第80話 腹、減りましたね
玄関を出たところで、妹に袖を引かれた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「録画、二つ入れたから」
「二つか」
「一個だと、途中で切れることあるじゃん。だから前後に十分ずつ足したやつと、そのまんまのやつ」
車は、もう家の前に停まっている。十二時ちょうどに来た。俺は門の内側で片足を止めたままだった。
妹は袖から手を離した。
離してから、もう一度引いた。
「あと、母さんが友達んちに電話してる」
「なんの電話だ」
「〈うちの子が出るから見て〉って」
「何軒だ」
「もう四軒目」
妹は玄関の中を親指で指した。
「父さん、今日、半休取ったんだって」
「聞いてない」
「わたしも聞いてない。会社に電話したの母さんだし」
「母さんが取ったのか」
「父さんが取ったことになってる」
◇
母さんが玄関から顔を出した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「あんた、白いシャツ持った?」
「衣装は向こうにある」
「向こうって、誰の」
「番組の」
「じゃあ、いいわ」
母さんは引っ込んだ。引っ込んでから、また出てきて、俺の鞄の口を見た。
「ちゃんと閉めなさい」
俺は鞄の口を閉めた。閉めきる直前に、中で赤いものが動いた気がしたので、そこで手を止めた。
◇
助手席には、犬飼さんが乗っていた。
紙の束は後ろに移してある。俺は後ろに乗って、紙の束の横に座った。
「高町」
「はい」
「今日は、終わったら車で寝ろ」
「はい」
「起こさん」
犬飼さんは前を向いたまま言った。
言ってから、助手席の背もたれの横に手を回して、紙を一枚寄越した。今日の段取りの紙だった。昨日もらったものと同じ形で、上から順に時刻が並んでいる。
紙の下のほうに、昨日は無かった行が一つ増えていた。
〈二〇:〇〇 オンエア〉の下に、もう一行ある。
〈二〇:五四 終了〉
「終わりの時間が書いてあります」
「書いてある」
「これは、動くんですか」
「動かん。生放送というのは、そういうものだ」
俺は紙を膝の上に置いた。
置いたら、車が曲がって、紙が端から滑った。俺は指で押さえた。
◇
十三時に、東都テレビの地下に入った。
壁は白くて、天井が低い。太いケーブルが壁に沿って走っていて、一本だけが、床から三十センチくらいのところで束ねてあった。
途中で二回曲がった。曲がるたびに床の色が変わる。
通路の真ん中に台車が停めてあって、上に黒い布がたたんで積んであった。押している人はいない。
通路の突き当たりに、扉が並んでいた。
扉の一つに、紙が貼ってあった。
〈高町灯真様〉
紙は白くて、四隅にテープが貼ってある。左上のテープだけ、少し曲がっていた。字は印刷ではなく、手で書いたものだった。
◇
楽屋は、思ったより狭かった。
鏡が一面あって、その前に長い机がある。机の上に、電気の点く小さい鏡がもう一つ。椅子が二つ。奥に、たたんだパイプ椅子がもう一つ立てかけてあった。
窓は無い。天井の隅に、四角い通気口が一つ開いている。そこから風が来ていた。
部屋の隅に、衣装がかけてあった。俺の衣装である。黒いシャツと、細いズボン。昨日、着たのと同じものだ。
◇
十四時半から、カメラのリハーサルをやった。
スタジオには、客席の側にも人がいた。掃除の人が二人、通路を上から下へ拭いている。拭きながら、席の背もたれを一つずつ倒して、戻していた。
俺はテープの四角の中に立った。
「もう五センチ、右」
「顎、下げないで」
「二番、そこで一歩」
声は天井のスピーカーから来る。言っている人は、そのつど違った。
途中で、カメラの一台が止まった。止まって、その人が台から下りて、床にしゃがんで、車輪のところを触った。触っているあいだ、全体が止まった。
止まっているあいだ、俺は四角の中に立っていた。立っているだけの時間が、たぶん四分あった。
「はい、いきます」
カメラは動いた。
三十分で終わった。誰も、歌については何も言わなかった。言われたのは、位置と、顎と、一歩だけである。
俺は楽屋に戻った。
◇
十六時に、弁当が来た。
有本さんが持ってきて、机の上に置いた。二つ置いた。
「一つは、わたしのです」
「はい」
「ここで食べていいですか」
「どうぞ」
有本さんはパイプ椅子を出して、そこに座って、蓋を開けた。開けて、割り箸を割って、先に食べはじめた。
白飯の量が、俺の弁当のほうが多い。
◇
「高町さん、今日、この局に、うちの人がもう一人来ています」
