第76話 条件が一つわかった
「気になったところ、ありましたか」
鷲尾さんは椅子に座ったまま、俺を見上げた。
「三分五十二秒でした」
「……それは、紙に書いてあります」
「はい」
「他には」
「ありません」
鷲尾さんは机の上の紙を一枚裏返した。裏は白かった。
「あれ、何回聴きました」
「四回です」
「四回聴いて、出てきたのが秒数ですか」
「はい」
鷲尾さんは隣の人に何か言った。隣の人は機械のつまみを二つ動かして、俺のほうを一度も見ないで頷いた。
◇
二日目の調整室は、人が少なかった。
機械の前の人と、鷲尾さんと、有本さんだけである。犬飼さんは十時に来ると聞いている。
俺は昨日と同じところに座った。座ると、やはり深く沈んだ。腰が下がって、膝が腰より高いところに来た。この姿勢を選んだ覚えはない。
机の上の紙コップは片付けられていて、そのかわりに、小さい箱が一つ置いてあった。中身は輪ゴムだった。
◇
「今日は、二か所です」
鷲尾さんが歌詞カードを俺のほうへ滑らせた。赤い字の書き込みが増えている。
〈落ちる〉と書いてあった三か所のうち、二つに丸が付いていた。
「ここと、ここ。残りの一つは、昨日のやつで使えます」
「使えるんですか」
「使えます。ただ、この二か所は差し替えたい」
「差し替え」
「その部分だけ録り直して、後ろで貼ります」
「貼る」
「音は貼れるんです。一行だけ録って、前後とくっつける。継ぎ目が聞こえなければ、それで一本の歌になります」
わからん。
◇
ブースに入った。
ドアが二枚、順番に閉まった。閉まりきったところで、外の音が消えた。
ヘッドホンをつけると、自分の呼吸が頭の内側から聞こえてきた。
「一行前から流します。頭の中で数えないで、聞こえたところから入ってください」
「はい」
曲が途中から鳴った。
俺は入った。
入ったが、一拍遅れた。
「今の、無しで」
もう一本、途中から鳴った。
今度は早かった。
「今の、無しで」
三本目は、拍は合った。合ったが、声が下に落ちた。落ちたのは、赤い字が付いている行だった。
◇
四本目のあと、スピーカーが切れた。
ガラスの向こうで、鷲尾さんが機械の前の人と話している。口が動いていて、音は来ない。
俺はヘッドホンをつけたまま、そこに立っていた。
ポップガードの網の目は、縦に十三ある。横は、昨日、数えられなかった。
四本続けて外した男が、そのあいだ考えていたのは、調整室の机の端に置かれた箱の輪ゴムのことだった。
◇
十時に犬飼さんが来た。
来て、ソファには座らないで、壁際に立った。立ったまま、机の上の画面を見ていた。
十時半に大久保先生が来た。紙袋を二つ提げて、玄関で靴を脱ぐのに時間がかかっていた。
「高町くん、朝、何食べた」
「パンです」
「一個?」
「二個です」
「足りるわけないでしょう。あなた、体で音を出すのよ。体が空だったら、空の音しか出ないの」
先生は紙袋から、ラップに包んだおにぎりを一つ出して、机の端に置いた。置いてから、自分でも一つ出して、それを立ったまま食べた。
◇
午前中は、同じことを続けた。
一行前から流す。俺が入る。「今の、無しで」。もう一本流す。俺が入る。
途中で有本さんが部屋を出ていって、戻ってきたときには、紙コップを二つ持っていた。片方を機械の前の人に渡して、もう片方は自分で飲んだ。飲みながら、タブレットの画面を指で二回叩いていた。
十一時を過ぎたあたりで、鷲尾さんが眼鏡を外して、レンズを袖で拭いた。拭いて、かけ直して、それから机に肘をついた。
スピーカーが鳴った。
「高町くん、休みます」
◇
昼になった。
畳の部屋で弁当を食べた。昨日と同じ弁当屋のもので、煮物の位置だけが違っている。
俺は先に食べ終わった。有本さんは電話をしに玄関のほうへ出ていって、大久保先生は調整室に残った。
鞄は、襖の横に置いてある。
携帯が震えた。美咲からだった。
〈中間考査、二十一日からです。範囲の紙、あなたの机に入れておいたので〉
二十一日は水曜だ。今日から数えると、二週間ある。
俺は〈わかった〉とだけ返した。
返してから、鞄の底を見た。先週配られた考査の日程の紙が、下のほうで二つに折れていた。俺は折った覚えがなかった。
◇
先に声のほうが来た。姿は、そのあとだった。
「あんた」
鞄の口が半分開いていて、そこから赤いものが出ていた。
(今か)
「昨日、話すって言ったでしょう」
(言ってたな)
「じゃあ今よ」
俺は襖のほうを見た。閉まっている。廊下に足音は無い。
◇
