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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第66話 頂点にいる人の手

 三月一日の朝、食卓に赤飯が出た。


 妹の発表は三日だ。まだ二日ある。それなのに赤飯が出ていた。


「気が早くない?」


 妹が言った。


「炊いちゃったのよ」

「炊いちゃったって、なに」

「小豆が期限だったの。三日にもういっぺん炊くつもりでいるから、今日食べたぶんは減ったうちに入らないわよ」


 母さんはそう答えて、自分のぶんをよそった。


 妹は箸を持ったまま、しばらく茶碗を見ていた。俺は二杯目をよそった。小豆の期限と、赤飯がうまいことのあいだには、なんの関係もない。関係がないので、俺は普通に食べた。


「兄ちゃん、よく食べられるね」

「うまいからだ」

「兄ちゃんはいいよね。受かるも落ちるもないんだから。あたし、昨日から茶碗の底ばっかり見てる」

「味は」

「しない」

「じゃあ、こっちにくれ」

「あげない」


 妹は茶碗を自分のほうへ寄せた。寄せて、そのまま二分くらい持っていた。


 父さんが新聞をめくった。めくって、こう言った。


「まあ、受かる」


 父さんはそのまま新聞に戻った。母さんは小豆の鍋を洗いはじめた。


   ◇


「兄ちゃん、今日は」

「事務所だ」

「土曜なのに」

「土曜だからだ」


 撮影は今日と明日が無い。


 三ヶ月の紙の、三月一日と二日のところに、色が塗っていない。塗っていないので、レッスンの振替が入った。金曜の夜に犬飼さんが車の中で「土曜の午後だ」と言って、そのあとは何も言わなかった。


 妹は指を折った。折って、途中でやめた。


「二日と、三日でしょ」

「そうだな」

「今日を入れると三日じゃん」

「今日はもう始まってる」


 妹は俺を見た。見て、何か言おうとして、味噌汁を飲んだ。


   ◇


 家を出たのは十三時前だった。


 桜坂の駅の階段は二十七段ある。上から九段目が少し欠けていて、雨の日に滑る。今日は乾いていた。乾いている日は、九段目のことを思い出さないまま上りきってしまう。今日は思い出したので、踏まなかった。


