第68話 言いたくなったら言え
二日ぶんの弁当を、二日とも全部食べた。
水曜の分は鯖だった。木曜の分は、まだ開けていない。開けていないが、たぶん食べる。
その木曜の朝、五時半に来た車は、犬飼さんの車だった。
「六時半集合だ。乗れ」
「はい」
俺は後ろに乗った。
乗って、シートベルトを締めて、そこで一度、運転席のほうを見た。
犬飼さんの上着の色が、いつもと違った。紺ではなく、灰色だった。それだけだ。
◇
車が高速に乗ってから、運転席のほうで声がした。
「有本から聞いたか」
「病院に行ったと聞きました」
「行った。夜のうちに済ませたかったんだが、受付が終わってて、朝まで待たされた」
「はい」
それきり、しばらく何も言わなかった。
俺は窓の外を見た。外はまだ暗い。防音壁の継ぎ目が、規則正しく後ろへ流れていく。
継ぎ目の数を数えていたら、二十いくつで、車が車線を変えた。変えたところで数がわからなくなったので、そこでやめた。
前の車のブレーキランプが、一度だけ光った。光って、消えた。犬飼さんは速さを落とさなかった。落とさなかったので、車間だけが少し詰まって、また元に戻った。
インターチェンジを出たところで、犬飼さんがもう一度言った。
「昼に、上へ行く」
「上ですか」
「上だ」
どこの上なのかは、そこでは言わなかった。
◇
スタジオに着いたら、俺の椅子の場所が変わっていた。
昨日までは壁際に置いてあった。今日は、セットの裏の、暖房の風が下りてくるところに移してある。背もたれの紙も貼り替えてあった。
横に、同じ折りたたみの椅子がもう一脚、向かい合わせに置いてある。
「高町さん、そっちに足を乗せてください」
制作の若い人が言った。三日に手が震えていた人である。
「足をですか」
「横になれる場所が無いので、せめて足だけでも上げておいてもらえると、こっちの気が済みます」
「はい」
その人は、俺が座って足を乗せるまで、そこに立っていた。立って、それを見届けて、走っていった。
◇
七時の休憩に、衣装の人が毛布を持ってきた。
「これ、使ってください」
「ありがとうございます」
「わたし、いつも一枚多く持ってくるので」
「はい」
九時の休憩に、録音部の人が来た。
「高町さん、寝ていいですよ」
「はい」
「呼ぶときは正面に回ってから呼びますし、それでも起きなかったら、起きるまで正面で待ちます」
「はい」
「肩は叩きません」
昼までに、同じ話を三人から聞いた。
一、高町を後ろから呼ばない。二、返事がなくても揺すらない。三、先に正面へ回る。
助監督の人が、その三つを紙に書いて、記録の人の机の横に貼っていた。字が大きかった。
紙の四隅は、養生テープで留めてある。留めたのは四か所だが、右下の一枚だけ、色が違うテープだった。途中で足りなくなったらしい。
◇
俺は毛布を膝にかけて、目を閉じた。
閉じたら、毛の先が鼻に当たった。当たるので、少し下げた。下げたら膝が寒い。上げると鼻に当たる。
十分やって、起きた。
俺は毛布を畳んで、椅子の上に置いた。
置いたところで、衣装の人が通りかかって、それをまた広げていった。
◇
午前中は、券売機の前のカットを撮った。
俺と桐生さんが並んで立っていて、桐生さんだけが喋る。俺は喋らない。喋らない役をやるのは、これで何度目かわからない。
「水無瀬、券売機の画面を見る。伊吹が喋り終わるまで見てる」
「はい」
「見てるだけでいい」
芹沢さんはそう言って、モニターのほうへ戻った。
俺は券売機の画面を見た。画面には、駅の名前と、値段が並んでいる。この駅からいちばん遠い駅は、四百八十円だった。
四百八十円あれば、コンビニでおにぎりが二つと、茶が一本買える。おにぎりを三つにすると、茶が入らない。入れるなら、小さいほうの茶にするしかない。
カットがかかるまで、俺はその計算をしていた。
◇
十一本撮って、昼になった。
弁当は、鶏だった。
俺は箸が止まらないうちに食べ終えた。空いた箱に蓋をして、輪ゴムを一本かけた。
食べ終わったところで、犬飼さんが横に来た。
「行くぞ」
「はい」
◇
スタジオの隅に、鉄の扉がある。
その中に階段があった。階段は建物の中を、まっすぐ上に向かって続いている。コンクリートの壁で、途中に窓が一つもない。電球が階ごとに一つずつ点いていた。
俺は犬飼さんの後ろを上がった。
二階ぶん上がったところで、犬飼さんが上着のポケットから缶を二つ出した。両方とも同じやつだった。
振り返らないまま、片方を後ろへ出してくる。
「一本やるか」
「はい」
「下の自販機に、これしかなかった。四つ並んでて、三つが売り切れの赤いランプだ」
「はい」
「甘いぞ」
「飲みます」
俺は受け取った。
缶は温かかった。ポケットに入っていたぶん、余計に温かい。
