第61話 僕は僕でやるよ
紙袋の中に、おにぎりが二つ入っていた。
一つ目は鮭で、二つ目も鮭だった。
二つとも食べてから、袋を畳んだ。畳んだ袋は、膝の上でだんだん元の形に戻っていった。
五時十分に来た有本さんの車の、後ろの席である。外はまだ暗い。信号のところだけ、赤い色が濡れた道の上に長く伸びていた。
有本さんは前を向いたまま運転していた。信号で止まるたびに、ハンドルの上のほうを持ち直していた。
「高町さん、来週から考査ですね」
「五日あります」
「午前が学校で、午後がこちらです」
「はい」
「犬飼が、学校には何も言うなと言っていました」
「言う予定は無いです」
窓の外が、少しずつ明るくなった。工場らしい建物の上のほうに、四角い窓が並んでいて、その窓のうち二つだけ電気が点いている。
有本さんはタブレットを膝の横に置いていた。置いたまま、赤信号のあいだに一度だけ画面を触った。
「電話、昨日から三本です」
「はい」
「今朝のぶんは、まだ入っていません」
入っていないぶんは、あとで入るのだと思う。
◇
砧に着いたのは、六時二十分だった。
外はもう白かった。有本さんは車を降りて、俺より先にスタジオの入口まで歩いていった。入口のところで制作の人と二言か三言話して、それから戻ってきた。
「高町さん、今日は衣装が変わります」
「はい」
「昨日の上着は使いません」
有本さんは、それから壁際の椅子のところまで歩いていって、座った。
スタジオの中には、もう二十人くらいいた。
床のケーブルの上に貼ってある黄色いテープが、昨日より一本増えている。増えたぶんは、入口から真っ直ぐ、モニターのほうへ伸びていた。
◇
衣装は、灰色のパーカーだった。
前に一度着たやつではなく、同じ形の別のやつである。袖の裏に小さいシールが貼ってあって、そこに番号が書いてあった。
衣装の人が、俺の肩のところを二回引っぱった。
「肩、こっちのほうが落ちますね」
「そうですか」
「今日はこっちで」
メイクの人が来て、顔に何かを塗った。塗って、少し離れて、また近づいて、鼻の横をもう一度触った。
「乾燥してますね」
「はい」
乾燥しているらしい。
鏡の中で、俺の後ろを桐生さんのマネージャーの人が通っていった。手に紙を持っていて、その紙の端を親指で押さえている。押さえたまま、入口のほうへ出ていった。
メイクの人が、最後にもう一度、俺の額のあたりを触った。
「はい、終わりです」
「ありがとうございます」
立ち上がったら、椅子が後ろに二十センチくらい動いた。動いた先に、誰かの鞄が置いてあった。俺はそれを元の場所に戻して、椅子も戻した。
◇
セットは、まだ駅前だった。
券売機の位置が、少しだけ動いていた。前は改札の柵と平行だったのが、今日は斜めになっている。自販機は同じ場所にある。見本の缶の並びも同じだった。
人は、二十人くらいだった。
照明の人が脚立の上で何か直していて、下から二人が見上げている。記録の人は、まだ誰も座っていない椅子のところで紙を並べていた。
「水無瀬」
芹沢さんの声がした。
「今日は、券売機の前で立ってるだけだ」
「はい」
「向きは、あの角に対して斜め。速さは考えなくていい」
「はい」
「待つのは、伊吹が息を吸うまでだ」
どこで息を吸うのかは、その場では見えなかった。俺は「はい」と言った。
芹沢さんはモニターのほうへ戻っていった。戻る途中で、床のテープを靴の先で一度だけ踏み直した。
◇
桐生さんは、六時十分に入っていた。
俺より先に来ていて、スタッフの一人一人に頭を下げ終わったところだった。俺のところに来て、止まった。
「高町くん、おはよう」
「おはようございます」
「今日、僕、朝から声が低いんだ。低いっていうか、下のほうが鳴らない感じがする」
桐生さんは自分の喉のあたりを指で押さえた。押さえて、離した。
「押さえても直らないんだけどね。喉って、外側から触れるところと、鳴ってるところが別なんだと思う」
直らないらしい。
桐生さんは、そこで一歩も動かなかった。動かないまま、同じ速さで続けた。
「昨日の、考えた?」
「考えました」
「で?」
俺は口を開けた。
開けたが、何も出なかった。
考えたのは、上着のボタンのことだった。上から二つ目が取れていて、糸だけが残っている。留めると真ん中が開いて、開いたところに風が入る。そこまで考えて、寝た。
桐生さんは、待っていた。
待ちながら、こっちを見ている。目は細くなっていない。口の形だけが笑っている。手は鞄の紐にかけたままで、指も動いていない。
スタジオの奥で、脚立が床を引きずられる音がした。音は右から左へ動いて、途中で止まった。
「いいよ」
桐生さんは言った。速さは、さっきの一言と同じだった。
「今日、長いからね」
桐生さんは自分の椅子のほうへ歩いていった。歩き方は、来たときと同じ速さだった。
◇
