第79話 リハで力尽きなくてよかった
二時間目に、数学の答案が返ってきた。
宮坂先生ではなく、数学の先生が一人ずつ名前を呼んで、前で渡す方式だった。
「高町」
俺は前に出て、受け取って、席に戻った。
答案は裏返して渡された。渡されたとき、先生の指が点数のところに載っていた。俺は席に戻ってから、自分でひっくり返した。
二十九点だった。
黒板に、平均は五十八点と書いてあった。引くと二十九点になる。俺の点と同じ数だった。
「高町、いくつ」
熊沢が振り返った。
「二十九」
「え、俺と一緒じゃん」
「そうか」
「いや、俺、部活も何もしてねえのに」
熊沢は自分の答案を裏返した。裏返しても、点数は表に書いてある。
◇
三時間目のあと、俺は職員室へ呼ばれなかった。
呼ばれたのは熊沢だった。熊沢は行って、五分で戻ってきて、席に座って、両手で顔をこすった。
「補習」
「いつだ」
「来週の火曜。お前は?」
「同じだ」
「お前も呼ばれたのかよ」
「呼ばれた」
美咲が横を通った。通りながら、俺のほうを見ないで言った。
「高町くん、火曜は事務所でしょう」
「そうだ」
「先生には、もう言ってあります。別の日にしてもらったから」
美咲は、そのまま前のドアから出ていった。
◇
四時間目が終わって、俺は教室を出た。
黒板の右端に、字が入っていた。
〈5/29(木) 高町 公欠〉
〈5/30(金) 高町 公欠〉
二行ある。
◇
有本さんの車は、校門から少し離れた角に停まっていた。
「高町さん、台場です」
「はい」
「一時間くらいかかります」
「はい」
「途中で、何か食べますか」
食べた。コンビニで、おにぎりを二つと、ゼリー飲料を一つ買った。棚には白と青が並んでいて、青のほうを取った。白は重い。飲むと腹が膨れて、そのあとに飯が入らなくなる。
有本さんは、自分でコーヒーを買っていた。運転しながら飲めるように、蓋の付いたやつだった。
◇
東都テレビは、大きい建物だった。
建物の上のほうに、丸いものが載っていた。近くまで来ると、下から見上げる形になって、丸ではなく細い帯に見えた。
地下の入口から入って、通路を歩いた。通路は白くて、天井が低い。壁に沿って、太いケーブルが何本も走っている。
途中で二回、曲がった。曲がるたびに、床の色が変わった。
Gスタジオという札が、扉の横に出ていた。
◇
中に入って、最初に見えたのは客席だった。
傾斜の付いた席が、上のほうまで並んでいる。三百席あると聞いた。
その三百席が、全部空いていた。
背もたれの色は青で、上のほうの列だけ、色が少し薄い。日が当たる場所ではないので、擦れて薄くなったのだと思う。
◇
床のほうは、明るかった。
照明が全部点いていて、床に丸い光が三つ落ちている。真ん中の一つに、白いテープで四角が作ってあった。俺が立つ場所である。
四角の一辺は、両足を揃えて置けるくらいの長さだった。テープは新しくない。何度も貼り直したあとが、四角の外側に薄く残っている。
「高町くん、そこ立ってみて」
声のしたほうを見たら、ヘッドセットを着けた人が手を上げていた。
俺は四角の中に立った。
「もう五センチ、右」
俺は右へ動いた。
「そこ」
その人は手を下ろして、もう俺を見ないで、上のほうへ何か言った。
◇
スタジオの中には、二十人くらいいた。
カメラが三台。そのうち一台は、床を滑る台に載っている。上のほうの通路にも人がいて、そこから照明を触っていた。
全員が、それぞれの手元を見ていた。カメラの人はファインダーを、床の人は自分の紙を、上の人は自分の指の先を見ている。
俺のほうを見ている人は、いなかった。
床の人が、俺の足元にもう一本テープを貼った。貼るときに、俺の靴を一度どけて、貼り終わってから、また同じ場所に戻した。
その人は、最後まで俺の顔を見なかった。見たのは靴だった。
◇
犬飼さんは、客席の一列目の端に立っていた。
座らない。腕を組んで、床のほうを見ている。
大久保先生はその二つ隣にいた。膝の上に、譜面の入った紙ばさみを載せて、座っている。
俺の位置からは、二人の顔が同じくらいの大きさに見えた。
◇
「都築です」
女の人が来て、そう言った。
背は高くない。髪をうしろで留めていて、上着は着ていない。手に紙を丸めて持っている。
「高町です」
「明日、よろしくね」
「はい」
「今日は音を合わせるだけだから、気楽にやって」
「はい」
「わたし、今日は喋る場所だけ確かめて帰るの。二十年やってても、場所は毎週変わるから」
都築さんは紙で自分の肩を一度叩いて、上手のほうへ歩いていった。
歩くたびに、丸めた紙の端が少し開いて、また丸まった。開いた隙間から中が見えた。歌詞ではなかった。数字が縦に並んでいて、その右に短い言葉が付いている。数字のほうが、言葉より大きい字だった。
