第75話 ガラスの向こうに人がいる
台所の棚に、ろうそくが二本残っていた。
箱に八本入っていて、二本だけが箱の外に出ている。母さんは片付けるのを忘れたのではなく、たぶん、また使うつもりで出しっぱなしにしている。
俺は麦茶を飲んで、コップを流しに置いた。
置いてから、二階に上がった。上がって、机の上に、もう一つのコップを置いた。昨日の夜に持って上がったやつだ。
「あんた、それ、下に持っていきなさいよ」
「あとで持っていく」
「昨日もそう言ったのよ」
そうだったかもしれない。
◇
「今日、何時に出るの」
「九時だ」
「遅いわね」
「そうだな」
「あんた、朝に強いほうじゃないでしょう」
「弱くもない」
「弱いのよ」
人形は棚の上で、少し体を傾けた。
「喉、開いてる?」
「わからん」
「わからないわよね」
俺は鞄に、歌詞と譜面の紙を入れた。
辞書は入れなかった。要ると言われたら困るが、そのときは謝る。
◇
九時に、有本さんの車が来た。
助手席に犬飼さんが乗っていた。後ろの席の紙の束は、今日は移してあった。
「おはようございます」
「乗れ」
俺は乗った。
乗ったら、有本さんが振り返って、紙を一枚寄越した。今日の段取りが上から順に並んでいる紙である。
いちばん下の行に、時刻が書き込まれていた。
〈終了 二十時(予定)〉
「今日は、終わりの時間を切らなくていい」
犬飼さんが前を向いたまま言った。
「はい」
「向こうにも、そう伝えてある」
「はい」
有本さんがタブレットの画面を一度触った。
「備考の欄が、一行減りました」
「そうか」
「先月まで入れていた一行を、今日から入れていません」
犬飼さんは何も言わなかった。
言わないで、窓の外を見た。信号が赤で、横断歩道を小学生が四人渡っていた。
◇
オルカ・スタジオは、世田谷区の池尻にあった。
スタジオという名前だったので、砧のスタジオみたいなものを想像していた。着いたら、家だった。
二階建ての一軒家である。門があって、その内側に木が一本立っている。表札の代わりに、小さい金属の板が壁に付いていて、そこに店の名前が彫ってあった。
「ここか」
「ここです」
有本さんが車を停めた。
門の内側の木は、下のほうの枝が切ってあった。
玄関を入って、廊下を進むと、ドアがあった。
ドアを開けたら、中に、もう一枚ドアがあった。
一枚目を閉めてから、二枚目を開ける。開けた瞬間に、耳の奥が一度詰まった。
中は、思ったより狭かった。
調整室というらしい。
部屋の真ん中に、机みたいなものが置いてある。机の表面につまみが並んでいて、数えようとしたが、多すぎたのでやめた。画面が三つある。
壁際にソファが一つ。
正面に、ガラスが一枚。
ガラスの向こうは、小さい部屋だった。人が一人立てば、それでいっぱいになる。真ん中にマイクが立っていて、その手前に、丸い網が浮いている。
◇
「高町くん」
男の人が立ち上がって、こっちを向いた。
細い。黒ぶちの眼鏡をかけていて、髪が短い。年は、犬飼さんより少し下くらいに見えた。
「鷲尾です。この曲の担当です」
「高町です」
「座って」
俺はソファに座った。
座ったら、思ったより深く沈んだ。腰が下がって、膝が上がった。この体勢から立ち上がるには、たぶん、いったん前に体を倒す必要がある。
机の上に、紙コップが一つ置いてある。中身は入っていない。
鷲尾さんは、机の前の椅子に座ったまま、俺のほうを向いた。
「君の声、聞かせてもらった」
「はい」
「仮のやつじゃなくて、レッスンで録ったやつ」
録っていたらしい。
「低いところは、いい」
「はい」
「あの低さでまっすぐ鳴る人は、そんなに多くない」
「はい」
「高いところは、今日やります」
今日やります、というのは、今日どうにかする、という意味だと思う。