 電車の中で、鞄のポケットが震えた。


 美咲だった。


 〈三月の分。木曜までに出すやつが二つある〉


 そのあとに、日付と、科目と、提出先が並んでいた。三行ある。


 俺は〈わかった〉と返した。


 返した二十秒後に、また震えた。


 〈わかったって、どっち〉


 どっちも何も、二つとも出すという意味だった。俺はそう返した。返してから、そこに書いてある日付を見た。木曜は、香盤で色が塗ってある日だった。


 俺は〈木曜は現場だ〉と送った。


 既読が付いて、しばらく何も来なかった。


 電車が二駅ぶん進んだところで、来た。


 〈知ってる〉


   ◇


 事務所に着いたのは十三時五十分だった。


 土曜の昼の一階は静かだった。受付に人が一人いて、俺を見て、頭を下げた。俺も下げた。


 二階へ上がる階段は狭い。狭いのは前からで、上がるときに肩が壁をこする。前に一度、ここで人とぶつかって書類をぶちまけたことがある。


 二階の廊下は明るかった。突き当たりの自販機まで、全部見える。


 レッスン室Aのドアは閉まっていた。


 閉まっていたが、下の隙間から光が出ていた。


   ◇


 俺はドアを開けた。


 開けて、一歩入った。


「ぎ」


 入口から三枚目の板が鳴った。この部屋は、いつ来ても同じところが鳴る。


 中に、一人いた。


 鏡の前に、神楽坂さんが立っていた。


 グレーのスウェットの上下で、髪を後ろで一つに束ねていた。足は素足だった。床に水のボトルが一本と、タオルが一枚置いてある。音楽は鳴っていない。


 窓のブラインドが全部上がっていて、昼の光が床の半分まで入っていた。半分から向こうは、いつもの色をしている。


 神楽坂さんは動きの途中で止まって、こっちを見た。


   ◇


「あなた」


 そう言われた。


「すみません。二時から、ここです」

「知ってる」


 神楽坂さんは鏡から離れて、床のタオルを取った。


「私が二時まで。そのあと三時まではあなた。三時からは、また私」

「三つに分かれてるんですか」

「昨日、そう直した」


 俺は入口のところで立っていた。立っている以外に、することがなかった。


「使って」

「あの」

「私は三時から。それまで、ここにいる」


 壁際に行って、そこに座った。バーの下だった。膝を立てて、その上に腕を置いた。


 帰らないらしい。


   ◇


 俺は鞄を置いて、上着を脱いだ。


 今日やるのは、ストレッチを三十分と、基礎である。先生は来ない。振替の連絡に、そう書いてあった。


 俺は床に座って、脚を開いた。


 開いて、上半身を前に倒した。倒したが、床とのあいだにまだ拳が三つぶん入る。


 壁際から声がした。


「あなた、硬いのね」

「七十度です」

「なにが」

「股関節が」


 少しのあいだ、返事が無かった。


「測ったの」

「言われました」

「誰に」


 誰に、というのは答えにくい。人形に言われたとは言えない。


「先生です」


 俺はそう答えた。厳密には違う。ただ、七十度のほうは合っている。


「七十度」


 神楽坂さんは繰り返した。


「それで三ヶ月、主演やってるの」

「やってます」


 それには何も返ってこなかった。


 俺は前に倒れる作業に戻った。拳三つぶんは、今日も三つぶんだった。


   ◇


 三十分やって、俺は起き上がった。


 起き上がって、鏡の前に立った。


 基礎というのは、腕を上げて、下ろして、体の向きを変えて、また上げる、というのを順番にやることらしい。榊先生は二十分でやってみせた。俺は四十分かかった。


 鏡は三面ある。真ん中が正面で、左右が斜めについている。真ん中の前に立つと、左右にも俺がいる。左のやつと右のやつは、こっちを見ていない。角度の問題だ。


 腕を上げた。


 上げたところで、壁際の人が首を少しだけ動かした。


 部屋の音は、遠のかなかった。


 俺は腕を下ろして、また上げた。


   ◇


 二十分ほどして、神楽坂さんが水のボトルを取った。


 蓋を回して、一口飲んだ。飲んで、蓋を閉めた。


 ボトルを持っている左手が、光の当たっているところに出ていた。


 爪が短い。全部同じ長さに切ってある。指の関節が、指そのものより太い。人差し指の付け根と、その隣に、皮の色が変わっているところがあった。硬いほうの色だった。


 手は、そこにあるだけで、何もしていなかった。


   ◇


「神楽坂さんは」


 俺は言った。


「いつから、ここにいるんですか」

「七年」

「長いですね」

「十二人いた」


 俺は腕を下ろした。


「なにがですか」

「同期。私が入ったとき、十二人いたの」

「今は」

「私だけ」


 ボトルは床に戻った。戻った場所は、さっきと同じところだった。


「三年でいなくなった。全員」

「そうですか」


 俺はそう言った。ほかに言うことがなかった。


「あなた、なんとも思わないのね」

「思います」

「なにを」


 俺は少し考えた。


「十二人だと、うちのクラスの三分の一くらいだなと」


 神楽坂さんはこっちを見た。


 見て、二秒くらい何もしなかった。


「……三分の一」

「三十六人なので」

「そう」


 膝の上の腕が、組み直された。


   ◇


 傍から見ると、レッスン室の隅で、七年の話を聞いている後輩だった。


   ◇


「私ね」


 タオルの端を握って、そのまま話した。


「その十二人の中で、一番下だったの」


 俺は床に座った。座って、靴下を履こうとした。片方だけ履いて、もう片方が手の中にあった。


「一番下って」

「そのままの意味。踊れなかった。歌も、真ん中より下」

「はい」

「先生が名前を覚えるのが、私が最後だった」


 そこで、言葉が止まった。


 止めて、床の一点を見た。何も落ちていない場所である。


「今も、そう思ってる」


 部屋の中で、何かが鳴る音はしなかった。窓の外の音も、ここまでは来ない。


「今もですか」

「今も」


 神楽坂さんは言った。


「十二人の中で、一番下」


   ◇


 俺は、もう片方の靴下を履いた。


 履きながら、神楽坂さんがテレビに出ているところを思い出そうとした。思い出そうとして、思い出したのは去年の七月に見たライブの、いちばん前の列の後頭部の数だった。二十七人いた。


