第71話 カラオケに行ったことがない
「歌ってもらう」
犬飼さんはそう言って、机の上に紙を二枚置いた。
一枚目は字が並んでいた。二枚目は、横に線が五本ずつ引いてあって、その上に黒い丸がたくさんついている。丸には棒が生えているものと、生えていないものがあった。
俺は二枚とも見た。
一枚目は読めた。二枚目は、どこから見ればいいのかわからなかった。
「わからん」
声に出ていた。
「読めなくていい」
犬飼さんは椅子を引いて座った。
◇
四階の会議室2に通された。
長机が一つと、椅子が六脚。それで部屋がいっぱいになる。窓が一つあって、そこから隣のビルの壁が見える。壁に非常階段がついていて、四階のところが踊り場になっていた。
今日はそこに鳩が二羽いた。
俺は椅子に座って、机の上の紙を自分のほうへ少し引いた。引いたら、二枚目の紙の端が、机の縁からわずかに出た。
有本さんが横の席でタブレットを開いた。開いて、何も言わなかった。
◇
「四月十三日から放送が始まった」
犬飼さんが言った。
「一話から四話まで、終わりに曲が入らない。監督の意向だ。始発前の街の話だから、最初は音を足さない、と言っている」
「はい」
「そのぶん、局のほうに、曲は無いのかという話が来ている。制作にも来ている。俺のところにも来た」
犬飼さんは指で机を一度だけ叩いた。
「六話から入れる。放送は五月十八日だ」
「はい」
犬飼さんは机の上の一枚目の紙を、指で二センチ動かした。
「歌うのは、主演本人だ」
主演本人。
この部屋には三人いる。犬飼さんは主演ではない。有本さんも違う。
残りは一人だった。
◇
「題は『ノーフェイス』だ」
顔が無い、という意味らしい。
俺の顔は付いている。動かないだけだ。
「曲はもうできている。詞も付いている。君がやることは、歌うことだけだ」
「はい」
「音源はムーンライト・レコードから出す。配信はプレイラインだ」
「はい」
「プレイラインは音楽のほうだからな。前に話したラジオのやつとは別だ」
名前が二つとも似ている。俺は頭の中で、片方を右に、片方を左に置いた。置いたが、置いた場所はすぐに曖昧になった。
「録りは五月七日。朝から夜までだ」
五月七日。
今日は四月二十一日である。
俺は指を使わずに日にちを数えた。数えている途中で鳩のほうを見てしまって、数え直した。
◇
「一日で録るんですか」
「一日だ。それが普通らしい」
「らしい、ですか」
「俺は歌わん」
犬飼さんは椅子の背に体重を預けた。
「録ったあとに、音を混ぜる作業がある。それが何日かかかる。それが終わって局に納めて、放送だ。混ぜるところに君は要らん」
「はい」
「要らんが、聞かれることはある。ここが気になる、というのを言う場面がある。そのときは言え」
「何を言えばいいんですか」
「気になったところだ」
気になったところ。
俺が気になるのは、だいたい、腹と、帰りの時間だ。それを言う場面ではない、ということだけはわかった。
◇
有本さんが紙を一枚出して、机の上を滑らせてきた。
A4が一枚。上から順に、時刻と、短い言葉が並んでいる。九時に迎え、十時に入り、十時半から準備、十一時から録り、途中に一時間、そのあとまた録り。
いちばん下の行に、終わりの時刻が書いていなかった。
「ここ、空いてます」
有本さんが言った。
「当日に決まります」
「はい」
「決まったら、書きます」
俺はその紙をもう一度見た。時刻が並んでいて、いちばん下だけが白い。白いところに、鉛筆の跡が一つも付いていない。
◇
「歌ったことは」
犬飼さんが聞いた。
「学校の音楽です」
「他は」
「他は、ないです」
「カラオケは」
俺は少し考えた。
「行ったことがないです」
◇
部屋が止まった。
犬飼さんは口を閉じたまま、机の上の紙を見た。有本さんの指がタブレットの上で止まって、そのまま二秒くらい動かなかった。
窓の外で、鳩が一羽飛んだ。
残った一羽は、まだ踊り場にいた。
「一度も、か」
「はい」
「誘われたことは」
「あります」
「行かなかったのか」
「その日、家に鍋があったので」
◇
行かなかった理由は、思い出すと三つある。
一つ、鍋。
二つ、金がなかった。
三つ、そもそも誘ったのが熊沢で、集合場所を三回間違えた結果、最終的に全員が別々の駅にいた。
三つ目は俺のせいではない。
◇
犬飼さんは、上着の袖口を一度引いた。
引いて、腕時計を見た。時計は見たが、時刻の話はしなかった。
「有本、木曜、レッスン室Bを取れ」
「取ってあります」
有本さんは前を向いたまま答えた。
