第60話 核心の一歩手前
朝、車の中で、犬飼さんが箱を開けた。
信号で止まったときだった。上着の内側から出して、蓋を開けて、中から一つ出して、口に入れた。
水は飲まなかった。
開けたのを見たのは、久しぶりだった。
俺はそれを後ろの席から見ていた。見ていたが、何も言わなかった。言うことがなかった。
「高町」
「はい」
「今日は昼までだ」
「はい」
「そのあと、局へ行く」
高速に入った。
「宣伝の人が二人来る」
「はい」
「四月の話だ。日付を出されたら、その場では返事をするな」
「はい」
「学校の日程がある」
学校の日程を持っているのは、俺ではない。俺の鞄の中には、四つに折った紙が一枚入っているだけである。
その紙にも、日付は書いてある。
◇
スタジオに入ったら、俺のパイプ椅子に座布団が乗っていた。
薄いやつだ。青くて、四隅に細い房がついている。房のほうは、どこにも結んでいない。
誰が置いたのか、わからなかった。
スタジオの中を見たら、ほかに座布団を敷いている人はいなかった。壁際のパイプ椅子は八脚あって、どれにも何も乗っていない。
助監督の人が横を通ったので、聞いてみた。
「これ、俺のですか」
「そうです」
「どこから来ましたか」
「……どこからでしょうね」
助監督の人は、答えないまま柵の向こうへ入っていった。
持ち主は、わからなかった。
座ったら、床の冷たさが少し減った。減ったが、上のほうから来る寒さは同じだった。
◇
今日は第二話の終わりのほうだった。
セットは、ホームではなく、部屋のほうである。壁が三面あって、四面目が無い。机の上には、金曜には無かったものが増えていた。湯呑みと、ノートと、その横に鍵が一つ置いてある。
鍵は、部屋の鍵らしい。
「水無瀬、鍵は取らない。見るだけだ」
「はい」
「見て、そのまま出ていく」
芹沢さんはそう言って、モニターの前へ戻った。
◇
桐生さんは、六時十分に入ってきた。
入ってきて、いつものようにスタッフに頭を下げて、俺のところまで来た。
「高町くん、おはよう」
「おはようございます」
桐生さんはそこで止まった。
止まって、俺の椅子の上の座布団を見た。見て、自分の椅子のほうを見た。自分の椅子には、何も乗っていない。
「いいなあ」
「よかったら、どうぞ」
「いや、いいよ」
顔が変わるのに、一秒もかからなかった。気がついたときには、もう目のほうが細くなっていた。
そのまま自分の椅子まで歩いていった。歩いていって、座らないで、鞄から灰色のノートを出した。
出して、開いた。
開いたページは、今日も白かった。
桐生さんは、その白いページを、しばらく見ていた。見ているあいだ、ページには何も書かれていない。書く道具も出していない。
やがてノートを閉じて、鞄に戻した。戻して、こっちを一度見た。
目が合ったので、俺は頭を下げた。桐生さんも下げた。
下げてから、桐生さんは自分の椅子に座った。座って、前を向いた。前には、まだ何も建っていない壁の板が立てかけてある。
◇
一本目は、七時に始まった。
俺は部屋に入って、机まで歩いて、机の上を見て、そのまま出ていく。台詞は無い。
モニターの前には、六人いた。
六人とも、画面を見ていた。
俺は入って、歩いて、見て、出た。
入るときにドアを押すのだが、このドアは本物ではない。押すと、枠ごと少し揺れる。揺れるので、押す力を毎回同じにしろと言われている。同じにしているつもりで、二本目のときに一度、大きく揺れた。
揺れたぶんは、撮り直しになった。
「もう一本」
二本目と三本目を続けて撮った。
三本目のあとで、芹沢さんが俺の歩く速さを直した。速くするほうだった。
「そこ」
助監督の人が、床のテープを一本剥がして、少し前に貼り直した。
◇
四本目のとき、机の上の鍵が動いた。
誰かが直したらしい。三本目までは、鍵は湯呑みの右にあった。四本目では、湯呑みの手前に来ていた。
俺はそれを見た。
見て、そのまま出ていった。
出ていったところで、記録の人が手を上げた。
「すみません、鍵の位置、三本目と違います」
「戻して」
芹沢さんはそう言った。
鍵は戻された。五本目をやった。
五本目のあいだ、モニターの前の人数が増えていた。六人だったのが、俺が部屋を出るころには、その後ろにもう二列できていた。
二列目の人たちは、モニターが見えない位置にいる。見えない位置に立って、そこから動かなかった。
六本目のあとで、芹沢さんが「次」と言った。
次に行くと、俺の出番はしばらく無い。無いので、俺は柵の外に出た。
出るときに、二列目にいた人が三人、道を空けた。空けるほどの幅ではなかった。
◇
十一時に、桐生さんのカットになった。
