第72話 音程という概念
「高町くん、それ何」
大久保先生が、俺の手元を見て言った。
「辞書です」
「辞書?」
「厚いやつを持ってこいと言われたので」
先生は俺の手から辞書を取って、両手で持って、上下に二回振った。
「重い」
「はい」
「これ、鞄に入れて電車乗ってきたの」
「はい」
「まじめねえ」
まじめではない。他に厚い本が無かっただけだ。
◇
レッスン室Bは狭い。
十畳で、窓が無い。壁が全部やわらかい素材で覆われていて、入った瞬間に自分の靴下が床をこする音が急に大きく聞こえる。
部屋の隅に電子ピアノがある。
今日は俺一人だった。歌のぶんだけ枠を別に出してもらったと、有本さんが言っていた。四人しか入らない部屋に、二人しかいない。
先生は鞄を床に置いて、たすきを外して、椅子を電子ピアノの前に引いた。
「じゃ、寝て」
◇
俺は床に寝た。
先生が辞書を持ってきて、俺の腹の上に置いた。置いてから、位置を少し下にずらした。
「息を吸うと、これが上がります」
「はい」
「上がらない人は、胸で吸ってます」
言われたとおりに吸い込んだ。
辞書が上がった。
「あら」
先生の手が止まった。
止まったまま、椅子から立った。立って、俺の横にしゃがんで、辞書の上に手のひらを載せた。
「もう一度」
俺はもう一度吸った。
先生の手が、辞書ごと上がった。
「上がってるわ」
「はい」
「ちゃんと下まで入ってる。息が」
先生は手をどけて、そこにまた載せ直した。載せ直して、三度目を吸わせた。三度目も同じだけ上がった。
先生は立ち上がって、両手を腰に当てた。
「五センチくらい動いてるわね」
「はい」
「これね、大人でもできない人、いるのよ。うちの子で、半年やって動かない子もいるの」
「はい」
「高町くん、返事が軽いわね」
軽くはない。
ただ、上がったのは辞書であって、俺は寝ているだけだ。
俺はそのまま寝ていた。天井に四角い板が並んでいて、板の穴の数を数えようとしたが、途中で辞書がずれた。
◇
傍から見ると、防音室で仰向けになって国語辞典を腹に載せている男である。
◇
「じゃ、次。息を吐きながら、唇を鳴らして」
先生は自分でやってみせた。唇のあいだから息が出て、ぶるる、と鳴った。
俺はやった。
鳴らなかった。息だけが出た。
「力を抜いて」
抜いた。
今度は唇が一回だけ動いて、そこで止まった。
「そう。それを八秒」
八秒。
四秒でだめになった。
先生は椅子の上で笑っていた。笑いながら指で数えていて、指は八まで行った。俺は四で終わっている。
「まあ、鳴らなくてもいいの。今のは、力の入ってる場所を見てただけ」
「どこですか」
「顎と、肩」
顎と肩に力が入っていたらしい。自分ではわからない。
◇
「あと、これ」
先生は紙を一枚出した。外郎売の紙だった。
「ちょっと読んでみて」
俺は読んだ。
拙者親方と申すは。
言えた。
お立ち会いのうちに御存知のお方も御座りましょうが。
言えた。
お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて。
言えた。
青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門。
噛んだ。
「はい、いいわ」
「まだ途中です」
「今日は歌よ。口はあとでいい」
先生は紙を取り上げて、椅子の下に置いた。
置いてから、少しのあいだ、その紙のほうを見ていた。
◇
「はい、起きて」
先生はピアノの蓋を開けた。
鍵盤を一つ押した。音が一つ鳴って、部屋の中で短く止まった。壁がやわらかいので、音が伸びない。
「これ、出して」
「出す?」
「同じ音を、口で」
俺は口を開けて、声を出した。
出した。
先生はもう一度、同じ鍵盤を押した。
「これ」
俺はもう一度出した。
先生は鍵盤から手を離して、膝の上に置いた。
「高町くん、いま、どっちが高いと思う」
「先生のほうです」
「合ってる」
「はい」
「じゃあ、上げて」
俺は上げた。
先生は目を閉じた。
◇
「音程」
先生は指で鍵盤の縁をなぞった。
「音の高さのことね」
「はい」
「いま、目標より低いところを出してる。半音の半分くらい下」
半音の半分。
「半音というのは」
「隣の鍵盤」
先生は白い鍵盤と、その隣の黒い鍵盤を順番に押した。二つの音は、確かに違う。違うが、どのくらい違うのかを聞かれたら困る。
「その半分ですか」
「そう」
「わからん」
声に出ていた。
「わからないでいいのよ。今日は」
先生は笑った。笑って、鍵盤を三つ、まとめて叩いた。
◇
そこから一時間、俺は音を出し続けた。
