第81話 毎回怖い、らしい
壁の鏡の縁に電球が七つ並んでいて、七つのうち一つだけ、光が黄色い。
「緊張してるのね」
神楽坂さんはそう言って、俺の隣の椅子の背もたれに手を置いた。
置いたが、座らなかった。
楽屋の長机には、紙コップが二つと、ペットボトルが一本と、衣装のタグを切ったあとの小さいビニールが落ちている。ビニールは、机の端から半分だけはみ出していた。
「腹が減ってます」
「知ってる」
「さっき言いました」
「聞いてた」
聞いていたが、話は戻らなかった。
◇
俺は椅子に座ったままだった。
衣装は着ている。黒いシャツと、黒いズボンと、その上に薄い上着を一枚。全部、俺のものではない。着せられたときに、衣装の人が肩のところを二回引いた。
鏡の中の男は、髪を上げられていた。
上げられた前髪は、下ろすと今日の意味が無くなるらしい。メイクの人にそう言われて、俺は下ろすのをやめた。
◇
この楽屋に入ったのは十七時だった。
入ってすぐに衣装を着せられて、そのあと髪をやられて、そのあと一時間、何も起きなかった。何も起きないあいだ、俺は椅子に座って、壁を見ていた。壁は白い。上のほうに、以前ここに貼ってあった何かのテープの跡が、四角く残っている。
弁当は出なかった。
出なかったのではなく、終わってからになりますと言われた。終わるのは二十時五十四分である。
◇
「あなた、本番は何度目」
神楽坂さんが言った。
「生放送はですか」
「そう」
「初めてです」
「そう」
神楽坂さんは、それ以上聞かなかった。
聞かないで、長机の上の紙コップを一つ、指で少しだけ動かした。動かした先には何も無かったので、意味は分からない。
「今、何時」
「七時十六分です」
俺は壁の時計を見て答えた。壁の時計は、俺の座っているところから斜め上にある。文字盤の下に、黒いテープで局の名前が貼ってあった。
「四十四分あるわね」
「はい」
「長いのよ、この四十四分が」
◇
神楽坂さんの左手が、椅子の背もたれの上にあった。
照明が上から当たっているので、手の甲の側だけが白く見える。
指の付け根のところに、硬くなっているのが四つ並んでいた。四つとも、皮の色が周りと違う。真ん中の二つがいちばん大きくて、外側の二つは小さい。
その手が、背もたれを一度だけ握って、離した。
◇
ドアが二回鳴って、有本さんが入ってきた。
紙を一枚持っている。タブレットは脇に挟んでいた。
「高町さん、段取りです」
俺は紙を受け取った。
上から順に時刻が並んでいる。十九時三十分にスタンバイ、四十分に位置合わせ、五十五分に本番前の場当たり、二十時〇分に本編開始。俺の名前は、下から三行目のところにあった。
「三行目です」
「三行目?」
「上から三組目に出ます」
俺は紙を裏返した。裏は白かった。
「犬飼さんは」
「今日は別件です。八時までには入ると言っていました」
有本さんはそこで一度、タブレットを見た。
「今日、朝から電話が九本ありました」
「そうですか」
「昼を過ぎてから、まだ一本もありません」
有本さんはタブレットを脇に挟み直して、廊下へ出ていった。
出ていくときに、ドアを閉めきらなかった。半分だけ開いている。廊下の音が、その隙間から入ってきた。台車が通る音と、誰かが誰かを呼ぶ声である。
◇
鞄の外ポケットで、携帯が震えた。
妹だった。
〈何時から〉
俺は〈八時だ〉と返した。
既読が付いて、すぐに次が来た。
〈三組目でしょ〉
なぜ知っているのかは書いていなかった。書いていないので、俺は聞かなかった。
〈うち、母さんが六時から前に座ってる〉
〈二時間あるって言ったんだけど動かない〉
俺は〈そうか〉と返した。
返した二十秒後に、また来た。
〈兄ちゃん、緊張してる?〉
この一文だけ、送ってきたのが妹らしくなかった。俺は少し考えて、〈腹が減ってる〉と打って送った。
既読が付いた。それきり何も来なかった。
◇
「あなた、あの人に何も聞かないのね」
神楽坂さんが、壁のほうを向いたまま言った。
「何をですか」
「電話が九本あったなら、何の話だったのか、普通は聞くでしょう」
「聞いたら、答えてくれますか」
「知らないわよ」
◇
俺は紙を膝の上に置いた。
置いて、長机の端にあった菓子の箱を見た。
箱は開いていた。中に、小さい袋が四つ残っている。全部同じ味だと思う。色が同じだからだ。
俺は一つ取って、開けようとした。
開けようとしたところで、鏡の中で何かが動いた。
◇
鏡に、俺以外のものが映っていた。