微糖ではなかった。微糖ではないが、階段の途中で渡された甘いやつには、微糖には無い良さがある。良さがあるということにしておかないと、この一本を飲みきれない。
三階ぶん上がったところで、犬飼さんの足が少し遅くなった。遅くなって、また元に戻った。
遅くなったぶん、俺も一段ぶん遅れた。遅れたところで、電球が一つ切れているのが見えた。四階ぶんのうち、三つは点いていて、いちばん上の一つだけが点いていない。
四階ぶん上がると、もう一枚、鉄の扉があった。
犬飼さんはその扉を押した。
押したら、風が入ってきた。
◇
屋上だった。
床は緑色に塗ってあって、その塗料が何か所か剥げていた。剥げているところは、コンクリートの灰色が出ている。
真ん中に給水塔が立っていた。四本の脚の上に、丸い箱が乗っている。その横に、室外機が六つ並んでいた。六つとも同じ方向を向いて、同じ音で回っている。
柵は腰より少し高い。柵の向こうに、同じような四角い建物が二つ見えた。その向こうは、住宅の屋根が続いていた。
空は、三月の空だった。
柵のところまで歩いて、下を見た。トラックが一台停まっていて、その荷台から、白い板を四人がかりで下ろしている最中だった。板は下ろされてから、建物の横の壁のところまで運ばれて、そこに立てかけられた。立てかけたあとで、四人のうち二人が同じ方向を見て、同じ場所を指さした。何を指さしているのかは、上からだとわからない。
風が来ると、耳のところが冷たくなる。
◇
風で、腹のあたりが冷えた。
鶏の弁当を食べてから、まだ二十分もたっていない。上着の裾が風で持ち上がって、シャツの上を通っていった。
犬飼さんは、給水塔の脚のところまで歩いた。
歩いて、上着の内側から封筒を出した。出して、それを柵の上に置いた。置いたが、開けなかった。
「検査の結果だ」
「はい」
「異常なしだった」
俺は封筒を見た。角が少し折れている。
「胃は」
「胃も、写真では何もない」
「そうですか」
「胃も心臓も年相応で、足りてないのは睡眠だけだ、と言われた。三時間しか寝てない人間の数字にしては、むしろ良すぎるそうだ」
犬飼さんは封筒の端を指で押さえた。風で少し動いたからだ。
「その医者、俺と同い年だった」
「はい」
「同い年の男に、寝ろと言われた」
犬飼さんは、そこで少し息を吐いた。
吐いた息が、白くならなかった。三月の昼は、そこまで寒くないらしい。俺の腹だけが寒い。
◇
俺は缶を開けた。
開けて、一口飲んだ。甘い。甘いが、飲めないほどではない。
犬飼さんも自分のを開けた。開けて、一口だけ飲んで、柵の上に置いた。
◇
風の音が、しばらく続いた。
室外機の音は、風の音の下にある。下にあるが、消えない。
「高町」
犬飼さんが言った。
「はい」
犬飼さんは、給水塔のほうを向いていた。
「三日は、驚いた」
「すみません」
「謝ることじゃない」
犬飼さんは缶を持ち直した。
「救急車を呼んだのは、正しい」
「はい」
「呼ばなかったほうが、あとで困る」
俺はうなずいた。うなずいたが、犬飼さんはこっちを見ていないので、たぶん伝わっていない。
◇
「高町」
犬飼さんがもう一度言った。
今度は、こっちを向いていた。
「君は」
そこで、言葉が止まった。
止まって、犬飼さんは給水塔の脚のところを見た。脚の根元に、水がたまった跡がある。今は乾いていて、輪の形だけが残っていた。
風が来て、封筒の角が持ち上がった。
犬飼さんは、それを手で押さえた。押さえたまま、しばらくそこにいた。
それから、手を離した。
◇
「言いたくなったら言え」
柵の上の缶が、風で少しだけ動いた。
「はい」
「それまで、俺は何も聞かない」
室外機が六つ、同じ音で回っていた。
俺は缶を持っていた。持っている手が、缶の温かいところにあたっている。
「はい」
俺はそう言った。
◇
風が来た。
目のところが、少し冷たくなった。
頬に、線が一本通った。それから、もう一本通った。
顔は動かない。
俺は缶を持っていないほうの手の甲で、それを拭いた。
拭いて、犬飼さんのほうを見た。
犬飼さんは、柵の向こうを見ていた。
◇
犬飼さんは、封筒を取って、上着の内側に入れた。
入れて、柵の上の缶を持った。
「四月から、三年だな」
「はい」
「始業式は」
「七日です」
「八日は現場だ」
「はい」
「二日目から公欠だ」
犬飼さんはそう言って、少しのあいだ黙った。
「書類は有本が出す」
「はい」
「学校のほうは、去年より通る。理由は聞くな」
俺は聞かなかった。
◇
犬飼さんは、缶の残りを飲んだ。
飲んで、缶を潰さずに、そのまま手に持った。
「降りるぞ」
「はい」
俺も残りを飲んだ。甘いやつは、最後の一口がいちばん甘い。
缶を二つ、犬飼さんが持った。俺が持ちますと言ったら、いいと言われた。
◇
鉄の扉を閉めたら、風の音が消えた。
階段は、上がってきたときと同じ暗さだった。
