第65話 差し入れと忠告
最後の答案を出したのは、教室で三番目だった。
早いほうから三番目である。書き終わったのではなく、書くことが無くなった。
俺の前に出した二人は、出したあとで自分の机に戻って、まだ紙を見ていた。俺は戻らずに、そのまま鞄を持った。
黒板の上の時計は、十二時五分だった。
最終日の一時間目は現代文で、二時間目が数学Ⅰ、三時間目が生物、四時間目が政治経済という並びだった。並びは、月曜に配られた表にそのまま刷ってある。
生物には図があった。丸が四つ縦に並んでいて、そのあいだを矢印がつないでいる。矢印の横に空欄が三つあって、そこに言葉を入れる。
俺は矢印を上から下まで目で追って、追い終わってから、いちばん下の空欄にだけ言葉を入れた。上の二つは、入れる言葉が思いつかなかったので空けた。
政治経済のほうは、記号を選ぶ問題が半分あった。俺は全部の記号に丸を付けた。付け終わったら、紙の上に空欄は残らなかった。残らなかったので、そこから三十分、俺は紙を見ていた。
◇
廊下に出たら、熊沢が壁にもたれていた。
「終わった」
「終わった」
「俺、化学の三番、書き直したんだよ」
「そうか」
「書き直して、五分くらい考えて、いちばん最初に書いてたほうへ戻した」
熊沢は両手を頭の後ろで組んだ。組んで、天井を見た。
「五日って長いな」
「長い」
「お前、午後まだあるの」
「ある」
熊沢は組んだ手をほどいて、階段のほうへ歩いていった。歩きながら、片手だけ上げた。
◇
教室に戻ったら、机の上に紙が一枚残っていた。
月曜の朝に置いてあった手書きの表の、いちばん最初のやつである。線が五本のほうだ。作り直したときに、こっちは回収されずに、俺の教科書のあいだに挟まったまま残っていた。
挟まっていたところが、ページの角の形になって折れていた。
俺はそれを二つ折りのまま鞄へ入れた。入れて、教科書と筆箱と、五日ぶんの問題用紙を上から詰めた。
鞄は、月曜より重かった。五日ぶんの紙が増えている。
◇
昇降口で靴を履き替えていたら、美咲が来た。
紙を持っている。今週ずっと持っている、あの手書きのやつだった。線が七本のままで、増えても減ってもいない。
「今日、二十二時」
「そうだ」
「明日は?」
「事務所だ」
「何時」
「まだ聞いてない」
美咲は紙の右端に、細く線を引いた。引いてから、ペンを鞄に戻した。
戻すときに、ペンが二本とも一緒に落ちた。落ちたのを拾って、二本とも入れ直した。
「じゃあ」
美咲は先に外へ出ていった。
出ていく背中を見ていたら、途中で一度、肩にかけた鞄を持ち上げ直した。持ち上げ直したところで、中の物が下へ落ちる音がした。
音は、俺のところまで聞こえた。
◇
有本さんの車は、今日は校門の正面に止まっていた。前に止めていた場所には、別の車がいた。
「高町さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「今日で試験、終わりですか」
「終わりました」
「そうですか」
有本さんは前を向いて、車を出した。
「電話、今日は朝から九本です」
「はい」
車の中で、俺は窓の外を見ていた。学校の前の坂を下りて、大きい通りに出る。出たところの角に、工事の柵が並んでいた。今週の頭には無かったやつだと思う。
◇
砧に着いたのは、十三時だった。
スタジオの入口のところで、犬飼さんが電話をしていた。
俺が横を通っても、切らなかった。切らないで、片手で俺に「行け」という形を作った。
中に入ってから振り返ったら、犬飼さんはまだ話していた。話しながら、二回、頭を下げていた。
相手のほうからは、たぶん見えていないと思う。
◇
セットは、部屋のままだった。
窓の外の青い板が、また塗り直してある。今度は、上のほうだけ色が薄い。朝に塗ったところが、まだ乾いていないらしい。
俺は衣装に着替えて、メイクをしてもらった。
メイクの人が、俺の顎の下のところを二回押さえた。
「今日、剃りました?」
「剃りました」
「じゃあ、いいです」
剃っていてよかった。
◇
スタジオの中は、今日も寒かった。
暖房は上のほうにしかない。暖かいのは、鉄の梁のあたりだけだった。俺は厚い靴下を履いてきていた。妹が去年買ってきて、色が合わないと言って一度も履かなかったやつで、今週は毎日これを履いた。
壁際のパイプ椅子は、今日は元の場所に戻っていた。二列に並べ替えられていたのが、また壁に沿って一列になっている。座っている人は三人しかいなかった。
◇
桐生さんは、もう入っていた。
セットの中の机の前に座って、台本を膝に置いている。置いたまま、手は台本に触れていない。
俺が入ってきたのを見て、立ち上がった。
