第59話 監督が叫んだ
スタジオに入ったら、入口の内側に人が三人立っていた。
三人とも、こっちを見た。見て、頭を下げた。俺も下げた。
下げて、通りすぎて、五歩ほど歩いたところで、後ろでもう一度「おはようございます」が来た。別の人だった。
振り返って、また下げた。
朝の挨拶を、入口から自分の椅子までのあいだに、七回した。
七回のうち、四回は向こうが先だった。向こうが先でも、下げた回数は七回だった。
◇
椅子に鞄を置いたら、若い人が白湯を持ってきた。
いつもの人ではない。別の人だった。
「熱いので、下のほう持ってください」
「はい」
言うことは同じだった。
持ったら、いつもの人が反対側から来て、もう一つ差し出した。
二つになった。
◇
人が、いつもより早く集まっていた。
六時十分の時点で、カメラの後ろに四人いて、モニターの位置も決まっていた。ケーブルには、もう黄色いテープが貼ってある。柵の向こうでは、制作の人が二人で紙を配っていた。
俺が椅子に座ったら、そのうちの一人が来て、香盤を一枚くれた。
くれてから、行かなかった。
「高町さん、今日、頭からです」
「はい」
「……よろしくお願いします」
「はい」
制作の人は、次の人のところへ紙を配りに行った。
紙は、両手で渡された。
紙の右上に、鉛筆で小さく丸が描いてあった。俺の欄のところである。誰が描いたのかは、書いていない。
◇
今日は第二話の、頭から順に撮る。
セットは、また駅のホームだった。ベンチと、柱が二本と、壁の上のほうが青い。時刻表の紙は、この前と同じものが貼ってある。四時五十二分の「五」が、まだかすれていた。
桐生さんは、六時二十分に入ってきた。
入ってきて、いつもより早く俺のところまで来た。
「高町くん、金曜、いなくてごめんね」
「いえ」
「聞いたよ」
何を聞いたのかは、言わなかった。
桐生さんは、そこで笑った。速い。
「僕、そういうの、できないんだ。頭の中で言い方を組み立ててるうちに、先に喋られる」
できないことがあるらしい。
◇
芹沢さんは六時半ちょうどに来た。
今日もコーヒーだった。コップの縁が、一箇所だけ内側に折れている。
「頭から。伊吹が先に入る。水無瀬はベンチ」
「はい」
「今日は長いのを一本、通しで撮る。頭から順で、途中は切らない」
通しというのが何なのか、わからない。
助監督の人が横から言った。
「途中で何があっても止めないで、最後までやるやつです。止めるのはカメラのほうだけです」
「はい」
「長さは、三分四十秒くらいです」
三分四十秒は、長い。
助監督の人は、そのあとで、通しのときの決まりを三つ言った。
一つ、途中で止まっても、止めないで続けること。二つ、台詞が飛んだら、その場で戻らないで、先へ行くこと。三つ、終わってもカットがかかるまで動かないこと。
三つとも、はい、と言った。
三つ目の意味は、そのときはわからなかった。動かないでいろ、というのは、座っていろということだと思った。
◇
俺の台詞は、そのあいだに十九行ある。
十九行のうち、十四行が続けて来る。続けて来るところは、伊吹が黙っている。
俺は台本を鞄にしまった。
しまって、ベンチに座った。
◇
七時十分に、一本目が始まった。
ホームの端から、桐生さんが入ってくる。入ってきて、ベンチの左に座る。座ってから、二拍おいて、こっちを見る。
最初に、短い行が四つある。
四つとも水無瀬の側で、伊吹は返さない。俺の四行は、どれも十字より短い。
四行目を言い終わっても、桐生さんは前を向いたままだった。
そこから、十四行が来る。
俺は十四行を言った。
十四行のうち、六行目のところで、桐生さんが膝の上の手を動かした。開いて、閉じた。開くほうが先だった。
十行目で、遠くのほうで何かが止まった。何が止まったのかはわからない。動いていた音が一つ減った、という減り方だった。
十二行目で、もう一つ減った。
十四行目を言い終わったとき、聞こえていたのは、カメラの音だけになっていた。
言い終わって、桐生さんが五行言った。
そのあと、俺が最後の一行を言った。
「……帰るよ」
◇
終わった。
カットがかからなかった。
カメラが回っている音が、まだしている。カメラの後ろの人が、レンズから顔を離さないでいる。俺はベンチに座ったままだった。座ったまま、次の指示を待った。
指示は来なかった。
◇
俺は柵の向こうを見た。
助監督の人は、香盤を持ったまま、手を下ろしていた。紙の端が床に触れている。触れているのに、直さなかった。
記録の人のペンは、紙の上で止まっていた。
照明の人は、脚立の上で片手を伸ばしたままだった。伸ばした先には何もない。
モニターの前に、七人か八人が集まっていた。集まっているのに、誰も画面を指していなかった。
