第70話 全国に顔が出た日
日曜の朝に何もない、というのは久しぶりだった。
起きたのが九時で、下りたら妹がテレビの前にいた。母さんは洗濯物を干していて、父さんは新聞を持ったまま寝ていた。
俺は台所で、昨日の残りのカレーを温めた。
温めているあいだに、妹が来た。
「兄ちゃん、それ、あたしのぶんもある?」
「鍋にある」
「じゃあ半分」
「半分は多い」
「三分の一」
「それも多い」
結局、妹は自分でよそって、俺のより多くなった。
カレーは二日目のほうがうまい。ただし今日の鍋は、底から三センチのところまでしか残っていなかった。うまいほうを食べながら、俺は鍋の底を見ていた。
◇
「兄ちゃん、あたし、明日から自転車で行く」
「そうか」
「学校の人が測ったんだって。うちの前から正門まで十二分。信号で止まらなければ十分だって言ってた」
「誰が測った」
「学校の人」
妹は四月から高校生である。同じ学校の、同じ校舎の、一番下の階にいる。
「兄ちゃんは何分?」
「歩いて二十五分だ」
「自転車は」
「持ってない」
「持ってないの?」
「壊れた」
「いつ」
「去年の五月だ」
妹はスプーンを止めた。
「一年、放置してるの」
「使ってないからな」
妹は何か言おうとして、やめて、カレーを食べた。
食べながら、鞄から紙を出した。
「入学式のとき配られたやつ。委員決めるんだって」
「やるのか」
「やらない」
「やらないのか」
「一年は、じゃんけんで決まるって聞いた」
妹は紙を裏返して、裏に何も書いていないことを確かめて、また表に戻した。
「兄ちゃん、去年なんの委員だった」
「やってない」
「ずるい」
「押し付けられる前に、公欠が入った」
妹は俺を見た。見て、しばらく何も言わなかった。
「それ、ずるいって言うんだよ」
「そうか」
◇
昼のあいだ、俺は居間で寝ていた。
テレビは点いていた。妹が見ていて、途中で母さんも見ていた。何をやっていたのかは知らない。目が覚めたら、画面の中で人が二人、大きい鍋の前に立っていた。
起きたのは、腹が減ったからではない。妹が俺の足を踏んだからである。
「兄ちゃん、邪魔」
「どこがだ」
「そこ、通り道」
俺は三十センチだけ横にずれた。
◇
昼過ぎに、電話が震えた。
美咲だった。
〈今日、何時から〉
〈二十二時だ〉
〈知ってる〉
知っているなら聞かなくていい。そう返すのは、やめておいた。
〈録画は〉
〈してない〉
〈は?〉
〈テレビでやるだろ〉
〈そういう問題じゃない〉
既読が付いたまま、三分止まった。
〈私が録る〉
〈二重で録る〉
〈二台あるから〉
二台あるらしい。
俺は〈ありがとう〉と返した。返したら、しばらくして、また来た。
〈お母さんに、二十二時はテレビ使うって言っておいて〉
〈言った〉
〈本当に?〉
〈言った〉
実際には、まだ言っていなかった。俺は台所へ行って、母さんに言った。
これで嘘ではなくなった。
◇
午後は、部屋にいた。
やることが無い。台本はもう要らない。学校の課題は、金曜のうちに終わっている。終わっているというのは美咲の言い方で、正確には、美咲が終わらせた分が二つある。
俺は床に寝転んだ。
寝転ぶと、机の下が見える。机の下に、去年の夏に落とした消しゴムがまだあった。手を伸ばしたら届く距離だったが、腕を伸ばすには一度起き上がる必要があった。
「あんた、床は冷たいでしょう」
「冷たくない」
「四月よ」
「四月だから冷たくない」
「あんた、去年の夏にもそこで寝てたわね。あのときは扇風機の下で、今日は窓を閉めきってるのに、同じ格好をしてるのよ」
「同じ床だからだ」
俺は天井を見た。天井のいちばん端に、丸い染みが一つある。前に一度、あれが何の形に見えるかを十分くらい考えた。決まらなかった。
「今日でしょう」
「今日だ」
「見るの」
「見る」
「自分が出てるものを見るの、わたしは苦手だったの。動いてるのはわたしなのに、こっちの都合を一つも聞かずに勝手に終わっていくんだもの」
「なんでだ」
人形は、少しのあいだ何も言わなかった。
「わたしは、一度も最後まで見られなかったの」
「一度もか」
「一度も」
俺は寝転んだまま、腕を上げて、下ろした。
「今日は最後まで見る」
「そう」
「飯を食いながら見る」
「あんた、それは行儀が悪いわ」
俺は起き上がって、机の引き出しを開けた。
中に缶が四本ある。三月に入れた一本は、いちばん奥にあった。
俺は一本取って、閉めた。
「今日、飲むの」
「飲む」
「非常のときじゃないでしょう」
「今日だ」
人形は何も言わなかった。
言わないで、台座の上で少し向きを変えた。窓のほうだった。窓の外は、まだ明るかった。
◇
夕方から、家の中が少しおかしくなった。
