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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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74/192

第74話 友達というありがたい観客

「高町くん、土日で何かやった?」


 大久保先生が、電子ピアノの蓋を開けながら言った。


「歌いました」

「どこで」

「部屋で」

「誰かいた?」

「妹が壁を叩きました」


 先生は蓋を開ける手を止めて、少し笑った。


 笑って、そのまま蓋を開けた。


   ◇


 月曜の十七時。レッスン室B。


 辞書は今日も持ってきた。持ってきたが、今日は使わなかった。先生は最初の五分だけ息の話をして、あとはずっとピアノの前にいた。


「はい、一行目」


 俺は出した。


「下」


 上げた。


「今度は上」


 下げた。


 先生の指が鍵盤に戻る。俺が出す。それを何度も繰り返した。


   ◇


 途中で、先生は紙を一枚出した。


 俺の譜面を、先生が自分で書き写したものだった。字が大きい。丸の一つ一つに、上か下かの矢印が書いてある。


「これ見ながら」

「はい」

「上がるところに矢印。下がるところにも矢印。そのとおりに動けばいいの」


 俺は矢印を見た。


 矢印は全部で三十いくつあった。上向きが多い。下向きは、行の終わりのところに固まっている。


 先生の字は、丸より矢印のほうが大きかった。


 俺は一行目を歌った。矢印は上を向いている。俺の声は下を向いた。


「矢印、見た?」

「見ました」

「見て、そうなるの?」

「そうなりました」


 先生は椅子の上で、両手を膝に置いた。置いて、そのまま動かなかった。


   ◇


 十八時になった。


 先生は鍵盤から手を離して、椅子の背にもたれた。もたれて、天井を見た。


 天井には板が並んでいて、板には穴が開いている。数えようとしたことがあるが、途中でやめた。


 窓が無いので、外が暗くなったかどうかはわからない。時計だけが十八時を指している。


「高町くん、音は聞こえてるのよ」

「はい」

「聞こえてるのに、出ない。それは、耳の問題じゃないの」

「はい」

「じゃあ何の問題なの」

「わからんです」


 先生はもう一度、天井を見た。


   ◇


 先生はそれから、一度だけ、声を大きくした。


「わたしね、二十年やってるけど、こんなに素直に外れる子は珍しいの」

「はい」

「褒めてないのよ」

「はい」

「素直に外れるっていうのはね、直したら直るってことなの。だから、そこは怒ってないの」


 先生は椅子を回して、ピアノのほうへ戻った。


「怒ってないんだけど」


 鍵盤の上に手を置いて、置いたまま、少し止まった。


「……水曜が近いのよ」


   ◇


 十九時に、先生は帰った。


 鞄を斜めがけにして、紙袋を二つ提げて、ドアのところで一度止まった。


「高町くん、水曜、わたしも行くから」

「録りにですか」

「行くわよ。送り出して、あとは知らん顔なんて、できるわけないでしょ」


 先生は笑った。笑って、出ていった。


 笑い声が、ドアの向こうで一度だけ大きくなって、そのあと聞こえなくなった。


   ◇


 ドアが閉まったあと、俺は椅子を一つ動かした。


 動かして、元の場所に戻した。戻す必要は無かった。手が空いていただけだ。


   ◇


 俺は部屋に残った。


 有本さんの車が来るのは十九時半だと聞いている。三十分ある。


 譜面台の前に立って、歌詞の紙を見た。紙は反っている。指で押さえたところが、少し黒くなっていた。


 俺は一行目を、声を出さずに読んだ。


   ◇


 携帯が震えた。有本さんからだった。


 〈車、二十時になります。すみません〉


 二十時。


 三十分が、一時間になった。


 俺は椅子を一つ出して、そこに座った。座って、鞄から歌詞の紙をもう一度出して、膝の上に置いた。


 置いたまま、五分くらい何もしなかった。


   ◇


 廊下から、床を踏む音が聞こえてきた。


 同じ拍で四回。少し間があって、また四回。木曜に聞いたのと同じ拍だ。音は壁を通ってこないので、たぶんドアの下の隙間から入ってきている。


 俺は椅子に座ったまま、その音を聞いていた。


 音が止まった。


 止まってから、廊下を歩く足音になって、こっちへ近づいてきた。


   ◇


 ドアが開いた。


「おー、いた」


 鴻上だった。


 汗をかいている。前髪が全部おでこに貼りついていて、朝にセットしたはずのものが、跡形もない。首にタオルをかけて、その端を片手で握っている。


「大久保さんが下で言うてた。あいつまだ中におるでって」

「そうか」

「なんで一人で残ってんの」

「車が来ないからだ」

「そういうことちゃうやろ」