鷲尾さんはそこで話を止めて、机のつまみを一つだけ回した。回して、手を離した。
◇
ブースに入った。
ドアが重い。押すと、ゆっくり閉まる。閉まりきったところで、部屋の中の音が全部消えた。
狭い。両手を横に広げたら、たぶん壁に当たる。試さなかった。
マイクの前に、丸い網が浮いている。
俺は手を伸ばした。
「触らないで」
ガラスの向こうから声がした。天井のどこかにスピーカーがあるらしい。
「それ、ポップガードです。パ行の音が入ると、マイクが飛ぶので」
「飛ぶ」
「音が割れます」
俺は手を引っ込めた。
ヘッドホンを渡された。
つけたら、自分の呼吸の音が、頭の内側から聞こえた。
「返し、どうですか」
「返し」
「ヘッドホンの中の音です。自分の声、大きすぎませんか」
「大きいです」
「下げます」
声が少し小さくなった。
小さくなったが、まだ聞こえる。自分の声が、自分の外から返ってくる。
◇
――ガラスに囲まれた小さい部屋で、頭に大きい機械を載せて、まっすぐ立っている男。
目の前の丸い網は、息のたびに、ほんの少しだけ揺れた。
◇
一本目。
ヘッドホンの中で、四つ数える音が鳴った。鳴って、そのあとに曲が入ってきた。
俺は歌った。
一行目。二行目。三行目。
三行目で、自分の声が下に落ちた。落ちたのが、ヘッドホンの中ではっきりわかった。部屋にいるときとは違って、逃げ場が無い。
曲は止まらなかった。
最後まで鳴って、終わった。
◇
スピーカーが鳴った。
「頭から」
鷲尾さんの声だった。
二本目。三本目。四本目。
四本目の途中で、鷲尾さんが「今の、無しで」と言った。曲が止まって、少し戻って、また鳴り始めた。
五本目。六本目。
六本目のあと、スピーカーが切れた。
ガラスの向こうで、三人が喋っていた。
鷲尾さんと、機械の前に座っている人と、犬飼さん。
口が動いている。動いているが、音は来ない。
俺はヘッドホンをつけたまま、そこに立っていた。ヘッドホンの中には何も鳴っていない。自分の息の音だけがする。
息の音は、思ったより速かった。
三十秒くらいそうしていた。
三人のうちの一人が、こっちを見た。見て、また向こうを向いた。
俺は、ポップガードの網の目を数えることにした。
縦に十三。横は、途中で数えられなくなった。
◇
昼になった。
弁当が出た。ブースを出て、調整室の隣の部屋で食べた。畳の部屋だった。一軒家を改装しているので、こういう部屋が残っているらしい。
大久保先生が来ていた。
紙袋を二つ提げて、たすきの鞄をかけて、畳の部屋の入口で靴を脱いでいた。脱ぐのに時間がかかっていた。
「高町くん、食べてる?」
「食べてます」
「食べなさい。歌は体力なの」
先生は自分でおにぎりを二つ食べた。
◇
午後も、同じことをした。
鷲尾さんが「もう一本」と言う。俺が歌う。止まる。「頭から」。俺が歌う。「今の、無しで」。
十一本目まで行った。
十一本目のあと、鷲尾さんはスピーカーを切って、椅子の背にもたれた。もたれて、両手で顔をこすった。
その仕草は、ガラス越しに見えた。
スピーカーが入った。
「高町くん、一回休みます」
◇
調整室に戻って、ソファに座った。
座ると、また深く沈んだ。
犬飼さんが、机の端に置いてあった紙を一枚取って、俺に渡した。歌詞カードだった。俺のではなく、鷲尾さんが使っているほうだ。
赤い字で書き込みがしてある。
〈息〉〈もっと前〉〈ここOK〉〈落ちる〉
〈落ちる〉が、三か所あった。
「読んでいいんですか」
「見せろと言ったのは俺だ」
犬飼さんは、そう言って自分の胃薬の箱を出した。出して、口に入れた。水は飲まなかった。
机のつまみの列は、左から三つだけ、高さがそろっていなかった。