◇
芹沢さんは、モニターの前に立っていた。
コップは持ったままだった。持ったまま、口が少し開いていた。
開いたまま、何も言わなかった。
◇
カメラが回りつづけた。
俺は、そのあいだにベンチの座面の木目を見た。ベンチの板は五枚あって、真ん中の一枚だけ色が違う。あとから足したやつだ。
板の継ぎ目に、細かい砂が溜まっていた。溜まっているのは、右から二本目の継ぎ目だけだった。ほかの継ぎ目は、きれいだった。
誰かが、そこだけ掃きにくいのだと思う。
◇
「……カット」
声が出たのは、そこからだった。
声は大きくなかった。いつもの声より小さいくらいで、後ろのほうまで届いていなかったと思う。届いていなかったので、助監督の人がもう一度、大きい声で「カット」と言った。
カメラが止まった。
止まった音のあとで、スタジオの中で、誰かが息を吸った。
吸ったのは一人ではなかった。二つか三つ、同じような音が続けてした。続けてしてから、床のほうで、金属が軽く当たる音がした。誰かが持っていたものを、置いたらしい。
照明の人が、伸ばしたままだった手を下ろした。
◇
芹沢さんは、紙コップを口に持っていって、飲んだ。
飲んで、下ろした。
「もう一本、押さえる」
「はい」
「そのあと、寄りを三つ」
「はい」
「昼は、予定どおりでいい」
段取りの話だった。
助監督の人が復唱した。復唱する声が、一回目だけ裏返った。裏返ったのを、本人が咳で誤魔化した。
誤魔化してから、もう一度、全部言い直した。
そのあいだに、記録の人がペンを持ち直した。持ち直して、書き始めた。書き始めたら、そこから長かった。ペンが紙の上を、行の端まで行って、戻って、また行った。
三行ぶんくらい書いていた。
◇
現場の音が遠のいて、輪郭がはっきりして、背筋が伸びていた。
◇
腹が減った。
朝、四時二十分に食った。いまは七時二十分である。まだ三時間しか経っていないのに、腹が減っている。
ベンチから立つとき、膝が少しだけ遅れて動いた。
◇
二本目を撮った。
二本目のあいだも、誰もモニターの前から動かなかった。動かないので、二本目のカットは、芹沢さんが自分でかけた。今度は普通の声だった。
寄りを三つ撮った。
三つ目のとき、カメラの人が「もう少しだけ、こっち」と言った。俺は少し動いた。
「そこ」
カメラの人は、レンズの横のつまみを回した。回して、こっちに親指を立てた。
◇
犬飼さんは、朝からずっとスタジオの中にいた。
昼になっても帰らなかった。今日は昼で抜ける日ではないらしい。壁際の椅子に座って、そこから動かなかった。動かないで、モニターの前に集まっている人のほうを見ていた。
一本目のあとで、犬飼さんは立ち上がっていた。
立ち上がって、二歩だけ前に出て、そこで止まった。止まって、また座った。
座ったところを、俺は柵の内側から見ていた。
◇
昼の箱の中は、ごはんと、鶏の唐揚げと、卵焼きと、煮物だった。
食べた。
食べて、足りなかった。
足りなかったので、鞄の中を見た。中には、金曜にもらったチョコレートは入っていない。あれは箱ごと現場に残っている。
入っていたのは、台本と、四つに折った紙だった。
◇
午後は、二時間半あった。
俺は壁際に座っていた。
紙コップを一つ持っていた。持っていたが、途中で膝の上に置いた。置くとき、指が先に開いた。開いたので、コップの上のほうが少し潰れた。
潰れたまま、そのままにした。
◇
有本さんは十四時に来た。
来て、俺の二つ隣に座った。座って、タブレットを膝に置いた。
「高町さん、電話、二十一本です」
「二十一本ですか」
「昨日から、二十一本です」
有本さんは画面を消した。
消してから、こっちを一度見た。見て、それ以上は何も言わなかった。
◇
便所へ行った帰りに、壁の板の裏を通った。
二人が立って喋っていた。片方は照明の人で、もう片方は知らない人だった。
「さっきの、芹沢さん、叫んでましたよね」
「叫んでない」
「叫んでましたって。カットのとこ」
「あれは小さかった」
「いや、俺、聞こえましたもん」
「聞こえてないから、副が言い直したんだろ」
「……そうでしたっけ」
俺は通りすぎた。
通りすぎながら、朝のことを思い出した。芹沢さんの声は、後ろまで届いていなかった。届いていなかったので、助監督の人が言い直した。
叫んではいない。
◇
もう一人、別のところでも同じ話をしていた。
弁当の箱を積んでいる横で、三人が立っている。三人のうち二人がこっちに背を向けていて、一人だけ顔が見えた。
「芹沢さんの現場、これで四本目なんだけどさ」
「うん」
「あの声、記憶にない」
顔の見えたほうが言った。
俺は白湯をもらいに行った。
