第67話 寝ていただけなのに救急車が来た
目覚ましより先に起きた。
三時五十分だった。目覚ましは四時にかけてある。十分あるので、俺は天井を見た。見ていたら、九分たった。九分というのは、何もできない長さだ。
昨日の夜、妹が三回下りてきた。
一回目は二十二時で、二回目がいつだったかは知らない。三回目のとき、階段が鳴って、そのあと台所の電気がついて、しばらくしてまた消えた。消えたあと、妹は自分の部屋のドアを二回開け閉めした。
三回とも、起きて、また寝た。
◇
台所に下りたら、母さんがもう立っていた。
「ごはん、二杯でいい?」
「三杯で」
「三杯」
「昼が遅いので」
母さんは何も言わずに炊飯器を開けた。開けて、しゃもじを入れて、そこで一度止まった。
「昨日の赤飯、持ってく?」
「持ってく」
茶碗を三つとも空にして、最後に漬物の皿だけが残った。赤飯の残りは包んでもらった。
妹は下りてこなかった。
◇
五時半に、車が来た。
犬飼さんだった。今日は有本さんではない。
「高町」
「はい」
「六時半集合だ」
俺は後ろに乗った。乗ったところで、シートが冷たかった。今日は暖房を先に入れていないらしい。
外はまだ暗い。街灯の下だけが明るくて、そこを白い息が横切っていく。三月になっても、朝の色は二月と同じだった。
犬飼さんはハンドルを両手で持っていた。
持ったまま、信号で止まったときに、左手を上着の内側に入れた。上着の布が、内側から少しだけ盛り上がっていた。信号が青になって、手が戻ってきた。何も持っていなかった。
「今日は、駅前の続きだ」
「はい」
「夜のところをやる。昼のうちに全部囲うらしい」
囲うというのがどういう作業なのかは、わからない。
「わからないです」
「黒い布で、外の光を止める」
「はい」
「昼に夜を撮るんだ」
昼に夜を撮るらしい。ガードレールの向こうは、まだ夜だった。
◇
砧のスタジオに着いたのは六時二十分だった。
中は寒い。三月になっても、上のほうにしかない暖房は、上のほうしか暖めない。
駅前のセットの上に、黒い布が張ってあった。天井の梁から、幕みたいに下がっている。下がっているせいで、スタジオの中がさらに暗い。
俺は自分の椅子に座った。背もたれに紙が貼ってあって、そこに名前が書いてある。
朝の一本目は、七時十五分に始まった。
改札の前を通って、券売機の前で止まって、そこから振り返る、というカットだった。台詞は無い。
「水無瀬、振り返るのは布の切れ目のところで」
「はい」
「速さは、歩いてきたのと同じで」
芹沢さんは、それしか言わなかった。
◇
午前中に、四カット撮った。
四カットのあいだ、俺は同じところを何回か歩いた。歩いて、止まって、振り返った。ちゃんとできているのかどうかは、俺にはわからない。わからないので、言われた場所で止まって、言われた向きに振り返った。
照明の人が、途中で脚立から下りてきて、床のテープの位置を五センチずらした。ずらして、上へ戻っていった。
記録の人は、四カットとも、俺が振り返る前に紙を見て、振り返ったあとにまた紙を見ていた。
昼の弁当は十二時に出た。
白い箱で、中は生姜焼きと、ごはんと、切り干し大根だった。俺は全部食べて、そのあと母さんの赤飯を出して、それも食べた。
◇
午後は、待ちだった。
夜のセットを、もっと暗くするらしい。布を足すのと、照明を組み直すのと、両方をやると三時間かかると助監督の人が言っていた。
「高町さん、十六時までは動かないです」
「はい」
「寒いので、上着、借りていってください」
俺は厚い上着を借りた。
借りるときに、その人が袖を裏返して、名前の書いてあるところを見せてくれた。書いてあったのは、その人の名前ではなかった。誰のものかは、その人も知らないらしい。
俺は壁際のパイプ椅子に座った。
座って、台本を開いた。
開いたページの字が、少しにじんで見えた。目が乾いているせいだと思う。昨日の夜に三回起こされて、今朝は三時五十分に起きた。
――今から帰れば、風呂に入って、飯を食って、それでもまだ日が変わらない。
まだ十三時である。
俺は台本を膝の上に置いた。
置いたところまでは、覚えている。
◇
次に聞こえたのは、人の声だった。
声は遠かった。遠いところで、誰かが誰かの名前を呼んでいる。呼ばれているのは俺の名前ではない気がした。
そのあと、体が少し揺れた。
揺れて、また止まった。
そのあいだ、俺の頭の中には、何もなかった。
◇
目を開けたら、天井が動いていた。
スタジオの天井には鉄の梁が渡っていて、そこに照明が下がっている。その梁が、右から左へ、ゆっくり流れていった。
梁が流れているのなら、動いているのは俺のほうだ。