「今日、僕、後半だけなんだ」
「はい」
「だから、午前は寝てた」
桐生さんは自分の頬のあたりを指で押した。押して、離した。
「寝たら、こっちの頬に線がついた。ここのパイプ椅子、背もたれに横棒が入ってるんだよ。もたれて寝ると、そのまま顔に残る」
線は、たしかについていた。
◇
十三時半に、有本さんが壁際まで来た。
有本さんはタブレットを脇に挟んでいた。挟んだまま、画面を一度も見ずに喋った。
「高町さん、来週の月曜から、また午前も入ります」
「はい」
「学校は、公欠の届けが出してあります」
「はい」
「四月まで、あと一ヶ月と少しです」
有本さんは、そこで画面を見た。
「電話、十二本になりました」
「はい」
有本さんは画面を消した。消した画面に、スタジオの天井の照明が細く映っていた。
◇
撮影は、十四時から始まった。
今日は、部屋の中で俺が一人でいる場面だった。
「水無瀬、机の前。動かない」
「はい」
「窓は見るな。音がしたら、そっちを向く」
「はい」
「音は、こっちで出す」
俺は机の前に座った。
台詞は一行ある。一行しかないので、そこまでは何もしない。
助監督の人が、大きい声で本番を告げた。
告げたところで、スタジオの中の音が一度に消えた。カメラの後ろに人が集まっていて、その全部がこっちを向いている。
◇
音が遠のいた。
三つとも来た。
◇
――机の脚の、右の手前だけ、板の色が違う。
◇
音がした。
俺はそっちを向いた。向いた先に窓があって、窓の外に青い板がある。板の上のほうだけ、色が薄かった。
「……いない」
台詞は、それだけだった。
「カット」
モニターのほうで、芹沢さんが椅子から半分立ち上がって、また座った。
「そのまま。もう一本」
俺は同じところに座り直した。
◇
二本目のあと、芹沢さんの指示が一つ増えた。
「水無瀬、向いたあとで、いったん止まれ」
「はい」
「止まってから、口を開けろ」
俺は三本目で、向いて、止まって、それから口を開けた。止まる長さは言われなかったので、板の色が薄いところを端から端まで見るあいだにした。
◇
四本撮った。
四本目のあとで、記録の人が紙に何か書いた。書き終わって、顔を上げて、こう言った。
「四本とも、向くのが同じ速さでした」
「はい」
同じ速さらしい。
◇
十六時から、桐生さんが入る場面になった。
俺はスタッフの厚い上着を借りて、壁際に座った。座って、セットのほうを見ていた。
台詞より先に、桐生さんの人差し指が動いた。今日は、跳ねる高さが低かった。
同じカットを七本撮っていた。七本のうち、五本目だけ、指が動かなかった。動かないまま台詞が出て、そのあとで手が上がった。
芹沢さんは、五本目についても何も言わなかった。言わないで、「もう一本」と言った。
六本目で、指は先に動いた。
俺は椅子に座って、それを横から見ていた。見ているあいだに、借りた上着の袖の内側に、名前を書いた白いテープが貼ってあるのを見つけた。書いてある名前は、俺の知らない人だった。
◇
十七時から十九時までは、待った。
次の場面のセットを、部屋の壁の一面ごと入れ替えるらしい。大きい板を四人がかりで運んでいて、運ぶ途中で天井から下りているケーブルに当たりそうになるたび、下にいる人が声を出して止めていた。
俺はパイプ椅子に座って、上着を借りて、背もたれに体を預けていた。
預けていたら、眠くなった。
――今から寝ると、起こされるまでのあいだに、たぶん一時間くらいある。
寝てはいけない理由が今日も思いつかなかったので、俺は目を閉じた。閉じてすぐに、板の角が床に当たる音がして、目が開いた。
開いた先で、有本さんが壁際の椅子から立ち上がって、入口のほうを見ていた。
◇
十九時半に、入口のほうで人が動いた。
制作の人が二人、入口へ走っていった。走ったのではなく、速く歩いたのかもしれない。歩幅は走るときの歩幅だった。
入ってきたのは、神楽坂さんだった。
帽子をかぶっていて、マスクをしている。灰色の上着を着ていて、下はスウェットだった。両手に大きい紙袋を提げている。
紙袋の持ち手が、指の付け根のところに食い込んでいた。食い込んだところが白くなっている。爪は、短く切りそろえてあった。
神楽坂さんは、まっすぐ入口の横まで歩いた。
歩いた先に犬飼さんが立っていて、袋を一つ受け取った。受け取って、床に置いた。
◇
「差し入れです。人数ぶんあります」
神楽坂さんは制作の人に言った。
「温かいうちに配ってください。冷めると、下のほうが固くなるので」
制作の人が二人がかりで袋を運んでいった。運んでいく先で、また二人増えた。
スタジオの中に、匂いが広がった。
肉の匂いである。
