第64話 徹夜しているのは幼馴染
朝、台所を通ろうとしたら、妹に止められた。
立ったまま牛乳を飲んでいて、テーブルの上に赤い表紙の問題集が開いてある。開いているページの右上に、鉛筆で小さく丸が書いてあった。
「兄ちゃん、そこ通らないで」
「玄関はそっちだ」
「反対から回って」
俺は居間を通って、反対から回って玄関に出た。回ると十歩くらい多い。
玄関で靴を履いていたら、上から母さんが下りてきて、俺の鞄に何か入れた。入れたのは、個包装のパンだった。
鞄の中で、パンは問題用紙の下に入った。
◇
教室に入ったら、美咲の前髪のピンが緑だった。
昨日も緑だった。
俺は自分の席に座って、鞄を机の横にかけた。かけてから、もう一度そっちを見た。美咲は机に紙を広げていて、その紙の上に手を置いている。手は動いていない。
熊沢が後ろから身を乗り出してきた。
「藤堂のピン、曜日で色が違うんだぜ」
「そうか」
「一年のときに気づいたんだけど、誰にも言ってない。言うと、なんでそんなとこ見てんだって話になるだろ」
言ってないなら、言わないほうがいいと思う。
◇
一時間目の前に、美咲がこっちへ来た。
来て、俺の机に紙を一枚置いた。朝の手書きの表を、もう一度作り直したやつだった。
昨日のは五本の線だったのが、今日は七本になっている。増えた二本は、金曜のところに入っていた。
「金曜、二十二時に戻った」
「戻ったのか」
「戻ったって、有本さんから連絡が来た。木曜も二十二時。水曜だけ十八時のままだって」
美咲は紙の端を、俺の教科書の下に少しだけ差し込んだ。差し込んで、動かないことを確かめてから、自分の席へ戻った。
戻る途中で、机の角に腰が当たった。当たった机の上のペンが落ちて、美咲はそれを拾って、持ち主の机に戻した。
◇
三日目の一時間目は、古典だった。
問題用紙の右上に、四角い枠があって、そこに組と番号と名前を書く。俺は三つとも書いた。
本文は、縦に並んでいた。並んでいるうちの、半分くらいは読める。読めるところと読めるところのあいだに、読めないところが挟まっている。
挟まっているところが、そのまま設問になっていた。
◇
二時間目は保健だった。
保健は、書いてあることが日本語だった。俺は全部の欄を埋めた。
埋めてから、上から見直した。見直したら、四番のところに、同じ言葉を二回書いていた。
消しゴムを出して、片方を消した。消しゴムの角が、そこで一つ減った。
◇
三時間目は数学Bだった。
問題用紙は片面だった。片面なので、昨日より紙が薄い。
一番から順番に見た。見て、一番の(1)で止まった。(1)で止まったので、二番を見た。二番でも止まった。
俺は問題用紙の余白に、正方形を一つ書いた。書いた正方形の角が、少し丸くなった。定規を持ってきていないので、線がまっすぐにならない。
まっすぐにならない線を、もう一本足した。
◇
三時間目と四時間目のあいだの休みに、熊沢が水を飲みにいって、戻ってきて言った。
「藤堂、寝てないだろ」
「聞いてない」
「顔がさ」
「顔がなんだ」
「顔が、俺の父ちゃんと同じ色してる」
熊沢の父さんが何色なのかは知らない。
俺は窓際の三列目を見た。美咲は問題用紙をまっすぐ立てて持っていて、その紙が、途中で一度も動かなかった。
◇
三時間目のあいだに、後ろの席で誰かが消しゴムを落とした。
落ちた消しゴムは、机のあいだを通って、俺の靴のところまで来た。俺はそれを拾って、後ろへ回した。
回した先で、小さい声がした。声は「ありがとう」だった。
声のほうを見なかったので、誰の消しゴムかはわからない。
俺は自分の紙に戻った。戻ったところで、さっきまで見ていた行がどこだったのかを探した。
探しているうちに、時計が五分進んだ。
◇
四時間目は日本史だった。
年表が刷ってあって、そこに矢印が引いてある。矢印の上と下に、それぞれ言葉を入れる問題だった。
俺は矢印を目で追った。追っていくと、左から右へ進む。左のほうは、教科書の最初のほうだと思う。
最初のほうなら、少し覚えている。俺は左から三つ埋めた。
右のほうは空いたままにした。空いたままの欄が、七つあった。
◇
四時間目が終わったのは、十二時十分だった。
昇降口で靴を履き替えて、外に出たら、犬飼さんの車が校門の手前に止まっていた。
「高町」
「はい」
「今日は十八時上がりだ」
「はい」
「そのあと、寄るところは無い」
俺は乗って、シートベルトを締めた。
車が動き出して、五分くらいで信号に引っかかった。引っかかったところで、犬飼さんが左のポケットから箱を出した。出して、膝に置いた。
置いたまま、次の信号でも開けなかった。