俺は上半身を起こした。
起こしたところで、下から声がした。
「動かないで!」
知らない人だった。オレンジ色の服を着ている。
その人が、俺の肩を押さえた。俺は押さえられたまま、周りを見た。
布が張ってある。券売機がある。カメラの後ろに人がいて、その人たちが全部こっちを見ていた。カメラの脇にも、脚立の上にも、柵の向こうにも、人がいた。
俺は担架の上にいた。
◇
「何か、ありました?」
俺は言った。
誰も答えなかった。
オレンジ色の服の人が二人と、その後ろに、白いシャツの人が一人いた。白いシャツの人が、手に何かを持っている。血圧を測るやつだった。
俺の腕に、それが巻いてある。
「名前、言えますか」
「高町灯真です」
「今日の日付」
「三月三日です」
「ここはどこですか」
「砧です」
白いシャツの人が、後ろを向いた。
後ろに、助監督の人がいた。助監督の人は、両手を体の横につけて立っていた。
◇
「高町さん、返事してくださいよ」
制作の若い人が言った。
まだ二十代の前半に見える人で、その人の手が、まだ少し震えていた。
「すみません」
「呼んだんです。三回」
「聞こえませんでした」
「肩、叩いたんですよ」
「すみません」
「揺すりましたよ、けっこう強く。それでも起きないから、大きい声出しちゃって」
「すみません」
「そしたら人が来て、手首持って、脈はあるって言って。あの人、美術の助手なんですけど、あとで聞いたら脈の取り方知らないらしくて」
「はい」
「息してるかどうかで三人くらいで揉めました」
その横で、助監督の人が言った。
「うちの敷地は門が二つあるんだ。どっちに来るか誰も決めてなかったから、二人走らせて、一人は反対側の門で待ってた」
「はい」
オレンジ色の服の人が、腕時計を見た。
「電話をもらってから、ここに着くまでで十一分です」
「十一分ですか」
「そのあいだ、ずっと寝てましたよ。揺すっても起きないので、こっちも急いで来ました」
制作の若い人は、口を開けて、閉じた。
開けて、閉じて、それからこう言った。
「……よかった」
◇
オレンジ色の服の人が、俺の腕から血圧のやつを外した。
「血圧は正常です。脈も」
「はい」
「昨日の夜、何時間寝ました」
「三時間くらいです」
「途中で起きました?」
「三回起きました」
「今朝は何時に起きたんですか」
「三時五十分です」
「それで六時半に集合して、昼まで立ってたわけですね」
「はい」
その人は、ペンの後ろで自分の眉を掻いた。
掻いて、後ろにいる大人たちのほうを向いた。
「寝てないだけです、この子」
スタジオの中で、いくつかの音が同時に止まった。
ケーブルを持っていた人が、ケーブルを床に置いた。脚立の上の人が、脚立の上で座った。柵の向こうの人が、柵から手を離した。
「病院は」
助監督の人が聞いた。
「本人が行きたければ。ただ、これは寝れば治ります」
◇
――担架の上で、上半身だけ起こして、周りに向かって順番に頭を下げている十七歳。
◇
「高町」
犬飼さんの声だった。
「はい」
俺は担架から下りた。下りたら、足が普通に動いた。普通に動くので、俺は歩いた。
犬飼さんは、柵のところに立っていた。
立っていたが、立ち方がおかしかった。柵の横棒に、右手を置いている。置いているというより、乗せていた。
俺が三歩ぶん近づいたとき、犬飼さんが半歩だけ動いた。
動いて、そこで止まった。
止まった場所は、さっきいた場所と同じだった。
◇
オレンジ色の服の人が、俺の後ろから来た。
来て、俺を通り越して、犬飼さんの前に立った。
「そちらの方」
「俺は違う」
「顔色を見せてください」
「仕事中だ」
「見せてください」
犬飼さんは、右手を柵から離した。
離して、上着の内側に入れた。出てきた手に、箱があった。その人は、犬飼さんの顔ではなく、その箱のほうを見た。
「それ、一日に何回ですか」
「決めてない」
「今日は何回目です」
「数えてない」
その人は、後ろの人を呼んだ。
◇
スタジオの真ん中で、大人が四人、立ったまま話していた。
助監督の人と、制作の人と、オレンジ色の服の人と、犬飼さん。話しているのは三人で、犬飼さんは首を横に振っていた。
振っていたが、途中から、振らなくなった。
俺は壁際の椅子のところに戻って、上着を着直した。着直しているときに、有本さんが入ってきた。
入ってきて、まっすぐ俺のところへ来た。
「高町さん、大丈夫ですか」
「寝てただけです」
「そうですか」
有本さんはタブレットを胸の前で持ち直した。持ち直して、画面を見た。
「電話、六本です」
「六本ですか」
「今日の午後だけで、六本です」
