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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第62話 現場が息を止めた

 朝、スタジオに入ったら、椅子が足りていなかった。


 壁際にいつも並んでいるパイプ椅子が、全部モニターの後ろへ移してある。移した先で二列になっていて、それでも足りずに、積んである木材の上に座っている人がいた。


 人が多い。


 数えようとして、四十を過ぎたところでやめた。やめたところで、まだ入口から人が入ってきた。


   ◇


 六時半に、芹沢さんが来た。


 紙コップを持っている。中身は湯気が出ているので、たぶんコーヒーだと思う。


「水無瀬」

「おはようございます」

「今日は一つだ」

「はい」

「一つを、日が暮れるまでやる」


 俺はスタジオの天井を見上げた。窓は一つも無い。


「待ち時間は長い。座っとけ」

「はい」

「座る椅子が無いなら、床でいい」


 俺は床を見た。ケーブルが四本走っていて、その上に黄色いテープが貼ってある。座れる場所は、テープとテープのあいだにあった。


 芹沢さんはモニターのほうへ歩いていった。歩きながら、コップの縁を親指で拭いた。拭いた指を、そのまま上着で拭いた。


   ◇


 セットは、駅前だった。


 券売機の位置が、また戻っていた。改札の柵と平行になっている。自販機の中の見本は並べ替えてあって、いちばん下の段の缶が、右から二番目ではなく左から二番目に移っていた。


 照明が変わっていた。


 上から下りている数が増えていて、そのぶん床の影が濃い。柵の向こうの壁が、昨日より青く見える。青い色の板を貼ったのか、光をそういう色にしたのかは、上を見上げてもわからなかった。


 昨日の四人が、また来ていた。


 今日は四人ではなく、六人になっている。全員が首から札を下げていて、そのうち二人はコートを脱いで腕にかけていた。制作の人が、その六人にパイプ椅子を出そうとして、出す椅子が無いのでやめていた。


 衣装の人が、俺のパーカーの裾を二回引っぱった。


「今日は、前を開けたままで」

「はい」

「途中で閉めないでください」


 閉める予定は無かった。


   ◇


 桐生さんは、六時二十分に入っていた。


 俺より先に来ていて、モニターの後ろの人たちにも一人ずつ頭を下げていた。人数が多いので、時間がかかっていた。


 俺のところまで来て、止まった。


「高町くん、今日、長いよ」

「はい」

「僕、朝からずっと手が冷たいんだ」


 桐生さんは両手をこすり合わせた。合わせて、離した。


「こすっても、あんまり変わらないんだけど」


 変わらないなら、こすらなくてもいいと思う。


   ◇


 午前中は、段取りだった。


 立ち位置を決めて、歩く速さを決めて、カメラの通る道を決める。芹沢さんの声は、モニターのほうからしか来ない。


「伊吹、改札の外から入る」

「はい」

「水無瀬、券売機の前で待つ。動かない」

「はい」

「伊吹が喋り終わってから、三つ数えて振り向け」


 三つというのは、頭の中で数えるやつだと思う。


 段取りを二回やった。


 二回とも、桐生さんの右手の指が先に動いた。人差し指が、パーカーの裾のあたりで一度跳ねて、そのあとに声が出る。


 俺の顔は動かない。


 芹沢さんは、そのどちらについても何も言わなかった。


   ◇


 昼は、十一時半に出た。


 いつもより一時間早い。午後に長く回すからだと、助監督の人が言っていた。


 弁当の箱は白いほうである。中は魚と、ごはんと、卵焼きが二切れ入っていた。卵焼きは甘いほうだった。


 卵焼きは二切れとも先に食べた。あとは、上のほうから順番に無くなった。


 蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。今日は一回でかかった。かかった輪ゴムを、そのままポケットに入れた。入れてから、これは箱に付いていたものなので、箱と一緒に返すのが筋だと気づいた。