俺は犬飼さんの後ろを降りた。降りながら、段の数を数えた。数えて、二階ぶんで、やめた。数えても何も出ないことに気がついたからだ。
途中の踊り場に、空の段ボールが二つ積んであった。上がるときには気づかなかった。上がるときに見ていたのは、前の背中だけだった。
「四月八日だ」
「なんの日ですか」
「終わりの日だ」
◇
午後は、二カットだった。
一つ目は、桐生さんが喋り終わったあとで俺が振り返るところ。二つ目は、改札を通るところである。
一つ目と二つ目のあいだに、桐生さんが横に来た。
来て、俺の椅子の、向かい合わせの一脚のほうを見た。
「それ、足を乗せるやつ?」
「そうらしいです」
「僕のところには来なかった」
「はい」
「いいなあ」
桐生さんは、その椅子の座面を指で押した。押して、へこまないことを確かめて、指を離した。
「犬飼さん、大丈夫なの」
「異常なしだそうです」
「そう」
桐生さんはうなずいた。うなずいて、それから、自分のマネージャーの人のほうを見た。
その人は、壁際で紙を三枚並べて、順番を入れ替えていた。
「うちのも、痩せた」
「はい」
「三ヶ月やってると、現場より先に事務所の人が削れていくんだって、前にうちの社長が言ってた。順番が逆だと思うんだけどね」
桐生さんは、そこで話をやめて、セットのほうへ戻っていった。
◇
改札のカットは、七本撮った。
七本とも、俺は同じ速さで歩いた。速さを変えろとは言われなかったので、変えなかった。
六本目のあとで、記録の人が紙から顔を上げた。
上げて、また下げた。
七本目のあとで、芹沢さんが「次」と言った。
次は無かった。無かったので、そこで今日は終わりになった。
夕方に一度、雨の音がした。屋根を叩く音だった。中は暗くしてあるので、外がどうなっているのかは音でしかわからない。
二十時に上がった。
出口のところに、有本さんがいた。
「高町さん、三月二十四日は午前中だけ空いています」
「はい」
「二十四日の午前は誰の予定も入れないように、犬飼が先週のうちに現場へ通してあります」
「はい」
「書類は、わたしが出します」
有本さんはタブレットの端を触った。
「電話、四本でした」
「四本ですか」
「今日は四本です」
有本さんは頭を下げて、車のほうへ歩いていった。
◇
帰りの車で、犬飼さんは一度もポケットに手を入れなかった。信号で止まったときも、両手はハンドルの上にあった。
俺は後ろの席で、それを二回だけ見た。
◇
家に着いたのは二十一時十分だった。
台所の電気は点いていた。点いていたが、人はいなかった。
俺は鞄を持ったまま二階に上がった。
部屋が少し暑かったので、カーテンを開けて、窓を五センチだけ開けた。
外から、遠くで犬の鳴く声がした。
「あんた、上着に埃がついてるわよ」
人形が言った。
「屋上に行った」
「屋上」
「風が強かった」
俺は上着を椅子の背にかけた。
「誰と行ったの」
「犬飼さんとだ」
「何か言われた?」
「言いたくなったら言え、と言われた」
人形は、しばらく何も言わなかった。
言わないで、台座の上で少し向きを変えた。窓のほうだった。
「その人、何を聞こうとしたか言った?」
「言わなかった」
「そう」
人形は窓のほうを向いたままだった。
「あんた、その人に何か言ったの」
「はいと言った」
「それだけ?」
「それだけだ」
人形は、そこで一度、こっちを向いた。
「あんた、それでいいのよ」
俺は窓を閉めて、カーテンを引いた。
◇
俺は階段を降りた。
四段目が少し鳴った。鳴る場所は決まっているので、踏まずに降りることもできる。今日はやらなかった。
台所の皿に、ラップがかかっていた。横に紙が置いてあって、母さんの字で「レンジ二分」と書いてある。
俺は温めて、食べた。豚とキャベツだった。
食べていたら、妹が下りてきた。
「兄ちゃん、制服の採寸、行ってきた」
「そうか」
「袖が余った」
「伸びる」
「伸びなかったら」
「伸びる」
妹は袖を引っぱる真似をした。真似をして、冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉めた。
「あと、上履き買った」
「そうか」
「緑だった」
「そうか」
「三年って、何色?」
俺は知らなかった。
「知らん」
「調べときなよ」
「四月に見ればわかる」
妹は俺の皿からキャベツを取っていった。取って、そのまま上がっていった。
◇
皿を洗っているときに、電話が光った。
美咲だった。
〈木曜の分、私が出しといた〉
その下に、もう一行あった。
〈次はないから〉
俺は〈ありがとう〉と返した。
返してから、もう一行足した。
〈二十四日は行ける〉
既読が付いた。
しばらくして、返事が来た。
〈知ってる〉
〈有本さんから電話が来た〉
俺は電話を置いた。
置いてから、この二人はいつ連絡先を交換したんだろうと思った。
思ったが、思っただけだった。




