第69話 最後のカットが終わる
教室の場所が変わっていた。
二階ではなく、三階だった。階段を一つぶん余計に上がるだけの話なのだが、二年ぶんの体が二階で止まろうとするので、俺は踊り場で一度、上を見ることになった。
三階の廊下は、二階より少しだけ天井が低い気がする。実際に低いのかどうかは、測ったことがないので知らない。
教室に入って、自分の机に鞄を置いた。置いて、五分でまた持つ。
黒板の右端に、白い字があった。
〈4/8(火) 高町 公欠〉
始業式が昨日で、今日が二日目だ。二日目から公欠というのは、犬飼さんが屋上で言っていたとおりだった。
◇
「高町くん」
美咲だった。
プリントを持っていない。代わりに、新しいノートを一冊持っていた。表紙がまだ白い。
「四月の分」
「早いな」
「三月中に作った」
美咲はそのノートを開いて、俺の机の上に置いた。
左から順に、日付、時間、場所。三月のノートと同じ並びで、線の数も同じだった。
四月の七日から、もう字が入っている。八日のところに線が引いてあった。
「八日、なんか書いてあるな」
「公欠って書いた」
「まだ出してない」
「出す」
美咲はノートを閉じた。
閉じて、鞄に入れて、自分の席に戻った。戻る途中で、熊沢が「藤堂、おはよう」と言って、返事をしていなかった。
◇
「高町」
熊沢が来た。
「お前、今日も公欠?」
「今日で終わりだ」
「終わりって、なにが」
「撮影が」
「え、じゃあ明日から来んの? 三年になって二日で終わりとか、そういう転校生みたいなやつかと思ってたわ」
「来る」
熊沢は自分の机の上に座った。去年も、その座り方でそこにいた。
「三年、席替え無いんだって」
「そうか」
「一年間このままだって、さっき担任が言ってた」
「担任、誰だ」
「宮坂先生」
「そうか」
熊沢は足をぶらぶらさせた。
「お前、去年も宮坂先生だったよな」
「そうだ」
「三年連続じゃん」
「二年連続だ」
「あ、そうか」
熊沢は数え直して、納得したらしく、自分の席に戻っていった。
◇
春休みのあいだに、妹の制服を取りに行った。
袖は、まだ余っていた。店の人が肩のところを両手で挟んで、「ここが合ってれば大丈夫です」と言った。妹は鏡の前で、袖を二回まくって、二回とも下ろした。
◇
砧のスタジオに着いたのは、朝のうちだった。
最後の日だからといって、何かが違うわけではなかった。
ケーブルは床を這っていて、その上に黄色いテープが貼ってある。天井の梁に照明が下がっている。壁際に木材が積んである。上のほうにしかない暖房は、四月になったので今日は入っていなかった。
駅前のセットの前に、人が四十人くらいいた。
俺は自分の椅子に座った。背もたれの紙は、三月に貼り替えたやつのままだった。
◇
午前中は、撮り残しだった。
二話ぶんと三話ぶんと、七話ぶんの短いのが三つある。順番に撮るのではなく、セットの向きで並べ替えてあるらしい。
「水無瀬、券売機の右側」
「はい」
「一回、通しでやる」
芹沢さんは、それしか言わなかった。
俺は券売機の右側に立った。床のテープは、朝のうちに貼り直してあった。前のテープの跡が、その横に薄く残っている。
午前中に、六カット撮った。
三カット目は、券売機にお金を入れるところだった。入れるお金は本物ではなく、大きさだけ合わせた金属の板である。入れる音が本物と違うので、音は別で録るらしい。
四カット目で、その板を落とした。
落ちた板は、券売機の下に入っていった。俺と美術の人と、制作の人が二人、四人で床に伏せて、下をのぞいた。板は奥のほうで止まっていた。
美術の人が定規で掻き出した。
「高町さん、もう一枚あります」
「すみません」
「これ、十枚あるので」
十枚あるらしい。十枚あると聞くと、落としてもいい気がしてくる。よくないのだが、そういう気がしてくる。
六カット目のあとで、記録の人が紙をめくって、めくった手を止めて、また戻した。
◇
午前中の最後に、芹沢さんが券売機の位置を三十センチ動かした。
動かして、モニターに戻って、そこから五分くらい何も言わなかった。それから戻ってきて、元の位置に戻させた。
美術の人が二人がかりで戻した。戻したあとで、床のテープと、券売機の脚の位置が、ぴったり合っていた。
◇
昼に配られた箱は、白いほうだった。
中は、鮭と、ごはんと、煮物が三種類入っていた。煮物の一つは、里芋だった。里芋は箸で挟むと逃げる。
箸を置いたときには、煮物の器も空になっていた。里芋は、三つとも逃がさなかった。
空いた箱は、隅の台に重ねてある山の上に置いた。山は、俺のところで十四になった。
桐生さんは、俺の三つ隣で食べていた。食べながら、灰色のノートを開いていた。開いているページは、今日も白かった。
「高町くん、今日は何時に終わると思う?」
「わかりません」
