第82話 全国が一斉にこっちを見た
床に、色のついたテープが貼ってあった。
黄色が二本、直角に交わっている。交わったところが、俺の立つ場所らしい。
「そこ、爪先だけ乗せてください。踵は外で大丈夫です」
フロアの人がそう言った。俺は爪先を乗せた。乗せたら、踵が浮いた。
「浮かせなくていいです」
「浮きました」
「立ってるだけでいいです」
立っているだけでよかったらしい。
◇
スタジオは広かった。
天井が高い。高いところに、鉄の枠が組んであって、そこから照明が何十も下を向いている。数えようとして、途中で列が重なって分からなくなった。
正面に階段状の席がある。上まで椅子が並んでいて、いちばん上の列の後ろが壁だった。
まだ誰も座っていない。
床には、俺のと同じテープが、色を変えて何組も貼ってあった。赤、青、緑、白。白のところがいちばん広い。
「白はMCさんです」
フロアの人が言った。
「広いですね」
「動くので」
◇
カメラが三台あった。
一台は台に載っていて、床のレールの上を横に動く。一台は肩に担ぐやつで、もう一台は、長い腕の先に付いている。長い腕は、下がってきて、また上がっていった。
「あれ、当たりませんか」
「当たったことはあります」
当たることはあるらしい。
◇
「高町くん」
声がして、振り返った。
都築さんが立っていた。テレビで見るときより背が低い。原稿を胸のところで持っていて、その角が少し丸くなっている。何度もめくった紙の形だった。
「都築です。今日はよろしく」
「高町です」
「名前、二回呼ぶからね」
「二回ですか」
「一回目は曲の前。二回目は曲のあと。あとのほうは、返事しなくていいから」
「はい」
都築さんは原稿を一枚めくった。めくって、そこに指を挟んだ。
「あなたのところ、うちの局で書いた紹介文が三行あるんだけど、私、そのうちの一行を読まないつもり。時間が押したら真っ先に切る行だから、最初から無いと思っておいて」
都築さんはそう言って、白いテープのほうへ歩いていった。
どの一行を切るのかは、聞きそびれた。
◇
場当たりが始まった。
名前を呼ばれて、テープの上に立って、カメラのほうを向いて、それで終わりだった。歌はやらなかった。歌はやらないのかと聞いたら、本番でやりますと言われた。
その通りである。
◇
十九時五十分に、客が入った。
階段状の席に、下の列から順に埋まっていく。座った人が、隣の人と喋る。喋りながら、こっちを見る。
見ているが、目はすぐ隣の人のほうへ戻っていく。
俺は袖に下がった。
袖は暗い。床にケーブルが何本も走っていて、そこにテープが貼ってある。踏まないように、と言われた。
◇
席が埋まっていく音が、袖まで来た。
一つの音ではなかった。椅子の座面が跳ね上がる音と、荷物が床に置かれる音と、上着を脱ぐときの布の音が、別々に鳴っていて、それが重なっている。
途中で、上のほうで何かが落ちた。
落ちたものは、階段を三段ぶん転がって止まった。周りの人が笑って、拾った人が座り直した。
◇
犬飼さんは、袖の奥の壁際に立っていた。
上着を着たままで、手には何も持っていない。
「高町」
「はい」
「有本が下にいる。終わったら、そのまま裏の出口だ」
「はい」
「歩けるな」
「歩けます」
犬飼さんは、それ以上何も聞かなかった。
聞かないで、壁のほうを向いた。壁には、スタジオの見取り図が貼ってある。図の隅に、消えかけた押しピンの穴が四つ残っていた。
◇
二十時になった。
音楽が鳴って、上から光が下りて、都築さんが白いテープの上で喋りはじめた。
声が、さっきと違っていた。同じ人が同じ場所で喋っているのに、届く距離が違う。
一組目が歌った。三人組で、真ん中の人が途中で客席に手を伸ばした。伸ばしたところで、上の列から声が上がった。
二組目が歌った。
◇
三組目の前に、澪さんが歌った。
順番の話をしていたときは分からなかったが、澪さんは特別枠だった。
「特別枠は、何組目って数えないんです。一組だけ別に立てて、前も後ろも空けるんですよ」
横にいた進行の人が、そう言った。
都築さんが名前を呼ぶ前に、スタジオの照明が一度全部落ちた。
落ちた中を、澪さんが歩いていった。
◇
俺は袖から見ていた。
澪さんはマイクを両手で持っていた。左手が下、右手が上である。
上の手の爪が、光に当たっていた。全部、同じ長さに短く切ってある。先の白いところが、どの指にも無い。
歌が始まった。
一行目で、上の列の声が止まった。二行目で、隣にいた進行の人が、持っていた紙を下ろした。
澪さんは、動かなかった。
足の位置を一度も変えないで、最後まで歌った。
◇
終わって、袖に戻ってきた。
俺の横を通るときに、こっちを見た。見て、何も言わなかった。
言わないで、そのまま奥へ歩いていった。
肩が、上下していた。
◇
袖の机の上に、紙コップが並べてあった。