◇
十四時半から、カメラのリハーサルが始まった。
曲を頭から流して、俺はその上に歌う。歌いながら、指示が飛ぶ。
「もう少し前」
「顎、下げないで」
「二番、そこで一歩」
声は、天井のスピーカーから来る。誰が言っているのかは、そのつど違った。
俺は言われたとおりに動いた。動いたが、動くと歌が遅れた。歌に合わせると、位置がずれた。
二回目の途中で、天井のスピーカーを数えた。六つある。そのうち上手の端の一つだけ、ほかより遅れて鳴る。歌っているあいだ、俺はそっちばかり聞いていた。
◇
三回目の途中で、俺の声が下に落ちた。
落ちたところは、二番の頭だった。
誰も止めなかった。曲は最後まで流れて、そのまま終わった。
終わったあと、上のほうから声がした。
「はい、いったん止めます」
◇
十六時から、通しをやった。
頭から最後まで、止めないでやる。カメラも本番と同じように動く。
照明が落ちた。落ちて、真ん中の一つだけが残った。
俺はテープの四角の中に立っていた。
◇
客席は、空だった。
三百の背もたれが、こっちを向いて並んでいる。並んでいるだけで、そこには何も無い。
スタジオの中の人は、全員が手元を見ていた。カメラの人はファインダーを、上の人は照明を、床の人は自分の紙を見ていた。
モニターの前に三人いた。三人とも、モニターを見ていた。
三百の背もたれのうち、いちばん上の列の右から二つ目だけ、座面が上がりきっていなかった。誰かが座って、そのまま戻さなかったのだと思う。
俺は、そこを見ていた。
◇
曲が鳴り出した。
頭の一行を出した。
出した声は、床の上で止まった。天井まで行かないで、途中で落ちた。
二行目は出た。
三行目の頭で息を吸った。吸いすぎた。吸いすぎたぶんが、そのあとの音を細くした。
◇
曲が真ん中まで来た。上に置きにいくところだ。
俺は下から置いた。
置いたところで、音が上に届かなかった。
届かないまま、次の行に入った。次の行の頭で、歌詞が一行飛んだ。
飛んだので、曲のほうが先に行った。俺は追いつこうとして、二拍ぶん飛ばした。
◇
二番の終わりで、楽器が減った。
声だけになる。
声だけになったところで、俺の声は、二番の頭と同じ場所で、また下に落ちた。
最後の四行を小さくした。
小さくしたら、消えた。
◇
曲が終わった。
――三百の空席に向かって、二番の頭で二度沈んだ声。
スタジオの中は、静かにならなかった。
カメラの人が台を戻した。上のほうで、照明の人が何か言った。床の人が、テープの四角の位置を測り直しはじめた。
仕事は続いていた。
止まっていたのは、モニターの前の三人だけだった。
◇
モニターの前の一人が、椅子から立った。
立って、二歩歩いて、戻った。戻って、また座った。
もう一人が、手に持っていたペンを机に置いた。置いたペンが転がって、机の端で止まった。
三人目は、何もしなかった。何もしないで、モニターを見ていた。
その三人が黙っているあいだ、スタジオの中では、別のところで台車が動いていた。車輪が床の継ぎ目を越えるたびに、音が一つ鳴った。鳴る間隔は、そのたびに違った。
◇
ヘッドセットの人が、上のほうへ何か言った。
言ってから、こっちを向いた。向いて、口を開いて、そのまま閉じた。
閉じてから、別のことを言った。
「高町さん、水、そこに置いてあるので」
「はい」
「冷えてないですけど」
ペットボトルは、床のケーブルの束の上に載っていた。俺は取って、蓋を開けて、二口飲んだ。ぬるかった。
同じ束の上に、あと五本並んでいた。抜いたのは俺の一本だけである。
五本とも、ラベルの向きが同じ側を向いていた。俺は蓋を閉めて、自分の一本を、同じ向きに戻して置いた。
◇
俺はテープの四角の中に立っていた。
立っているうちに、上のほうから声がした。
「高町さん、いったん下りてください」
俺は下りた。
下りる階段は三段で、二段目のところで手すりが途切れている。
◇
客席の一列目に、レコード会社の人が来ていた。
昨日までいなかった人で、朝から来ていたらしい。手に紙を持っている。持っているのは、俺の歌詞カードと同じものだった。
その人は犬飼さんのほうを向いた。
「犬飼さん、ちょっといいですか」
「はい」
「明日、これで出すんですか」
犬飼さんは何も言わなかった。
言わないで、上着のポケットに手を入れた。入れて、そのまま出さなかった。
◇
レコード会社の人は、それ以上は言わなかった。
言わないで、自分の紙を二つに折って、脇に挟んだ。挟んでから、もう一度開いて、折り直した。折り直しても、折り目は同じところに付いた。
◇
上手の袖から、都築さんが出てきた。
上着を着ていて、鞄を肩にかけている。帰るところらしい。