先生が鍵盤を押す。俺が声を出す。先生が「下」と言う。俺が上げる。先生が「今度は上」と言う。俺が下げる。
下げると下がりすぎる。上げると上がりすぎる。
途中から、自分がどこを出しているのかがわからなくなった。ピアノの音と自分の声が、耳の中で別々の場所にある。二つを近づけようとすると、片方が逃げる。
「はい、止めて」
先生の手が鍵盤から離れた。
「水飲んで」
俺は水を飲んだ。飲んだら、口の中の乾いていた場所が、ようやくわかった。
◇
上げる、というのが、まだよくわからない。
俺は喉を締めてみた。締めたら苦しかった。次に腹を押してみた。押しても上がらなかった。それから顎を前に出してみた。出したら、先生が「それ、やめて」と言った。
やめた。
やめると、また元の高さに戻った。
◇
休憩は十分だった。
俺は廊下の自販機で微糖を買って、壁にもたれて飲んだ。
二階の廊下の突き当たりから、床を踏む音が聞こえてくる。レッスン室Aだ。同じ拍で四回、少し間があって、また四回。
音は、床から足の裏に来る。
俺は缶を持ったまま、その拍を聞いていた。聞いているうちに、缶が軽くなった。
◇
部屋に戻ったら、先生が電話をしていた。
「ええ。ええ。……いえ、そこは大丈夫。……ええ、そっちじゃなくて」
俺を見て、片手を上げた。上げて、電話の続きをした。
「……とりあえず、月曜にもう一枠もらえます?」
電話が終わって、先生は椅子に戻った。
「高町くん、月曜も来られる?」
「来られます」
「じゃ、来て」
◇
「じゃあ、通してみましょうか」
先生が譜面台に俺の紙を立てた。歌詞のほうである。譜面のほうは、先生が自分の膝に置いた。
「わたしが弾くから、乗ってきて」
「乗る」
「音の上に乗るの」
乗る、と言われても、上に立つわけではないらしい。
先生の指が動いた。曲が始まった。
◇
俺は乗ろうとした。
一行目。二行目。三行目で、先生の手が止まった。
「はい、今の絶望的。頭からいきましょう」
絶望的。
なかなか強い言葉である。
次に思ったのは、腹が減ったな、ということだった。
◇
頭から行った。
一行目。二行目。三行目。四行目で先生の手が止まった。
もう一度、頭から行った。
一行目で止まった。
◇
この部屋を出て、駅前のパン屋に寄って、コロッケパンを買って帰りたい。
あの店は十九時に閉まる。今は十八時十分だ。
だめだ。まだ五十分ある。
◇
「聞いてて」
先生はそう言って、自分でピアノを弾きながら歌った。
俺の紙の一行目からだった。
先生の声は大きい。防音の壁の中でも、部屋がいっぱいになった。いっぱいになったが、耳は痛くならなかった。
一行のあいだ、先生の肩は一度も上がらなかった。喉のところも動いていない。動いていたのは、腹の横だった。
俺はそこを見ていた。
先生は最後の音を伸ばして、途中で切って、こっちを向いた。
「今の、どこ見てた」
「腹の横です」
「合ってる」
「はい」
「見えてるのね。できないだけで」
できない。
できないが、腹の横は見えた。
◇
先生は椅子の上で、両手を頭の上に載せた。
載せて、そのまま下ろした。下ろして、また載せた。二回目のほうが、載せ方が深かった。
「原因はね」
「はい」
「上に行くところで、全部、下に落ちるの」
「はい」
「落ちるっていうのは、音が下がるっていう意味ね」
「はい」
「わかってる?」
「わからんです」
先生は頭を抱えたまま笑い出した。
笑い声が防音の壁に当たって、伸びずに止まった。
◇
俺は譜面台の前に立っていた。
立って、歌詞の紙を見ていた。紙は少し反っている。譜面台に立てると、上のほうが前に倒れてくるので、指で押さえた。
押さえていると、指の跡が紙に付く。
先生は笑いをやめて、俺のほうを見た。
「高町くん、いま何を考えてるの」
「紙が反ってます」
「そうじゃなくて」
「あとは、腹が減ってます」
先生はもう一度笑った。
◇
「あのね」
先生は椅子を回して、こっちへ向いた。
「わたし、ここに来る子で、歌えない子はいくらでも見てるの」
「はい」
「歌えない子は、だいたい怖がるのよ。声が小さくなるの」
「はい」
「高町くんは、小さくならないのね」
「はい」
「大きいまま、外れてるの」
そうかもしれない。
「それはね、直すのは早いのよ」
先生は膝の上の譜面を見た。見て、指で二か所を押さえた。
「怖いのは、そこじゃない」
◇
先生は立ち上がって、部屋の真ん中まで来た。
来て、手を二回叩いた。
「はい、ここに合わせて手を叩いて」
俺は叩いた。
先生の手と俺の手が、四回だけ一緒になった。五回目から、俺のほうが早くなった。