「誰ですか」
「神楽坂さんです。第4スタジオで、別の番組の収録です」
「はい」
「終わるのは十九時くらいだと思います」
有本さんは、そこで卵焼きを一つ食べた。
食べてから、箸を止めた。
「わたし、いま余計なことを言いました」
「言ってないです」
「言いました。予定にないことなので」
有本さんは卵焼きをもう一つ食べた。
◇
十七時に、大久保先生が来た。
紙袋を二つ提げている。中身は見えない。先生は椅子に座って、紙袋を足元に置いて、しばらく何も言わなかった。
「高町くん、喉、開いてる?」
「わかりません」
「わからないわよね」
先生は紙袋から水筒を出した。出して、蓋を開けて、自分で一口飲んだ。
「これ、白湯なの。熱くも冷たくもないやつ。飲む?」
「はい」
俺は紙コップに一杯もらった。味は無かった。熱くもなく、冷たくもなかった。飲んだあとに、口の中に何も残らなかった。
先生は自分のぶんを、水筒の蓋のほうで飲んだ。
◇
先生は、それから四十分いた。
四十分のあいだに言ったのは、三つだった。
「肩を上げないで」
「息は下」
「歌詞は見なくていいから、口の形だけ先に作って」
どれも、四月に一度は言われた。
先生は十七時四十分に立ち上がった。
「わたし、袖で見てるから」
「はい」
「見てるだけよ。何もしないから」
先生は水筒の蓋を閉めて、紙袋に戻した。
「高町くん。わたし、今日、あなたに何かを直させるつもりで来たんじゃないの。二十時までに直るものなんて、何も無いから」
「はい」
「だから今日は、来ただけ。来て、そこにいるだけ」
先生は、そこで一度、椅子の背に手を置いた。
置いて、椅子を五センチだけ机のほうへ寄せた。寄せて、それから、また元の位置へ戻した。
先生は紙袋を二つとも持って出ていった。持ってきたものを、そのまま持って帰った。
◇
十八時に、メイクの人が来た。
男の人だった。俺の顔を上から下まで見て、それから、道具の入った箱を机に置いた。
「高町さん、肌、荒れてないですね」
「はい」
「何かしてます?」
「何もしてないです」
「そういう人がいちばん困るんですよ。こっちが足すところが無いので」
その人は俺の髪を後ろに寄せた。寄せて、少し戻して、また寄せた。
「顔、動かさないでくださいね」
「動きません」
「助かります」
その人は十五分で終わって、出ていった。
出ていくときに、ドアのところで一度止まって、鏡越しに俺のほうを見た。見て、何も言わないで出ていった。
◇
十八時二十分。
楽屋に一人になった。
鏡の前の椅子に座って、鏡を見た。鏡の中に、黒いシャツを着た男が座っている。髪は、さっき触られたので、後ろに寄せてある。
本番まで一時間半あまりの楽屋で、まっすぐ背を伸ばして座っている男が考えていたのは、弁当の白飯の量だった。
俺は机の上を見た。
◇
机の上の物が一つ、位置を変えていた。
紙コップである。さっきまで鏡の左側にあったものが、右側に来ている。
「あんた」
鞄は椅子の下に置いてある。口が開いていた。
「窓の無い部屋ね」
(そうだな)
「わたし、こういう部屋は好きよ。外が見えると、外のことを考えるから」
◇
(何しに出てきた)
「暇だからよ」
(そうか)
「あんた、いま何を考えてたの」
(弁当の白飯だ)
「弁当?」
(有本さんのより多かった)
「……そう」
人形は鞄の口に手をかけて、そこで一度止まった。
「あんた、この部屋、椅子が二つしかないわね」
(二つだ)
「わたしの椅子が無いじゃないの」
(鞄がある)
「言い方があるでしょう。大きい部屋を使う人はね、椅子を六つ置くのよ。誰も座らないんだけど、六つ置いてあるの」
人形は鞄の縁に肘をかけて、そこにもたれた。
(六つ要るのか)
「要らないわよ。要らないものが置いてある部屋のほうが、あとで思い出すの」
◇
(先に言っておくことはあるか)
「無いわよ」
(無いのか)
「無いの。わたしが言うと、あんたはそれを覚えようとするでしょう。覚えたものを持って舞台に出るのが、いちばん邪魔なのよ」
人形はそこで、鞄の中に沈んだ。
沈んでから、下のほうから一言だけ聞こえた。
「……お腹、空かせておきなさい」
わからん。
◇
十八時四十分に、ドアが二回鳴った。
開けたら、神楽坂さんが立っていた。
仕事の格好のままだった。髪は上げてあって、耳のところに小さいピンが刺さっている。手に、紙コップを二つ持っていた。
「入っていい?」
「どうぞ」
神楽坂さんは中に入って、ドアを閉めた。閉めてから、紙コップの片方を机に置いた。
