第78話 生放送という単語
「それ、俺じゃねえから」
教室に入って三歩のところで、後ろの席から声が飛んできた。言った時点で、たぶん熊沢である。
俺の机の上に、紙コップが一つ載っていた。中に何も入っていない。底に、輪ゴムが一本沈んでいる。
「昨日のあれ、お前だろ」
「あれとは」
「ドラマの終わり。最後まで曲が流れたやつ」
「そうだ」
「あれ、お前が歌ってんの」
「そうだ」
熊沢は自分の携帯を机に置いて、画面をこっちに向けた。向けたが、画面は暗いままだった。
「……あ、切れてるわ」
◇
一時間目の前に、俺の机の周りに七人来た。
七人のうち五人は、何も言わないで立っていた。二人は「昨日の見た」と言った。二人とも、そのあと何を言うかは決めていなかったらしく、そこで止まった。
俺は座っていた。座っているうちに、予鈴が鳴って、七人は散った。
散ったあと、机の上の紙コップだけが残った。
俺はその中の輪ゴムを取って、指にはめた。はめてから、外して、コップに戻した。輪ゴムは、底で同じ形に丸まった。
◇
「なあ高町」
熊沢がまた後ろから言った。今度は椅子ごと近づいてきている。
「昨日さ、うちの母ちゃんが、途中から黙ったんだよ」
「そうか」
「ドラマ見てるときって、あの人ずっと喋ってんの。誰が犯人だとか、この子かわいそうだとか。それが、最後の曲んとこで急に黙って」
「そうか」
「で、終わったあとに一言だけ言ったわ」
「なんて」
「〈これ、誰〉って」
昨日の居間で、妹も同じことを言った。
「で、俺が高町だって言ったら、信じねえんだよ。息子の言うことより、テレビのほうを信じるんだぜ」
「テレビは信じるのか」
「テレビは信じるんだよ、あの人」
◇
早坂が、二時間目のあいだに紙を一枚回してきた。
前の席から後ろへ回ってきたやつで、俺のところで止まる形になっていた。開いたら、考査の範囲が書いてある。美咲の字だった。
三つのうち、二つに丸が付いている。丸を付けたのは俺ではない。
早坂は前を向いたまま、背中でこっちの気配だけを気にしていた。気にしているのが、肩の高さでわかった。
◇
三時間目のあと、美咲が俺の机の横に来た。
「高町くん、その紙、二つ丸が付いてるでしょう」
「付いてる」
「付いてないほうが、火曜の一時間目です」
「はい」
「一時間目に、いちばん範囲が広いのが来るの。順番が悪いのよ」
美咲は机の上の紙を指で押さえて、押さえたまま少し考えた。
「昼休み、教室にいる?」
「いる」
「じゃあ、いい」
美咲は行った。
行ったあとで、机の上の紙が一枚増えていた。増えたほうには、火曜の一時間目の範囲だけが、大きい字で書き直してあった。
◇
昼休みに、廊下で宮坂先生に会った。
「高町、二十一日から二十三日、来るのね」
「来ます」
「そう」
宮坂先生は、そのまま職員室のほうへ歩いていった。
三歩歩いて、止まって、戻ってきた。
「昨日のあれ、うちの母が電話してきたのよ。うるさかったわ」
先生はまた歩いていった。
◇
五時間目のあと、廊下で下級生に見られた。
三人組の先頭が、俺を見てから立ち止まった。立ち止まったので、後ろの二人がその背中にぶつかっていた。
俺は幅を取らないで歩いた。歩いて、階段を下りて、下駄箱でえんじ色の上履きを脱いだ。
外に出たら、有本さんの車が停まっていた。
◇
「高町さん、事務所です」
「はい」
「四階です」
「小部屋ですか」
「今日は会議室1です」
会議室1は、壁の片側が全部ホワイトボードになっている部屋だ。椅子は机の周りだけでなく、壁際にも並べてある。
◇
会議室1には、犬飼さんと有本さんしかいなかった。
三人しかいないので、犬飼さんの声が壁で一度跳ねてから戻ってきた。
机の上に、紙が二枚並べてあった。
「座れ」
俺は座った。
犬飼さんは立ったまま、紙の一枚を俺のほうへ向けた。
紙の上のほうに、番組の名前が書いてある。
〈ミュージックゲート〉
「東都テレビの音楽番組だ」
「はい」
「毎週金曜、二十時から。五十四分」
「はい」
「五月三十日に出る」
◇
「三十日は、金曜ですか」
「金曜だ」
「学校は」
「その日だけ公欠だ。届は出す」
「はい」
犬飼さんは二枚目の紙を出した。
二枚目には、時間が縦に並んでいた。左に時刻、右に短い文が並んでいる。上から順に読んでいくと、いちばん下のほうに〈二〇:〇〇 オンエア〉と書いてあった。
「一曲やる。頭から最後までだ」
「はい」
「生放送だ」
◇
俺は紙を見た。
「生放送というのは」
「録らないということだ」
「録らない」