俺は柵の外に出た。出て、パイプ椅子に座った。座って、座布団の房を触っていた。
桐生さんのカットは、部屋の外の廊下で、ドアの前に立っているだけのものだった。台詞は一行ある。
一行を、桐生さんは七回言った。
七回とも、同じ速さだった。七回目のあとで、芹沢さんが「そこ」と言った。
桐生さんは、そのあとでカメラの人に何か聞いていた。聞いて、うなずいて、それから自分の椅子に戻った。
戻って、灰色のノートをまた開いた。
◇
昼に配られた箱は、今日も白いほうだった。
中は、ごはんと、鯖と、卵焼きと、煮物だった。全部片づけた。
蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。今日は三回かかった。三回目でやっとかかった。
桐生さんは、俺の二つ隣で食べていた。
食べながら、こっちを一度見た。見て、また下を向いた。それから、もう一度見た。
二回とも、何も言わなかった。
二回目のとき、桐生さんの弁当の箱は、まだ半分残っていた。残っているのに、箸は置いてあった。置いた箸の先が、箱の縁からはみ出して、机の上に付いている。付いているのを、桐生さんは見ていなかった。
俺は自分の箱の輪ゴムを、指で一度伸ばして、離した。
離したら、思ったより大きい音がした。桐生さんが、その音でこっちを見た。三回目だった。
◇
十二時四十分に、その日の撮影が終わった。
「高町さん、上がりです」
「はい」
「明日は六時半、同じスタジオです」
借りていた上着を返して、鞄を肩にかけた。
かけて、出口へ歩いた。歩きながら、座布団をどうするかで少し考えた。持って帰るものではない。置いていくと、明日も同じところにあるとは限らない。畳んでおくのが正しいのかもしれないが、畳む形の座布団ではない。
そのまま置いてきた。座布団は、椅子の上で少し斜めになっていた。斜めのまま出てきた。
置いてくるとき、座布団の房のところが少しめくれていた。めくれているのを直そうとして、手を伸ばして、途中でやめた。直すと、誰かが置いたことに気づいていると言っているようになる。
言っているようになるかどうかは、わからない。わからないので、やめた。
◇
外に出たら、明るかった。
太陽が出ていた。駐車場のコンクリートに、建物の影がまっすぐ落ちている。影の中と外で、地面の色がはっきり分かれていた。
影の縁のところに、鳥が二羽いた。
二羽とも、俺が近づいたら、同じ方向に歩いて逃げた。飛ばないで、歩いて逃げた。
◇
局までは、車で四十分かかった。
着いたのは、十三時四十分だった。受付で入館証をもらった。今日の分は白い台紙だった。首から下げたら、名前の面が裏を向いた。
直した。
◇
七階の会議室に、宣伝の人が二人いた。
二人とも紙を持っている。紙は三枚ずつあった。長机の上に、その三枚を順番に並べていく。
一枚目は、四月の予定表だった。二枚目は、撮影の日程だった。三枚目には、番組の名前がいくつか並んでいた。
「まず、四月の頭に、番宣で出ていただきます」
「はい」
「これと、これと、これです」
指した先には、番組の名前が三つあった。三つとも、俺は名前しか知らない。
「あと、ポスターの撮影が三月にあります。衣装合わせは、その前に別日でお願いします」
「はい」
「衣装合わせは、別日でお願いします」
俺は、はい、と言った。
三十分の話のうち、二十五分は日付の話だった。
残りの五分で、宣伝の人がもう一枚出した。
その紙には、写真が四枚並んでいた。四枚とも、俺と桐生さんが写っている。撮った日は、一月の顔合わせの日らしい。制服ではなくて、事務所で借りた上着を着ていた。
「このうちの一枚を、来月の記事に使います」
「はい」
「どれがいいとか、ありますか」
俺は四枚を見た。
四枚とも、同じ顔をしている。同じ日に、同じ場所で、続けて撮ったものだ。
「どれでもいいです」
「わかりました」
宣伝の人は、いちばん左のを丸で囲んだ。
いちばん左のは、桐生さんが少し前に出ているやつだった。
前に出ているといっても、半歩ぶんもない。四枚のうち、その一枚だけ、二人の靴の位置がずれている。ほかの三枚では、靴の先が横一列にそろっていた。
宣伝の人は、そろっていないほうを選んだ。
なぜそっちなのかを、俺は聞かなかった。聞いても、たぶんわからない。
◇
机の向こうの二人から見れば、二十五分ぶんの日付に一度も質問しない、話の早い主演だった。
◇
犬飼さんは、俺の隣で聞いていた。
聞きながら、二回だけ口を出した。一回目は「その日は学校です」で、二回目は「その時間は動かせません」だった。
宣伝の人は、二回とも紙に書き込んだ。
