、何ともなかったの」
「何ともない」
人形は組んだ腕を下ろした。
「字はね、誰も見てないのよ」
俺は椅子に座った。
座って、机の上の紙を一枚どけた。どけた下に、先週の答案が四つ折りのまま入っていた。
「書いた人は、書いた時点でもう向こうを向いてるの。画面に残ってるのは、その人がいなくなったあとの跡よ」
「跡ですか」
「跡。何行あっても跡なの。あんた、それだけは体のほうが先に知ってるみたいね」
◇
俺は椅子の背にもたれた。
天井の補修のテープは、角がもう少しめくれていた。去年の夏に貼ったやつだ。
「あんた、聞いてるの」
「聞いてる」
「じゃあ、何の話だったの」
「跡の話だ」
「……まあ、いいわ」
人形は机の上を歩いて、消しゴムの横で止まった。
止まって、消しゴムを一度、押した。押しても動かなかった。
◇
俺は携帯を出した。
出して、熊沢が見せてきたやつを、自分でも開いてみた。
同じものが並んでいた。〈無表情で歌う男〉。〈眉毛〉。〈月曜の朝の俺〉。
下へ送った。送っても、終わりが来なかった。
途中で、字ではないものが一つ混ざった。
誰かが、俺の顔を紙に描いていた。線が四本と、点が二つと、横に一本。それだけで、たしかに俺だった。
俺はそれを、少し長く見た。
そのあと、また字が続いた。
指が疲れた。
◇
携帯が震えた。
送ってきたのは有本さんだった。
〈来週金曜、同じ番組です。今回は前日リハーサル無しです。当日十四時に迎えに行きます〉
俺は〈わかりました〉と返した。
返した二十秒後に、もう一通来た。
〈事務所に、今日、電話が八本ありました〉
◇
「あんた、また出るの」
人形が言った。
「出る」
「今度は、どこを見てるの」
「わからん」
「わからないまま行くの?」
「行く」
「……あんた、そういうところだけは、七年やってる子と同じね」
誰の話かは、言わなかった。
俺は画面を閉じた。
閉じたら、部屋が少し暗くなった。机の上の人形の顔にかかっていた光が、消えたからだ。
鞄の内ポケットに、朝の紙がまだ入っている。
俺はそれを出して、机の引き出しに入れた。上から二番目の、缶コーヒーが入っているほうだ。
缶は五本になっていた。
引き出しを閉めた。
「あんた、来週も、あの子は出るのかしらね」
「知らん」
「聞きなさいよ」
「聞いてどうする」
「……別に」
人形は消しゴムの向こう側へ回って、こっちから見えなくなった。