有本さんはそう言って、スタジオの真ん中のほうを見た。
見て、それきり何も言わなかった。
◇
十六時二十分に、撮影が再開した。
芹沢さんは、モニターの前から動いていなかった。俺が立ち位置に着いたときも、こっちを見なかった。
「水無瀬、布の切れ目が変わった。三十センチ左だ」
「はい」
「速さは、朝と同じで」
それだけだった。
俺は歩いて、止まって、振り返った。芹沢さんは、朝と同じ言い方で「次」と言った。
◇
夕方の休憩に、桐生さんが来た。
紙コップを二つ持っていた。片方を、こっちへ差し出してくる。
「高町くん、これ」
「ありがとうございます」
中は白湯だった。
「僕、さっき走ったんだ」
「はい」
「担架が見えたから、走った。走ってから、走っても自分にできることが一つも無いことに気がついた」
紙コップの上の湯気が、そこで一度だけ横に流れた。
息だ。
顔のほうは、目が先に細くなって、口はそのあとだった。戻るときは、両方が同時だった。
速い。
柵の向こうでは、制作の若い人が、パイプ椅子を一脚、元の場所へ運んでいるところだった。
「それで、途中で止まったら、止まったところに録音部の人がいて、ぶつかった」
「大丈夫でしたか」
「向こうが謝ってきた。おかしいよね」
桐生さんは紙コップの縁を、親指で一周させた。させて、飲まなかった。
「寝てたんだって?」
「寝てました」
「そう」
桐生さんは、自分の紙コップの中を見た。
「僕は、現場で寝られたことがない」
そう言って、桐生さんは自分の椅子のほうへ戻っていった。
戻る途中で、床のケーブルを一本またいだ。またぐときに、足の先が先に上がった。
◇
鞄の中で、電話が震えていた。
震えていたのは、たぶん、担架に乗っているあいだだ。気づいたのは、十七時の休憩に入ってからだった。
妹からだった。
着信が二回。そのあとに、文字が来ている。
〈受かった〉
その下に、もう一行あった。
〈電話出ろ〉
俺はかけ直した。
二回鳴って、出た。
「兄ちゃん」
「受かったか」
「受かった」
「そうか」
「そうかじゃないでしょ」
妹の声の後ろで、母さんが何か言っていた。何を言っているのかは聞こえなかった。
「番号、あった?」
「あったよ」
「見間違いじゃないな」
「三回見た」
三回見たなら、間違いない。
「兄ちゃん、何時に帰る」
「二十二時前だ」
「じゃあ、起きてる」
「寝てろ」
「起きてる」
電話が切れた。
◇
俺は電話をポケットに入れて、椅子に戻った。
戻ったところで、有本さんが横に来た。
「高町さん、何かありましたか」
「妹が受かりました」
「高校ですか」
「はい」
「おめでとうございます」
有本さんは頭を下げた。俺も下げた。
下げてから、有本さんはタブレットに何か打った。打って、指を止めて、そのまま消した。消したのは、画面が二回光ったからわかった。
◇
二十一時四十分に、上がりになった。
帰りの車は有本さんだった。犬飼さんは、十八時の時点でスタジオにいなかった。
「犬飼さんは」
「病院です」
「今日ですか」
「今日です」
有本さんは前を向いたまま言った。
「本人は、明日でいいと言っていました」
「はい」
「行きました」
車は環八に出た。信号で止まるたびに、前の車のブレーキランプが赤くなる。
俺は後ろの席で、母さんに包んでもらった紙を鞄から出した。出したが、赤飯はもう昼に食べていた。紙だけが残っていた。
◇
家に着いたのは二十二時四十分だった。
台所の電気が点いていた。
妹が椅子に座っていた。座って、テーブルに突っ伏していた。突っ伏したまま、こっちを見た。
「遅い」
「そういう日だ」
テーブルの上に、赤飯があった。
二日連続である。今度は小豆の期限の話ではなかった。
「母さんが炊き直した」
「食う」
「あたし、もう三回食べた」
俺は座って、食べた。
妹は突っ伏したまま、しばらく動かなかった。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「受かった」
「聞いた」
妹は顔を上げた。上げて、また下ろした。
「兄ちゃんと同じとこ」
「知ってる」
「四月から、階が違うだけだね」
俺は箸を止めた。
止めて、また動かした。三年の教室は三階で、一年の教室は一階だと、たしかそうだった気がする。
◇
二階に上がって、鞄を床に置いた。
畳んであった布団を敷いて、上着を椅子の背にかけた。かけたところで、電話が光った。
画面に、一行だけ来ていた。
〈明日と明後日、有本が行く〉
名前は登録していないが、この番号は知っている。
俺は〈はい〉と返した。
返したところで、もう一行来た。
〈木曜、話がある〉




