第83話 順位が上がっていく
桜坂駅のホームで、向かいの列の三人が同時にこっちを見た。
三人とも同じ制服で、うちの学校ではない。真ん中の一人が携帯を持っていて、両側の二人がその画面を覗いていた。覗いてから、顔を上げた。
顔を上げたところで、電車が来た。
◇
電車は空いていた。
月曜の朝の下りは、いつも座れる。俺はドアの横に立った。座らなかったのは、座ると降りるときに面倒だからだ。
三つ目の駅で、俺の斜め前に立った人が、携帯を胸の高さで持った。
持ったまま、画面を見ないで、こっちを見た。
俺は窓の外を見た。窓の外には、線路の脇の柵が流れていた。柵の支柱は、白と灰色が交互に並んでいる。白から数えはじめて、十七本目で数えるのをやめた。
◇
――朝の電車のドアの横で、線路脇の柵の支柱の色を数えている顔。
◇
教室に入ったら、熊沢が俺の席に座っていた。
「おはよう」
「そこ、俺の席だ」
「知ってる」
熊沢はどかなかった。どかないまま、こう言った。
「高町、お前、金曜の夜、なんかあった?」
「歌った」
「そうだよ」
熊沢は机を両手で叩いた。叩いてから、立ち上がった。
「そうだよって、なんで自分から言わねえんだよ」
「聞かれてない」
「聞かれる前に言うんだよ、普通は」
普通はそうらしい。
「あとさ、昨日の夜のやつ」
「日曜のか」
「九話。お前が屋上で座ってるだけの回。あれ、うちの母ちゃんが泣いてた」
「座ってただけだ」
「座ってただけで泣くんだよ、あの人は」
熊沢は自分の席のほうへ歩いていって、途中で戻ってきた。
「で、金曜の歌のやつ。あれ、うちの姉ちゃんが録ってた」
「録れるのか」
「録れるだろ、そりゃ」
「生放送だと聞いていた」
「生放送は録っちゃいけねえのかよ」
いけない決まりは、たぶん無い。
◇
一時間目の前に、数学の答案が返ってきた。
中間考査のぶんである。宮坂先生ではなく、数学の教師が名前を呼んで、前から順に渡していく。
俺の番号が呼ばれた。
受け取って、裏返しのまま席に持って帰った。持って帰ってから、机の上で表に返した。
右上に赤い字で点が書いてある。
その下の行に、平均点が印刷されていた。印刷のほうは、クラス全員の紙で同じ数字である。
俺は答案を四つ折りにして鞄に入れた。四つ折りにしたので、鞄の中で場所を取らなかった。
「見せろよ」
「断る」
「なんでだよ」
「折った」
熊沢は自分の答案を俺の机の上に置いた。置いて、指で二回叩いた。
「俺、これでも学年の真ん中よりちょっと上なんだよ」
「そうか」
「お前は?」
「下だ」
「どのくらい下」
「下から数えたほうが早い」
熊沢は自分の答案を回収した。
「なんで、そこだけ即答なんだよ」
◇
二時間目のあと、廊下に人が出ていた。
うちのクラスの前ではない。隣のクラスの前でもない。階段の下の踊り場から、下の学年が上がってきていて、そこで止まっていた。
止まったまま、こっちを見ている。
俺は教室に戻った。戻ったら、熊沢が窓から下を見ていた。
「一年、来てるぞ」
「見た」
「お前、そのうち廊下歩けなくなるな」
「歩けなくなったら困る」
「困るのそこかよ」
◇
三時間目は移動教室だった。
北校舎の化学室まで、渡り廊下を通る。渡り廊下は屋根だけあって、横が開いている。
通っているあいだ、下のグラウンドで体育をやっている学年がこっちを見た。走っていた列が、一度、速度を落とした。
落として、また戻った。
先生が笛を鳴らした。
◇
化学室で、俺の隣は早坂だった。
班が同じなので、席も同じ台だった。台の上に、金属の枠と、ガラスの管が置いてあった。
「高町くん、あのね」
「なんだ」
「……先週の金曜、見た」
「そうか」
「それだけ」
早坂は管を両手で持って、枠に立てようとした。立たなかった。三回目で立った。
立ったところで、こっちを見ないまま、もう一言だけ言った。
「わたし、テレビの前で、リモコン持ったままだったの。終わってから、指のところが白くなってた」
俺は台の上のガラスの管を見た。管は、立ったままだった。
早坂は、そのあと実験が終わるまで一度も喋らなかった。喋らないまま、記録用紙の欄を全部埋めた。字が丁寧だった。
◇
昼休みの購買は混んでいた。
棚に残っていたのは、コロッケパンが一つと、焼きそばパンが二つと、あんぱんが四つだった。
俺はコロッケパンを取った。
取ってから、考えた。焼きそばパンは二つある。あんぱんは四つある。コロッケパンは一つしかない。一つしかないものを取ると、次に来た誰かがコロッケパンを食えなくなる。
俺は棚に戻した。