「僕は二十時だと思う。最終日って、だいたい押すんだ。押さないつもりで組んであるから、逆に押す」
桐生さんは箸を置いた。
「賭けようか」
「何を賭けるんですか」
「賭けるものが無いね」
桐生さんは、それで話が済んだみたいに箸を持ち直した。
◇
午後は、二時間待った。
最後のカットのために、改札の向こう側の壁を全部外すらしい。外して、そこから外の光を入れる。始発が出たあとの、明るくなり始めたところを撮るのだと、助監督の人が言っていた。
俺は毛布を膝にかけて座っていた。三月から、この毛布は俺の椅子の上にある。
待っているあいだに、有本さんが来た。
「高町さん、十三日は家にいてください」
「はい」
「初回放送です。二十二時からです」
「はい」
「局の宣伝の方から、当日にご連絡が行くそうです」
有本さんはタブレットを見た。
「電話、七本でした」
「七本ですか」
「今日の午前だけで、七本です」
有本さんはそう言って、壁際の椅子に座った。
◇
二時間待って、最後のカットの準備ができた。
改札の向こう側の壁が無くなっていた。そこから、スタジオの外壁までのあいだに何も無くなって、灰色の空間が続いている。その空間の一番奥に、大きい照明が四つ並んでいた。
四つとも、こちらを向いている。
「水無瀬。改札を通って、まっすぐ歩く。止まらない。振り返らない」
「はい」
「歩き終わっても止まるな。壁に当たるまで歩いて、当たったらそこで待ってろ。こっちからは声をかけない」
芹沢さんはそう言って、モニターのほうへ歩いた。
歩いて、途中で止まった。
止まって、戻ってきて、カメラの横に立った。
◇
人が、動かなくなった。
カメラの後ろに六人。ケーブルの脇に三人。脚立の上に二人。柵の向こうに、記録の人と、助監督と、その後ろに十人くらい。壁際に有本さん。その隣に犬飼さん。桐生さんは、自分の出番が無いのに、カメラの後ろの、いちばん端に立っていた。
全員の顔が、同じ方向を向いていた。
その方向に、俺がいた。
◇
スタジオの音が、遠のいた。
輪郭が、はっきりした。
背筋が伸びた。
◇
改札の柵の、上から三番目の横棒に、テープの切れ端が一つ残っているのが見えた。
弁当は、あと二箱くらい余っていた。今日で終わりなら、それをもらって帰れないだろうか。
◇
俺は改札を通って、まっすぐ歩いた。
止まらなかった。振り返らなかった。
照明の四つが、正面から来る。近づくほど明るくなって、途中から足元しか見えなくなった。足元は灰色で、そこにテープが一本だけ貼ってある。俺はそのテープの上を歩いた。
テープが終わった。
終わってからも、まだ歩いた。
声は、かからなかった。
◇
スタジオの奥の壁のところで、俺は立ち止まった。
立ち止まったのは、壁があったからだ。
後ろを向いた。
後ろのほうは、暗かった。四十人が、暗いところに立っていた。
◇
「カット」
芹沢さんの声だった。
カメラの後ろの人は、カメラから手を離さなかった。脚立の上の人は、片手を上げたままだった。記録の人の紙は、めくられなかった。制作の人が二人、向かい合ったまま、どちらも次の一歩を出さなかった。
柵の向こうで、誰かが息を吸う音がした。
◇
「オールアップです」
助監督の人が言った。
言った瞬間に、音が戻ってきた。
◇
拍手が始まった。
拍手というのは、始まるときに一人目がいる。一人目がどこにいたのかを、俺は見ていなかった。見ていないうちに、四十人ぶんになっていた。
花束が来た。
白い紙で巻いてある。持ったら、思っていたより重かった。水を含ませたやつが根元に入っているらしい。
俺は頭を下げた。
下げて、上げた。上げたところで、また拍手が大きくなったので、もう一度下げた。二度目は、上げるところが難しかった。
◇
花束を胸の前で抱えたまま、いつまでも頭を上げない主演が、そこに一人いた。
◇
芹沢さんが来た。
来て、俺の前に立った。手にコーヒーの紙コップを持っている。紙コップの縁が、親指のところだけへこんでいた。
「水無瀬。花、水に挿せ。今日中に」
「はい」
芹沢さんはコップを持ち替えた。
「明日は無い」
「はい」
それで終わりだった。芹沢さんはモニターのあった場所のほうへ歩いていって、そこにモニターが無いことに気づいて、少し立ち止まっていた。
◇
桐生さんも花束を持っていた。
持って、こっちに歩いてきた。
「高町くん、二十時じゃなかった」
「早かったです」
「僕の負けだね」
「賭けてません」
「そうだった」
桐生さんは花束を右手に持ち替えた。持ち替えて、左手をこっちに出した。
俺はその手を握った。
桐生さんの手は、指の付け根のところが硬かった。握り返してくる力が、思っていたより強い。
手を離して、桐生さんは自分の花束を持ち直した。持ち直して、マネージャーの人のほうへ歩いていった。