水の入ったやつと、空のやつが混ざっている。俺は水の入っているのを一つ取った。
口をつけて、一口だけ飲んだ。
二口目は、飲まないでおいた。
紙コップは、机の縁からいちばん遠いところに戻した。
◇
スタッフの人が俺の背中を軽く叩いた。
「行きましょう」
俺はケーブルをまたいで、明るいほうへ出た。
出たところで、黄色いテープが見えた。二本が直角に交わっている。俺は爪先を乗せた。踵は外に出した。
◇
顔を上げた。
階段状の席が、上まで埋まっていた。
いちばん上の列の人まで、こっちを向いている。列と列のあいだに立っている係の人も、こっちを向いている。カメラの後ろの人も、その隣の人も、モニターの前に集まっている人も、全部、顔がこっちに向いていた。
都築さんが俺の名前を呼んだ。
二行読んだ。三行目は無かった。
フロアの人が、俺の斜め前で手を上げた。
指が五本、立っている。
「五秒前」
指が一本折れた。
「四秒前」
もう一本折れた。
三本。
「三秒前」
スタジオの音が遠のいた。
二本。
輪郭がはっきりした。
一本。
背筋が伸びた。
指が全部、消えた。
口の中に、水がまだ少し残っていた。
俺はそれを飲み込んだ。飲み込んだ音が、自分の頭の内側で鳴った。
◇
前奏が四小節あった。
四小節のあいだ、俺は何もしなかった。手も動かさなかった。マイクは口の前に持ってきてあるので、あとは息を入れるだけである。
息を入れた。
肋のいちばん下が、内側から一度だけ張った。
声が出た。
◇
声が、思ったより遠くまで行った。
行った先で、何かに当たって、少し戻ってきた。戻ってきたぶんが、自分の耳に入る。出してから返ってくるまでに、間がある。
カメラの長い腕が、上から下りてきた。
下りてきて、俺の顔の高さで止まった。止まった先に、赤いランプが点いている。
二行目。
三行目の頭で、決めたところで息が吸えた。
四行目。
上の列の、いちばん端に座っていた人が、身を乗り出した。
乗り出したのが目の端に映った。映ったが、俺はそっちを見なかった。
曲が、真ん中の高いところへ来た。
下から置いて、伸ばした。
伸ばした先で、肋の下が、内側からもう一度張った。
◇
赤いランプが消えて、レールの上のカメラのほうで点いた。
点いたほうが、横へ滑りはじめた。滑る速さは、歩くより遅い。
楽器が減って、声だけになるところが来た。
スタジオが、静かになった。静かになったというより、俺の声以外に鳴っているものが無くなった。天井の照明が動く音まで聞こえるくらいには、静かだった。
滑っていたカメラが止まった。止まった位置は、俺の正面より少し左だった。
残りの四行は、そこへ置いた。小さく置いても、落ちなかった。
◇
最後の音が切れた。
切れたところへ、拍手がかぶった。上の列が先に鳴って、下の列がそのあとだった。
フロアの人の手は、上げたままだった。五秒前に指を折っていった手である。今は指が全部開いていて、それが下りてこない。
◇
傍から見ると、スタジオの真ん中で、顔をひとつも動かさずに歌い終わった男だった。
◇
都築さんが二回目に俺の名前を呼んだ。
呼ばれたところで、フロアの人の手が下りた。
返事はしなくていいと言われていたので、しなかった。
俺は袖に戻った。
戻る途中で、ケーブルをまたぐのを忘れた。忘れたが、踏まなかった。踏まなかったのは、たまたま足が高いところを通ったからだ。
◇
スタジオがコマーシャルに入った。
入った瞬間に、床の上の人の数が倍になった。台を押す人、マイクを回収する人、次の組の立ち位置に膝をついてテープを貼り直す人。誰かが誰かの名前を短く呼んで、その返事が三つ返ってきた。
照明が半分落ちて、客席の上の列で、人が一斉に携帯を出した。
俺の横を、さっき背中を叩いた人が通った。
通りかけて、戻ってきた。
「高町さん、すみません」
「はい」
「俺、さっき、カメラさんに合図を出す係だったんですけど」
「はい」
「二番の途中から、手が上がってませんでした。上げたつもりでいたんですけど、上がってなかったんです。今、うちのチーフに言われて気がつきました」
その人は、自分の右手を見た。
見て、下ろした。
「すみません。言わなくていいことでした」
言わなくていいことを言って、その人は台車のほうへ走っていった。
◇
袖の入口のところで、澪さんとすれ違った。
澪さんは、俺の前で足を止めた。止めて、口を開けて、そこで一度閉じた。
「私」
そこまで言って、また止まった。
暗幕の端を、右手が握っていた。握ったところの布が寄っている。
「二番の、楽器が減るところ。あそこで、わたし、この布を握ってたのよ。自分で気がついたのは、そのあと二行進んでからだった」
「はい」
「指の跡が付いてるわ。まだ」
澪さんは、そのまま奥へ歩いていった。
歩いていく途中で、一度だけ振り返った。振り返って、何も言わずに前を向いた。