戻して、焼きそばパンを取った。取ってから、また考えた。焼きそばパンを取ると、焼きそばパンは一つになる。一つになったやつを、次の誰かが取ると、また同じことが起きる。
後ろに並んでいた奴が、俺の横からコロッケパンを取っていった。
俺は焼きそばパンを持ってレジに行った。
レジで、金を払うときに、後ろの列から声が聞こえた。
「あの人、パン二回置き直してた」
「見た」
「なんで」
なんでかを説明する機会は、その場では無かった。
◇
教室で焼きそばパンを食っていたら、美咲が来た。
手にプリントの束を持っている。上から三枚目に、赤い付箋が貼ってあった。
「高町くん、今週の予定」
「はい」
「今週は、公欠ある?」
「聞いてないです」
「じゃあ来週ね」
美咲は束から一枚抜いて、俺の机に置いた。
「体育祭の実行委員が、来週から動きはじめるの。三年は全員、どれか一つに名前を書く決まりだから」
「どれかとは」
「用具、記録、召集、放送、救護。この五つ」
「どれがいちばん休みやすいですか」
美咲は俺を見た。
見て、五秒くらい何も言わなかった。
「……用具」
「用具にします」
「まだ、書かなくていいの。来週」
美咲はプリントの束を抱え直して、自分の席へ戻っていった。
戻る途中で、一度だけ振り返って、こう言った。
「金曜が公欠なら、用具は当日いなくても困らないところだから、あなたはそこでいいと思う」
困らないところがあるらしい。
◇
放課後、有本さんの車が校門の前に停まっていた。
俺は乗った。
乗ったら、有本さんが振り返らずに言った。
「高町さん、今日、事務所に十九時までです。そのあとレッスンです」
「はい」
「今日、朝から電話が十一本ありました」
「十一本ですか」
「昨日から、と言ったほうが正しいです。昨日の夕方から鳴っていたので」
有本さんは車を出した。
出してから、もう一言だけ足した。
「昨日で終わったと思っていたんですが、今朝また鳴りました」
◇
一階の受付を通った。
受付の人が立ち上がって、頭を下げた。俺も下げた。下げたところで、奥の事務のほうから二人出てきて、その二人も止まって頭を下げた。
知らない人だった。名札は付いていたが、字が小さくて読めなかった。
階段を上がるときに、後ろで誰かが小さい声で何か言った。言った内容は聞こえなかった。
◇
事務所の四階の会議室2に通された。
窓の外に、隣のビルの非常階段が見える。今日は誰もいない。手すりの、上から三段目のところに、まだ軍手が引っかかっていた。
机の上に、有本さんが自分のタブレットを置いた。
置いて、画面をこっちに向けた。
「これです」
画面に、細い横棒が上から下へ並んでいた。棒の左に、四角い絵が並んでいて、その横に文字が書いてある。
「金曜の夜は、指で下へ何回か送らないと出てきませんでした」
有本さんは指を画面の上に置いた。
置いたが、動かさなかった。
「今は、開いた時点で見えます」
◇
俺は画面を見た。
いちばん上から数えて、そう遠くないところに、見たことのある四角があった。『ブルーアワー』の、あの青い絵である。
絵の下に、曲の名前が書いてあった。
その下の行に、俺の名前があった。
◇
「これは、何の順番ですか」
俺は聞いた。
「画面の上に、そう書いてあります」
俺は画面の上のほうを見た。細い字で〈よく聴かれている順〉と書いてあった。
「毎日、変わるんですか」
「一時間ごとに変わるそうです」
有本さんはタブレットを引き戻した。引き戻して、画面を消した。
「消したんですか」
「見ていると、仕事になりません」
◇
廊下で犬飼さんとすれ違った。
封筒を二つ持っていた。角が両方とも折れている。
「高町」
「はい」
「来週の金曜、また出る」
「同じ番組ですか」
「同じ番組だ。話は決まってる」
犬飼さんは封筒を持ち替えた。
「それと、俺は今週、こっちの話に出ない」
「はい」
「歌のほうは、俺の畑じゃない。向こうにわかる人間がいる」
犬飼さんは封筒を脇に挟んで、階段を上がっていった。
上がりきる前に、一度止まった。
止まって、振り返らずに言った。
「飯は食え」
◇
二階のレッスン室Aは、誰もいなかった。
十九時までは空いている。榊先生が来るのは十九時からで、その前に入っていていいと言われている。
俺はドアを開けた。
開けて、一歩入った。
「ぎ」
入口から三枚目の板が鳴った。
鏡は三面ある。ブラインドは下りていた。天井の蛍光灯は、四本のうち二本しか点いていない。スイッチが二つあるらしい。
俺は鞄を壁際に置いて、上着を脱いだ。
◇
足音がしないのに、床板が鳴った。
「ぎ」
入口から三枚目だった。
人形が、その板の上に立っていた。鞄の口は開いている。俺が置いたときは閉まっていたはずだった。