母さんが十七時に台所に立って、そこから二十一時まで立ちっぱなしだった。出てきたのは、唐揚げと、ちらし寿司と、茶碗蒸しだった。三つが同じ日に並んだのを、俺は正月とひなたの誕生日でしか見たことがない。
父さんは十九時に帰ってきた。
いつもより二時間早い。帰ってきて、風呂に入って、出てきて、居間の座布団に座った。座って、そこから動かなかった。
「父さん」
妹が言った。
「なに」
「正座してる」
「そうか」
父さんは足を崩した。崩して、五分後にまた正座していた。
◇
二十一時四十分に、母さんがテレビを点けた。
まだ前の番組をやっている。誰かが料理を作っていた。
母さんはお茶を四つ入れた。入れて、少ししてから、全部下げて、入れ直した。ぬるくなったからだと言っていた。二十一時五十分に、もう一度入れ直した。
妹は俺の隣に座っていた。膝の上に、青いノートを置いている。
「なんで持ってきた」
「書くから」
「なにを」
「秒数。あと放送日と、放送の時間と、台詞の行数。この四つだけって決めてるから、ほかのことは書かない」
妹はペンの後ろで自分の顎を触った。
「あと、台詞の行数」
「多いぞ」
「知ってる」
このノートに入るのは四つだけである。放送日と、放送の時間と、出た秒数と、台詞の行数。出ていない日は書かない。
「何行あるの」
「知らん」
「台本、持ってるでしょ」
「返した」
「返したの?」
「終わったら返すらしい」
妹はペンを持ち直した。
「じゃあ、数えるしかないじゃん」
「そうだな」
◇
傍から見ると、居間で家族四人が同じ画面を見ている、日曜の夜だった。
◇
二十二時になった。
番組が始まった。
最初に映ったのは、空だった。まだ暗くて、下のほうだけが少し青い。その青いところが、画面の下から三分の一くらいにある。
次に、駅のホームが映った。
ベンチがあって、そこに二人座っている。
片方が桐生さんで、もう片方が俺だった。
◇
俺は自分の顔を見た。
テレビに映っている顔は、動かない。動かないことは知っていたが、大きい画面で見ると、動かない面積が広い。
「兄ちゃん、声、こんなだっけ」
妹が言った。
俺は自分の声を聞いた。
テレビから出てくる声は、低かった。低くて、居間の壁のほうから返ってこなかった。
「こんなだ」
「もっと高いと思ってた」
「低い」
母さんが「顔が大きいわね」と言った。
父さんが「ほう」と言った。
◇
画面の中で、桐生さんが喋っていた。
喋りながら、指が先に動く。ベンチの縁を、人差し指で二回叩いた。叩いてから、言葉が出た。
その横で、俺は何もしていなかった。
何もしていない人間が、画面の右半分にずっといる。
「兄ちゃん、これ、いつ喋るの」
「もう少しあとだ」
「もう十分たったよ」
「あと三分だ」
三分後に、俺は喋った。
「別に」
二文字だった。
妹はペンを持った。持って、書かなかった。
「二文字?」
「二文字だ」
「十三分待って、二文字?」
「あとで増える」
◇
最初のコマーシャルが入った。
母さんが立ち上がって、台所へ行って、何も持たずに戻ってきた。戻ってきて、座って、湯呑みを持って、飲まなかった。
「母さん、茶、飲んだらどうだ」
「あとで飲む」
母さんは、番組が終わるまで飲まなかった。
◇
画面の中に、券売機が出てきた。
二台並んでいて、その横に自動販売機が一台ある。販売機の中に、飲み物の見本が並んでいた。
いちばん下の段の、右から二番目の缶。
あそこに値札のシールが一枚だけ貼ってあることは、俺は知っている。
テレビでは、そこまでは映らなかった。
◇
妹は、途中から書かなくなった。
二十二時十五分に一度ペンを持って、そのまま持っていて、二十二時二十分に置いた。
「書かないのか」
「書けない」
「なんでだ」
「ずっと出てるじゃん」
◇
中盤に、桐生さんと二人でホームのベンチに座る場面があった。
あの日は二月で、スタジオの中は寒かった。俺は厚い靴下を履いていて、桐生さんは二枚履いていた。撮っているあいだ、俺の足の指は最初から最後まで冷たかった。
画面の中の二人は、寒そうではなかった。
朝の光が横から入っていて、ベンチの木目まで見えている。梁も、照明も、黒い布も、どこにも映っていない。
「兄ちゃん、これ、外?」
「中だ」
「嘘」
「中だ」
「これ、朝じゃないの」
「昼だ」
妹は画面を指さして、指さしたまま、少し黙った。
◇
二十二時三十分を過ぎたあたりで、母さんが茶碗蒸しを持ってきた。
誰も食べなかった。
俺は食べた。二つ食べた。母さんは何も言わずに、三つ目を持ってきた。
◇
最後の場面は、駅の改札だった。
俺が改札を通って、まっすぐ歩いていく。止まらない。振り返らない。
照明が四つ並んでいたところは、画面では朝の光になっていた。
歩いている足元に、白いテープは映っていなかった。
◇
画面が暗くなった。