 箱はもう回収されていた。


   ◇


 有本さんが、入口のところから歩いてきた。


「高町さん、お疲れさまです」

「お疲れさまです」

「今日、犬飼は途中で抜けません」

「はい」


 有本さんは、持っていたタブレットを一度持ち替えた。


「電話、今日の午前だけで十一本です」

「はい」


 有本さんは壁際まで行って、椅子を探した。椅子は全部モニターの後ろへ行っているので、無かった。有本さんは、積んである木材の端に座った。


   ◇


 午後は、何も無い時間が続いた。


 照明の人が脚立に上がって、下りて、また上がった。制作の人が入口とモニターのあいだを何度も往復していて、往復のたびに、パイプ椅子の列の端が少しずつ前へ出ていた。


 俺はパイプ椅子に座って、台本を膝に置いた。


 置いて、そのままにした。


 十四時に、犬飼さんが壁際に来た。来て、俺の後ろに立った。座らなかった。


「腹は」

「食いました」

「そうか」


 犬飼さんは、それ以上言わなかった。言わないで、上着の内側に手を入れて、箱を出した。出して、手のひらの上で一度振って、また内側に戻した。


 十四時半に、また人が入ってきた。


 三人だった。今度は、札を下げているのが一人だけである。制作の人が先に立って、モニターの後ろまで案内していく。案内された三人は、案内された場所に立たずに、もう少しセットに近いところまで来て止まった。


 助監督の人が、その三人に何か言った。三人は少しだけ下がって、それから、また同じところまで戻った。


   ◇


 十五時に、床のテープが貼り直された。


 俺の立ち位置の白い線が、券売機のほうへ十センチくらい動いた。動いた先は、床を這っているケーブルのすぐ横である。動かしたあとで、貼った人が自分の靴で二回踏んで、端を押さえた。