「二十四日の木曜、十七時から二時間です。歌のぶんだけ、別に枠を出してもらいました。大久保先生には、もう伝えてあります」
「早いな」
「今朝、電話が六本ありました」
犬飼さんは、それだけ聞いて椅子の背にもたれた。もたれてから、天井を見た。蛍光灯は四本のうち二本しか点いていなかった。
◇
――事務所の小部屋で、紙を二枚受け取って、まっすぐ座っている男。
二枚目の紙の端は、まだ机の縁から出たままだった。
◇
「高町」
「はい」
「歌えるか」
俺は正直に答えた。
「わからんです」
犬飼さんは、少しのあいだ何も言わなかった。
言わないで、机の上の二枚目の紙を裏返した。裏は白かった。
「わからんでいい」
それから、紙をもとに戻した。
「わかってる人間が、うちに何人かいる。君が全部わかってたら、その人たちの仕事が無くなる」
犬飼さんが三行続けて喋った。
喋ってから、机の上の紙の端を人差し指で押さえて、まっすぐに直した。直してから、指を離した。
◇
有本さんが、俺のほうへタブレットを傾けた。
画面に予定が並んでいた。日付と、時刻と、短い字だけが並んでいる。体調の欄も、様子の欄もない。
「二十四日の木曜と、二十八日の月曜が、レッスン室Bです」
「はい」
「二十九日から六日までは、予定がありません」
「はい」
「五月七日の水曜が、録音です。場所は世田谷区の池尻で、朝の九時に迎えに行きます」
「九時ですか」
「はい。九時です」
九時と聞いて、まず出てきたのは、朝飯が食える、ということだった。
◇
部屋を出るとき、犬飼さんが紙を二枚まとめて、俺に渡した。
「無くすなよ」
「はい」
「無くしても、また出るがな」
俺は紙を鞄の内側に入れた。内側の仕切りには、返しそびれた香盤の切れ端がまだ入っていた。取り出して、まとめて、外側のポケットに移した。
◇
三階と二階のあいだの階段で、大久保先生とすれ違った。
先生は大きい鞄を斜めがけにして、両手に紙袋を提げていた。紙袋のほうが体より前に出ている。
「高町くん」
「先生」
「木曜ね」
「はい」
「本、持ってきといて。厚いやつ」
本。
厚いやつ。
聞き返そうとしたが、先生はもう階段を上りきっていた。上りながら、下の階に向かって笑った。笑い声だけが、階段の上から降りてきた。
◇
一階のロビーの隅で、誰かが踊っていた。
鏡は無い。ガラスがある。ガラスに映る自分を見ながら、腕を上げて、下ろして、また上げていた。上げるたびに肩の位置が少しずつ変わって、四回目で止まった。止まって、また最初から始めた。
鴻上だった。
こっちは見ていない。ガラスの中の自分だけを見ている。
俺は声をかけずに外へ出た。
◇
駅までの道で、紙を鞄から出した。
出して、歌詞のほうを歩きながら読んだ。
字は全部読めた。行が短い。台本の台詞よりずっと短くて、同じ言葉が何回か出てくる。
〈名前を呼ばれても 振り向かない〉
〈まだ暗いから 誰も見ていない〉
〈始発が来るまでは〉
同じ言葉が、何回も出てくる。目が滑った。三行めくらいで、自分がどこを読んでいるのかがわからなくなった。
俺は三回読んで、鞄に戻した。
戻してから、歩きながら、一行目だけを口の中で言ってみた。声は出していない。口の形だけ作った。
前から人が来たので、やめた。
◇
電車は空いていた。
座って、窓の外を見た。外はまだ明るくて、ビルの影が線路の向こうまで伸びていた。影の先が、途中で切れて、また別のビルの壁に乗っている。
向かいの席に、制服の女子が二人座っていた。片方が携帯を見ていて、もう片方がその画面をのぞき込んでいる。二人とも画面のほうを向いたまま、四つ目の駅まで一度も顔を上げなかった。
俺は鞄を膝に乗せた。膝の上に置くと、鞄の底の角が一つだけへこんでいるのがわかる。
◇
桜坂駅の階段は二十七段ある。
上から九段目が少し欠けていて、雨の日に滑る。今日は雨ではない。
俺は九段目を普通に踏んで、下りた。
◇
家の玄関のドアの隙間に、紙が一枚挟んであった。
二つ折りで、開くと表が作ってある。左が日付、右が空欄。空欄の上に、細い字で〈提出物〉と書いてある。
五月の頭に出す課題が三つ並んでいて、そのうち二つに丸が付いていた。丸が付いていないほうには、下線が引いてある。
字は細くて、右上がりだった。
俺はそれを鞄の内側に入れた。歌詞の紙の隣になった。
◇
家に着いたのは、十八時前だった。
台所から音がしていた。母さんが鍋の蓋を開けて、閉めた。
妹が居間で、青いノートを開いて、テーブルに肘をついていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「先週の、まだ書いてない」