俺の鞄は、長机の下に置いてある。鞄の口が開いていて、そこから赤いものが半分だけ出ていた。
人形は、鞄の縁に腰を掛けるような形で座っていた。
いつからそうしていたのかは分からない。楽屋に入ったときは、確かに中に入れてあった。
(勝手に出るな)
鏡の中の人形は、鞄の縁の上で足を前後に振っていた。
「暗いのよ、あの中」
人形が言った。
(暗いのが普通だ)
「あんた、あの子と喋りなさいよ」
人形は、鞄の縁の上で足を組んだ。
「せっかく、向こうから来てるんでしょう」
(向こうは段取りの話をしに来た)
「段取りの話は、さっきの人がしていったじゃないの」
◇
神楽坂さんは、まだ立っていた。
立ったまま、壁の張り紙を見ている。〈非常口はこちら〉と書いてある紙である。矢印が右を向いている。
「神楽坂さん」
俺は言った。
「なに」
「立ってると、疲れませんか」
「疲れるわよ」
「座ればいいと思います」
「座ると、もっと疲れるの」
神楽坂さんはそう言って、椅子の背もたれから手を離した。
離して、長机に浅く腰を掛けた。座ってはいる。
◇
「あなた、今、何を考えてた」
俺は菓子の袋を持ったままだった。
「開け方です」
「開け方」
「この袋、切れ目が二つあります。どっちが正しいのか分かりません」
「……どっちでも開くわよ」
俺は上の切れ目を引いた。
引いたら、袋が横に裂けた。中身が三つ、机の上に落ちた。落ちたやつを、俺は指でまとめて手のひらに載せた。
「下だったみたいです」
「そう」
神楽坂さんは、そこで少し黙った。それから、笑いも呆れもしない顔でこう言った。
「あなた、四十分後に全国に出る人の会話じゃないわね」
◇
俺は裂けた袋を折り畳んだ。
畳んでも中身は戻らないが、机の上が少し片付いた。
◇
「怖くないの」
神楽坂さんは、俺のほうを見ないで言った。
俺は手のひらの三つを口に入れた。入れてから答えた。
「何がですか」
「歌よ。四十分後に、この局から全部の家に出ていくの。ここから出て、戻ってこないの」
言葉が長かったので、俺は少し考えた。
「戻ってこないんですか」
「戻ってこないわよ。生放送だもの」
◇
「怖くないです」
俺はそう答えた。
答えたら、神楽坂さんが長机から降りた。降りて、俺のほうを見た。
「あなたね、そういうところ、みんな勘違いするのよ」
「なにをですか」
「怖くないのが偉いと思ってるの、この業界」
神楽坂さんは紙コップを一つ取って、中を覗いた。空だった。空だったので、また置いた。
「怖くないのが偉いなら、私は七年ずっと駄目だったことになる」
◇
「私、毎回怖いのよ」
神楽坂さんは言った。
「今日も怖い。楽屋を出るときがいちばん怖い。廊下を歩いてるあいだも怖い。立ち位置のテープを踏んだところで、それが少しだけ小さくなる。小さくなるだけで、無くならない」
「はい」
「歌い出しの一拍前まで残ってる。出したら消える。消えるけど、終わったらまた戻ってくるの」
紙コップの縁を、指で一度なぞった。
「七年、ずっと同じところに残ってるわ」
◇
「私、初めてこの番組に出たとき、十七だったの」
神楽坂さんは、そこから話を続けた。俺は聞いていた。ほかにすることが無かった。
「グループで五人いてね。真ん中の子が、本番の三十分前に楽屋で吐いたのよ。誰も怒らなかった。マネージャーが背中をさすって、私たちは廊下に出された」
「はい」
「廊下で待ってるあいだ、あとの四人で何を喋ってたと思う」
「わかりません」
「何も喋らなかったの。四人とも壁を見てた。それが十分続いた」
紙コップの縁をなぞる指が、そこで止まった。
「本番は普通に終わったわ。誰も間違えなかった。次の日、事務所の人が、よく持ちこたえたなって言った」
◇
「あのとき、私はね」
言いかけて、そのあとが続かなかった。
「……いいわ。昔の話」
昔の話らしい。
◇
俺は膝の上の紙を見た。
紙には時刻が並んでいる。並んでいる時刻のあいだのことは、何も書いていない。
「怖いのが普通よ」
神楽坂さんは言った。
「毎回怖いの。私は」
◇
鏡の中で、人形が両手を膝の上に置いていた。
置いたまま、何も言わなかった。
◇
「あなたが怖くないなら、それはそれでいいの。ただ、怖い人を、根性が足りないと思わないで」
神楽坂さんはそう言った。
「思ってません」
「思ってなくても、そのうち思うようになるのよ。うまくいってる人は、みんなそう」
「はい」