 鴻上はタオルで顔をふいた。ふいてから、そのタオルを首に戻した。戻し方が雑で、片側だけが長くなった。


   ◇


「お前、なんか、しんどそうやな」

「しんどくない」

「顔に出ぇへんから、余計こわいねん」

「よく言われる」

「せやろな」


 鴻上はペットボトルを持ち替えて、俺の顔を覗き込んだ。近い。


「歌うんやろ、お前」

「そうだ」

「聞いたわ。水曜やろ」

「水曜だ」

「で、どうなん」


 紙の端を持ち直した。


 持ち直して、事実だけを言った。


「一回も、最後まで行ってない」


   ◇


 鴻上は自分のペットボトルの蓋を開けて、三分の一くらい一気に飲んだ。


 飲んで、蓋を閉めて、床に置いた。それから、部屋の壁際に行って、そこに座った。


 座って、俺のほうを見た。


「歌え」

「今か」

「今」

「無理だ」

「なんで」

「出ないからだ」


 鴻上は膝を立てて、その上に肘を置いた。


「一人でやってたやろ、ずっと」

「そうだな」

「一人でやるの、俺、めっちゃ得意やねん」


 鴻上は笑わなかった。


 笑わないで、そのまま続けた。


「去年、一年まるまる暇でな。毎日ここ来て、誰もおらんとこで踊っててん。鏡だけ相手に」

「知ってる」

「知ってんの?」

「前に言った」

「言うたっけ」


   ◇


「その紙、見してや」


 鴻上は手を出した。


 俺は膝の上の紙を渡した。渡すと、鴻上は座ったまま両手で持って、上から下まで一度で読んだ。読むのが速い。


「短いな」

「短い」

「これ、一分ちょいで終わるやろ」

「三分五十二秒だ」

「え、そんなあんの?」

「同じところを、何回か歌うらしい」

「あー、はいはい」


 鴻上は紙を返してきた。返しながら、上のほうを指で叩いた。


「ここ、二回目のほうが上がるやろ。たぶん」

「なんでわかる」

「わからんけど、そういう作りやろ、こういうの」


 わからないのにわかるらしい。


   ◇


「まあええわ」


 鴻上は、床に置いたペットボトルの位置を、指で五センチだけ動かした。動かして、そのまま座り直した。


 膝を組んで、背中を壁につけて、両手を膝の上に置いた。置いてから、こっちを向いた。


 向いて、動かなくなった。


「見てるから歌え」


   ◇


 俺は譜面台の前に立った。


 立って、紙を置いた。置いてから、鴻上のほうを見た。


 鴻上は壁際に座って、こっちを見ている。膝の上の手が止まっている。目が、俺の顔ではなく、口のあたりにあった。


 部屋には二人しかいない。


 片方は壁際に座っていて、片方は譜面台の前に立っている。


   ◇


 部屋の音が遠のく。


 輪郭がはっきりする。


   ◇


 胸ではなく、下のほうに息が入った。腹の横が動いた。動いたのが、自分でわかった。


 口を開けた。


   ◇


 俺は歌った。


 一行目。二行目。三行目。三行目の頭で息を吸って、そのまま四行目に入った。


 四行目の途中で、鴻上が床のペットボトルに手を伸ばした。


 音が、戻ってきた。


 部屋の壁の質感と、蛍光灯の音と、自分の靴下が床をこする音が、いっぺんに戻ってきた。声が、下に落ちた。


 鴻上の手が止まった。


 止まって、ペットボトルを置いたまま、顔を上げた。


 また、遠のいた。


 背筋が伸びる。


   ◇


 二番に入った。


 歌詞の紙の、後ろの半分だ。字は同じところが多い。同じところが多いので、目は滑る。滑るのに、声は止まらなかった。


 鴻上は壁際で動かなかった。膝の上の指も動いていない。信号待ちでも足が動く男が、動いていない。


   ◇


 真ん中の、上がるところが来た。


 俺は下から置いた。置いてから、伸ばした。


 出た。


   ◇


 そこから先は、体が勝手に進んだ。


 息を吸う場所は、金曜の夜に決めてあった。決めたところで吸った。そのあとの声は、細くならなかった。


 最後の四行は、だんだん静かになる作りらしい。俺は小さくした。小さくすると、部屋の中の自分の声が、耳の近くだけで鳴った。


   ◇


 最後まで行った。


 行って、口を閉じた。


 部屋の中は、静かだった。終わった瞬間に、本当に何も無くなった。


   ◇


 最初に思ったのは、喉が渇いた、ということだった。


 二番目に思ったのは、自販機は廊下の突き当たりにある、ということだった。


 三番目に、そこまで歩くのが遠い、ということを思った。


 三番目がいちばん強かった。


   ◇


 ――防音室の真ん中で、歌い終わって、無表情のまま突っ立っている男。


   ◇


 鴻上は壁際に座ったまま、動かなかった。


「うわ」


 言ったのは、それだけだった。


 言ってから、自分の腕を見た。見て、俺のほうへ向けた。


「腕。立ってるやろ」


 立っていた。


「俺、いま、めっちゃ変な感じやわ」

「そうか」

「そうかて」


 鴻上は立ち上がろうとして、途中でやめて、また座った。


   ◇


 鴻上は、そこから三十秒くらい黙った。