大久保先生が、ガラスの前に立っていた。
立って、ブースの中を見ていた。ブースには誰もいない。マイクだけが立っている。
先生は何も言わなかった。
言わないで、腕を組んで、しばらくそこにいた。
◇
十八時半に、鷲尾さんが立ち上がった。
立ち上がって、調整室の全員のほうを向いた。全員というのは、機械の前の人と、犬飼さんと、有本さんと、大久保先生と、途中から入ってきた事務所の人と、レコード会社の人だ。七人いた。
「すみません。次の一本、全員、手を止めてもらえますか」
誰も何も言わなかった。
機械の前の人が、紙を置いた。有本さんがタブレットを閉じた。事務所の人が、電話を持って部屋を出ようとして、途中でやめて、電話をポケットに入れた。
俺はブースに戻った。
ドアが二枚、順番に閉まった。
ヘッドホンをつけた。
スピーカーが入った。
「高町くん、こっちを意識して」
スピーカーが切れた。
ヘッドホンの中に、四つ数える音が入ってきた。
その音が、いつもより遠いところで鳴っている気がした。
部屋の音が遠のく。輪郭がはっきりする。背筋が伸びる。
伸びた拍子に、ヘッドホンの片方が耳から少しずれた。
直したかったが、曲が始まっていた。
曲が入ってきた。
息を入れた。
入れたときに、腹の横が動いた。動いたのは、へその横から少し上のあたりで、その一点だけが、はっきりしていた。
一行目を出した。
ヘッドホンの中で、俺の声が返ってくる。
返ってくる音は、耳のすぐ内側で鳴っている。鳴っているのに、遠い。
俺の耳に近いのは、曲のほうだった。
二行目。三行目。
三行目の頭で息を吸った。決めたところで吸えた。
四行目。
ガラスの向こうで、誰かが動いた。
立ったのだと思う。椅子の高さから、頭の位置が上に動いた。
もう一人が、机の前で前に出た。
俺は、そっちを見なかった。見なかったが、動いたのはわかった。
真ん中の、上がるところが来た。
下から置いて、伸ばした。
伸ばした先で、腹の横の一点が、内側からもう一度押された。
二番に入った。
二番の終わりで、曲が薄くなる。楽器が減って、声だけになるところがある。
声だけになった。
ヘッドホンの中に、俺の息の音と、俺の声だけが残った。
最後の四行を、小さくした。
小さくしても、落ちなかった。
曲が終わった。
◇
終わったあと、何も鳴らなかった。
ヘッドホンの中は、無音だった。スピーカーも入らなかった。
俺は立っていた。
立っているうちに、膝の裏が抜けた。
◇
二枚のドアが、続けて開いた。
犬飼さんが入ってきた。
ブースは一人でいっぱいなので、二人だと肩が当たる。犬飼さんは、俺とガラスのあいだに立った。立って、俺の腕を取った。
何も言わないで、そのまま歩かせた。
調整室を抜けて、隣の畳の部屋に入って、襖を閉めた。
◇
畳の部屋には、誰もいなかった。
隅に、昼の弁当の箱が重ねてある。畳は、部屋の真ん中だけ色が薄い。人がよく座るところなのだと思う。
「歩けます」
言ったが、腕は放されなかった。
犬飼さんは俺の顔を見た。上から下まで見て、それから、俺の足元を見た。
「……あとで歩きます」
「そうしろ」
犬飼さんは腕を放して、襖のほうへ歩いた。
「ここにいろ」
「はい」
襖が閉まった。
畳に座った。
手のひらが痺れていた。視界の端のほうが、少し白い。
腹が減っていた。
襖の下の隙間から、調整室の光が細く入っていた。
光の中を、誰かが二回横切った。
しばらくして、襖が開いた。
「聴くぞ」
俺は立って、調整室に戻った。
◇
ソファに沈んだ。
体が沈むところまで沈んで、そこで止まった。立ち上がる用事は、いまのところ無い。
ソファの布は、肘のあたりだけ毛が寝ている。
大久保先生が、机のほうを向いたまま、口を押さえていた。
