第73話 たまに正しいことを言う人形
「高町、お前、あれ何だよ」
熊沢が俺の机に手をついて言った。
一時間目が始まる十分前で、教室にはまだ半分しか人がいない。窓が開いていて、風が入っていて、前の席のやつの紙が一枚落ちた。
「あれとは」
「日曜のやつ。二話の最後」
「見たのか」
「見たに決まってんだろ」
熊沢は俺の机の上に肘を載せた。載せてから、体重をかけて、机が少し傾いた。
「終わりに曲が流れないの、あれ、わざと?」
「わざとらしい」
「ふうん」
熊沢は肘をどけた。机が戻った。
「なんか、変な感じだったわ。終わったのに、終わった気がしないっつうか」
音を足さないと決めたのは監督である。俺は会議室でそう聞いた。
熊沢には言わなかった。
◇
一時間目は現代文だった。
宮坂先生が出席を取って、俺の名前のところで一度止まった。止まって、そのまま次に行った。
黒板の右端は、四月に入ってから白いままだ。公欠の字が消えてから、誰もそこに何も書いていない。
◇
三年になってから、上履きの色が変わった。
えんじ色だ。去年は青だった。廊下を歩いていると、下だけ見ても学年がわかる。
昼休みに廊下を歩いていたら、下級生が三人、こっちを見て壁際に寄った。
寄らなくていい。俺は幅を取らない。
◇
昼飯は購買のパンだった。
熊沢が向かいの席を勝手に借りて座って、自分のパンを袋から出して、俺の机に置いた。
「高町、連休どうすんの」
「家にいる」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「なんもしないの」
「何もない」
熊沢は口を開けて、閉じた。
「いや、お前さ。国民的なやつになりかけてんのに、家で何もしないんだ」
「なりかけてない」
「なりかけてるって。うちの母ちゃんが日曜、テレビの前から動かねえもん」
熊沢の母親のことは知らない。
知らないので、俺は「そうか」とだけ言った。
◇
美咲が、教室の後ろのロッカーの前で待っていた。
「高町くん、連休はどこか行くの」
「行かない」
「仕事は」
「無い」
美咲は少しのあいだ、俺の顔を見ていた。
「じゃあ、二十九日から六日まで、まるまる家にいるのね」
「たぶん」
「わかった」
美咲は返事を待たずに、自分の席へ戻っていった。
何がわかったのかは、教えてもらえなかった。
◇
五時間目のあと、机の中に紙が一枚入っていた。
二つ折りで、開くと連休中に出る課題の一覧が書いてある。三つのうち二つに、もう丸が付いていた。
丸を付けたのは俺ではない。
◇
五時間目は体育で、外に出た。
三年になって最初のやつで、担当の先生が名簿を読み上げて、そのあと紙を配った。
一学期にやる種目の希望を取る紙だった。四つのうち一つに丸を付けろと書いてある。バレーボール、バドミントン、卓球、サッカー。
俺はいちばん上に丸を付けた。
熊沢が横から俺の紙を覗いた。
「お前、選んでないだろ」
「選んだ」
「上から順に付けただけだろ」
「上から順に付けた」
「それ、選んだって言わねえんだよ」
言わないらしい。
紙は前から回収された。回収する係のやつが、俺の紙を受け取るときに、二回見た。一回目は紙を見て、二回目は俺を見た。
そのあとは、集合して、体育館の使い方の説明を十五分聞いた。座っていた床が冷たかった。
◇
六時間目は自習だった。
教室の後ろのほうで、女子が四人、一つの携帯を見ていた。四人とも画面のほうを見ている。
そのうちの一人が早坂で、早坂だけが途中で顔を上げた。上げて、俺と目が合って、下げた。
下げてから、また上げた。
「高町くん、あの、ごめん」
「何が」
「……なんでもない」
早坂は携帯を鞄に入れた。入れて、机の上を両手で二回撫でた。
俺は何も謝られる覚えがない。
早坂は、机の上をもう一度撫でた。
◇
金曜は、レッスンも現場もない。
俺はまっすぐ帰った。桜坂駅の階段を下りて、駅前のパン屋でコロッケパンを買って、歩きながら半分食べた。
昨日は寄れなかった。今日は十七時前に着いたので、棚に三つ残っていた。
残り半分を持って家に着いたら、玄関で妹に見つかった。
「兄ちゃん、それ何」
「パンだ」
「ごはん前」
「食う」
「食うんだ」
妹は俺の手からパンを取って、端を千切って、口に入れた。入れてから、返してきた。
返ってきたパンは、さっきより小さくなっていた。
◇
桜坂駅の階段を下りているとき、前を歩いていた小学生が九段目で滑りかけた。
滑りかけて、手すりを掴んで、持ち直した。