照明の人が脚立の上から下りてきて、下りた勢いのまま袋のところへ歩いていった。記録の人は紙を置いてから立って、置いた紙の上に鉛筆を横向きに乗せてから歩き出した。
助監督の人が「順番に」と言った。言ったが、順番はできていなかった。
◇
神楽坂さんは、俺のところへ来た。
来て、マスクを顎の下まで下ろした。下ろして、俺の顔を見た。
見て、少し目を細めた。
「あなた、そろそろ倒れるわよ」
俺は「そうですか」と言った。
「そうですか、じゃないの」
「倒れます?」
「倒れるわよ」
「わかりました」
「わかってないでしょ」
神楽坂さんはマスクを戻した。
戻して、それから、俺の手に小さいほうの袋を一つ持たせた。
「これは、あなたの。二つ入ってる」
「ありがとうございます」
「一つは今食べて。もう一つは持って帰りなさい」
神楽坂さんは、そのまま入口のほうへ歩き出した。
歩きながら、途中で一度だけ振り返った。
「わたし、二十時から入ってるの」
そう言って、出ていった。
入口のところで、犬飼さんが頭を下げた。神楽坂さんは下げ返さなかった。下げ返す前に、もうドアの外だった。
◇
桐生さんが、セットの中から出てきた。
出てきて、袋のところまで歩いて、一つ受け取った。受け取って、包み紙の上から両手で持った。
持ったまま、俺の隣まで来た。
「今の人、神楽坂さんだよね」
「はい」
「うちの事務所の子が、去年いっしょになったことがあるって言ってた」
桐生さんは肉まんの上のところを少しだけ千切って、口に入れた。入れて、噛んだ。
「差し入れ、いつも自分で持ってくるらしいよ。箱で届けさせたほうが早いのに、それをしないんだって」
「そうですか」
「箱ごと届くほうが楽なのにね」
桐生さんは、そのあと二口で食べた。
撮る前は入らないと言っていたが、今日はもう自分の場面が終わっている。
◇
俺は壁際のパイプ椅子に戻って、袋を開けた。
中は肉まんだった。二つとも同じやつが入っている。
一つを取り出して、食べた。下のほうの紙が、まだ温かかった。
隣で有本さんも一つ持っていた。持ったまま、食べずに、両手で持っている。両手で持ったまま、袋の口のほうを一度のぞきこんで、また閉じた。
「高町さん、これ、上のところから食べるんですか」
「どこからでもいいと思います」
有本さんは横から食べた。
横から食べると、中の具が下に寄る。寄ったところで、有本さんは持ち方を変えて、包み紙ごと下から支えた。
支えたまま、二口で残りを食べた。
◇
二十一時五十分に、上がりになった。
スタジオを出て、駐車場までの段差のところで、一度、膝が沈んだ。沈んだのは一段目で、二段目からは普通に下りた。
◇
車に乗った。
「高町」
「はい」
「土曜の午後だ」
俺はシートベルトを締めた。金具は、一回で入った。
犬飼さんは、そのあと何も言わなかった。何の話なのかは、三ヶ月の紙を見ればわかる。土曜と日曜のところに色が塗っていない。
窓の外を、対向車のライトが流れていった。俺は袋を膝の上に置いていた。
置いた袋の底が、まだ温かかった。
◇
駐車場を出るときに、スタジオの入口の電気が一つ消えた。
消えた先で、まだ人が動いていた。桐生さんの場面が残っているわけではないので、片づけをしているのだと思う。大きい板を四人がかりで運んでいた人たちが、その板を今度は反対向きに運んでいた。
車が門を出て、通りに入った。
◇
高速に入る前に、犬飼さんはパーキングエリアに寄った。
自販機の前で少し立って、温かい茶を二本買ってきた。
「夜の高速は眠くなる」
犬飼さんは一本を俺に渡して、もう一本の蓋をその場で開けた。開けて、車を出す前に半分飲んだ。飲んでから、蓋を閉めて、ドアのポケットに立てた。
俺も飲んだ。飲みながら、膝の上の袋の底を、手のひらで触っていた。
高速に入ってから、犬飼さんは一度も喋らなかった。
◇
家に着いたのは、二十三時十分だった。
玄関の電気が点いていた。台所も点いていた。
妹が台所の椅子に座っていて、赤い表紙の問題集を開いていた。開いてはいたが、顔は上げていた。上げて、こっちを見ていた。
俺は靴を脱いで、袋を妹に渡した。
「なにこれ」
「もらった」
「誰に」
「神楽坂さん」
妹は袋を両手で受け取った。
受け取って、中を見た。見て、俺を見た。見てから、もう一度中を見た。
それから、袋を落とした。
落として、拾って、両手で持ち直した。持ち直してから、俺の顔を見た。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「神楽坂さんって、何時に寝るの」
「知らない」
妹は袋を持ったまま、二階へ上がっていった。
中身は肉まんである。あれは、冷める。