書き込んでから、一人が言った。
「高町さん、しゃべるのは大丈夫ですか。番宣は生放送のもあるので、一応うかがっておきます」
「大丈夫です」
「番宣、生放送のもあるので」
生放送が何なのかは、わかる。
わかるが、大丈夫かどうかは、やってみないとわからない。
◇
十四時二十分に、話が終わった。
犬飼さんは、宣伝の人と一緒に部屋を出ていった。出るときに、俺のほうを見て、「先に下りてろ」と言った。
俺は鞄を持って、廊下へ出た。
出たところで、有本さんが待っていた。
タブレットを胸の前で抱えていた。抱えたまま、こっちへ二歩来た。
「高町さん、明日は五時十分にうかがいます」
「はい」
「電話、二十六本になりました」
「二十六本ですか」
「今日の分だけで、二十六本です」
有本さんは画面を見た。見て、消した。
「わたし、下にいます」
有本さんはエレベーターのほうへ歩いていった。
◇
廊下は長い。
右の壁が全部窓で、左の壁にドアが並んでいる。ドアには番号がついていて、いちばん手前が七〇一だった。
窓の外は曇っていた。下に道が見えて、その道に車が並んでいる。
エレベーターは、廊下の反対側の端にある。
俺は歩き出した。
◇
「高町くん」
声がした。
振り返ったら、桐生さんが窓のところに立っていた。
いつからいたのかは、わからない。局に来ることは、聞いていなかった。
桐生さんは鞄を肩にかけていた。上着は着ていない。手には何も持っていなかった。
窓のほうから、灰色の光が入っている。その光の中に立っていると、上着を着ていないぶんだけ、体の線がはっきり見えた。肩から腕までが、まっすぐ下りている。
「ちょっといい」
「はい」
俺は五歩戻った。
戻ったところで、桐生さんは動かなかった。動かないので、俺のほうが窓に近づく形になった。窓の下の枠に、桐生さんの鞄の底が触れている。触れているのに、置いてはいなかった。
◇
桐生さんは、窓のほうへ体を半分向けた。
向けて、それからこっちに顔だけ戻した。
「君、何かしてる?」
◇
すぐには答えが出なかった。上着の中で、携帯が一度だけ震えた。震えただけで、それきりだった。
「してます」
「何を」
「今日は、朝に飯を食って、車で寝ないで来ました」
桐生さんの口の端が上がった。上がるのが速くて、目のほうが少し遅れた。
「そうじゃなくて」
「はい」
「月曜の、あの一本の前」
「はい」
「何をした?」
俺はもう一度考えた。
月曜の朝のことを思い出した。思い出せたのは、白湯の紙コップが二つになったところまでだった。
「金曜に、頭を下げました」
「それは聞いた」
「そのあとは、寝ました」
「寝た」
「寝ました」
桐生さんは、そこで一度だけ、鞄の位置を直した。
直して、また同じところに戻した。
◇
桐生さんは、笑ったままだった。
笑ったままなのに、目のところは動いていない。速さも変わらない。声も同じ大きさだった。
「僕はね、五歳から数えて十三年やってる」
「はい」
「十三年ぶん、全部やり方があるんだ。朝の四十分にやることも、白いノートの使い方も、指をどこから動かすかも」
「はい」
「全部、人に説明できる」
桐生さんは窓の外を見た。
見て、こっちに戻った。
「君は、説明できる?」
◇
俺は考えた。
考えているあいだに、桐生さんは窓のほうへ顔を戻していた。窓の外は曇っている。曇っているので、ガラスに廊下の蛍光灯が四本、並んで映っていた。
「いいよ、答えなくて」
「いま、考えてます」
「考えなくていい」
桐生さんは鞄を持ち直した。持ち直して、廊下の先を見た。
「明日、また聞くよ」
「はい」
「明日は、朝からだね」
「六時半です」
「僕もだ」
桐生さんはエレベーターのほうへ歩いていった。
歩き方は、来たときと同じだった。
◇
俺も歩き出した。
歩き出して、五歩で止まった。
止めたつもりはない。足のほうが止まった。
廊下の先で、エレベーターの扉が閉まる音がした。閉まってから、動く音がした。動く音は、上へ行く音ではなくて、下へ行く音だった。
俺はそこに立っていた。
立っているあいだに、七〇一のドアが開いて、中から人が二人出てきて、俺のいる側とは反対の壁沿いを通って、そのまま非常階段のほうへ歩いていった。二人とも、こっちを見なかった。
立っているあいだに、腹が鳴った。
鳴ったのは、廊下に誰もいないときだった。
誰もいないので、聞かれていない。
俺は窓のほうへ一歩寄って、下を見た。
道に並んでいた車が、動き出したところだった。先頭から順に、間を空けて動いていく。最後尾の一台だけが、まだ止まっていた。
止まっている理由は、上からは見えなかった。