俺の横まで来て、立ち止まった。
「高町くん、明日ね。二十時ちょうどに、わたしがこの位置に立って、あなたの名前を読むの。読んだら、カメラが二台こっちを向くから」
「はい」
「わたしの仕事はそこまで。そのあとは、こっちを見てなくていいからね」
都築さんは自分の足元を指した。
指したところに、白いテープの四角がもう一つあった。俺のより小さい。
「じゃあ、また明日」
都築さんは通路のほうへ歩いていった。歩きながら、丸めた紙をもう一度丸め直していた。
◇
大久保先生が、客席から下りてきた。
紙ばさみを胸のところで持っている。持ったまま、俺の前に来て、そこで止まった。
「高町くん、二番の頭、どうだった」
「落ちました」
「そう」
「三行目で吸いすぎました」
「そう」
先生は紙ばさみを開いた。開いて、中の譜面を見て、また閉じた。
譜面には、四月に見たのと同じ矢印が並んでいた。上向きが多くて、下向きは行の終わりに固まっている。
◇
先生は、俺のほうを見ないで言った。
「わたし、あなたに言うことが無いのよ」
「はい」
「言うことが無いんじゃなくて、言うことは全部言ったの。四月から、同じことを、同じ順番で」
「はい」
「それが、あなたの中に入っているのか、いないのか。わたし、それを確かめる方法を持っていないの」
先生はそこで、紙ばさみを持ち替えた。
「この仕事を始めてから、そこだけが、いまだにわからないんです」
俺は、先生の靴を見ていた。片方の爪先にだけ、白い粉が付いている。スタジオの床の粉である。
◇
先生は、それから顔を上げた。
「高町くん、明日、何時に入るの」
「十三時です」
「わたしも行くわ」
「はい」
「行って、何をするかは、決めてないけど」
「はい」
「高町くん、今日、家に帰ったら何をするの」
「飯を食います」
「そのあとは」
「寝ます」
「……そう」
先生は、そこで初めて口の端を動かした。動かしただけで、声は出さなかった。
「じゃあ、それでいいわ。今日は、それでいいの」
先生は笑わなかった。
笑わないで、紙ばさみを胸に戻して、通路のほうへ歩いていった。
歩きながら、途中で一度、立ち止まった。立ち止まって、また歩き出した。
◇
十八時に、今日の分は終わった。
スタジオの照明が半分落ちた。落ちると、客席の青が黒くなった。三百席が、まとめて一つの塊に見える。
俺は通路に出た。
歩いていると、自分の足音だけが前から返ってきた。天井が近いので、音が上で一度跳ねる。
途中で、若いスタッフが二人、こっちへ来た。台車を押している。台車の上に、たたんだ黒い布が高く積んであった。
二人は俺を見て、壁際に寄った。寄って、台車を止めて、俺が通るのを待った。
俺は幅を取らないで通った。
通ったあとで、後ろから台車が動き出す音がした。動き出すまでに、少し間があった。
犬飼さんが、俺の後ろから来た。
来て、俺の横に並んだ。並んで、歩幅を合わせた。
合わせたところで、ポケットから胃薬の箱を出そうとして、手が引っかかった。
箱が落ちた。
◇
俺は拾った。
拾って、渡した。箱は軽かった。渡すときに一度だけ振れて、中で音がした。音は、箱の大きさのわりに少なかった。
「ありがとう」
「はい」
犬飼さんは箱を受け取って、開けないで、そのままポケットに戻した。
◇
通路の突き当たりで、犬飼さんが止まった。
「高町」
「はい」
「今日は、どうだった」
俺は考えた。
考えて、先に出てきたことを言った。
「昼のおにぎり、二つで足りました」
◇
犬飼さんは、俺の顔を見た。
上から下まで見て、それから、通路の先のほうを見た。
通路の先には非常口の緑の明かりがあって、その下に、誰かが置いた台車が一つ停めてある。
「そうか」
「はい」
「いまは」
「減ってます」
「そうだろうな」
犬飼さんは歩き出した。
◇
外へ出たら、風があった。
海のほうから来る風で、少し湿っている。有本さんの車は、地下の出口の脇に停まっていた。
乗る前に、俺は建物の上のほうを見た。
上に載っている丸いものに、明かりが点いていた。昼に見たときは、点いていなかった。
◇
車の中で、有本さんが言った。
「高町さん。明日、朝の迎えはありません」
「はい」
「十二時に、家の前に行きます」
「はい」
「今日、犬飼さんに電話が三本入りました」
有本さんはそこで止めた。
止めて、それきり何も足さなかった。
俺は窓の外を見ていた。橋の上を走っていて、下の水面に、対岸の明かりが縦に伸びていた。
伸びた明かりは、車が進むあいだ、同じ形のまま横に流れた。形が変わったのは、橋を下りきったところで一度だけだった。
携帯が震えた。妹からだった。
〈明日、何時から〉
俺は〈八時〉と返した。
すぐに返ってきた。
〈わかってるし〉