 俺はそこに立った。立って、また戻った。まだ本番ではない。


   ◇


 十五時二十分から、二十分だけ空いた。


 俺はパイプ椅子に座っていた。桐生さんが、二つ隣の椅子に来て座った。座って、膝の上で両手を組んだ。組んだ手の親指だけが、上下に動いていた。


「高町くん、この場面、台本だと三ページあるんだ。一つの場面で三ページっていうのは、この台本だと長いほうだよ」

「はい」

「三ページで、僕の台詞が五行ある」

「はい」

「高町くんは四行」


 俺は自分の台本を開いた。開いたら、たしかに四行だった。数えたのは桐生さんである。


「僕、五行喋るあいだ、ずっと高町くんの顔を見てるんだけどね」


 桐生さんは、そこで一度、親指を止めた。


「顔、動かないよね」

「動かないです」

「動かないまま、こっちが先に目を逸らすんだ。逸らしてから、逸らしたのは僕のほうだったなって思う」


 俺は自分の膝を見た。


 逸らしていいと思う。


 桐生さんの口の端が、片方だけ上がった。上がって、すぐ戻った。


「べつに、困ってるわけじゃないよ」


 それから立ち上がって、改札のほうへ歩いていった。歩きながら、右手を一度、上着の裾のあたりで振った。


   ◇


 十五時四十分に、本番になった。


 助監督の人が大きい声で人を下げた。下がった先が、もう壁だった。壁際に人が三列になって、その三列が全部こっちを向いた。


 モニターの後ろの椅子も、全部埋まっていた。


 カメラのすぐ後ろに、六人いた。


 その後ろのモニターの前に、七人か八人いる。柵の向こうに三列。脚立の上に二人。入口のところにも人が立っていて、扉を押さえたまま動かなかった。


 全員が、同じところを見ていた。


 カメラが回った。


   ◇


 背筋が伸びた。


 輪郭が、はっきりした。


 スタジオの音が、遠のいた。


   ◇


 ――弁当の輪ゴムが、まだポケットに入っている。


   ◇


 桐生さんが改札の外から入ってきた。


 入ってきて、俺の三歩手前で止まった。


「もう来ないの」


 桐生さんの声だった。声だけが先に来て、指はそのあとだった。順番が、午前の段取りのときと逆になっている。


「来る」


 俺の声が出た。


「嘘だ」


 俺は答えなかった。桐生さんも、次を言わなかった。


「僕、ずっと待ってたんだけど」

「知ってる」

「知ってて、来なかったんだ」

「うん」


 桐生さんの右手が上がった。上がって、俺の肩の高さで止まって、そこから下りた。触っていない。


「じゃあ、もういいよ」

「よくない」


 俺は振り向いた。三つ数えてから振り向いた。


 桐生さんは、そこにいなかった。改札の柵の向こうまで行っていて、こっちに背中を向けている。


 背中が、動いていなかった。


   ◇


「カット」


 芹沢さんの声が、モニターのほうから来た。


 音がしなかった。


   ◇


「もう一本」


 芹沢さんは、それから、いつもと同じ速さで続けた。


「頭から。伊吹、入りの位置は同じ。水無瀬、そのまま」


 俺は「はい」と言った。


 助監督の人が振り返って、記録の人に何か言った。記録の人は紙を見ていて、返事をしなかった。もう一度言われて、それから紙をめくった。


 めくった先のページに、もう書いてあった。書いてあるところの上から、線を引いて消していた。


   ◇


 二本目を撮った。


 三本目も撮った。


 四本目の途中で、照明の人が上から下りてきて、下りたところで別の人と話した。話しているあいだ、カメラは止まっていた。


 五本目で、芹沢さんが「そこまで」と言った。


 言って、椅子から立った。立って、紙コップを持ったまま、モニターの後ろの人たちのあいだを通って出ていった。


 通るとき、六人のうちの一人が芹沢さんに何か言った。芹沢さんは足を止めずに、片手を上げただけだった。


   ◇


 助監督の人が、次の段取りを言い忘れた。


 言い忘れたことに、制作の人が先に気づいて、聞きにいった。聞かれた助監督の人は、紙を二枚めくって、それからもう一度、最初のページに戻した。


「すみません、今日はここまでです」


 そう言ってから、もう一度、大きい声で同じことを言った。


   ◇


 人が動き出した。


 俺は券売機の前から出て、パイプ椅子のところまで歩いた。歩くあいだに、若いスタッフの人が横に来た。


「あの」

「はい」

「わたし、途中で息、止めてました」


 その人は、それを言って、自分の口を手で押さえた。押さえて、離して、機材のほうへ戻っていった。


 たぶん、止めなくてもよかったと思う。


   ◇


 桐生さんが、改札の柵のところに座っていた。


 柵の下の段のところに腰を下ろして、両手を膝に置いている。手は動いていなかった。


 俺が前を通ったら、顔を上げた。


「僕、四本目で一回、間違えた」

「そうですか」

「たぶん誰も気づかなかったと思うけど、間違えたのは自分にはわかるんだ。四本目の、指を上げるところ」


 桐生さんは自分の右手を見た。見て、人差し指を一回だけ曲げて、伸ばした。


「今日は、指が遅かった」


 それから立ち上がって、鞄のほうへ歩いていった。


   ◇


 上がりは、十七時十分だった。


 俺はパイプ椅子から立った。


 立ったところで、膝が抜けた。


 抜けたというより、膝の下に何も無かった。俺は椅子の背を持った。持った手に、力が入っていなかった。指はかかっているのに、握れていない。


 視界の白いところが、上のほうから下りてきた。


「高町」


 犬飼さんの声が、すぐ横で聞こえた。


「はい」

「ここにいろ」

「……あとで歩きます」

「そうしろ」


 俺は椅子に座り直した。


 座り直すときに、膝の裏が座面の縁に当たった。当たったのはわかったが、痛くはなかった。手のほうは、まだ椅子の背にかかったままだった。かけたまま、下ろすところまで行かない。


 犬飼さんは俺の前に立って、動かなかった。動かないで、入口のほうを見ていた。人が通るたびに、少しだけ体をそっちへ寄せていた。


   ◇


 時計は見なかった。


 座っているあいだに、人が減っていった。


 照明が上から一つずつ落とされて、そのたびに床の影が薄くなる。ケーブルを巻いている人が、俺の椅子の前まで来て、そこで巻くのをやめて、遠回りして反対側から巻き直した。