 二十七人。それが、俺の頭に残っていた全部だった。


「残りの十一人は」


 俺は聞いた。


「知らない。連絡先も残ってない」

「そうですか」

「一人だけ、去年、ここに来た」


 ボトルの側面を、親指で押していた。押すと、へこんで、離すと戻る。


「受付のところで見た。子どもを連れてた」

「話したんですか」

「してない」

「なんでですか」

「向こうが先に出ていったから」


 親指が離れた。ボトルが、こ、と鳴って戻った。


   ◇


「昨日、ありがとうございました」


 俺は言った。


「なに」

「差し入れです」

「ああ」


 神楽坂さんはタオルの端を指で折った。折って、また開いた。


「あれ、私が決めたんじゃない」

「じゃあ、誰がですか」

「量だけ聞かれた」

「誰にですか」


 答えは返ってこなかった。


 答えないで、水を一口飲んだ。飲んで、蓋を閉めた。閉めてから、こう言った。


「あなたの担当、前に私の担当だったの」

「犬飼さんがですか」

「一年だけ」

「知りませんでした」

「言うことじゃないから」


 俺の腹が、そこで鳴った。


 小さい音だったが、鏡も床も何も鳴っていなかったので、たぶん聞こえた。


 神楽坂さんはこっちを見た。見て、何も言わなかった。


「すみません」

「別に」

「昼を食べていません」

「なんで」

「時間の計算を間違えました」


 タオルが、膝の上に移った。


「そういうところ、直したほうがいい」

「はい」


   ◇


「あなた」


 神楽坂さんが言った。


 言って、そこで一度止まった。


「……高町くん」


 名字だった。


 俺は靴下の口を引き上げる手を止めた。


「なに」

「今、名字でした」

「そうだけど」

「初めてです」


 ボトルの蓋に、手がかかった。かかっただけで、回らなかった。


「……そう」


 いつもの返事だった。


   ◇


「高町くん」


 神楽坂さんはもう一度言った。


「あなた、七十度で、何度まで行くつもり」

「わかりません」

「ふつう、目標を言うところ」

「思いつきませんでした」


 神楽坂さんは、口の左のほうを先に上げた。


 右は、そのあとだった。


   ◇


 三時が近くなって、神楽坂さんは立ち上がった。


 立って、タオルを首にかけて、ボトルを持った。


「三時から、私が使う」

「はい」

「あと十分ある」

「はい」


 鏡の前まで歩いて、そこで一度、足の裏で床を確かめるみたいに体重を移した。


 それから、ドアのほうへ歩いた。


 歩いて、入口から三枚目のところで止まった。


 止まって、その板を、素足でもう一度踏んだ。


「ぎ」


 鳴った。


 そのまま部屋を出ていった。


   ◇


 俺は十五時ちょうどに部屋を出た。


 廊下の突き当たりの窓から、向かいのビルの非常階段が見えた。上から三段目のところに、誰かが置いていった軍手が片方だけ引っかかっていて、風が来るたびに指の部分だけが動いた。


 その下に、自販機がある。俺はその前に立った。


 微糖が四本あった。四本もあると、逆に迷う。今日買っても、来週まだあるかもしれない。あるかもしれないと思うと、今日の一本の価値が下がる。下がるが、下がったところで飲みたいことに変わりはない。


