第74話 友達というありがたい観客
「高町くん、土日で何かやった?」
大久保先生が、電子ピアノの蓋を開けながら言った。
「歌いました」
「どこで」
「部屋で」
「誰かいた?」
「妹が壁を叩きました」
先生は蓋を開ける手を止めて、少し笑った。
笑って、そのまま蓋を開けた。
◇
月曜の十七時。レッスン室B。
辞書は今日も持ってきた。持ってきたが、今日は使わなかった。先生は最初の五分だけ息の話をして、あとはずっとピアノの前にいた。
「はい、一行目」
俺は出した。
「下」
上げた。
「今度は上」
下げた。
先生の指が鍵盤に戻る。俺が出す。それを何度も繰り返した。
◇
途中で、先生は紙を一枚出した。
俺の譜面を、先生が自分で書き写したものだった。字が大きい。丸の一つ一つに、上か下かの矢印が書いてある。
「これ見ながら」
「はい」
「上がるところに矢印。下がるところにも矢印。そのとおりに動けばいいの」
俺は矢印を見た。
矢印は全部で三十いくつあった。上向きが多い。下向きは、行の終わりのところに固まっている。
先生の字は、丸より矢印のほうが大きかった。
俺は一行目を歌った。矢印は上を向いている。俺の声は下を向いた。
「矢印、見た?」
「見ました」
「見て、そうなるの?」
「そうなりました」
先生は椅子の上で、両手を膝に置いた。置いて、そのまま動かなかった。
◇
十八時になった。
先生は鍵盤から手を離して、椅子の背にもたれた。もたれて、天井を見た。
天井には板が並んでいて、板には穴が開いている。数えようとしたことがあるが、途中でやめた。
窓が無いので、外が暗くなったかどうかはわからない。時計だけが十八時を指している。
「高町くん、音は聞こえてるのよ」
「はい」
「聞こえてるのに、出ない。それは、耳の問題じゃないの」
「はい」
「じゃあ何の問題なの」
「わからんです」
先生はもう一度、天井を見た。
◇
先生はそれから、一度だけ、声を大きくした。
「わたしね、二十年やってるけど、こんなに素直に外れる子は珍しいの」
「はい」
「褒めてないのよ」
「はい」
「素直に外れるっていうのはね、直したら直るってことなの。だから、そこは怒ってないの」
先生は椅子を回して、ピアノのほうへ戻った。
「怒ってないんだけど」
鍵盤の上に手を置いて、置いたまま、少し止まった。
「……水曜が近いのよ」
◇
十九時に、先生は帰った。
鞄を斜めがけにして、紙袋を二つ提げて、ドアのところで一度止まった。
「高町くん、水曜、わたしも行くから」
「録りにですか」
「行くわよ。送り出して、あとは知らん顔なんて、できるわけないでしょ」
先生は笑った。笑って、出ていった。
笑い声が、ドアの向こうで一度だけ大きくなって、そのあと聞こえなくなった。
◇
ドアが閉まったあと、俺は椅子を一つ動かした。
動かして、元の場所に戻した。戻す必要は無かった。手が空いていただけだ。
◇
俺は部屋に残った。
有本さんの車が来るのは十九時半だと聞いている。三十分ある。
譜面台の前に立って、歌詞の紙を見た。紙は反っている。指で押さえたところが、少し黒くなっていた。
俺は一行目を、声を出さずに読んだ。
◇
携帯が震えた。有本さんからだった。
〈車、二十時になります。すみません〉
二十時。
三十分が、一時間になった。
俺は椅子を一つ出して、そこに座った。座って、鞄から歌詞の紙をもう一度出して、膝の上に置いた。
置いたまま、五分くらい何もしなかった。
◇
廊下から、床を踏む音が聞こえてきた。
同じ拍で四回。少し間があって、また四回。木曜に聞いたのと同じ拍だ。音は壁を通ってこないので、たぶんドアの下の隙間から入ってきている。
俺は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。
音が止まった。
止まってから、廊下を歩く足音になって、こっちへ近づいてきた。
◇
ドアが開いた。
「おー、いた」
鴻上だった。
汗をかいている。前髪が全部おでこに貼りついていて、朝にセットしたはずのものが、跡形もない。首にタオルをかけて、その端を片手で握っている。
「大久保さんが下で言うてた。あいつまだ中におるでって」
「そうか」
「なんで一人で残ってんの」
「車が来ないからだ」
「そういうことちゃうやろ」
鴻上はタオルで顔をふいた。ふいてから、そのタオルを首に戻した。戻し方が雑で、片側だけが長くなった。
◇
「お前、なんか、しんどそうやな」
「しんどくない」