傍から見ると、朝の現場で、年上の共演者に正面から踏み込まれて、顔色ひとつ変えずに受けている主演だった。
◇
一本目が始まった。
俺は券売機の前に立っている。桐生さんが後ろから来て、俺の横で止まって、台詞を言う。
桐生さんの右手の指が、先に動いた。
人差し指が、パーカーの裾のところで一度だけ跳ねて、それから腕全体が上がった。台詞は、そのあとに出た。
スタジオの音は、全部そのまま聞こえていた。柵の向こうで誰かが咳をした。上のほうで照明の金具が二回鳴った。俺の靴の下で、床のテープが少しずれる感じがあった。
俺の顔は動かない。芹沢さんは、それについて何も言わなかった。
「はい、いいです」
助監督の人が言った。
◇
二本目は、桐生さんが台詞を言い終わったあとで、俺が改札のほうを向くところまでだった。
「水無瀬、向くのは声が終わってからだ」
「はい」
「途中で向くと、早い」
早いらしい。
三本目で、芹沢さんは俺の顔の向きを一度だけ直した。
「もう半歩、左」
俺は半歩、左に動いた。
「戻して。半分」
半分というのが、半歩の半分なのか、いま動いたぶんの半分なのかで、少し迷った。迷ったが、どちらも同じ長さである。俺は半歩の半分ぶん戻った。
「そこ」
芹沢さんは、それ以上何も言わなかった。
◇
昼は、十二時半だった。
弁当の箱は白いやつで、中は鶏と、ごはんと、漬物が二種類入っていた。ごはんの上に黒いのが一列に乗っている。
漬物は二種類とも食べた。黒いのも一列ぶん残さなかった。
空にしてから蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。今日は二回かかった。一回目は箱の角で止まって、そこから先に行かなかった。
桐生さんは、壁際の椅子で灰色のノートを開いていた。開いて、閉じて、鞄に入れた。
入れたあとで、こっちを見て、片手を上げた。俺も上げた。
上げたところで、桐生さんが立って、こっちへ歩いてきた。
歩いてきて、俺の二つ隣のパイプ椅子に座った。座って、背もたれに寄りかからずに、浅く腰かけていた。
「高町くん、今日の午後、僕は三時まで無いんだ」
「はい」
「無いけど、いるよ。帰って戻ってくると、そのぶん道で時間を使うだけだから」
「はい」
「いても、何もしないよ」
桐生さんは組んだ手をほどいて、片方の手を椅子の座面に置いた。
「見てるだけ」
俺はうなずいた。
見ているだけの人が一人増える。増えても、椅子は足りている。
◇
午後は、待った。
照明を組み直すらしい。俺は上着を借りて、パイプ椅子に座った。撮影用ではない、スタッフが着ている厚いやつだ。
暖かい。暖かくなると、眠くなる。
――今から寝れば、二時間は寝られる。
寝てはいけない理由が思いつかなかったので、俺は目を閉じた。閉じたところで、若いスタッフの人が前を通って、床のケーブルにつまずいた。
つまずいた音で、目が開いた。
「すみません」
「いえ」
その人は、ケーブルを踏まないように大回りして行った。大回りした先にも、ケーブルがあった。
俺はもう一度目を閉じた。閉じているあいだに、脚立が二回、床の上を引きずられた。引きずる音は、右から左へ動いて、また右へ戻ってきた。
目を開けたら、桐生さんが柵の向こう側に立っていた。
立って、セットのほうを見ている。撮っていないので、そこには誰もいない。誰もいないところを、しばらく見ていた。
見てから、自分の椅子に戻った。戻る途中で、床のテープを踏まないように一度またいだ。またいだ足は、右からだった。
◇
十五時ごろ、入口のほうから人が入ってきた。
四人いた。全員がコートを着たままで、そのうち二人が首から札を下げている。制作の人が先に立って、モニターの後ろまで案内していった。
助監督の人が、俺の横を通るときに言った。
「局の方です」
「はい」
「明日、もう少し来ます」
明日は一つしか撮らないと聞いている。一つしか撮らない日に、もう少し来るらしい。
四人は、モニターの後ろで十分くらい立っていて、それから出ていった。出ていくときに、一人が振り返って、セットの上のほうを見上げた。見上げたところにあるのは、鉄の梁と照明だった。
◇
有本さんが、壁際の椅子から立ち上がって、俺のところへ来た。
「高町さん、犬飼は十九時に来ます」
「はい」
「それまで、わたしがいます」
有本さんは画面を一度触った。
「電話、今日は八本になりました」
有本さんは椅子に戻って、また座った。座ってから、膝の上でタブレットを裏返した。
◇
十七時を過ぎてから、また動き出した。
同じカットを四本撮った。四本とも、桐生さんの指が先に動いた。四本とも、パーカーの裾の同じ高さで跳ねていた。
記録の人が、四本目のあとで紙に何か書いた。書いてから、こっちに向かって言った。
「三本目と四本目、止まる場所が同じでした」
「はい」