今日は雨ではない。雨でなくても、あそこは欠けている。
◇
台所で、母さんが冷蔵庫を開けて閉めた。
「連休、どこも行かないの」
「行かない」
「じゃあ、二日はうちにいる?」
「いる」
「そう」
母さんはそれ以上聞かなかった。聞かないで、冷蔵庫をもう一度開けた。
開けたまま、中を見ていた。
俺は台所の入口から、それを見ていた。冷蔵庫の中は、上の段が空いている。下の段に、卵と、ラップをかけた皿が二枚あった。
母さんは何も取らないで、扉を閉めた。
◇
部屋に上がって、鞄を床に置いた。
携帯を見たら、木曜の夜に有本さんから届いていたものが、まだ開いていなかった。
〈音源です。仮の歌が入っています〉
仮の歌。
開いたら、音が一つ入っていた。三分五十二秒と書いてある。
俺はイヤホンをつけて、再生した。
◇
知らない男の声が歌っていた。
俺の紙に書いてある字と、同じ言葉を歌っている。声は高くない。低くもない。真ん中あたりで、まっすぐ出ている。
最初の三十秒で、楽器が二つ増えた。増えたところで、声が少しだけ大きくなった。
真ん中あたりで、一度だけ、声が裏返るように上がった。
そこは、昨日、先生が譜面の上を指で押さえた二か所のうちの片方だった。
三分五十二秒。
終わったあと、しばらく何も鳴らなかった。
◇
俺はイヤホンを外した。
「なに聴いてたの」
人形が棚の上から言った。
「歌だ」
「あんたの?」
「知らん人が歌ってる」
「知らん人?」
「仮の歌らしい」
「仮」
「本番の前に、誰かが先に歌っておくやつだ。たぶん」
「たぶんって、あんた」
わからん。
◇
「聴かせなさいよ」
「聞こえるのか」
「聞こえるわよ。この部屋の音は全部聞こえるの」
俺はイヤホンを外したまま、もう一度再生した。
部屋の中に、小さい音で歌が流れた。
人形は棚の上で動かなかった。動かないまま、最後まで鳴った。
「ふうん」
「どうだ」
「いい曲じゃないの」
「そうか」
「あんたが歌うのが問題なだけで」
◇
俺は立ち上がって、机の前に立った。
ドアは閉まっている。下では母さんが台所にいて、妹はテレビを見ていて、父さんはまだ帰っていない。
紙を持って、一行目から歌った。
窓を閉めた。閉めても、サッシの下の隙間から、外の音が細く入っていた。犬が一匹、遠くで鳴いた。
◇
一行目、出た。二行目、出た。三行目の途中で、自分の声が急に遠くなった。遠くなったのではなく、下がったのだと思う。四行目は、口は動いていたが、音がどこにも当たらなかった。
真ん中の、あの上がるところまで行った。
行って、そこで、何も出なかった。
◇
もう一度、頭から歌った。
今度は、息を吸う場所を先に決めた。一行目の終わりで吸う。三行目の頭で吸う。決めてから始めた。
一行目の終わりで、吸うのを忘れた。
三行目の頭では、吸いすぎた。そのあとの音が細くなった。細くなったところで、また下がった。
紙を持っている手が、下がってきていた。俺は紙を持ち上げ直した。
◇
壁が二回鳴った。
妹が隣の部屋の壁を叩いている。
「うるさい」
「歌ってる」
「知ってる」
「仕事だ」
「知ってる」
壁がもう一度鳴って、そのあと静かになった。
◇
俺は鞄から辞書を出した。
出して、床に寝て、腹の上に載せた。
息を吸った。辞書は上がった。吐いた。下がった。
俺は起き上がって、辞書を机の上に置いた。
後ろでノブが回った。
「兄ちゃん、何してんの」
「息だ」
「息?」
「辞書を載せてる」
妹はドアのところに立ったまま、五秒くらい俺を見ていた。
見てから、何も言わずにドアを閉めた。
閉める直前に、こう言った。
「わたし、誰にも言わないから」
言わなくていい話ではある。
◇
「あんた」
人形が言った。
「いま、どこも動いてなかったわよ」
「どこもとは」
「腹の横。肩。喉のここ」
人形の腕が、自分の首のあたりを指した。
「昨日、先生に何を見てろって言われたの」
「腹の横だ」
「じゃあ、なんで動いてないの」
「わからん」
人形は棚の上で、体の向きを少し変えた。
「あんたね」
◇
「芝居はね、黙ってても持つのよ」
「そうか」
「立ってるだけで持つ人もいるの。あんたは、顔が動かないぶん、余計に持つ」
「はい」
「歌は、黙れないの」
人形はそこで一度、腕を下ろした。
「音が出てるあいだは、ずっと出てるのよ。逃げるところが無いの。息をどこで吸ったかも、途中でやめたことも、全部そのまま出るの」
「はい」
「あんた、いま、三行目の前で肩を上げたでしょう」
「上げてない」