「あんた、昨日、あのガラスの箱の中で点いたわね」
(点いた)
「点いたのに、何も考えなかったでしょう」
(考えた)
「何を」
(おにぎりだ)
「……そういうところよ」
人形は鞄の口から、上半身だけ外に出した。
「いい? 一回しか言わないから、ちゃんと聞きなさい」
(聞いてる)
「壁は関係ないの」
(壁)
「ガラスも、扉も、部屋が別なのも、全部関係ないのよ。決めるのはね、そこにいる人が、あんたを本気で聴いてるかどうか。それだけ」
◇
畳の目が、部屋の真ん中だけすり減っている。
俺はそこを指で撫でた。
(そうか)
「そうかって、あんた」
(他には)
「他には無いわよ」
(それだけか)
「それだけで足りるのよ。あんたが余計なことを覚えると、あとで邪魔になるから」
(聴いてない人がいたら、どうなる)
「点かないだけよ」
(わかった)
「わかってないでしょう」
(わかってない)
「……あんたね、こういうときは、一つ聞いたら三つ聞き返すのよ。三つ目までが仕事なの」
人形は鞄の口の縁に手をかけて、そのまま動かなくなった。
(腹は膨れた)
「……それ、いま言うこと?」
◇
襖が開いた。
開けたのは大久保先生だった。先生は入ってきて、俺の向かいに座って、湯呑みを畳の上に置いた。
「高町くん、午前中のあれね」
「はい」
「あなた、入るところを目で数えてたでしょう」
「数えてないです」
「数えてたのよ。あなた、数えてるときだけ、まばたきが減るの。ずっと開いたままになるのよ」
俺はまばたきをした。
「今、したでしょう」
「はい」
「そういうことなの」
先生は湯呑みを持ち上げて、中を見て、また畳に置いた。中身は減っていなかった。
◇
午後になった。
調整室に人が増えていた。レコード会社の人が二人来ていて、後ろの壁に沿って立っている。有本さんが椅子を出そうとして、二人に断られていた。
鷲尾さんが椅子を回して、部屋のほうを向いた。
「差し替えは、やめます」
機械の前の人が顔を上げた。
「頭から通して録ります。あと三本だけやって、その中から選びます」
「三本」
「三本で決めます。時間の問題じゃなくて、これ以上刻むと、たぶん歌じゃなくなるので」
大久保先生が、ガラスの前に立った。
「わたし、ここに立ってていい?」
「どうぞ」
「邪魔しないから」
「邪魔にはなりません」
◇
俺はブースに戻った。
内側のドアを、手で押さえながら閉めた。押さえても、最後は自分の重さで閉まる。
ヘッドホンをつけた。
スピーカーが入って、鷲尾さんの声がした。
「一本目、行きます」
スピーカーが切れた。
◇
四つ数える音が鳴った。
一つ目は、耳のすぐ内側で鳴った。
二つ目は、少し後ろだった。
三つ目は、もっと後ろで鳴った。
四つ目が、どこで鳴ったのか、わからなかった。
部屋の音が遠のく。
輪郭がはっきりする。
背筋が伸びる。
◇
曲が入ってきた。
息を入れた。腹の横が動いた。動いたのは、へその横から少し上のあたりである。
一行目を出した。
返ってきた声は、頭の高いところで鳴った。曲は、その下で鳴っていた。
二行目。三行目。
赤い字が付いていた一つ目が来た。
下から置いて、そのまま伸ばした。
落ちなかった。
◇
ガラスの向こうで、人が動いた。
一人が立った。もう一人が、机の前で前に出た。
俺はそっちを見なかった。
二番に入った。
二つ目の赤い字が来た。ここは、下に落ちるところではなく、上に置きにいくところだ。
俺は息を先に入れた。入れてから、置いた。
置いた音は、上で止まった。
◇
二番の終わりで、楽器が減った。
声だけになる。ヘッドホンの中に、俺の息と、俺の声だけが残った。
最後の四行を、小さくした。
小さくしても、細くならなかった。
曲が終わった。
◇
ヘッドホンの中に、最後の楽器が一つ残って、それも切れた。
ガラスの向こうで、機械の前の人の手が、つまみから離れた。離れた手は、そのまま膝の上に落ちた。
俺は立っていた。
立っているうちに、膝が内側から抜けた。
畳の部屋の弁当の箱に、煮物が一つ残っている。里芋だったか、人参だったか、そこは思い出せなかった。
◇
二枚のドアが、続けて開いた。
犬飼さんが入ってきて、俺の腕を取った。何も言わないで、調整室まで歩かせて、ソファのところで放した。
俺は座った。座ると、体が布の中に落ちた。
立ち上がるまでに、十五分くらいかかった。
そのあいだ、誰も俺に何かを頼まなかった。
◇
大久保先生が、ガラスの前から戻ってきた。
戻ってきて、俺の座っているソファの肘のところに手を置いた。置いて、しばらく黙っていた。
