第77話 自分の声が知らない声だった
「高町、お前、金曜どこ行ってた」
熊沢が俺の机の横に立って言った。一時間目が始まる前で、窓が開いていて、前のやつの後ろ髪が風で動いている。
「仕事だ」
「何の」
「歌を録った」
「歌?」
「歌だ」
熊沢は口を開けて、そのまま三秒くらい止まった。
「お前、歌えんの」
「録った」
「録ったって、録れたのかよ」
「録れたらしい」
熊沢は自分の頭の後ろを掻いた。掻いて、自分の席に戻って、座ってから、もう一度こっちを見た。
◇
黒板の右端は、今日は白かった。
先週の木曜まで、そこに俺の名前が出ていた。消したのは日直だと思う。日直の名前は、左端に書いてある。
一時間目は現代文で、宮坂先生が出席を取った。俺の名前のところで止まらなかった。
◇
昼休みに、美咲がロッカーの前に立っていた。
「高町くん、範囲の紙、見た?」
「見た」
「三つのうち、どれが終わってるの」
「一つも終わってない」
「そう」
美咲はそれ以上何も言わないで、自分の席へ戻った。
戻る途中で、教室の後ろの掲示板の前で足を止めて、画鋲を一つ、押し直していた。押し直したのは、考査の日程を貼ってある紙のほうだった。
熊沢が俺の前の席に後ろ向きに座って、購買のパンの袋を開けた。
「なあ、歌ってどういうやつ」
「ドラマの終わりに流れるやつだ」
「あー、あれか。あれって、ドラマの人が歌うもんなの?」
「知らん」
「知らんのかよ。お前が歌うんだろ」
「頼まれたからだ」
「頼まれたら歌えんのか、お前」
俺は答えなかった。
答えるかわりに、熊沢のパンの袋を見ていた。中に二個入っている袋で、熊沢は一個目を三口で食べた。二個目には手をつけないで、袋の口を折った。
◇
五時間目のあと、廊下で下級生に二回見られた。
二回とも、同じ方向から来た二人組で、すれ違ったあとに小さい声が上がった。上がった声は、階段のところで止まった。
えんじ色の上履きの下から、床がきゅっと鳴った。俺は幅を取らないで歩いた。
◇
十六時半に、有本さんの車が校門の外に停まっていた。
助手席は空いていた。犬飼さんは事務所にいるらしい。
「高町さん、今日、四階です」
「はい」
「会議室2です」
「小部屋ですか」
「小部屋です」
有本さんはウインカーを出して、それから言った。
「今日は、悪い話ではないと思います」
「思います、ですか」
「わたしは聞いていないので」
◇
会議室2は四階の手前から二つ目で、椅子が六つ置いてある。
入ったら、六人いた。
犬飼さんが奥に立っていて、鷲尾さんが机の真ん中に座っている。その隣にレコード会社の人がいて、反対側に大久保先生がいた。有本さんが最後に入ってきて、ドアを閉めた。
閉めたら、椅子が足りなくなった。
「わたし、立ってます」
有本さんは壁際に寄って、タブレットを胸のところで持った。
机の上に、小さい機械が一つ置いてある。金曜に俺が返したやつだ。それと、四角いスピーカーが二つ。
◇
「三分五十二秒です」
鷲尾さんがそう言って、機械の何かを押した。
部屋の中に、音が出た。
◇
最初に楽器が二つ鳴って、そのあとに、男の声が入ってきた。
低いところから始まる声だった。
その声は、一行目の終わりで少し前に出て、二行目で下に沈んだ。沈んだところは、床のほうではなく、机の高さくらいのところにある。
三行目の頭で、息の音が入った。
息の音まで入っている。
◇
俺は、その声を知らなかった。
仮の歌の人ではない。仮の人は、もっと真ん中で鳴っていた。この声は、下から始まって、途中で上に行って、上に行ったところで一度だけ広がる。
部屋の中の六人は、机のほうを見ていた。誰も、俺を見ていない。
俺は自分の膝を見ていた。膝の上で、指が一本だけ動いていた。動かした覚えは無い。
◇
二番に入った。
二番の終わりで楽器が減って、声だけになった。
声だけになったところで、大久保先生が口を押さえた。
押さえたまま、動かなかった。
◇
最後の四行は、小さくなっていく。
小さくなって、最後の一行が終わって、そのあとに、楽器が二つ残って、その二つも消えた。
三分五十二秒が終わった。
誰も何も言わない時間が、たぶん十秒くらいあった。
◇
最初に喋ったのは、レコード会社の人だった。
「……これ、直すところ、無いですよね」
「無いです」
「本当に無いですか。わたし、いま二回聴きたくて、でも二回聴いたら、たぶん粗を探しはじめるので」
「探さないでください」
鷲尾さんは機械の蓋を閉めた。閉めて、両手を机の上で組んだ。