「この板、面白いわね」
(面白くない)
「同じところで、同じ音が鳴るのよ」
(毎回鳴る)
「毎回鳴るなら、ここに立ってる子は毎回びっくりするわけ?」
(誰も驚かない)
「つまらない部屋ね」
人形は板の上で、足を横にずらした。ずらしたところは鳴らなかった。
「あんた、今日、あの絵を見てたでしょう」
(見た)
「上のほうにあったんでしょう」
(あった)
「それで?」
(それでとは)
「あんた、それを見て、何ともなかったの」
俺は壁際に置いた鞄を見た。
鞄の口は開いたままで、外ポケットのファスナーが半分だけ下りていた。下りたところに、上着の裾が挟まっている。
(腹が減った)
「……そう」
◇
人形は、それきり何も言わなかった。
言わないで、板の上から降りて、鞄のほうへ歩いていった。歩いても、床は鳴らなかった。
鳴るのは、三枚目だけである。
◇
十九時に榊先生が来た。
来て、部屋に入るときに、三枚目を踏んだ。
「ぎ」
「これ、直らないのかしらね」
先生はそう言って、鞄を床に置いた。
◇
ストレッチを三十分やった。
脚を開いて、前に倒す。床とのあいだに、拳が三つぶん入る。
そのあと基礎をやった。腕を上げて、下ろして、体の向きを変えて、また上げる。
途中で、先生が壁際から言った。
「高町くん、あなた、鏡、見なくなったわね」
「見てます」
「見てない。真ん中の鏡の前に立ってるのに、目が下を向いてるの。腕を上げたところじゃなくて、下ろしたあとの床を見てるのよ」
「気がつきませんでした」
「わたしが気がついたからいいの」
先生は壁から背中を離した。
「四月は、一回ごとに顔を上げて確かめてたのよ。腕を上げるたびに、鏡で。上がりきってるかどうかを、自分で見ないと分からなかったの」
「そうでしたか」
「今は見ないで上がってる。止まる場所も、毎回同じ」
先生はこっちへ歩いてきた。
歩いてきて、俺の肘を下から一度だけ持ち上げた。
「あと三センチ」
「三センチですか」
「これは一年かかる」
◇
二十一時に終わった。
帰りの電車は混んでいた。ドアの横に立って、窓の外を見た。窓には、車内が映っている。映っている中に、俺の後頭部と、その向こうに立っている人の顔があった。
その人は、携帯を見ていた。
画面の中で、細い横棒が上から下へ並んでいた。
俺はそれを見なかったことにして、窓の外の暗いところを見た。
暗いところには、家の明かりが飛んでいく。二階の窓が点いている家と、一階だけの家がある。数えようとしたが、速すぎた。
次の駅で、その人は降りた。降りるときも、携帯を持ったままだった。
◇
家に着いたのは二十二時前だった。
居間で妹がテレビを見ていた。母さんは台所にいた。父さんはもう風呂に入っていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「うちの学校、あたしが廊下歩いてるだけで見られるんだけど」
妹はテレビを見たまま言った。
「そうか」
「そうかじゃなくてさ」
「なんだ」
「なんで見られるんだと思う」
妹はリモコンを机に置いた。
置いて、こっちを向いた。
「兄ちゃんの妹だからだよ」
「そうか」
「そうかじゃないんだよなあ」
◇
夕飯は、豚肉と、味噌汁と、切り干し大根だった。
俺は二杯食った。二杯目のとき、母さんが茶碗を受け取って、よそって、返してきた。返すときに、こう言った。
「来週も、あるの」
母さんが仕事の話をするのは珍しい。
「あります」
「そう」
母さんはそれ以上聞かなかった。
聞かないで、自分の茶碗に切り干し大根を足した。
◇
風呂上がりの父さんが、麦茶を注ぎながら言った。
「会社でな、今日、朝いちで課長に呼ばれた」
「はい」
「なんの話かと思ったら、金曜のやつの話だった。そのあと、係長にも同じ話をされた。昼に、下の階の知らん人にもされた」
父さんはコップを持って、そのまま立って飲んだ。
「仕事の話は、一つもしなかったな、今日は」
母さんが台所から「毎日そうでしょう」と言った。
父さんは何も言い返さなかった。
◇
風呂を出て、玄関の前を通った。
通りかけて、止まった。
三和土に、靴が四足あった。母さんのサンダル、妹のスニーカー、父さんの黒い靴、それと、俺のやつ。
俺のやつだけ、片方が横を向いていた。
俺はしゃがんで、それを揃えた。
揃えたら、他の三足の向きが揃っていないのが目に入った。
全部、揃えた。
揃えてから立ち上がって、そのまま二階へ上がった。上がる途中で、下から妹の声がした。
「兄ちゃん、名前で調べると、変なのが出てくるようになったよ」