もらいに行ったら、白湯のポットの前に人が四人並んでいた。並んでいる人が、全員こっちを向いて、順番を譲った。
俺は最後尾に立った。立ったら、四人とも動かなくなった。
先に注いだ。
◇
十五時から、また撮った。
撮ったのは、ホームの反対側からのカットが二つと、柱の後ろから撮るのが一つだった。柱の後ろのやつは、四本撮った。
柱の後ろから撮るとき、俺は柱の陰に入って、そこから半分だけ出る。出る速さを、芹沢さんが二回直した。二回とも、遅くするほうだった。
「そこ」
芹沢さんは、それから助監督の人に何か言った。助監督の人がうなずいて、床のテープを見に行った。
◇
十七時四十分に、上がりになった。
「高町さん、上がりです」
「はい」
俺は立ち上がった。
立ち上がったところで、右の膝が抜けた。抜けたので、パイプ椅子の背もたれを掴んだ。掴んだら、椅子が少し動いた。動いたが、倒れなかった。
誰も見ていなかった。
◇
上着を返しに行った。
返して、鞄を持った。持ったら、鞄が重かった。中には台本と紙しか入っていない。
出口まで歩いた。歩いている途中で、二度、壁に手をついた。二度目のときは、ついてから三つ数えて離した。
◇
車に着いたら、犬飼さんが先に後部座席のドアを開けていた。
開けたまま、そこに立っていた。
「高町」
「はい」
「歩けるか」
「歩けます」
俺は乗った。
ベルトを引いて、金具を差した。三回目で入った。
犬飼さんは、締まったのを見てから、ドアを閉めた。
◇
車が動き出した。
「高町」
「はい」
「明後日は、撮影のあとで局に寄る。桐生さんも来るそうだ」
「はい」
「三十分で済む話だと言われたが、そういう三十分は、たいてい済まん」
俺は返事をした。
窓の外を見た。外は暗い。暗いところに、電柱が同じ間隔で立っている。
数えなかった。
◇
家に着いたのは、十九時五十分だった。
玄関で靴を脱ぐのに、少し時間がかかった。踵のところを、手で押さえないと抜けなかった。
台所に入って、椅子に座った。
母さんが皿を出した。俺は箸を持った。持ったが、最初の一口までに、間があった。
母さんは何も言わなかった。
◇
飯を食って、そのまま台所の椅子に座っていた。
背もたれに体を預けて、そのままでいた。目は開いている。開いているが、視界の端のほうが少し白い。白いところは、動かすと少し戻る。
冷蔵庫の音がしていた。
途中で、母さんが二階に上がっていく音がした。下りてくる音もした。
下りてきて、台所でコップを二つ出した。二つとも水を入れて、一つを自分の前に、もう一つを俺の前に置いた。
「わたし、寝る前に必ず一杯飲むの」
「はい」
「昔からそう」
母さんは自分のを半分くらい飲んだ。飲んで、コップを置いて、椅子に座った。
俺も飲んだ。
飲んだら、コップが重かった。重いというより、持ち上げる途中で一度、止まった。止まったところから先は、普通に上がった。
母さんは、飲み終わってから立って、鍋を洗った。
洗い終わっても、しばらく流しの前にいた。
◇
二十一時ごろに、父さんが帰ってきた。
玄関で靴を脱ぐ音がして、廊下を通って、台所の入口で止まった。止まって、こっちを見た。
「まだ食ってるのか」
「食った」
「そうか」
父さんは冷蔵庫を開けて、麦茶を出して、コップに入れて、飲んだ。飲んで、コップを流しに置いた。
置いて、行った。
行くときに、台所の電気のスイッチのところで手を止めた。止めて、消さないで行った。
◇
妹が下りてきたのは、二十二時半だった。
参考書を持っている。持ったまま、俺の顔を見た。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「まだ食う?」
「食う」
妹は台所の奥から皿を持ってきた。ラップがかかっている。中に唐揚げが入っていた。
置いて、それからノートを出した。
定規で線を引いて、日付を書いて、その横に数字を書いた。
「百六十二分」
「そうか」
妹はノートを閉じた。閉じて、参考書を持って、二階に上がっていった。
◇
俺は皿の上を見た。
唐揚げが、六つあった。
一つ食べた。二つ食べた。三つ食べた。四つ食べた。五つ食べた。六つ食べた。
六つでは足りなかった。
◇
台所の時計が、二十二時四十分を指していた。
俺は椅子から立った。立ったら、今度は普通に立てた。膝も抜けなかった。
皿を流しに持っていって、水を出して、洗った。洗っているあいだ、二階から音がしなかった。
台所のスイッチを押して、階段を上がった。
上がりながら、明日のことを考えた。明日は撮影が無い。無いので、学校がある。学校には、四つに折った紙を持っていく。
その次が、水曜である。