 有本さんが一度、俺の前を通った。通って、何も言わずに、入口のほうへ出ていった。出ていってから、また戻ってきた。手に何も持っていなかった。


 桐生さんが鞄を持って出ていくとき、こっちに片手を上げた。


 俺も上げようとした。腕は上がった。上がったが、肩から先が重かったので、途中で下ろした。


 桐生さんは、それを見て、もう一度上げ直してくれた。


「俺は車を回してくる」


 犬飼さんは、そう言って入口のほうへ歩いていった。歩いていって、扉のところで一度だけ振り返った。


 立ったときには、スタジオの中の人がだいぶ減っていた。


 俺は自分の鞄を持った。持てた。持てたので、歩いた。


   ◇


 車に乗って、シートベルトを締めた。


 金具が、二回外れた。三回目で入った。


 犬飼さんは、窓を少し開けた。


 冷たい風が来て、俺の目は開いていた。開いたまま、外を見ていた。高速の壁の継ぎ目が、右から左へ流れていく。数えようとして、すぐにやめた。


「高町」

「はい」

「月曜から試験だな。五日ある」

「はい」

「午後の入りはこっちで遅らせてある。学校のほうは、一日も休むな」


 忘れるようなものではない。月曜の一時間目から始まる。


   ◇


 家に着いたのは、十八時三十五分だった。


 玄関で靴を脱いで、そのまま居間の床に座った。座って、壁に背中をつけた。


 母さんが台所から出てきて、俺を見て、また台所に戻った。戻って、鍋の蓋を開けた音がした。


 妹が二階から下りてきた。


 下りてきて、居間の入口のところで止まって、俺を見た。


「そこ、寒くない?」


 俺は返事をしなかった。したかったが、口を動かすところまで手が回らなかった。


 妹は台所へ行った。行って、コップを二つ出す音がした。


 戻ってきて、片方を俺の横の床に置いた。もう片方は自分で持っている。


「一個は私の」


 妹はそれを半分くらい飲んだ。飲んでから、こっちを見た。


「兄ちゃんがそこに座ってると、テレビの前が通れないんだけど」


 妹は残りを持ったまま、二階に上がっていった。


 水は、しばらくそこにあった。


 俺は右手をコップのほうへ動かした。動かしたところで、指がコップの側面に当たって、コップが少し滑った。滑った先で止まった。


 止まったので、そのままにした。


   ◇


 テレビが点いて、消えた。母さんが点けて、母さんが消した。


 夕飯の匂いが、途中から強くなった。


 俺は壁にもたれたまま、天井の四隅を順番に見ていた。四隅のうち、台所側の一つに、細い糸のようなものが下がっている。


   ◇


「飯」


 俺は言った。


 母さんが台所から顔を出した。


 母さんが茶碗を出した。妹が二階から下りてきて、俺の顔を見て、それから台所の時計を見た。


 俺はおかわりをした。母さんは何も言わずに、そのたびに茶碗を受け取った。


   ◇


 妹が定規で線を引いていた。


 引いて、日付を書いて、その横に数字を書いた。


「百四十一分」


 妹は言った。


「そうか」

「二十時五十六分」

「そうか」


 妹はノートを閉じた。閉じて、そのまま俺の茶碗の縁を指で押した。押して、少しだけ自分のほうへ寄せた。


「まだ食べる?」

「食べる」

「じゃあ、寄せない」


 妹は茶碗を元の位置に戻して、二階へ上がっていった。


   ◇


 俺も上がった。


 部屋の電気の紐を引いた。引いたら、机の上の人形が動いた。


「あんた、今日は点いたのね」

「点いた」

「顔でわかるわ」

「顔は動かない」

「動かないほうの顔でわかるのよ」


 俺は椅子に座った。座って、背もたれに体を預けた。預けたら、背もたれが少し後ろに倒れた。倒れたところで止まったので、そのままにした。


「あんた、右の靴下だけ裏返しよ」


 俺は足を見た。右だけ裏返しだった。


 人形は台座の上で、片方の足を少しだけ前に出した。


「明日、履き直しなさい」

「そうする」


 机の上に、二つ折りの紙が置いてあった。開いたら、学年末考査の日程と、教科の順番が書いてある。誰の字かは、見ればわかる。


 俺は台本を鞄から出して、その紙の上に置いた。


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