「そのまま流れる。撮ったやつを直して出すんじゃない。歌ったものが、その時間に、そのまま外へ出る」
「止められないんですか」
「止まらん」
犬飼さんが「生放送だ」と言ったとき、部屋の中で椅子が二つ鳴った。鳴らなかったのは俺の椅子だけである。
◇
「わからんです」
「何がわからん」
「録らないと、直せないですよね」
「直せない」
「直せないものを、なぜ出すんですか」
犬飼さんは机の端に手をついた。
「それを見たい人間がいるからだ」
「はい」
「直したやつなら、もう出てる。昨日、日曜の夜に、全国に出た。それは完成品だ」
「はい」
「今度は、完成品じゃないほうを見せる。同じ人間から、同じ曲が、その場で出てくるところをだ」
俺は二枚目の紙を、もう一度上から読んだ。
〈一三:〇〇 入り〉〈一四:三〇 カメリハ〉〈一六:〇〇 通し〉〈一八:三〇 メイク〉〈一九:三〇 スタンバイ〉〈二〇:〇〇 オンエア〉
左の数字は、下に行くほど大きくなる。右の言葉は、下に行くほど短くなる。
「カメリハ、というのはなんですか」
「カメラのリハーサルだ。どこから撮るかを決める」
「通しは」
「頭から最後まで一回やる。止めないで、そのまま最後までだ」
「二十九日にもやるんですよね」
「やる。二十九日は前の日のぶんで、三十日は当日のぶんだ」
わからん。
「同じことを二回やるんですか」
「二回やる」
「なぜですか」
「一回で決まらんからだ」
犬飼さんは胃薬の箱を出した。出して、口に入れて、水は飲まなかった。
◇
有本さんがタブレットを開いた。
「高町さん。今日、犬飼さんに電話が十一本入りました」
「はい」
「以上です」
有本さんはタブレットを閉じた。
閉じてから、もう一度開いて、画面を一度触って、また閉じた。
◇
「番組の司会は、都築ハルカという人だ」
犬飼さんが言った。
「知っているか」
「知りません」
「見たことは」
「たぶんあります」
犬飼さんは紙の右上を指で叩いた。そこに名前が印刷してある。
「二十年、金曜の夜にいる人だ。生放送で二十年やっている」
「はい」
「向こうは慣れている。慣れていないのはこっちだ」
◇
俺は窓のほうを見た。
窓の下は道路で、その先に駅がある。ここから駅までは、歩いて十二分だ。今出れば、十七時台の電車に間に合う。
間に合ったところで、三十日は来る。
◇
「高町」
「はい」
「二十九日に、前の日のリハーサルがある。木曜だ」
「学校は」
「午前だけ出て、午後から入る」
「はい」
「二十九日は、俺も行く」
犬飼さんはそこで一度、机の上の紙を揃えた。
揃えてから、揃った紙をもう一度ばらして、また揃えた。
◇
廊下に出たら、階段の下から音がしていた。
同じ拍で四回。少し間があって、また四回。二階のレッスン室Aの床が鳴っている。あの部屋は、入口から三枚目の床板が「ぎ」と鳴る。
俺は階段を下りた。
下りたら、ドアが開いていて、中でケイが片足だけで立っていた。立ったまま、鏡のほうを見ている。
「おー」
「いた」
「なんでおんの」
「上で話をした」
「話。何の」
「歌の番組に出るらしい」
ケイは片足を下ろした。下ろして、こっちを向いた。
「は?」
「三十日だ」
「三十日って、あと十一日やん」
「そうだな」
「歌番組って、あれか。金曜の、あの」
ケイはそこで一度、口を閉じた。
閉じてから、鏡のほうを見て、それからまた俺を見た。
「……お前、それ、生放送やで」
「そう聞いた」
「聞いたって、お前」
ケイは床に座った。座って、両手を後ろについた。
「あの番組な、うちの家、毎週ついてんねん。飯の時間やから」
「そうか」
「弟ら、あれ見ながら飯食うねん。下のやつなんか、音楽なんも興味あらへんのに、あの時間だけは黙って画面見てんねん」
ケイは天井を見た。
「……で、そこにお前が出るんか」
「らしい」
「なんやそれ」
ケイは笑った。笑って、床に手をついたまま、しばらくそのままでいた。
「まあええわ。俺、その日、家で見るし」
「そうか」
「録るけどな。二回見るし」
ケイは立ち上がって、鏡の前に戻った。戻って、右足を一度だけ床に置いた。
入口から三枚目のところで、床が「ぎ」と鳴った。
「なあ、歌う前って、なんかすんの」
「知らん」
「知らんのかい」
「まだ一回も出てない」
「そらそやな」
ケイは鏡を見たまま、髪の前のほうを指で押さえた。押さえて、離して、また押さえた。
「俺、本番の前、必ず靴の裏を拭くねん。意味はないねんけどな。拭かんかった日に転んだことあって、それからずっと」
「毎回か」
「毎回。もう三年やってる」
「効くのか」