「顔に出ぇへんから、余計こわいねん」
「よく言われる」
「せやろな」
鴻上はペットボトルを持ち替えて、俺の顔を覗き込んだ。近い。
「歌うんやろ、お前」
「そうだ」
「聞いたわ。水曜やろ」
「水曜だ」
「で、どうなん」
紙の端を持ち直した。
持ち直して、事実だけを言った。
「一回も、最後まで行ってない」
◇
鴻上は自分のペットボトルの蓋を開けて、三分の一くらい一気に飲んだ。
飲んで、蓋を閉めて、床に置いた。それから、部屋の壁際に行って、そこに座った。
座って、俺のほうを見た。
「歌え」
「今か」
「今」
「無理だ」
「なんで」
「出ないからだ」
鴻上は膝を立てて、その上に肘を置いた。
「一人でやってたやろ、ずっと」
「そうだな」
「一人でやるの、俺、めっちゃ得意やねん」
鴻上は笑わなかった。
笑わないで、そのまま続けた。
「去年、一年まるまる暇でな。毎日ここ来て、誰もおらんとこで踊っててん。鏡だけ相手に」
「知ってる」
「知ってんの?」
「前に言った」
「言うたっけ」
◇
「その紙、見してや」
鴻上は手を出した。
俺は膝の上の紙を渡した。渡すと、鴻上は座ったまま両手で持って、上から下まで一度で読んだ。読むのが速い。
「短いな」
「短い」
「これ、一分ちょいで終わるやろ」
「三分五十二秒だ」
「え、そんなあんの?」
「同じところを、何回か歌うらしい」
「あー、はいはい」
鴻上は紙を返してきた。返しながら、上のほうを指で叩いた。
「ここ、二回目のほうが上がるやろ。たぶん」
「なんでわかる」
「わからんけど、そういう作りやろ、こういうの」
わからないのにわかるらしい。
◇
「まあええわ」
鴻上は、床に置いたペットボトルの位置を、指で五センチだけ動かした。動かして、そのまま座り直した。
膝を組んで、背中を壁につけて、両手を膝の上に置いた。置いてから、こっちを向いた。
向いて、動かなくなった。
「見てるから歌え」
◇
俺は譜面台の前に立った。
立って、紙を置いた。置いてから、鴻上のほうを見た。
鴻上は壁際に座って、こっちを見ている。膝の上の手が止まっている。目が、俺の顔ではなく、口のあたりにあった。
部屋には二人しかいない。
片方は壁際に座っていて、片方は譜面台の前に立っている。
◇
部屋の音が遠のく。
輪郭がはっきりする。
◇
胸ではなく、下のほうに息が入った。腹の横が動いた。動いたのが、自分でわかった。
口を開けた。
◇
俺は歌った。
一行目。二行目。三行目。三行目の頭で息を吸って、そのまま四行目に入った。
四行目の途中で、鴻上が床のペットボトルに手を伸ばした。
音が、戻ってきた。
部屋の壁の質感と、蛍光灯の音と、自分の靴下が床をこする音が、いっぺんに戻ってきた。声が、下に落ちた。
鴻上の手が止まった。
止まって、ペットボトルを置いたまま、顔を上げた。
また、遠のいた。
背筋が伸びる。
◇
二番に入った。
歌詞の紙の、後ろの半分だ。字は同じところが多い。同じところが多いので、目は滑る。滑るのに、声は止まらなかった。
鴻上は壁際で動かなかった。膝の上の指も動いていない。信号待ちでも足が動く男が、動いていない。
◇
真ん中の、上がるところが来た。
俺は下から置いた。置いてから、伸ばした。
出た。
◇
そこから先は、体が勝手に進んだ。
息を吸う場所は、金曜の夜に決めてあった。決めたところで吸った。そのあとの声は、細くならなかった。
最後の四行は、だんだん静かになる作りらしい。俺は小さくした。小さくすると、部屋の中の自分の声が、耳の近くだけで鳴った。
◇
最後まで行った。
行って、口を閉じた。
部屋の中は、静かだった。終わった瞬間に、本当に何も無くなった。
◇
最初に思ったのは、喉が渇いた、ということだった。
二番目に思ったのは、自販機は廊下の突き当たりにある、ということだった。
三番目に、そこまで歩くのが遠い、ということを思った。
三番目がいちばん強かった。
◇
――防音室の真ん中で、歌い終わって、無表情のまま突っ立っている男。
◇
鴻上は壁際に座ったまま、動かなかった。
「うわ」
言ったのは、それだけだった。
言ってから、自分の腕を見た。見て、俺のほうへ向けた。
「腕。立ってるやろ」
立っていた。
「俺、いま、めっちゃ変な感じやわ」
「そうか」
「そうかて」
鴻上は立ち上がろうとして、途中でやめて、また座った。
◇
鴻上は、そこから三十秒くらい黙った。
黙っているあいだ、床の同じところを見ていた。指がゆっくり動いて、膝を四回叩いて、止まった。