 黙っているあいだ、床の同じところを見ていた。指がゆっくり動いて、膝を四回叩いて、止まった。


「……そういえば俺、今日、弟に金貸してん」

「そうか」

「三千円。下のやつ。ゲームやって」

「返ってくるのか」

「返ってこーへん。あいつ、去年も返してへんもん」

「なぜ貸す」

「貸すやろ、普通」

「普通か」

「兄やもん」


 鴻上の弟は二人いる。上のやつと、下のやつがいて、両方に金を貸しているらしい。


 俺にも妹が一人いる。妹に金を貸したことは無い。逆はある。去年の十二月に千円借りた。


 妹は、返せと言わない。俺も、返していない。


   ◇


 立っているうちに、床が近くなってきた。


 近くなってきた、というのは正確ではない。俺の膝が下がっているだけだ。譜面台の脚が、目の高さに寄ってきている。


 俺は座った。


 床に座ると、思ったより深く沈んだ。膝に力が入らない。手のひらが少し痺れている。


 鴻上が俺のほうを見た。


「お前、大丈夫か」

「大丈夫です」

「敬語になっとるやん」

「なってない」

「なっとるわ」


 鴻上は自分のペットボトルを取って、残りを飲み干した。飲み干して、蓋を閉めて、床に置いた。


 自分のぶんを、自分で飲み切る男である。


「お前、歌うと死ぬんか」

「死なん」

「顔、白いで」

「もともとだ」


   ◇


「なあ、お前、それ、水曜も出るん?」

「わからん」

「わからんのかい」


 鴻上は膝を抱えた。抱えて、少しだけ体を前に倒した。


「まあ、ええわ。出るやろ」

「根拠は」

「無い」

「そうか」

「無いけど、いま聞いたやん、俺」


   ◇


 十五分くらい、そこにいた。


 そのあいだ、鴻上はずっと喋っていた。弟の話と、レッスン室Aの床の話と、来月のオーディションの話を、順番も脈絡もなく喋った。


 俺は半分くらいしか聞いていなかった。


 鴻上は、こっちの返事を待たずに次の話へ行った。行って、また戻ってきて、弟の話をもう一度した。二回目は金額が四千円になっていた。


 俺は床に座ったまま、壁にもたれた。


 壁はやわらかい。頭を預けても痛くならない素材である。


 目を閉じたら、たぶん寝る。


 俺は目を開けたままにした。


   ◇


 鴻上が、腕時計を見た。


「あ、やば。俺、二十時から入ってんねん」

「レッスンか」

「ちゃう。金の話。事務所の人と」

「金の話か」

「毎月あるねん、こういうの。お前もあるやろ」

「ある」

「な?」


   ◇


 膝に力が戻ってきたので、立った。


 立って、歌詞の紙を譜面台から取って、鞄に入れた。


 入れながら、言った。


「助かった、ケイ」


   ◇


 鴻上が止まった。


 止まって、床の空のペットボトルを取ろうとしていた手が、途中で空を掴んだ。


「……今、なんて」

「ケイ」

「……おう」


 鴻上は、そのまま二秒くらい黙った。


 黙ってから、首のタオルを両手で掴んで、掛け直した。掛け直しただけで、位置は変わっていない。


「……別に、いいけど」

「そうか」

「いや、ええけど」


 それから、鴻上は――ケイは、立ち上がって、ズボンの尻をはたいた。


 はたいてから、天井を見た。天井を見る用事は、たぶん無い。


「俺、下に荷物置いてきたわ」

「そうか」

「取ってくる」


 ケイはドアのほうへ二歩歩いて、止まって、戻ってきた。


 戻ってきて、床に置いてあった自分の空のペットボトルを拾った。拾って、もう一度、置いた。


 置いた場所は、さっきと五センチくらいずれている。


   ◇


 ケイが、俺の肩を叩いた。


 強かった。


「水曜、いけるやろ」

「わからん」

「いけるいける」

「何を見て言ってるんだ」

「見てへんよ。俺が言うたら、いけんねん」


 ケイはもう一度、同じところを叩いた。二回目のほうが軽かった。


「なあ、水曜、それ、誰が聴いてんの」


 俺は天井の板のほうを見た。


「知らん」

「知らんのかい」


 ケイは笑って、ドアを開けた。


 開けて、半分だけ体を廊下に出したところで、こっちを向いた。


「連休、なんかすんの」

「何もない」

「ほんまに何もせんの?」

「する予定が無い」

「……お前、ほんまそういうとこやで」


 何がそういうところなのかは、教えてもらえなかった。


 ケイはドアを閉めないで、そのまま出ていった。


 廊下の明かりが、開いたドアから床に伸びていた。


 伸びた光の中に、ケイの足音がだんだん小さくなっていくのが混ざっていた。


 俺は歩いていって、ドアを閉めた。


 閉めると、部屋の中の音が、元の大きさに戻った。


 鞄の中で、携帯が鳴った。


 母さんからだった。


 〈二日、ケーキ買っとくから、その日は家にいなさい〉


 二日は金曜で、連休の真ん中だ。


 その次が、七日である。

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