「これで出します。題は『ノーフェイス』です。十八日の日曜、ドラマの六話の終わりで、頭から最後まで流れます」
「まるまるですか」
「まるまるです。向こうがそうしたいと言ってきました」
◇
犬飼さんが奥で腕を組んだ。
「高町」
「はい」
「聴いたか」
「聴きました」
「感想は」
俺は少し考えた。
「息の音が入ってました」
「そうだな」
「あれは、消せるんですか」
「消せます」
鷲尾さんが横から言った。
「消せますけど、消しません。あれが入ってないと、人が歌ってることになりませんから」
◇
大久保先生は、口から手を離してから、しばらく何も言わなかった。
言わないで、机の上の紙を一枚、指で押さえていた。押さえているのは白い紙で、何も書いていない。
「ねえ、高町くん。あなた、あの二番の終わりのところ、どうやって出したの」
「わかりません」
「わからないの」
「小さくしろと言われたので、小さくしました」
「……そう」
先生は紙から指を離した。
離して、その紙を二つに折って、鞄に入れた。紙には、最初から最後まで、何も書かれていなかった。
先生は鞄の口を閉めてから、机の向かいの鷲尾さんのほうを見た。
「鷲尾さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「二番の終わりのところです。楽器が減って、声だけになるところ」
「はい」
「あそこ、機械で何かしましたか」
「何もしてません。頭の二秒だけ触って、あとは入ってきたものが、そのまま入っています」
「音量も、ですか」
「音量も、そのままです。上げても下げてもいません」
先生は、机の上で自分の指を一度そろえた。そろえて、また離した。
「……わたし、あそこだけ、あとで聴かせてもらっていいですか」
「いま出しますか」
「いえ。いいです」
先生は鞄を膝の上に置き直した。置き直しただけで、開けなかった。
◇
部屋を出るときに、鷲尾さんが呼び止めた。
「高町くん、これ、家で聴いてください」
鷲尾さんは、俺の携帯にデータを送った。送ってから、こう言った。
「今日は、いい機械で聴かなくていいです。安いイヤホンで聴いてください。世の中の大半は、そっちで聴くので」
「安いやつでいいんですか」
「そっちが本番です。うちで作った音が、そこで何割まで残るか。それを知らないで作ってる人は、わりといます」
鷲尾さんは鞄を肩にかけた。かけてから、思い出したように付け足した。
「あと、寝る前に聴かないでください」
「なぜですか」
「頭の中で鳴り続けます。わたしは今日、鳴ります」
◇
帰りの車で、俺は寝なかった。
寝ようとしたが、目が開いたままだった。窓の外で、看板の明かりが後ろへ流れていった。
有本さんは前を向いたまま運転していた。信号で止まったときに、一度だけ、ミラー越しに俺のほうを見た。
見て、何も言わなかった。
次の信号で止まったときに、今度は言った。
「高町さん、今日、犬飼さんに電話が四本入りました」
「はい」
「以上です」
有本さんはそこで止めた。
止めて、青になったので車を出した。それ以上は言わなかったし、俺も聞かなかった。
助手席には紙の束が積んである。いちばん上の一枚が、カーブのたびに端から浮いた。浮いて、戻って、また浮いた。三回目で、下の紙も一緒に動いた。
◇
家に着いた。
玄関に妹の靴があった。かかとを踏んだまま脱いである。
居間に入ったら、妹がテレビの前に座っていた。膝の上にタブレットが載っていて、画面の中で、細い線がたくさん並んでいる。
「ごはん、あとにするって」
「そうか」
「母さん、下で洗濯機の音がしてる間は動かないから」
妹は画面から目を離さないで、そこまで言った。
◇
俺は妹の横に座った。
「イヤホン、貸せ」
「持ってないの?」
「無い」
「兄ちゃん、それ、去年もそれ言った」
妹は自分のイヤホンをケースから出して、片方だけ寄越した。
「片方でいいでしょ」
「二つ要る」
「じゃあ、両方あげるけど、返してね」
◇
俺は携帯にイヤホンを挿して、再生した。
挿し方が浅かったので、一度抜いて、挿し直した。
安いイヤホンだった。鷲尾さんの言ったとおりの音がした。楽器の下のほうが減っていて、そのぶん、声が前に来る。
声は、やはり知らない男の声だった。
◇
妹が横から俺の手元を覗いた。
「何それ」
「聴いてる」
「何を」
「歌だ」
妹はタブレットを畳の上に置いた。置いて、手を出した。
「わたしにも」
「片方やる」
「両方わたしの」
俺は片方を渡した。
◇
妹は左耳にイヤホンを入れて、そのまま動かなくなった。