◇
途中でコンビニに寄った。
俺はおにぎりを二つと、温かい茶を買った。犬飼さんは何も買わないで、車の外で立っていた。立って、携帯を見ていた。見ていたが、かけなかった。
戻ってきて、乗って、エンジンをかけた。
俺は後ろの席で食べた。一つ目は鮭で、二つ目は昆布だった。
食べ終わったら、眠くなった。
◇
現場に着いたのは、十三時だった。
セットは、まだ部屋のままだった。窓の外の青い板が、昨日より濃い色に塗り直してある。塗った跡が、下のほうだけ乾いていなかった。
メイクの人が、俺の目の下のところを指で二回押さえた。
「ここ、押しても戻りが早いですね」
「そうですか」
「よく寝てる人の肌です」
「寝てます」
メイクの人は道具を片づけて、次の人のところへ行った。
有本さんが入口のところから歩いてきた。タブレットを、体の横に下げたまま持っている。
「高町さん、今日は十八時上がりです」
「はい」
「電話、今日は四本です」
有本さんは壁際の椅子に座って、そこから動かなかった。動かないまま、入口のほうを見ていた。
俺は上着を借りて、壁際のパイプ椅子に座った。
照明を組み直すのに二時間かかると、助監督の人が言っていた。
俺は座って、背もたれに体を預けた。
◇
目が開いたら、桐生さんが横に立っていた。
「起きた?」
「起きました」
「五分だよ」
桐生さんは自分の椅子を引っぱってきて、俺の隣に置いた。置いて、座った。
「座って、五分で寝てた」
「そうですか」
「僕、寝るのに一時間かかるんだ」
桐生さんは膝の上で手を組んだ。組んだ手の親指が、上下に動いていた。
「夜、布団に入ってから一時間かかる。毎日だよ。起きる時間から逆算して入るんだけど、それでも一時間」
「大変ですね」
「大変だよ」
一時間は長い。
◇
横の椅子から見れば、試験と撮影のあいだで削られている二年生だが、中身は五分で寝られたことに満足していた。
◇
十四時半に、弁当が出た。
今日は昼を挟まなかったので、入りのあとになった。白い箱で、中は鶏と、ごはんと、煮物が三種類入っていた。
煮物は三種類とも減らした。ごはんも残らなかった。
食べているあいだ、桐生さんは隣で自分の弁当の蓋を開けたまま、ほとんど手をつけていなかった。ごはんの左の端のところだけが減っている。
「食べないんですか」
「撮る前は入らないんだ」
「そうですか」
「終わってから、まとめて食べる」
まとめて食べると、そのぶん遅くなる。俺は自分の煮物を先に食べた。
◇
十五時から、撮った。
俺は部屋のセットの中で、布団の横に座っている。台詞は二行ある。
「水無瀬、二行目のあと、動かない」
「はい」
「窓は見なくていい」
俺は言われた通りに動かなかった。
二行目の台詞は、五文字である。五文字を言って、そのあと動かない。動かないあいだに、カメラが横へ動いた。動く音が、床の板の上でしていた。
一本目のあと、芹沢さんの声が来た。
「もう一本。二行目、先に息を吐け」
「はい」
「吐いてから言うと、頭が下がる」
俺は二本目で息を吐いてから言った。頭が下がったかどうかは、自分では見えない。
「そこ」
俺はそのまま止まった。
四本撮って、そのあと、俺の顔だけを寄りで撮った。寄りのときは、カメラが近い。近いところに、レンズと、その横にモニターを見ている人が二人いた。
二人とも、モニターのほうを見ていた。
寄りは六本撮った。
六本目のあとで、芹沢さんの声がモニターのほうから来た。
「そこまで。次、明日の頭でやる」
助監督の人が、大きい声で同じことを言い直した。言い直したところで、照明の人がもう脚立を運び始めていた。
記録の人が紙をめくって、日付のところに線を引いた。引いてから、その線を消して、一つ下の欄に引き直した。
◇
撮影用のパーカーを返して、自分の上着を着た。
着たら、ボタンの糸が、まだ残っていた。二つ目のところである。
衣装の人が横を通って、それを見て、止まった。
「それ、付けましょうか」
「いいです」
「二分で付きますよ」
「じゃあ、お願いします」
二分では付かなかった。四分くらいかかった。
◇
十七時四十分に、上がりになった。
外に出るとき、桐生さんはまだセットの中にいた。俺が片手を上げたら、向こうも上げた。上げてから、すぐに下ろして、自分の位置に戻った。
駐車場で、犬飼さんが待っていた。
「明日は十三時入りだ」
「試験は?」
「四時間目までだろう。終わってから来い。急がなくていい。急いで着いても、こっちはまだ照明を組んでる」
今日と同じ順番らしい。
「朝の迎えは無い。学校からは有本が乗せる」
俺は返事をして、後ろのドアを開けた。
