第63話 学年末考査も普通に最下位
朝、教室に入ったら、机の上に紙が二枚あった。
一枚はクラス全員に配られたやつで、学年末考査の日程と範囲が表になって刷ってある。
もう一枚は手書きだった。同じ形の表を線から書き写してあって、俺の名前のところだけ赤い線が入っている。線は横に五本あって、そのうち三本の上に「午後 撮影」と書いてあった。
書いた人は、四列離れた窓際の席に座っている。座って、こっちを見ていない。
◇
熊沢が後ろの席から身を乗り出してきた。
「高町、お前、今日から出るの」
「出る」
「五日ぜんぶ?」
「午前だけ全部だ」
「午後は?」
「撮影だ」
熊沢は自分の紙を持ち上げて、裏返した。裏には何も書いていなかった。
「じゃあ勉強してないじゃん」
「してない」
「俺もしてない」
熊沢は紙を机に戻した。戻して、それから、少しだけ小声になった。
「でも俺、二時間はやった」
二時間はやったらしい。
◇
黒板の右端に、白い字が無かった。
先週まで、そこには俺の名前と公欠が書いてあった。今週は書いていない。書く用が無いからだと思う。
美咲が黒板の前に立って、右端のところを上から下まで消した。もう何も書いていないところを消していた。
消してから、黒板消しをクリーナーにかけて、自分の席に戻った。
◇
一時間目は国語だった。
問題用紙が配られて、裏返して置いておくように言われた。裏返すと、透けて字が見える。見えるが、逆向きだった。
「はじめ」
宮坂先生が言った。
俺は紙を表にして、上から順番に読んだ。
一つ目は漢字だった。書けるやつが四つあって、書けないやつが六つあった。書けないほうは、見ているうちに線が一本増えたり減ったりした。
二つ目からは長い文章だった。文章は読める。読めるが、そのあとに「筆者の考えを四十字以内で書け」と書いてある。
筆者は、この教室にいない。
俺は自分の考えを四十字以内で書いた。
◇
試験のあいだ、教室の中で音がするのは三種類だった。
鉛筆と、紙をめくる音と、椅子が鳴る音である。俺の席の右斜め前の椅子が、五分に一回くらい鳴った。鳴るたびに、鳴らした人が少しだけ体を止める。
窓の外で、体育館の屋根の上を鳥が二羽歩いていた。歩いて、端まで行って、飛んだ。
◇
二時間目は世界史だった。
年号を書くところが十個あって、そのうち二つを書いた。二つとも自信は無い。無いが、空欄にするよりは埋まっている。
三時間目は地理だった。
地図が刷ってあって、その上の記号を答える問題が並んでいた。記号は、丸と三角と、四角の中に線が入っているやつがある。四角の中に線が入っているやつだけ、答えを知っていた。
知っていた理由は、去年の修学旅行のバスの中で、熊沢がずっとその話をしていたからだ。
三時間目が終わったのは、十一時二十分だった。
俺は答案を出して、鞄を持って、昇降口へ行った。
昇降口は、三時間目が終わったばかりなので混んでいた。靴箱の前に列が二つできていて、その二つのあいだを、鞄を抱えた誰かが逆向きに通っていった。
俺は自分の靴箱を開けた。開けたら、上履きの片方が先に落ちた。落ちた先が下の段の縁で、そこで一度跳ねてから床に着いた。
拾って、履き替えて、靴袋に入れた。入れるときに、かかとのところが折れたままだったので、直した。
◇
有本さんの車は、校門の五十メートル手前に止まっていた。
乗ったら、後ろの席に紙の束が積んであった。今日は移してあった。
「高町さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「今日は十四時入りです」
有本さんは、車を出してから一度も後ろを見なかった。
「電話、今日は、まだ二本です」
「はい」
後ろの席の紙の束が、カーブで少しだけこっちへ寄った。
車の中で、俺は寝なかった。寝ると顔に線がつく。
◇
現場は、駅前ではなかった。
セットが組み替わっていて、今日は部屋になっていた。壁が三面で、四面目が無い。窓が一つあって、その外に青い板が立ててある。
中に机と椅子と、布団が一組敷いてあった。
「水無瀬」
セットの外から呼ばれた。振り返ったら、芹沢さんが紙コップを持って立っていた。
「今日は座ってるだけだ」
「はい」
「向きは窓に対して斜め。立つのは、伊吹が入ってきてからだ」
「わかりました」
◇
弁当は、十四時半に出た。
白い箱で、中は肉と、ごはんと、青いのが少し入っていた。青いのは、噛むと味が変わる。
青いのを最後に残して、それも食べた。箱が空になったところで、制作の人がもう一つ持ってきた。
「余ってるので、よかったら」
「もらいます」
二つ目も食べた。
◇
メイクの人が、俺の額のあたりに何か塗った。
塗りながら、こっちを見ずに言った。
「今日、テストだったんですよね」