最初の十秒で、画面から目を離した。次の十秒で、体をこっちに向けた。
一行目が終わって、二行目に入った。
二行目の途中で、妹は自分の膝の上の手を、握って開いた。
テレビはついたままで、音は消えている。画面の中で、知らない人が二人、口だけ動かして笑っていた。妹はそっちを一度も見なかった。
台所で、洗濯機が止まった。止まった音がして、そのあとに母さんが何か言った。妹は返事をしなかった。
母さんはもう一度言って、それから、自分で居間まで来た。来て、妹の後頭部を見て、俺の手元の携帯を見て、何も言わないで台所に戻った。
◇
二番に入ったところで、妹が言った。
「これ、誰?」
俺は返事をしなかった。
「兄ちゃんの曲でしょ、これ」
「そうだ」
「誰が歌ってんの」
「俺だ」
「嘘」
妹はイヤホンを耳から外した。外して、俺の顔を見て、それから携帯の画面を見た。画面には、曲の名前と、三分五十二秒という数字が出ている。
「……嘘でしょ」
「本当だ」
「兄ちゃん、こんな声出ないじゃん」
俺は自分の喉のあたりを触った。触っても、何もわからなかった。
◇
妹はイヤホンをもう一度耳に入れた。
入れて、最初から再生し直した。
二回目のあいだ、妹は一言も喋らなかった。喋らないで、途中で一度だけ、自分の耳をイヤホンの上から押さえた。
押さえたのは、二番の終わりのところだった。楽器が減って、声だけになるところである。
俺はそのあいだ、居間の時計を見ていた。秒針は、七のところで毎回わずかに引っかかる。引っかかって、その次で追いつく。追いついたところで、一秒ぶんだけ速く動く。
終わってから、妹は言った。
「これ、いつ出るの」
「十八日だ」
「日曜?」
「日曜だ」
「わたし、その日、友達んちにいるんだけど」
妹は立ち上がって、台所のほうへ行った。行って、すぐ戻ってきた。
「やっぱ帰ってくるわ」
「友達はどうする」
「呼ぶ」
「うちにか」
「うちに」
「何人だ」
「わかんない。三人か、四人」
妹は自分の携帯を出して、両手の親指を動かしはじめた。動かしながら、こっちを見ないで言った。
「兄ちゃん、その日、家にいてよ」
「日曜は何もない」
「じゃあいて。二階でいいから」
二階でいいらしい。
◇
二階に上がった。
鞄を床に置いて、ドアを閉めて、椅子に座った。下からテレビの音は上がってこない。
窓の桟に、埃が一筋だけ無かった。
「あんた」
人形が机の右奥にいた。今朝、俺が置いた向きと、少し違う。
「聴いたわよ」
「部屋の外の音も聞こえるのか」
「下の音は、床から来るのよ」
◇
「どうだった」
「あんたね」
「なんだ」
「そういうのは、人に聞くものじゃないの」
人形は棚のほうではなく、窓のほうを向いていた。
「……悪くなかったわよ」
「そうか」
「悪くなかったって言ったの。二回言わせないで」
◇
俺は机の上の紙を見た。
歌詞の紙は、もう要らないらしい。要らないが、捨てる場所を決めていないので、そのまま机の端に置いてある。
「あんた、あの子、なんて言ったの」
「誰だと聞いてきた」
「あの子が? あんたの声を?」
「そうだ」
人形はそこで止まった。
止まって、しばらく何も言わなかった。
「……あの子、耳はいいのよ」
「そうか」
「耳のいい子が、あんただとわからなかったの。それが全部よ」
わからん。
「わからないって顔してるわね」
「顔は動いてない」
「動いてなくても、わかるのよ。あんたのは、目の高さで出るの」
人形は窓のほうを向いたまま、腕を一度だけ動かした。
「あんた、明日は何があるの」
「学校だ」
「そのあとは」
「無い」
「じゃあ、寝なさい」
「まだ九時だ」
「九時に寝る仕事の人もいるのよ。あんた、来週は自分の時間を使う番になるんだから」
来週。
十八日は日曜で、その週の水曜から考査が始まる。日曜が先で、考査があとだ。机の上には、まだどちらの紙も広げていない。
◇
階段を下りて、妹の部屋のドアを叩いた。
二回叩いたら、中から「開いてる」と聞こえた。
俺はイヤホンを返した。
妹は机に向かっていて、こっちを見ないで手だけ出した。出した手にイヤホンを載せると、そのまま握って、机の上の箱に入れた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「明日、学校でさ」
妹はそこで一度止まった。
「……いや、なんでもない」
俺は部屋を出た。
出るときに、机の上の紙が見えた。日曜の番組表を破ったものだった。二十二時のところが、赤で囲ってある。