「うまくいってない人のことを、努力が足りないって言うの。楽だから」
◇
俺は、そこで少し黙った。
黙ったのは、返す言葉が思いつかなかったからだ。菓子はもう無い。袋は裂けたままで、机の上に置いてある。
「神楽坂さんでも、怖いんですか」
俺はそう言った。
言ってから、その言い方だと変な意味に取れると思ったが、取り消す方法が無かった。
「神楽坂さん、ね」
神楽坂さんはそう言った。
「はい」
「その呼び方、事務所の人と同じよ」
「他になんと呼べばいいですか」
「澪でいい」
「呼び捨てはできません」
言ったら、向こうが黙った。
「じゃあ、好きにして」
◇
俺は、時計を見た。
十九時二十四分だった。
「澪さん」
俺は言った。
紙コップを持っている手が、一秒くらい動かなかった。
それから、コップが机に置かれた。置く音が、思ったより大きかった。
「なに」
「呼んでみました」
「……そう」
◇
いつもの返事だった。
いつもの返事だったが、耳の裏が少しだけ熱かった。熱かったのは俺のほうである。
◇
「怖いときは、どうするんですか」
俺は聞いた。
澪さんは、机の上のペットボトルを取った。取って、蓋を回した。
「水を飲む」
「水ですか」
「飲むと、口の中が動くの。動くと、喉が思い出すの。自分がどこにあるかを」
「わかりません」
「わからなくていい。飲めばいいのよ」
澪さんはペットボトルを俺の前に置いた。
置いて、蓋を閉め直した。閉め直したのは、開けたのが自分だったからだと思う。
「本番の五分前に、一口。一口だけよ。二口飲むと、途中で困るから」
◇
廊下で、誰かが走った。
走って、止まって、また走った。二回目のほうが速かった。
◇
「私、そろそろ行く」
澪さんは言った。
「はい」
「あなた、三組目でしょう」
「三行目です」
「同じことよ」
ドアのところまで歩いて、そこで一度止まった。
止まって、振り返らずにこう言った。
「高町くん。歌い出しの一拍前に、水のことを思い出しなさい。怖さのことは思い出さなくていいから」
◇
ドアが、外から閉められた。
閉まったあと、廊下の音が消えた。半分開いていたのを、出るときに閉めていったらしい。
部屋が急に静かになった。
鏡の縁の電球が、七つとも同じように点いている。黄色いのは、やっぱり左から二つ目だった。
◇
「あんた」
人形が言った。
「あの子、七年でしょ」
(そう言ってた)
「七年やって、まだ怖いのよ」
(聞いてた)
「あんた、それ、どう思ったの」
俺は何も返さなかった。
返さなかったのは、思ったことが言葉になっていなかったからだ。
人形は鞄の縁から降りて、鞄の底のほうへ引っ込んだ。引っ込んで、それきり何も言わなかった。
◇
廊下の向こうで、音が変わった。
さっきまで、通るのは台車と人だけだった。今は、それより低い音が壁を伝ってきている。まとまった数の人が、同じ方向へ歩いている音だった。
俺はドアを少し開けた。
廊下の突き当たりに、下へ降りる階段がある。その階段の口に、係の人が二人立っていて、片方が手のひらを上に向けて何かを示していた。
示された先を、人が順番に通っていく。
俺は数えようとして、やめた。二十を過ぎたあたりで、列の切れ目が無くなったからだ。
ドアを閉めた。
閉めたら、また台車の音だけになった。
◇
俺は長机の紙コップを取った。
二つあるうちの、澪さんが触っていないほうである。
ペットボトルの蓋を回した。回して、紙コップに注いだ。
注ぎすぎた。縁のところまで来て、少し盛り上がった。俺は紙コップを持ち上げないで、机の上に置いたまま見ていた。
水は、こぼれなかった。
◇
ドアが鳴った。
入ってきたのは、若いスタッフの人だった。首から下げた札に、名前とスタジオ名が書いてある。
「高町さん、そろそろお願いします」
「はい」
「立ち位置の確認からです」
「わかりました」
俺は立った。
立ったら、膝の裏が少し鳴った。座っていた時間が長かったせいだと思う。
「あの」
俺は言った。
「弁当は、本当に終わってからですか」
「……確認します」
「大丈夫です」
「聞いてはみます」
スタッフの人は、首の札を裏返して、その裏に何か書いた。書いて、廊下へ出ていった。
書かれた面は、裏返っているので見えなかった。
◇
鞄を肩に掛けた。
中で、人形が転がる音がした。転がったが、文句は出なかった。
◇
俺は紙コップを取った。
持ち上げて、口のところまで持っていって、傾けた。
一口だけ飲んだ。
二口目は飲まなかった。