「そうです」
「どうでした?」
「終わりました」
メイクの人は、そこで手を止めた。止めて、それから、また塗り始めた。
「そうですよね。終わりますよね」
終わる。
◇
桐生さんは、十四時半に入ってきた。
入ってきて、俺の顔を見て、それから机の上の台本を見た。
「高町くん、今日は学校からだって?」
「はい」
「僕、高校は通信だったんだ」
桐生さんは椅子に座って、膝の上で手を組んだ。
「レポートを送るやつなんだけど、月に何本って決まってて、ちゃんと締め切りがあるんだよ」
「はい」
「三回、忘れた」
三回は多いと思う。
◇
最初のカットは、十六時に始まった。
俺は部屋のセットの中で、机の前に座っている。窓のほうを向いていて、顔は半分だけカメラに向いている。台詞は無い。
桐生さんが入ってくるまで、二十秒くらいある。
「水無瀬、そのまま」
「はい」
「息は吸っていい」
息は吸ってよかった。
桐生さんが入ってきた。入ってくる音がして、そのあとに影が机の上に伸びた。影のほうが先に来る。俺は立った。
「カット」
声はモニターのほうから来た。
「もう一本。水無瀬、立つのが半拍早い」
「はい」
「影を全部見てから立て」
二本目は、影が机の端まで来るのを見てから立った。
「そこ」
そこで合っていたので、俺は動かなかった。
◇
そのあと、照明を変えて、同じ場面を反対側から撮った。
反対側からだと、俺の背中しか映らない。映らないほうを撮っているあいだも、俺は同じところに座っていた。
座っているあいだに、記録の人が二回、俺の後ろを通った。通るときに、床のケーブルを毎回またいでいた。またぐ足は、二回とも右からだった。
◇
十九時から、二時間ほど空いた。
次の場面で使う小道具が届かないらしい。助監督の人が入口のところで電話をしていて、二回、同じことを言っていた。
俺は壁際のパイプ椅子に座った。座って、鞄から問題用紙を出した。今日の一時間目のやつである。
出したところで、桐生さんが横を通った。通って、俺の手元を見た。
「それ、テストの?」
「はい」
「答え合わせ?」
「見てるだけです」
桐生さんは自分の椅子に戻っていった。戻って、灰色のノートを開いた。開いて、そのページを見たまま、しばらく動かなかった。
俺は問題用紙を裏返した。裏には何も刷っていなかった。
◇
二十一時に、小道具が届いた。
届いたのは、小さい紙袋一つだった。中身が何かは、開けたところが遠かったので見えなかった。
小道具の人が、それを机の上の決まった位置に置いた。置いて、少し動かして、また戻した。
◇
撮影は、二十一時四十分に終わった。
俺は上がりで、桐生さんはあと一カット残っていた。出るときに片手を上げたら、向こうも上げた。
犬飼さんの車は、外の柵のところに止まっていた。
「高町」
「はい」
「明日は十三時入りだ」
「はい」
「試験の週はこっちが合わせる。学校の予定を動かすと、面倒になるのは向こうだからな。で、学校は何時までだ」
俺は答えた。明日は四時間目まであるので、十二時十分までだ。
犬飼さんは、それを聞いて、指で二回ハンドルを叩いた。
◇
家に着いたのは、二十二時五十分だった。
台所にラップのかかった皿があって、その横に紙があった。母さんの字で「レンジ三分」と書いてある。今日は三分になっていた。
中身は揚げ物だった。二枚あった。
俺は二枚とも食べた。食べ終わって、皿を流しに置いて、水を張った。
◇
二階に上がって、鞄の中身を机に出した。
筆箱と、二つ折りの紙と、問題用紙と、台本が出てきた。問題用紙のほうが台本より薄い。
「あんた、その消しゴム」
人形が言った。
俺は筆箱から消しゴムを出した。青いケースに入っていて、ケースの縁が少しめくれている。
「角が、四つとも残ってるわね」
「残ってる」
「新品みたいよ」
「三学期から使ってる」
人形の手が、台座の縁のところで止まった。
「今日はどうだったの」
「五十点はいってないと思う」
「そっちじゃなくて」
「点いてない」
「そう」
俺は消しゴムをケースに戻した。戻したら、ケースの縁が、さっきよりめくれた。
俺は布団に入った。
入って、掛け布団を肩まで引き上げた。引き上げたところで、下の階で妹が椅子を引く音がした。引いて、また戻す音がした。
◇
次の朝、台所に下りたら、妹が先にいた。
テーブルに教科書と、ノートと、赤い表紙の問題集が広げてある。妹は立ったままパンを食べていた。
「兄ちゃん、そこ座らないで」
「どこに座ればいい」
「立ってて」
俺は立って食べた。
母さんが茶碗を出して、俺の手に持たせた。妹はこっちを見ないで、問題集のページをめくった。めくった先で、いきなり止まった。
「三月三日」
妹が言った。
「なんだ」
「なんでもない」