「……そういえば俺、今日、弟に金貸してん」
「そうか」
「三千円。下のやつ。ゲームやって」
「返ってくるのか」
「返ってこーへん。あいつ、去年も返してへんもん」
「なぜ貸す」
「貸すやろ、普通」
「普通か」
「兄やもん」
鴻上の弟は二人いる。上のやつと、下のやつがいて、両方に金を貸しているらしい。
俺にも妹が一人いる。妹に金を貸したことは無い。逆はある。去年の十二月に千円借りた。
妹は、返せと言わない。俺も、返していない。
◇
立っているうちに、床が近くなってきた。
近くなってきた、というのは正確ではない。俺の膝が下がっているだけだ。譜面台の脚が、目の高さに寄ってきている。
俺は座った。
床に座ると、思ったより深く沈んだ。膝に力が入らない。手のひらが少し痺れている。
鴻上が俺のほうを見た。
「お前、大丈夫か」
「大丈夫です」
「敬語になっとるやん」
「なってない」
「なっとるわ」
鴻上は自分のペットボトルを取って、残りを飲み干した。飲み干して、蓋を閉めて、床に置いた。
自分のぶんを、自分で飲み切る男である。
「お前、歌うと死ぬんか」
「死なん」
「顔、白いで」
「もともとだ」
◇
「なあ、お前、それ、水曜も出るん?」
「わからん」
「わからんのかい」
鴻上は膝を抱えた。抱えて、少しだけ体を前に倒した。
「まあ、ええわ。出るやろ」
「根拠は」
「無い」
「そうか」
「無いけど、いま聞いたやん、俺」
◇
十五分くらい、そこにいた。
そのあいだ、鴻上はずっと喋っていた。弟の話と、レッスン室Aの床の話と、来月のオーディションの話を、順番も脈絡もなく喋った。
俺は半分くらいしか聞いていなかった。
鴻上は、こっちの返事を待たずに次の話へ行った。行って、また戻ってきて、弟の話をもう一度した。二回目は金額が四千円になっていた。
俺は床に座ったまま、壁にもたれた。
壁はやわらかい。頭を預けても痛くならない素材である。
目を閉じたら、たぶん寝る。
俺は目を開けたままにした。
◇
鴻上が、腕時計を見た。
「あ、やば。俺、二十時から入ってんねん」
「レッスンか」
「ちゃう。金の話。事務所の人と」
「金の話か」
「毎月あるねん、こういうの。お前もあるやろ」
「ある」
「な?」
◇
膝に力が戻ってきたので、立った。
立って、歌詞の紙を譜面台から取って、鞄に入れた。
入れながら、言った。
「助かった、ケイ」
◇
鴻上が止まった。
止まって、床の空のペットボトルを取ろうとしていた手が、途中で空を掴んだ。
「……今、なんて」
「ケイ」
「……おう」
鴻上は、そのまま二秒くらい黙った。
黙ってから、首のタオルを両手で掴んで、掛け直した。掛け直しただけで、位置は変わっていない。
「……別に、いいけど」
「そうか」
「いや、ええけど」
それから、鴻上は――ケイは、立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。
はたいてから、天井を見た。天井を見る用事は、たぶん無い。
「俺、下に荷物置いてきたわ」
「そうか」
「取ってくる」
ケイはドアのほうへ二歩歩いて、止まって、戻ってきた。
戻ってきて、床に置いてあった自分の空のペットボトルを拾った。拾って、もう一度、置いた。
置いた場所は、さっきと五センチくらいずれている。
◇
ケイが、俺の肩を叩いた。
強かった。
「水曜、いけるやろ」
「わからん」
「いけるいける」
「何を見て言ってるんだ」
「見てへんよ。俺が言うたら、いけんねん」
ケイはもう一度、同じところを叩いた。二回目のほうが軽かった。
「なあ、水曜、それ、誰が聴いてんの」
俺は天井の板のほうを見た。
「知らん」
「知らんのかい」
ケイは笑って、ドアを開けた。
開けて、半分だけ体を廊下に出したところで、こっちを向いた。
「連休、なんかすんの」
「何もない」
「ほんまに何もせんの?」
「する予定が無い」
「……お前、ほんまそういうとこやで」
何がそういうところなのかは、教えてもらえなかった。
ケイはドアを閉めないで、そのまま出ていった。
廊下の明かりが、開いたドアから床に伸びていた。
伸びた光の中に、ケイの足音がだんだん小さくなっていくのが混ざっていた。
俺は歩いていって、ドアを閉めた。
閉めると、部屋の中の音が、元の大きさに戻った。
鞄の中で、携帯が鳴った。
母さんからだった。
〈二日、ケーキ買っとくから、その日は家にいなさい〉
二日は金曜で、連休の真ん中だ。
その次が、七日である。