「速い」
俺は遅くした。
今度は遅くなりすぎた。
「二人でやると、必ず相手より前に出るのね」
「はい」
「なんで?」
「わからんです」
先生は手を止めて、俺の手を見た。俺の手ではなく、手首のあたりを見ている。
「ま、いいわ。そこは当日、機械が数えてくれるから」
機械が数える。
その言い方は、なんだか、俺の代わりに誰かが宿題をやってくれる話に聞こえた。たぶん違う。
◇
電子ピアノの上に、小さい機械が置いてある。
四角くて、画面がついていて、針みたいなものが左右に動く。先生がそれを俺のほうへ向けた。
「これ、合ってるかどうかが出るやつ」
「はい」
「出してみて」
俺は出した。
針が右へ振り切れた。
「ふうん」
「これは」
「上に外れてるってこと」
さっきは下だった。今度は上らしい。
先生は機械を裏返して、電源を切った。
「使うのやめましょ。これ見ると、みんな余計に外れるから」
◇
「高町くん、七日に録るのよね」
「はい」
「一日で」
「はい」
「ふうん」
先生はそれから、五秒くらい何も言わなかった。
五秒のあいだに、椅子の上で体の向きを二回変えて、最後に元に戻した。
「歌はね」
先生が言った。
「嘘つくと全部出るのよ」
嘘はついていない。
ついていないが、外れている。
◇
最後の十分は、いちばん低いところだけを出した。
先生が鍵盤の左のほうを押す。俺が出す。先生が何も言わない。もう一つ押す。俺が出す。先生がまた何も言わない。
四つ目で、先生が鍵盤から手を離した。
「ここね」
「はい」
「ここは合ってるの。さっきから一回も外れてない」
外れていないらしい。
出し方は、変えていない。
「だから、ここに全部置くの」
先生は鍵盤の左端のほうを、手のひらで軽く押さえた。
「置いてから、上に伸ばすの。上から取りに行かない」
「はい」
「返事はいいのよね、高町くんは」
◇
時計を見たら、十八時五十分だった。
先生は蓋を閉めて、譜面台から俺の紙を取って、返してくれた。返すときに、紙の下のほうを指で一回叩いた。
「ここ、いちばん低いところ。ここだけは出るから」
「はい」
「そこを先に置くの。上から出そうとしないで」
その言い方は、前にも聞いた。
置き場所については、今日も何も言われなかった。
◇
音は、遠のかなかった。
◇
廊下に出たら、犬飼さんが壁にもたれていた。
先生が俺の後ろから出てきて、犬飼さんのほうへ歩いていった。歩きながら、鞄のたすきを掛け直した。
「犬飼さん、七日まで、あと十三日よ」
犬飼さんは壁から背中を離さなかった。
「息はね、もう心配してないの。今日、辞書が上がったから」
「辞書」
「そういうやり方があるの」
先生は紙袋を持ち直した。
「わたし、二時間で直せるものと、直せないものの区別はつくの」
そこから先は、二人が階段のほうへ歩いていったので、聞こえなかった。
二人は階段を並んで下りていった。幅が足りないので、先生のほうが半歩下がった。下がりながらも喋っていて、声の高さだけが、途中まで降りてきた。
階段の下で、犬飼さんが待っていた。
先生とは別れたらしい。上着のポケットに手を入れて、そこから何かを出して、俺のほうへ寄越した。
ゼリー飲料だった。青いやつだ。
「飯は」
「これから食います」
「そうか」
犬飼さんは、それ以上は言わなかった。
言わないで、階段の上のほうを一度見た。上には誰もいない。
「高町」
「はい」
「七日は、長いぞ」
「はい」
犬飼さんはそのまま事務所の奥へ戻っていった。
俺はゼリー飲料の蓋を回して、その場で飲んだ。青は甘くない。甘くないので、飯の前でも困らない。
◇
俺は靴を履き替えて、外に出た。
◇
外は、まだ少し明るかった。
ビルの前の道に、自転車が三台停めてある。三台とも同じ向きで、いちばん端のやつだけ前輪が横を向いていた。
鞄が重い。辞書が入っている。返すのを忘れたのではなく、また木曜に持ってこいと言われたわけでもなく、単に俺が持って帰ることになった。
次に使うのが月曜なのかどうかは、聞いていない。
◇
駅のホームで、俺は息を吸った。
腹に手を当てて、吸った。手が前に出た。
隣に立っていた人が、こっちを見た。
俺は手を下ろして、電光掲示板のほうを向いた。次の電車は四分後だった。
四分のあいだに、もう二回吸った。二回目は、手を当てないでやった。当てなくても、前に出ているのはわかった。
ホームの端で、鳩が一羽歩いていた。今日は鳩によく会う。
携帯が震えた。
有本さんからだった。
〈二十八日(月)十七時 レッスン室B〉
〈同じ時間に、レッスン室Aは鴻上さんです〉