妹は問題集を閉じて、鞄に入れた。入れてから、もう一度出して、開いた。
◇
今日も、四時間目まで試験だった。
一時間目は数学である。
配られた問題用紙は、両面に刷ってあった。裏まであるということは、表だけでは足りなかったということだと思う。
「はじめ」
俺は上から順番に見た。
一番の(1)は解けた。(2)で止まった。(3)は問題の意味がわからなかった。二番からは、記号が増えた。
二番の記号が何を指しているのかを、俺は決められなかった。決め方は、たぶん教科書に書いてある。
教科書は鞄の中にある。鞄は、机の横にかけてある。
開けられない。
◇
二番の下に、図があった。
三角形が二つ並んでいて、片方が斜めに倒れている。倒れているほうの角に、記号が三つ付いていた。
俺はその図を見ていた。見ているうちに、倒れているほうの三角形が、こっちを向いているように見えてきた。見えてきただけで、答えは出ない。
俺は図の横に、同じ三角形をもう一つ書いた。書いても増えなかった。
◇
腹が鳴った。
鳴ったのは、三十分を過ぎたあたりだった。
教室の中は鉛筆の音でいっぱいだったので、たぶん俺のところまでしか聞こえていない。俺は左手を膝から腹の前へ移した。
移したところで、前の席の熊沢が振り返りかけて、やめた。やめて、また前を向いた。
その動きのほうが、たぶん目立った。
◇
一時間目が終わって、廊下に出た。
美咲が窓のところに立っていた。立って、水筒の蓋を開けていた。開けて、飲まずに、また閉めた。
「数学、どうだった」
「一番の(1)は解けた」
「それだけ?」
「それだけだ」
美咲は水筒をもう一度開けた。開けて、今度は飲んだ。
「次、英語」
「知ってる」
「二時間目のあとは十分休みだから、そこで食べて。三時間目のあとにすると、四時間目の始まりに間に合わないでしょ」
美咲は自分の鞄から、個包装のパンを一つ出して、俺の手に乗せた。乗せて、そのまま自分の教室のほうへ歩いていった。
俺は袋を見た。中は甘いほうだった。
◇
二時間目は英語だった。
俺は書けるところを書いて、書けないところを空けた。空けたところが、下三分の一に固まった。
三時間目は化学だった。
化学は、記号が最初から記号だった。俺は名前を書いて、番号のところに丸を付けた。丸は全部で二十個あって、二十個とも付けた。
どれかは当たる。
三時間目の途中で、後ろのほうで椅子が大きく鳴った。誰かが立って、答案を出しにいった。出して、戻ってきて、また座った。
時計は、まだ二十分残っていた。
俺は自分の紙を見た。丸は二十個とも付いている。付いていない欄が二つあって、そこは記述だった。
俺は記述の欄に、問題文に出てきた言葉を三つ並べて書いた。
◇
休み時間に、熊沢が俺の机まで来た。
「高町、三番の答え、なんにした」
「丸を付けた」
「どれに」
「全部に」
「それ、駄目だろ」
「駄目か」
「駄目だと思う」
熊沢は自分の指を三本立てて、何か数え始めた。数え終わる前に、次の予鈴が鳴った。
◇
四時間目の答案用紙は、前の列から後ろへ配られた。
熊沢が束を受け取って、一枚取って、残りを後ろへ回した。俺は一枚取って、後ろへ回した。回した先で足りなくなって、宮坂先生が前からもう一枚持っていった。
黒板の上の時計は、十一時二十五分だった。
問題用紙も配られた。四時間目は現代社会だった。
「はじめ」
俺は名前を書いた。
名前を書いてから、上から順番に読んだ。読んで、書けるところを書いた。
三分で、書くことが無くなった。
――学年末考査の二日目、開始三分で手が止まって、あとの三十七分を座っているだけの男。
残りの三十七分、俺は問題用紙を見ていた。見ていると、字が並んでいる。並んでいる字のうち、読める字と読めない字がある。読めないほうは、だいたい四文字で、漢字だけでできている。
教室の中で、鉛筆の音がしていた。俺の机の上だけ、音がしなかった。
窓際の三列目に、美咲がいた。
背中がまっすぐで、鉛筆が止まっていない。止まらないまま、四十分が終わった。
チャイムが鳴った。
答案は後ろから前へ集められた。俺の紙は、下から三枚目に入った。入ってから、いちばん上の紙の名前が見えた。名前だけは、全員が書いている。
宮坂先生が束を持ち上げて、机の角で二回叩いて、端を揃えた。揃えたところで、下から三枚目が少しだけ横にずれた。
先生はそれを指で押し戻した。
廊下に出たら、美咲が先に出ていて、壁のところで紙を見ていた。朝の手書きのほうの紙だった。
「今日、何時上がり」
「二十二時だ」
「明日は」
「十八時だ」
「明後日は」
「二十二時だ」
美咲は赤いペンを出して、線を一本引いた。引いてから、同じ線をもう一度なぞった。
なぞったところは、紙の裏まで色が出ていた。