「上げたわよ。肩が上がると、息は上に入るの。上に入った息は、下から押せないの」
「わからん」
「わからなくていいけど、上げないで」
俺は肩を下げた。下げたつもりだったが、人形は何も言わなかった。
◇
人形が、まともなことを言った。
俺はそれを、少しのあいだ、そのまま受け取った。
「あんた、いま失礼なこと考えたでしょ」
「考えてない」
「考えたわよ」
「考えてない」
「顔が動かないと思って、好き放題ね」
◇
「もう一度、音を鳴らしながらやりなさいよ」
「一緒にか」
「一緒に」
俺は携帯を机に置いて、再生した。
知らない男の声が先に出る。俺はその上に自分の声を重ねた。
一行目は重なった。二行目の途中で、俺のほうが先に行った。先に行ったので、戻ろうとして、今度は遅れた。
真ん中の上がるところで、男の声だけが上がって、俺は下に残った。
残ったまま、曲が終わった。終わってから、携帯の画面が暗くなった。
「あんた、途中から、聴くのをやめたでしょ」
「そうか」
「出すことだけやってたわよ」
「そうかもしれん」
「耳を閉じたら、何にも合わないわよ」
◇
「誤魔化しが利かないの、歌は」
人形は言った。
「あんたの誤魔化しは、全部、静かにやるやつでしょう。黙る。動かない。返事だけする」
「そうだな」
「あれ、音の上では一つも使えないのよ」
俺は紙を机に置いた。
置いて、三行目のところを指で押さえた。指で押さえても、何も変わらなかった。
「あんた、怖くないの」
「何がだ」
「七日に、部屋に大人が何人もいて、あんたが歌えなかったら、その人たちは一日を無駄にするのよ」
「そうだな」
「それ、怖くないの」
「腹は減る」
「聞いてないわよ、そんなこと」
人形は棚の上で、腕を二回動かした。動かして、下ろした。
「……その返事、たぶん、いちばん正しいのよ」
◇
携帯が鳴った。
画面に、犬飼さんの名前が出ていた。
「高町」
「はい」
「月曜、大久保先生が二時間取った」
「はい」
「先生から聞いたが、木曜は、通しで行けなかったそうだな」
「行けなかったです」
「そうか」
犬飼さんは、そこで少し黙った。
「月曜でどうにもならんときは、俺が向こうと話す」
「向こうというのは」
「レコード会社だ」
「話すというのは」
「日を動かすか、動かさないかの話だ」
「高町」
「はい」
「先生は、直せると言ってる」
「はい」
「二時間で直せるとは言ってない」
犬飼さんの向こうで、車の音がした。事務所ではないところにいるらしい。
「月曜、行けるな」
「行けます」
「そうしろ」
電話はそこで切れた。
◇
俺は携帯を机に置いた。
置いて、椅子に座って、天井を見た。天井には、去年の夏に貼った補修のテープがまだ残っている。角が一つ、めくれてきている。
「あんた、いま何を考えてたの」
「テープだ」
「テープ?」
「めくれてる」
「……あんた、さっきの電話、聞いてた?」
「聞いてた」
「日を動かすかもしれないって」
「言ってたな」
「それ、大ごとよ」
大ごとらしい。
俺は腹が減っていた。台所からは、もう味噌汁のにおいが上がってきている。
◇
夕飯は、鯖と、味噌汁と、ひじきだった。
父さんが十九時半に帰ってきて、上着を椅子の背にかけて、座って、鯖を取った。
「日を動かすかもしれないんだって?」
父さんが言った。
なぜ知っているのかを聞こうとして、妹のほうを見た。妹は箸を持ったまま、天井を見ていた。
「兄ちゃんが電話してたとき、わたし、ドアの前にいたもん」
「何しに来た」
「風呂の順番。言う前に切れたけど」
妹はひじきを箸で寄せた。
「それに、うるさかったのは兄ちゃんが先だし」
それは、たぶん、そのとおりである。
母さんが味噌汁のおかわりをよそった。父さんが鯖の骨を皿の端に寄せた。
「まあ、なんとかなるだろ」
父さんは鯖をもう一切れ取った。
◇
「あんた、明日は何するの」
「土曜だ」
「知ってるわよ」
「何もない」
「じゃあ歌いなさいよ」
「一人でか」
「他に誰がいるの」
◇
俺は人形を、机の上に伏せた。
伏せてから、その上に歌詞の紙を一枚載せた。
「……あんた」
紙の下から声がした。
「……重い」
俺は紙を取った。
取ったが、人形は伏せたままにしておいた。
下から、くぐもった声が続いていた。
「……あんた、明日と明後日で、何回歌うの」
「わからん」
「わからんじゃないでしょ」
「回数は決めてない」
「……月曜まで、あと三日よ」
俺は明かりを落とした。
落としたあとも、机の上から、小さい声がしばらく続いていた。