◇
袖の暗いところに入った。
入って、二歩で、膝が抜けた。
壁に肩が当たった。当たったところで、腕を掴まれた。犬飼さんだった。
「歩くな」
「歩けます」
「歩くなと言った」
俺は壁を背にして、そのまま下に座った。座ったというより、下がった。
床は冷たかった。
◇
視界の端が白い。
手のひらが痺れていた。指を折ろうとして、折れているのかどうかが分からなかった。
目の前を、人が何度も通った。通るたびに、影が横切る。
誰かが、俺の前に紙コップを置いた。
置いた人が誰かは、見えなかった。
番組は、まだ続いていた。
壁の向こうで音楽が鳴っている。鳴っているあいだ、俺はそこに座っていた。
腹が減っていた。
減っていたが、立ち上がる用事が思いつかなかった。
◇
しばらくして、犬飼さんが戻ってきた。
「まだそこにいろ」
「はい」
「有本には言ってある」
「はい」
「車は裏に着けさせた。俺は先に降りる」
犬飼さんは俺の横に立った。
立って、腕時計を見た。見て、袖の外を見た。それから、俺の足元を見た。
◇
弁当が来た。
スタッフの人が、袋を二つ持ってきた。二つとも俺の前に置いて、片方の袋の口を開けた。
「聞いてはみますって言ったんですけど」
その人はそう言った。
「二つあります」
「一つは、うちの局のぶんです」
もう一つが誰のぶんなのかは、言わなかった。
俺は割り箸を割った。割ったが、割れ方が斜めだった。
裏の出口までは、たぶん歩いた。
途中の廊下に、緑色の非常口の看板が三つあった。三つ目のところで、有本さんが待っていた。待っていて、車のドアを開けた。
俺は乗った。
シートに背中が着いた。窓の外を、街灯が同じ間隔で通っていく。一本通るたびに膝の上が明るくなって、また暗くなった。それが何度も続いた。
途中で信号に引っかかって、明るくなったところで止まった。止まっているあいだ、膝の上はずっと明るかった。
車が停まったところで、俺は自分でドアを開けた。開けたら、外の空気が冷たかった。
◇
玄関の三和土に、靴が三足並んでいた。
母さんのサンダルと、妹のスニーカーと、父さんの黒い靴である。俺のは、まだ足に付いていた。
◇
居間の明かりが点いていた。
母さんが台所から出てきて、俺の顔を見て、何も言わずに台所へ戻った。
居間には妹がいた。膝の上で、鉛筆が定規の溝にはまっている。
俺は床に座った。
テレビは消えていた。消えているのに、妹はテレビのほうを向いていた。
◇
鞄が、俺の横に転がっていた。
口が開いていて、そこから赤いものが半分出ている。玄関から居間まで、引きずってきたらしい。
「あんた」
人形が言った。
(……)
「返事しなさいよ」
(……)
「……いいわ。寝なさい」
◇
風呂には入らなかった。
飯は食った。何を食ったのかは、皿を見て分かった。皿の上に骨があった。
父さんが向かいに座っていた。
新聞を持っていたが、めくらないで、こっちを見ていた。
「見たぞ、さっき」
「はい」
「母さんが最初から座ってた。あれ、途中でいっぺん立ったんだけどな。台所で麦茶を注いで、それを持って戻ってきて、そのままコップを持ってた」
父さんはそこで新聞をめくった。
「飲んでなかった」
◇
母さんは、台所で皿を洗っていた。
洗い終わってからも、蛇口の前に立っていた。手は動いていなかった。
俺はそれを、居間の椅子から見ていた。
◇
二階へ上がる階段の、上から四段目で、一度止まった。
止まって、手すりを両手で持った。
下から、妹が見上げていた。見上げていたが、何も言わなかった。
俺は残りの段を上がった。上がりきったところで、廊下の電気を点けるのを忘れていたことに気がついた。点けないまま、部屋に入った。
◇
朝、台所で、音が戻ってきた。
母さんが蛇口を開けて、鍋に水を入れている。水が鍋の底を打つ音が、蛇口のところで鳴っていた。
俺は椅子に座って、味噌汁を飲んだ。
妹が階段を降りてきた。降りて、俺の向かいに座って、ノートを開いた。
定規を当てて、線を一本引いた。引いてから、数字を書いた。
「二百五分」
「そうか」
妹はノートを閉じて、筆箱に定規を戻した。
戻して、筆箱の蓋を閉めた。閉める音が、思ったより高かった。
◇
妹が、携帯を机の上に置いた。
置いて、画面をこっちに向けた。
「これ、朝から見てる」
画面には、細い横棒が上から下へ並んでいた。棒の左側に、小さい文字が並んでいる。いちばん上の棒だけ、色が違う。
「なんだ、これ」
「聞いてる人の多い順に、上から並んでるの」
「どれが俺だ」
「わかんない人が言う台詞じゃないんだよなあ、それ」
妹は携帯を引っ込めた。引っ込めて、自分でもう一度見た。
見てから、指で画面を上のほうへ弾いた。弾いたが、画面はそれ以上、上へは動かなかった。
俺は味噌汁を飲み干した。
おかわりが要る。