暗くなって、そこから字が出てきた。人の名前が下から上へ流れていく。字の後ろは、静止画だった。始発前のホームの写真が、三枚、順番に変わっていく。
音楽が鳴っていた。台詞は無い。
妹が言った。
「歌、ないんだ」
俺は茶碗蒸しを食べていた。
「そうか」
字が最後まで流れて、画面が変わった。
変わったところで、父さんが足を崩した。
崩して、湯呑みを持って、飲んだ。母さんが十七時から三度も入れ直したお茶に、最初に口をつけたのは父さんだった。飲んで、「ぬるい」と言った。
妹は膝の上のノートを見ていた。ページはまだ白かった。
◇
変わった三秒後に、家の電話が鳴った。
母さんが出た。
「はい、高町です。……はい。……いえ、こちらこそ。……はい」
母さんは受話器を持ったまま、こっちを見た。見て、首を横に振った。誰からかは言わなかった。
母さんが受話器を置いた七秒後に、また鳴った。
今度は妹が出た。
「はい。……あ、はい。……います」
妹が受話器を俺に渡した。
叔母さんだった。俺は「はい」と「そうです」と「ありがとうございます」を順番に言って、切った。
◇
俺の電話も、震え続けていた。
最初は熊沢だった。
〈お前じゃん〉
〈そうだ〉
〈お前じゃん〉
〈そうだ〉
同じことを二回言われたので、同じことを二回返した。
三度目が来た。
〈お前じゃん〉
〈そうだ〉
熊沢は、そこで満足したらしい。
そのあとに、早坂と、クラスの何人かと、去年同じ班だった二人から来た。妹の同級生からも三件来ていた。俺の番号を持っている理由を、俺は聞いていない。
美咲からも来た。
〈録れた〉
〈二台とも録れた〉
〈明日、学校で〉
何を学校でするのかは、書いていなかった。
書いていないので、俺は〈わかった〉と返した。返したら、すぐに〈わかってない〉と来た。
◇
二十二時五十分ごろから、隣の家の電気が点いた。
居間の窓から、隣の家の台所の窓が見える。点いて、人影が二つ動いて、しばらくして消えた。
その少しあとに、玄関のチャイムが鳴った。
母さんが出た。
向かいの家の人だった。母さんと五分くらい玄関で話して、帰っていった。何を話したのかは聞こえなかったが、母さんが戻ってきたとき、手に大根を一本持っていた。
「大根、もらったの」
「もらった」
「なんで」
「わからない」
母さんは大根を台所に置いた。置いて、また居間に戻ってきた。
◇
二十三時十分に、有本さんから電話が来た。
「高町さん、お疲れさまです」
「はい」
「明日の朝、局から人が来ます」
「はい」
「事務所にです。高町さんは学校です」
有本さんの後ろで、人の声がしていた。何人かいる。誰かが電話をしていて、その横で別の誰かも電話をしていた。
「有本さん、まだ事務所ですか」
「います」
「何時までですか」
「わかりません」
有本さんは、そこで少し黙った。
「電話、二十二時から今までで、十九本です」
「十九本ですか」
「はい。明日の朝いちばんで折り返す順番を、犬飼がいま紙に書いています」
有本さんの後ろで、誰かが「三階、まだ電気点いてます」と言った。
「有本さん、三階には誰がいるんですか」
「わかりません」
「そうですか」
「わたしは、この階から出ていません」
有本さんは電話を切る前に、もう一度「お疲れさまです」と言った。
言ってから、切るまでに、少し間があった。その間に、後ろの電話が二回鳴った。
◇
二十三時四十分に、犬飼さんから電話が来た。
その一分前まで、母さんが台所で皿を洗っていた。洗い終わって、電気を消して、階段を上がっていった。
居間には、俺と妹だけが残った。
◇
俺はテレビを切った。
切ったら、部屋が静かになった。切る前は、次の番組をやっていた。誰も見ていなかった。
電話に出た。
「高町」
「はい」
「見たか」
「見ました」
「そうか」
犬飼さんの後ろは、静かだった。事務所ではないらしい。
「明日から、しばらく学校だ」
「はい」
「今週は現場が無い。来週もだ。二週間まるごと空くのは一月からで初めてだから、寝られるだけ寝ておけ」
「はい」
「二十一日に事務所へ来い。月曜だ」
「なにかあるんですか」
「ある」
「はい」
「それまで、電話は俺が取る」
電話が切れた。
◇
妹は、まだ膝の上に青いノートを置いていた。
開いてはいたが、四月十三日の欄には、日付と、放送の時間だけが書いてあった。秒数の欄と、行数の欄は、両方とも空いている。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「秒数って、どうやって数えるの」
「知らん」
妹はページのあいだにペンを挟んだ。
挟んで、しばらく持っていた。持ったまま、こう言った。
「明日から、数えるのやめよっかな」
俺はカレーの鍋のことを考えていた。
二日目のぶんは、昼に全部無くなっている。