「高町くん、わたし、今日、あなたに何を言った?」
「腹の横です」
「それだけ?」
「それだけです」
「そう」
先生は手をどけた。
どけて、足元の紙袋を持ち上げて、中を見た。見てから、ラップに包んだおにぎりを一つ出して、俺の膝の横に置いた。置くときに、包みの端が俺のズボンに触れた。
置いてから、先生は何も言わなかった。袋の口を二度折って、また足元に下ろした。
紙袋の中には、まだ二つ入っている。俺はそれを見ていた。
◇
鷲尾さんが椅子を回した。
「いま録ったやつ、頭から終わりまで、線から出たところがありません」
「はい」
「一か所も無いです」
「はい」
「……あと二本、録りますか」
機械の前の人が、鷲尾さんのほうを見た。
鷲尾さんは、その人のほうを見ないで言った。
「やめときます」
◇
全員で、いま録ったやつを聴いた。
俺はソファに座ったまま聴いた。立ち上がる用事は無い。
三分五十二秒のあいだ、部屋の中で動いたのは、レコード会社の人の一人が持っていた紙の端だけだった。紙は、その人の指の力で少しずつ丸まっていった。
終わったところで、犬飼さんが胃薬の箱を出した。出して、開けないで、そのままポケットに戻した。
「すみません、わたし、最後まで紙を持ったままでした」
レコード会社の人が、丸まった紙を机の上に置いた。置かれた紙は、机の上で少しだけ開いて、そこで止まった。
◇
鷲尾さんが、机の下から袋を出した。
「昨日のやつ、返してもらっていいですか」
「はい」
俺は借りていた小さい機械とヘッドホンを鞄から出して、渡した。渡すときに、袋の中で何かが当たる音がした。
「十八日です」
「十八日」
「日曜の、ドラマの六話。そこで初めて外に出ます。それまでは、この曲はこの部屋の中の音でしかないので」
「はい」
「聴く人は、その日から増えます」
鷲尾さんは袋の口を二度折って、机の端に置いた。
◇
十七時前に、外に出た。
門の内側の木は、下のほうの枝が切ってある。切り口のところに、うすい緑のものが出てきていた。
有本さんが車のドアを開けた。
「高町さん、今日、終わりです」
「はい」
「早いですよね」
「はい」
「昨日の予定表だと、二十時でした」
有本さんはそう言って、タブレットを閉じた。それ以上は何も足さなかった。
◇
帰りの車で、俺は窓の外を見ていた。
桜坂の交差点まで、信号で四回止まった。四回とも、同じ看板が、窓の右の端から真ん中へ入ってきた。
「高町」
「はい」
「月曜、事務所に来い」
「はい」
「音を聴く。向こうも来る」
「向こうというのは」
「レコード会社と、鷲尾さんだ。先生も来る」
犬飼さんは前を向いたまま言った。
言ってから、窓を五センチだけ下げた。下げて、すぐ上げた。外の音が一度だけ入ってきて、そのまま出ていった。
◇
家に着いた。
妹が居間にいた。テレビはついていて、音は小さい。膝の上に、定規と鉛筆が載っている。
俺は靴を脱いで、上がって、洗面所で手を洗った。
台所から、母さんが顔を出した。顔を出して、俺を見て、何も言わずに引っ込んだ。
俺は居間に入って、そこで立ち止まった。立ち止まったのは、次に何をするかを決めていなかったからだ。
◇
飯は、鶏を煮たやつと、味噌汁と、冷たい豆腐だった。
父さんが十九時半に帰ってきて、上着を椅子の背にかけて、座った。座って、鶏を一つ取って、それから俺のほうを見た。
「終わったのか」
「たぶん」
「たぶんか」
「二本目を録らなかったので、たぶん終わりです」
「そうか」
父さんはそれ以上聞かないで、味噌汁の椀を持った。
母さんが俺の茶碗を取って、勝手におかわりをよそった。よそってから、上に鶏の汁をかけた。頼んでいない。
◇
風呂に入った。
出てきたら、妹がノートを開いていた。開いて、鉛筆を持っている。
「二十九分」
「そうか」
妹はノートに線を一本引いて、定規を筆箱に戻して、ノートを閉じた。閉じた表紙の角は、少し反っている。
◇
俺は居間のソファに体を沈めた。
沈めると、クッションが右の腕を受け止めて、そこから先が動かなくなった。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「月曜、何時に帰ってくるの」
「知らん」
「知らんのかい」
妹はテレビの音量を一つ上げた。
「わたし、聴くまで寝ないから」
テレビの中で、日曜の予告が流れていた。画面の下に字が四行出て、いちばん下の一行だけが、少し遅れて出た。