「これ、下の自販機の。熱いから、置いといて」
「はい」
「わたしの分もあるから、気を遣わなくていいの。二本買うと、ボタンの上の数字が一つ増えるのよ。あれが増えるのが好きなの」
俺は置いといた。
◇
神楽坂さんは、パイプ椅子のほうに座った。
座って、紙コップを両手で持った。持った手の指の関節が、少しふくらんでいる。爪は短い。短いというより、根元まで切ってある。
俺は自分の手を見た。俺の爪は、切るのを忘れている。
「わたし、第4スタジオだったの」
「聞きました」
「終わったから、帰る前に寄っただけ」
「はい」
神楽坂さんは、紙コップを一度机に置いて、また持った。
◇
「あなた、この局は初めて?」
「二回目です」
「昨日と今日?」
「そうです」
神楽坂さんは頷いた。
「わたし、この楽屋、三回使ったことがある」
「同じ部屋をですか」
「同じ部屋。鏡の右上、欠けてるでしょう」
俺は鏡の右上を見た。
欠けていた。銀色のところが、小さく剥がれている。
「三年前からあれなの。誰も直さないの」
◇
神楽坂さんは、紙コップを持ったまま、鏡のほうを向いた。
「わたしが初めてここを使ったとき、この部屋、いまと同じ椅子が二つで、机の上に花が置いてあったの。誰が置いたのかわからないままで、次に来たときには無かった」
「花ですか」
「白いやつ。三本くらい」
神楽坂さんは、紙コップを机に置いた。
「それでね、わたし、その日ずっと、花のことを考えてたの。歌のことじゃなくて、あの花は誰が置いたのかを、本番の直前まで考えてた」
「はい」
「そういうことに使うのよ、こういう時間は」
俺は机の上を見た。
机の上には、紙コップが二つと、電気の点く鏡と、俺の歌詞の紙が一枚ある。花は無い。
◇
「高町くん、歌、聴いたわ」
「はい」
「事務所の人が、みんな聴いてるわよ。うちの階の人は、全員聴いてると思う」
「はい」
神楽坂さんは紙コップの縁を親指でなぞった。
「……それだけ言いに来たの。もう帰る」
言ってから、帰らなかった。
◇
神楽坂さんは、紙コップを両手で包み直した。
「わたし、あの曲、通しで四回聴いたの。一回目は車の中で、二回目は家で、三回目と四回目は、寝る前に続けて」
「四回ですか」
「四回。それで、四回とも同じところで手が止まるの」
「どこですか」
「二番の終わり。楽器が減って、声だけになるところ」
俺は自分の膝を見た。膝の上に手が置いてある。手は止まっていない。
「あそこ、あなた、小さくしてるでしょう」
「小さくしろと言われました」
「誰に」
「大久保先生にです」
神楽坂さんは、そこで少しのあいだ黙った。
黙ってから、紙コップを机に置いた。
「……そう」
◇
十九時になった。
廊下で人が歩く音が増えた。増えて、扉の前を何度か往復した。往復するたびに、床の音が同じところで鳴る。
扉の外を通る人の中に、走っている人が一人いた。走る音は、歩く音より短い間隔で鳴って、途中で止まって、また鳴り出した。
部屋の中に入ってくるのは、その音だけだった。窓が無い。外が明るいのか暗いのかは、扉の外の音でしか判断がつかなかった。時計だけが動いていた。
◇
有本さんが一度、扉を開けた。
「高町さん、十九時二十分に移動です」
「はい」
「衣装、着替えたら呼んでください」
「もう着てます」
「……そうでしたね」
有本さんは扉を閉めた。
閉めてから、また開けた。
「神楽坂さん、お車、十九時半に回します」
「わかった」
扉が閉まった。
神楽坂さんは、紙コップの中身を半分飲んだ。
俺は自分のぶんに手をつけていない。まだ熱い。
「あなた、何か食べた?」
「弁当を食べました」
「いつ」
「十六時です」
神楽坂さんは壁の時計を見た。
時計は十九時十分を指している。
「三時間前ね」
「はい」
「終わったら、何か食べる?」
「食べます」
「何を」
「決めてないです」
神楽坂さんは、それきり何も言わなかった。
言わないで、紙コップの縁を、もう一度親指でなぞった。なぞったところだけ、内側の湯気の付き方が変わった。
◇
十九時二十分に、扉が鳴った。
二回鳴って、そのあとに、扉の下から人の影が動くのが見えた。
「高町さん、そろそろ移動お願いします」
声は、扉の向こうからだった。開けないで、そのまま行ってしまった。廊下を歩く音が、右のほうへ遠ざかっていった。
俺は立った。
立ったら、腹の前のほうが、内側から一度下がった。
俺は腹を押さえた。
◇
押さえたところで、神楽坂さんがこっちを見た。
俺は手をどけた。どけてから、言った。
「腹、減りましたね」