 俺は微糖を押した。


 落ちてきた缶は温かかった。三月なのに、まだ温かいほうが入っている。


 缶を持って階段を下りた。下りるときも、肩が壁をこすった。


 こすったところで、缶を持ち替えた。持ち替えたら、そっちの手のほうが冷たかった。


   ◇


 一階で、犬飼さんとすれ違った。


 上着を着たままだった。手に封筒を持っている。角が少し折れていた。


「高町」

「はい」

「月曜は五時半だ」

「聞きました」

「今日は誰かいたか」


 俺は二階のほうを見た。


「神楽坂さんがいました」

「そうか」


 犬飼さんは封筒を持ち替えた。持ち替えて、階段の一段目に足をかけた。


 かけて、そこで止まった。


「何か言われたか」

「七十度と言われました」

「なんの話だ」

「股関節です」

「そうか」

「月曜は、朝からですか」

「月曜から、朝の入りが続く。学校に寄る時間は無いと思っておけ。鞄は前の日に用意しとけ」

「はい」


 犬飼さんは、俺の顔を三秒くらい見た。


 それから、階段を上がっていった。


   ◇


 一階の受付の前で、鴻上とすれ違った。


 鴻上は上着を着ていた。手に何も持っていない。今日ここに何をしに来たのかを、向こうは言わなかった。


「高町、お前、今日レッスン?」

「振替だ」

「二階?」

「二階だ」

「誰かおった?」

「神楽坂さんがいた」


 鴻上は自動ドアの手前で止まった。


「二人だけ?」

「そうだ」

「お前な、土曜の事務所の二階で神楽坂さんと二人って、それ普通に事件やぞ。俺やったら三日は喋る」

「そうか」

「何しゃべってん」

「股関節の話をした」

「股関節」

「七十度だそうだ」

「あの人と一時間おって、出てくる話が関節の角度って、お前ほんまにもったいないことしてんな」


 鴻上は俺の顔を三秒くらい見て、それから外へ出ていった。出るときに、一度だけ振り返った。


   ◇


 渋谷から乗って、桜坂で降りた。


 ホームのベンチに座って、缶を開けた。開けるまでに時間がかかったので、中身はもう温かくなかった。ぬるかった。うまくもまずくもなくて、飲んだという事実だけが残った。


 俺は残りを一息で飲んで、缶をゴミ箱に入れた。


 階段を下りるときに、上から九段目を踏んだ。今度は忘れていた。滑らなかったのは、乾いていたからだ。


   ◇


 家に着いたのは十六時半だった。


 机の引き出しを開けて、缶コーヒーを入れた。上から二番目の引き出しである。鞄は、開けたまま床に置いてある。


「あんた、缶を貯めるのやめなさい」

「非常食だ」

「三本あるでしょ」

「四本だ」


 俺は引き出しを閉めた。閉めるときに、いちばん奥で一本が転がった。転がって、手前の三本にぶつかって止まった。


「レッスンは」

「振替だった」

「誰かいた?」

「神楽坂さんがいた」


 人形は台座の上で少し動いた。


「あの子ね」

「一時間、座って見てた」

「点かなかったんでしょう」

「点いてない」

「その子、水を飲んだのは」

「壁際だ」

「置いた場所は」

「二回とも同じところだった」

「あんた、ボトルの置き場所は二回とも覚えてるのに、その子が何を言ったかは半分しか覚えてないでしょう」

「覚えてる」


「そう」


 人形はそれきり黙って、机の上の消しゴムのほうを向いた。


 しばらくして、思い出したように言った。


「あの子、帰るときに床の音、鳴らしたでしょう」

「鳴らした」

「わたしなら、わざと鳴らすわね」

「わからん」


 俺はそのとき、ドアのほうを見ていなかった。


   ◇


 夕飯は、赤飯の残りと、鮭と、味噌汁だった。


 妹は赤飯を半分残した。母さんは何も言わないで、それをラップにかけて冷蔵庫に入れた。入れながら、扉の内側の温度を上げるつまみを触って、また戻していた。


 父さんは、いつもの時間に風呂に入った。


   ◇


 夕飯のあと、居間に下りたら、妹がテレビの前にいた。


 テレビは点いていた。点いていたが、妹は見ていなかった。


 膝の上で、片方の手を握って、開いて、また握っていた。


「なにしてる」

「なんもしてない」

「三日だろ」

「三日」


 妹は手を開いた。


 開いたまま、テレビのほうを向いた。


「兄ちゃん、月曜、仕事?」

「ある」

「何時から」

「五時半に迎えが来る」

「じゃあ、寝てるわ」

「そうしろ」

「あたし、三日は朝いちで見に行くから。母さんは家で待つって言ってるけど、あたしは自分の目で番号を見ないと信じないもん」


 妹はまた手を握った。


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