止まる場所というのが、俺の足のことなのか、カメラのことなのかを、そのときは決めなかった。
◇
五本目は、少し離れた位置から撮った。
カメラが下がったぶん、俺と桐生さんのあいだの床が広く映る。芹沢さんの指示は二つだけだった。
「水無瀬、そこから動かない」
「はい」
「伊吹、入りは今までより遅く」
桐生さんは、言われたとおりに遅く入ってきた。遅く入ってきて、同じ場所で止まった。止まったところの床に、白いテープが貼ってある。テープの端が少し剥がれていて、桐生さんの靴の先が、その剥がれたところを踏んでいた。
踏んだまま、指が先に動いた。
◇
十九時に、犬飼さんが来た。
入口のところで有本さんと二言か三言話して、それから壁際まで来た。来て、俺の隣の椅子に座らずに、その後ろに立った。
「腹は」
「昼に食いました」
「そうか」
犬飼さんは、それから何も言わなかった。言わないで、セットのほうを見ていた。
立ったまま、上着の内側に手を入れて、箱を出した。手のひらの上で一度振って、音を確かめて、また内側へ戻した。
◇
十九時半に、パンが配られた。
個包装のやつで、白いのと茶色いのがある。俺は白いのを二つ取った。取ったところで、隣の制作の人が茶色いのを一つこっちに寄こした。
「甘いほうです」
「ありがとうございます」
甘いほうも食べた。
食べていたら、桐生さんが自分のぶんを持ったまま、袋を開けずに椅子に座っていた。座って、袋を膝の上に置いて、そのまま二十分くらい置いていた。
二十分たってから、袋を鞄に入れた。
◇
最後のカットは、二十時五十分に始まった。
俺は改札の柵の内側に立っていて、桐生さんが外側から入ってくる。台詞は桐生さんだけにある。
カメラは俺の背中の後ろにあって、俺の顔は映らない。映らないところに立って、待つ。
二本撮って、そのあと、桐生さんの顔だけを寄りでもう三本撮った。
寄りのあいだ、俺は柵の内側に立ったままだった。立ったままでいいと言われたので、立っていた。立っている俺のところには、カメラは向いていない。
三本目が終わったところで、芹沢さんが「そこまで」と言った。
◇
二十一時十分に、上がりになった。
外に出たら、建物と建物のあいだの通路に、桐生さんが立っていた。
通路には屋根がついている。両側が壁で、上のほうに照明が一つ付いていて、その光は下まで届かずに途中で薄くなる。自販機は無い。足元のコンクリートに継ぎ目があって、そこだけ水が乾かずに残っていた。
俺の靴の先から二十センチくらいのところに、白いテープの切れ端が落ちていた。誰かが貼り損ねたやつだと思う。端のほうが黒く汚れている。
桐生さんは上着の前を閉めていない。閉めていないのに、寒そうにもしていなかった。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
通路の照明は、下のほうまで届いていない。届いていないところで、桐生さんの目が細くなった。
細くなって、頬のほうが上がって、それから両方とも戻った。戻るほうが速かった。
「昨日のこと、悪かった」
「いえ」
「あれ、僕の問題だから。君に聞いて片がつく話じゃないっていうのは、聞いたあとで気がついた」
風が、建物と建物のあいだを通るときだけ速くなった。白いテープの切れ端は、風のたびに端が少しだけ持ち上がって、風が止まると床に戻った。
「僕は僕でやるよ」
桐生さんは、そう言って歩き出した。
歩き出して、そのまま角を曲がった。角のところで一度だけ、上着の前を合わせた。合わせただけで、留めてはいなかった。
俺は通路に残った。
上の照明が、さっきより白く見える。見えるだけで、たぶん同じ電球だと思う。どこかで扉が閉まる音がした。音は一回で、そのあとは何も続かなかった。
俺はそれを拾った。
拾って、ポケットに入れた。入れてから、これは誰かの貼り損ねであって、俺の物ではないことに気づいた。
戻すには、もう一度しゃがむ必要がある。
俺はしゃがんで、元の場所に置いた。置いたら、風で二十センチくらい動いた。
動いた先は、さっきより壁に近い。壁に近いところは風が弱いので、そこからは動かなかった。
俺は立ち上がった。
立ち上がったときに、通路の先で自販機の音がした。通路に自販機は無い。無いので、音は壁の向こうから来ている。
◇
駐車場に犬飼さんが立っていた。
立って、車のドアに寄りかかっている。俺が来たら、体を離した。
離したときに、寄りかかっていたところに手の跡が残っていた。残ったのは一瞬で、白くなっていた部分が、そのまますぐ元の色に戻った。
「明日は、一日で一つだけ撮る。朝から夜まで同じ場面を回すから、飯は入りの前に済ませておけ」
「一日で一つですか」
「一つだけだ」
一つだけ、を二回聞いた。二回目のほうが、少し短かった。
犬飼さんは鍵を出して、それを一度、手の中で持ち替えた。
「朝は五時半に行く」
俺はドアを開けた。