「そうか」
「書くことが多すぎる」
妹は鉛筆を置いて、俺のほうを見た。
「行が多い」
「そうだな」
「兄ちゃん、これいつまで」
「六月の十五日までだ」
妹はノートをもう一度開いた。
「あと八回じゃん」
言って、鉛筆を耳の上に挟んだ。挟んだまま台所へ行って、味噌汁の味見をして、戻ってきた。
鉛筆は挟まったままだった。
◇
夕飯は鍋だった。
本当に鍋だった。俺が会議室で鍋の話をしたのは十六時ごろで、そのときはまだ何の話でもなかった。
母さんは何も言わずに白菜を入れた。父さんが帰ってきて、上着を椅子の背にかけて、座って、豆腐を取った。
「歌うらしいぞ」
父さんが言った。
「犬飼さんから電話があったって、母さんが言ってた」
「そうか」
「歌えるのか」
「わからん」
「まあ、なんとかなるだろ」
父さんは豆腐をもう一つ取った。
それから、白菜の話になった。今年の白菜は高いらしい。高いという話が三分続いて、そのあいだに俺は二回おかわりをした。
妹が箸を止めて、こっちを見た。
「兄ちゃん、歌うの」
「らしいな」
「テレビで?」
「たぶん、ドラマの終わりだ」
妹は少し考えた。考えて、味噌汁の椀を持ち上げて、また置いた。
「それ、何秒」
「わからん」
「秒がわからないと、書けない」
書けないと言われても、俺にはどうしようもない。
母さんが妹の椀に白菜を足した。妹は文句を言いながら食べた。
◇
風呂から出て、二階に上がった。
机の上に、台本が三冊積んである。もう使わない台本だ。捨てていいのかどうかがわからなくて、置いたままになっていた。
俺はその三冊を、机の端に寄せた。寄せて、上にもう一冊積んだ。四冊になった。
「あんた、それ、いつまで置いとくの」
人形が言った。
「わからん」
「捨てなさいよ」
「捨てていいのか」
「わたしに聞かないで」
人形は棚の上にいる。腕が少し動いて、机の上の紙のほうを指した。
「それ、何」
「歌詞と、譜面だ」
「歌うの」
「歌うらしい」
◇
「あんた、点いてないでしょ」
「点いてない」
「今日は誰も見てないもの」
「そうだな」
人形の首が、少しだけこっちを向いた。
「あんた、鼻歌は」
「歌わん」
「風呂で」
「歌わん」
「……そう」
人形はそれきり、しばらく何も言わなかった。
言わないで、棚の上で少しだけ体の向きを変えた。変えて、また元に戻した。
「あんた、いま喋ってるとき、口がほとんど開いてないのよ」
「そうか」
「上の歯が一本も見えないの。ずっと」
「そうか」
「小さいころ、大きい声を出したことある?」
「ある」
「どこで」
「家で」
「……そう」
◇
俺は椅子に座って、二枚の紙を机に並べた。
左に歌詞、右に譜面。
譜面のほうを、もう一度見た。線が五本あって、丸がある。丸の高さがばらばらで、上のほうにあるものと、下のほうにあるものがある。
高さが違う。
高さが違うということは、たぶん、そういうことだ。
そこから先に進むために、俺は丸を数えることにした。一段目で二十七個あった。二段目を数えているあいだに、一段目がいくつだったかが消えた。
「あんた、いま何を考えてたの」
「丸の数だ」
「三十秒も?」
「そうだ」
「……いい度胸ね」
◇
厚い本を探した。
本棚に十冊ある。国語辞典が一冊、地図帳が一冊、あとは教科書だ。教科書は薄い。
国語辞典を出して、手に持ってみた。重い。厚さは五センチくらいある。
「あんた、何してるの」
「木曜に持っていく」
「辞書を?」
「厚いやつと言われた」
「何に使うの」
「わからん」
人形は棚の上で、こっちを向いたまま少し動いた。
「あんた、それ、腹に載せるのよ」
「なんで知ってる」
「載せるところが、他に無いでしょ」
俺は辞書を鞄の横に置いた。置いてから、木曜は鞄が重い、ということに気づいた。
◇
俺は鉛筆を持って、譜面の紙の右下に日付を書いた。
〈5/7〉
書いてから、線を引いて、その下にもう一つ書いた。
〈5/18〉
紙の隅が狭いので、字は思ったより小さくなった。
「あんた、それ書くところじゃないわよ」
「余白だ」
「余白にも役目があるの」
人形は棚の上で、腕を組むみたいな形になった。
「十六日ね」
「そうだな」
「あんた、それ、短いって意味で言ったのよ」
俺は鉛筆を置いた。
置いて、机の上の紙を二枚とも、台本の山の上に載せた。
載せたら、いちばん上の紙が、山の角から少しはみ出した。
俺はそれを直さないで、そのまま寝た。