乗って、金具を差し込んだ。一回で入った。
高速に入ったところで、犬飼さんが窓を少しだけ開けた。開けて、すぐ閉めた。
「高町」
「はい」
「金曜は、二十二時までだ」
「はい」
「土曜は、レッスンの振替が入るかもしれん。まだ決まってない」
俺は「はい」と言った。
窓の外は、もう暗かった。街灯が並んでいて、その下だけが白い。白いところを、人が一人ずつ通っていく。
◇
家に着いたのは、十九時二十分だった。
玄関に、見たことのある靴があった。
俺の靴の隣に揃えて置いてあって、つま先が全部同じ向きを向いている。俺のは向いていない。
台所から声がした。妹の声と、もう一つの声だった。
◇
テーブルの上に、教科書と、ノートと、赤い表紙の問題集が広げてあった。
妹が椅子に座っていて、その隣に美咲が座っている。美咲は自分の鞄からペンを二本出していて、そのうち一本を妹に渡していた。
「ここ、さっきと同じところで止まってる」
「わかんない」
「わかんないのは、前のページのここだから」
美咲は前のページをめくって、線を引いた。引いた線の下に、もう一本引いた。二本目のほうが短かった。
妹は顔を上げて、俺を見た。
「兄ちゃん、うるさくしないで」
「なんだ」
「今、大事なところ」
俺は台所へ行って、母さんが出した皿を持って、居間へ移った。
中身は魚だった。骨があった。
骨を取っているあいだ、台所からペンの音が聞こえていた。書く音と、消す音と、ページをめくる音がある。消す音がいちばん長かった。
俺は魚を食べ終わって、皿を持って台所へ行った。
行ったら、美咲が顔を上げずに言った。
「そこ、置いといて」
「洗う」
「洗うと水の音がする」
俺は皿を流しの縁に置いた。置いて、居間に戻った。
戻ってから、テレビをつけようとして、リモコンを持ったまま置いた。
◇
二十時半に、美咲は帰った。
鞄を持って、玄関で靴を履いて、母さんに頭を下げた。母さんが袋を持たせようとして、美咲はそれを一度断って、それから受け取った。
俺は玄関のところに立っていた。
「明日、十三時入りだって」
「知ってる」
「有本さんから聞いたのか」
「さっき聞いた」
美咲はドアを開けた。開けたところで、外の風が入ってきた。
「試験、明日で四日目だから」
「そうだな」
「あと二日」
美咲は出ていった。出ていくときに、ドアを自分で押さえたまま、音を立てずに閉めた。
◇
妹が台所で問題集を閉じた。
閉じて、そのまま両手を乗せて、しばらく動かなかった。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「藤堂さん、来週も来るって」
妹はそれを言って、問題集を持って二階へ上がっていった。
上がる途中で、三段目のところで一度止まった。止まって、また上がった。
母さんが台所の電気を一つ落とした。落として、テーブルの上の消しゴムのかすを、手のひらで集めた。
集めたかすは、思ったより多かった。
俺は自分の茶碗を流しに置いて、水を張った。
◇
風呂に入った。
湯船の縁のところに、妹のシャンプーの容器が置いてある。置いてある位置が、いつもより手前だった。手前にあると、肘が当たる。
俺は容器を奥へ寄せた。寄せたら、その奥にもう一つ容器があって、そっちが前に出てきた。
二つとも奥に寄せて、湯を出た。
出るときに、栓は抜かなかった。
◇
二階に上がって、布団を敷いた。
敷いているあいだ、机の上で人形が動いた。
「あんた、今日は何回寝たの」
「二回だ」
「現場と?」
「車だ」
「あんた、左の耳だけ赤いわよ」
「外が寒かった」
人形のドレスの裾が、机の上で一度だけ動いた。
「点いた?」
「点いてない」
「そう」
俺は上着を椅子の背にかけた。かけたら、今日は斜めにならなかった。ボタンが付いているので、糸が引っかからない。
俺は電気を落として、布団に入った。
入って、目を閉じた。
目を閉じたところで、下の階の電気が消える音がした。母さんが最後だった。
◇
目が覚めたのは、二時だった。
喉が渇いていた。俺は起きて、部屋の入口のところまで行って、途中でやめた。下まで下りるのが遠い。
やめたついでに、窓のところに立った。
道の向かい側の、三軒先の二階に、電気がついていた。
カーテンが引いてある。引いてあるカーテンの端のところだけ、光が細い線になって外へ出ていた。線は、下から上まで、まっすぐだった。
俺は窓から離れて、布団に戻った。
戻って、掛け布団を肩まで引き上げた。
◇
六時に目覚ましが鳴った。
俺は起きて、カーテンを開けた。
三軒先の二階の、細い光の線は、まだ同じところにあった。