「効くわけないやろ」
ケイは笑った。笑ってから、両手を頭の後ろで組んだ。
「効かへんけど、やらんかったら気になんねん。そういうの、そのうちお前にもできるわ」
◇
事務所を出るときに、有本さんが玄関でこう言った。
「高町さん、二十一日から考査ですよね」
「はい」
「二十九日まで、レッスンは入れないそうです」
「はい」
「大久保先生が、そうしろと」
有本さんは、そこで一度言葉を切った。
「先生から、伝言があります。〈しばらく歌わないで。二十九日にまとめて言うから〉」
◇
帰りの車で、俺は寝た。
起きたら、桜坂の交差点だった。交差点の角のパン屋は、もう閉まっていた。看板の明かりだけが点いている。
「高町さん、明日、迎えは無いです」
「はい」
「朝の迎えは、しばらくありません。要る日だけ、前の晩にお伝えします」
俺は車を降りた。降りて、駅前のコンビニに寄って、おにぎりを二つ買った。
◇
家に着いたら、玄関に知らない靴が四足あった。
全部、女子の靴だった。四足とも、かかとがきちんと立っている。その横に、妹の靴があった。かかとは踏んであった。
居間から声がしていた。四人ぶんの声が、順番ではなく、一度に鳴っている。
四つの声のうち、一つだけ低いところで鳴っているのがあった。それが妹の声だった。
俺は靴を脱いで、二階へ上がろうとした。
上がろうとしたところで、居間のドアが開いた。
◇
「兄ちゃん」
「なんだ」
「あの、こっち来て」
「行かない」
「一回でいいから」
俺は行かなかった。
行かなかったが、居間の中から四人ぶんの声が一斉に止まったのは聞こえた。止まって、そのあとに、小さい悲鳴みたいなものが一つ上がった。
妹がドアを閉めた。
閉めた向こうで、また声が鳴りはじめた。
◇
二階に上がって、鞄を床に置いた。
机の上に、朝のままのコップが置いてある。中身は空だ。
俺はおにぎりを一つ食べた。もう一つは、あとにした。
下から、四人ぶんの声が上がってくる。床から来る音は、言葉にならないで、拍だけになる。
拍は、しばらく一定だった。一定だったのが、途中で速くなって、そのあとに全部が重なった。重なったところで、テレビの音が消えた。
◇
母さんが階段を上がってきた。
上がってきて、ドアを開けて、皿を一枚置いた。皿の上に、切った果物が載っている。
「下、うるさいでしょ」
「うるさい」
「うるさいって言いなさいよ、ちゃんと」
「言った」
「わたしにじゃなくて」
母さんは皿を机の端に寄せて、部屋の中を一度見回した。
「あんた、三十日って、何」
「テレビだ」
「歌うの?」
「歌う」
「そう」
母さんはドアのところで止まった。
「その日、父さん、早く帰ってくるって」
「そうか」
「わたし、頼んでないのよ。自分から言い出したの。気持ち悪いわね」
母さんはドアを閉めた。閉める音は、下の四人ぶんの声にすぐ混ざって消えた。
◇
俺は壁のカレンダーをめくった。
四月のままだった。誰もめくっていない。
五月の面には、母さんの字で〈二日 ケーキ〉と書いてある。それ以外は白い。
俺は二十一から二十三までのところに、鉛筆で線を一本引いた。引いた線は、途中で二十二の枠の外へはみ出した。
それから、三十のところに丸を付けた。
付けてから、丸の中には何も書かなかった。書くことを決めていない。番組の名前は長い。丸の中には入らなかった。
◇
下の声が、一度大きくなった。
大きくなって、そのあと、ぱたっと止まった。
止まったのは二十二時に近い時刻で、たぶん誰かが帰る時間になったのだと思う。
階段を上がってくる音がした。上がってきて、俺の部屋の前で止まった。
ドアは叩かれなかった。
◇
しばらくして、ドアの下から紙が一枚入ってきた。
拾って開いたら、四人ぶんの字が書いてあった。名前が四つ並んでいて、その下に一行ずつ何か書いてある。
三行までは読んだ。四行目は、字が小さすぎて読めなかった。
読めた三行のうち、二行は同じことが書いてあった。もう一行は、名前の下に矢印が引いてあって、その先に何も無かった。
俺は紙を机の上に置いた。
置いた場所が、考査の範囲の紙の上だった。範囲の紙は、下に隠れて、丸の付いていないほうの行だけが端から出ていた。
◇
俺はもう一度、壁のカレンダーの前に立った。
三十の丸は、鉛筆で書いたので、薄い。
薄いが、二十九のところには、まだ何も付いていない。
俺は鉛筆を取って、二十九のところにも丸を書いた。書いてみたら、三十の丸より大きくなった。
消しゴムは、机の引き出しに入っている。俺は引き出しを開けなかった。