押さえたまま、しばらく動かなかった。
動いてから、一言だけ言った。
「……いま、腹の横が動いてたわね」
それ以上は言わなかった。
鷲尾さんが、椅子を回してこっちを向いた。
眼鏡を外して、レンズを袖で拭いて、かけ直した。
「君の声、マイクとの相性がおかしい。いい意味で」
「はい」
「いま録ったやつ、頭から終わりまでで、ピッチの外れが四か所です」
「ピッチ」
「音の高さです。合ってるか、外れてるか」
「はい」
「単位はセントといって、百セントで半音です。四か所というのは、四回だけ線から出た、ということ」
四か所。
「それは、少ないんですか」
「機械は少ないと言う。耳は多いと言う」
わからん。
◇
全員で、いま録ったやつを聴いた。
俺もソファから聴いた。立ち上がれなかったので、そのままの姿勢で聴いた。
誰も喋らなかった。
三分五十二秒のあいだ、部屋の中で動いたのは、機械の前の人の指だけだった。
終わったところで、犬飼さんが息を吐いた。
吐いた音が、思ったより大きかった。
鷲尾さんが、小さい機械と、ヘッドホンを一つ、袋に入れて寄越した。
「持って帰って」
「はい」
「今日録ったやつが入ってます。明日の朝までに、気になったところだけ言ってください」
「はい」
「イヤホンだと、下が聞こえないので。それ使ってください」
俺は袋を受け取った。受け取ったが、しばらく膝の上に載せたままだった。
持ち上げるのに、少し時間がいる。
◇
帰りの車で、俺は寝なかった。
寝ようとしたが、窓の外の光が流れるのを見ているうちに、目が開いたままになった。
犬飼さんは助手席で、一度も振り返らなかった。
途中でコンビニに寄って、俺はおにぎりを三つ買った。犬飼さんは何も買わなかった。
◇
家に着いた。
妹が居間にいた。テレビはついていない。膝の上に、定規と鉛筆が載っている。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「おかえり」
「ただいま」
俺は靴を脱いで、上がって、そのまま居間の床に座った。
母さんが台所から出てきて、俺の顔を見て、何も言わずに台所に戻った。
居間の時計の秒針が、一度だけ引っかかって、また動いた。
しばらく、何も喋らなかった。
喋らなかったのではなく、喋る順番が来なかった。妹が何か聞いてきて、俺が短く答えて、それで終わる。それが何回か続いた。
風呂に入った。
出て、飯を食った。おにぎりは車で二つ食べたので、家では味噌汁と、残っていた煮物を食べた。
二階に上がる前に、妹が言った。
「九十四分」
「そうか」
妹は定規を筆箱に戻して、ノートを閉じた。
閉じて、テレビをつけた。
◇
部屋に上がって、袋から機械とヘッドホンを出した。
ヘッドホンは、スタジオのやつより小さい。耳を全部覆う形は同じだった。
俺はそれをつけて、再生した。
男が歌っていた。
仮の歌ではない。仮の歌の人は、もっと真ん中で鳴っていた。この声は、下のほうから始まって、途中で上に行く。
上に行くところで、一度だけ、音が広がった。
俺はそれを最後まで聴いた。
◇
俺はヘッドホンを外した。
外したら、部屋の音が戻ってきた。窓の外で、車が一台通った。通って、その音が消えるまで、家の中は静かだった。下の階のテレビも、もう消えている。
「あんた、喉が枯れてるわよ」
「そうかもしれん」
「水、飲みなさい」
俺は机の上のコップを見た。
朝から置いたままのやつだ。中身は空だった。
「あと、あんた。明日、話すことがあるわ」
「なんの話だ」
「明日でいいの」
俺はヘッドホンを机の端に置いた。
置いた場所が、コップの隣だった。空のコップと、黒いヘッドホンが並んでいる。
どっちも、明日、下に持っていく。