その人は、鞄の口を開けて、紙を三枚まとめて入れているところだった。桐生さんはその横に立って、こっちには背中を向けた。
◇
膝が、下から抜けた。
最初は、片方だけだった。片方だけだったので、俺はもう片方に体重を移した。移して、そのまま立っていた。
花束が重い。
持っていられなくなる前に、俺はそれを椅子の上に置いた。置いて、椅子の背に手をかけた。
手に力が入らない。入らないので、指を引っかけるだけにした。
視界の端が、白かった。
◇
「高町」
犬飼さんの声だった。
いつのまにか、横にいた。
「……あとで歩きます」
「そうしろ」
犬飼さんは、俺の腕を取らなかった。取らないで、椅子のほうへ半歩だけ動いた。
「ここにいろ」
「はい」
「俺は車を回してくる」
犬飼さんは行った。
行くときに、有本さんに何か言った。有本さんは、俺のほうへ来て、俺の隣の椅子に座った。座って、タブレットを膝の上に置いて、それから何もしなかった。
壁際で、照明の人が脚立の一段目に腰を下ろしていた。両手を膝に置いて、下を向いている。朝の四時にはもう入っていたと、昼に助監督の人が言っていた。
その向こうで、美術の人が二人、柵を運ぶ途中で一度床に下ろした。下ろして、二人とも同じ側の肩を回した。
◇
スタジオの中では、片付けが始まっていた。
照明の人が脚立から下りて、脚立を畳んだ。美術の人が改札の柵を持ち上げて、二人がかりで運んでいった。券売機は、思っていたより簡単に動いた。
制作の若い人が、床にしゃがんでいた。
テープを剥がしている。
俺の立ち位置に貼ってあった白いテープを、端から剥がして、剥がしたぶんを指に巻き付けていた。巻き付けて、少し太くなったところで、また巻いた。
その人が、俺のほうを見た。
「高町さん、これ、いりますか」
「いいんですか」
「捨てるだけなので。三ヶ月おんなじところに貼ってたやつなんで、なんとなく捨てにくくて、さっきから丸めてました」
俺はそれを両手で持った。
白いテープの塊は、思っていたより軽かった。軽いが、握ると少しだけ形が変わる。変わったところは、指を離しても戻らなかった。
◇
車に乗った。
乗って、シートに背中をつけた。
そこから先は、あまり覚えていない。次に気づいたときには、外が暗くなっていて、犬飼さんが後ろを向いていた。
「着いたぞ」
「はい」
「明日は無い。十三日まで無い」
俺は花束と鞄とテープの塊を持って、車を降りた。
降りるときに、右足が半歩ぶん遅れた。遅れたが、転ばなかった。
◇
家に着いたのは十八時五十分だった。
母さんが花束を見て、両手で受け取って、そのまま台所へ持っていった。持っていってから、花瓶が無いことに気がついたらしく、しばらく戸棚を開けたり閉めたりしていた。
結局、麦茶を入れていた大きいポットと、コップを二つ使うことになった。ポットのほうは背の高い花で、コップのほうは短く切ったやつである。切るときに、母さんは一本ずつ長さを見比べていた。
俺は水に挿せと言われたことを伝えようとして、もう挿してあったので、やめた。
妹が下りてきた。
「兄ちゃん、それ何」
「花だ」
「見ればわかる」
俺は居間の床に座った。
座って、壁にもたれた。もたれたら、そのまま動きたくなくなった。
妹は俺の顔を見た。見て、何も言わずに、台所のほうへ行った。
◇
飯は食べた。
食べたが、食べ終わってからも、しばらくそこにいた。
テレビが点いていた。何をやっているのかは、見ていなかった。母さんが花を切っていて、はさみの音がしていた。父さんが帰ってきて、花を見て、「ほう」と言った。
テレビの音が変わったところで、俺は妹に「それ、まだやってるのか」と聞いた。
妹は答えないで、立ち上がって、定規を取りに行った。
◇
妹は定規で線を引いていた。
引いて、日付を書いて、その横に数字を書いた。
「百七十八分」
「そうか」
「帰ってきたのが十八時五十分」
「そうだったな」
「今、二十一時四十八分」
定規は、ページのあいだに入れたままだった。
妹は表紙を戻して、こっちを見た。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「花、あたしの部屋にも一本ちょうだい」
俺は母さんのほうを見た。母さんは、もう三つに分けたあとだった。
◇
机の上に、白いテープの塊を置いた。
置いて、端をつまんで、巻き直した。
巻き直すと、少し小さくなった。小さくなったところに、折れ目が一つある。三ヶ月のあいだ、そこに靴の先が当たっていたところだ。
俺はそれを机の左の端に置いた。置いたら、消しゴムがまた反対の端に寄っていた。
下から、妹の声がした。
「兄ちゃん、日曜、いる?」
「いる」
「絶対だからね」
「いると言った」
「二回言って」
「いる」
妹は階段を降りていった。
降りる音が、四段目のところで一度だけ鳴った。




