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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第58話 見ていてくださいと言った

 四時三十分に、犬飼さんの車が来た。


 乗ったら、後部座席が温かかった。温かいのに、窓の内側が白くなっている。外側だと思って指で触ったら、内側だった。


 触ったところだけ、丸く透けた。透けたところから、街灯が一つ見えた。見えたのは一つだけで、車が動き出したら、それも後ろへ流れていった。


「高町」

「はい」

「今日は寄りが多い」


 寄りが何なのかは、わからない。


「顔の近くで撮るやつだ」

「はい」

「動くと入らん」


 動くと入らないらしい。


 高速に入った。


 前にも後ろにも、車がいなかった。ライトが照らしているのは、路面の白い線と、壁の継ぎ目だけだった。継ぎ目は、同じ間隔で来る。同じ間隔で来るものを見ていると、そのうち数えたくなる。


 数えないことにした。


「昼に、有本が来る」

「はい」

「俺は夕方に戻る」


 一日に二回、往復するらしい。


   ◇


 スタジオに着いたのは、五時十分だった。


 まだ人が少ない。入口の内側で、二人がケーブルの束を床に下ろしていた。下ろして、片方が結んである紐をほどいた。ほどけなくて、二回やり直していた。


 俺は壁際のパイプ椅子に鞄を置いた。


 置いて、座った。座って、五時半まで何もしなかった。


 何もしないでいると、寒さのほうが先に来る。上のほうにある暖房は、この時間はまだ回っていないらしい。俺は靴下を二枚履いていて、上着も着ていて、それでも足の先だけが冷たかった。


 途中で、若い人が来て、白湯を持ってきてくれた。


「熱いので」

「はい」

「下のほう持ってください」

「はい」


 同じ人だった。言うことも同じだった。


   ◇


 桐生さんは、今日はいない。


 香盤の今日の欄に、伊吹の名前が入っていなかった。入っていないので、来ない。


 入口を三回見たが、三回とも入ってこなかった。


 いないと、スタジオが少し広く見える。


 広く見えるのは、壁際のパイプ椅子が二脚並んでいて、そのうち一脚に誰も座らないからだと思う。いつもは、そこに鞄が置いてある。今日は置いていない。


 俺は自分のほうに座った。座って、隣の空いているほうを一度見た。


 見ても、何も無い。


   ◇


 五時半に、助監督の人が段取りを言った。


 今日は第二話の、部屋のセットだった。


 部屋というのは、水無瀬廉の部屋だ。壁が三面あって、四面目が無い。机が一つと、椅子が一つと、その横に段ボールが二つ積んである。段ボールの中には、何も入っていなかった。


 撮るのは、手と、足と、机の上の物らしい。


「今日、顔は夕方です」


 助監督の人はそう言った。


 夕方まで顔が出ないのに、朝から呼ばれている。


   ◇


 一本目は、机の上に置いてある湯呑みに、手を伸ばすカットだった。


 カメラは机の高さに置いてある。カメラの後ろに一人。モニターは、そのすぐ横に一台だけ出ていた。モニターの前には、芹沢さんと、記録の人がいた。


 あとの人は、それぞれの場所で自分の手元を見ていた。


「水無瀬、右手だけ入れる。肘から先」

「はい」

「肩は入らないから、上げるな」


 俺は肘から先を入れた。


 入れて、湯呑みを持った。持って、持ち上げて、また置いた。


「もう一本」


 二本目に入った。


 二本目のあとで、湯呑みを置く場所を三センチずらすことになった。ずらすと、机の木目の線と、湯呑みの底の丸が重なる。重なると、置いた音が変わる。変わると言われたので、俺はもう一度置いてみた。


 違いは、わからなかった。


 三本目をやった。四本目をやった。


 四本目のとき、記録の人が「持ち上げる高さ、さっきより二センチ低いです」と言った。


 俺は五本目で高くした。


「そこ」


 記録の人が、紙に短く何か書いた。


   ◇


 午前中、俺の顔は一度も撮られなかった。


 撮られたのは、右手が二回と、左手が一回と、靴が三回と、机の上のコップと、椅子の脚のところだった。


 右手のときは、俺は椅子に座って、机に肘を置いて、そこから先だけを動かした。カメラは机の上にある。机の上のカメラは、俺の顔のほうを向いていない。向いていないので、顔は動かさなくてよかった。


 もともと動かない。


 俺は言われた高さに手を上げて、言われた速さで下ろした。それを四回やった。四回目のとき、カメラの人が「はい、いいです」と言った。いいらしい。


 そのあいだ、モニターの前にいたのは芹沢さんと記録の人だけで、二人とも画面のほうを見ていた。画面には、俺の手が映っている。手だけが映っている。


 左手のときは、立って、壁に手をついた。壁は本物ではなくて、押すと少し動く。押すと動くので、押さないでついた。


 靴を撮るとき、俺は椅子に座って、脚だけを動かした。上半身は関係ないので、上着を着たままでいいと言われた。


 着たまま座って、足を動かした。


 動かしているあいだ、モニターの前には二人しかいなかった。


   ◇


 十時に、記録の人が箱を持ってきた。


 平たい箱で、中にチョコレートが入っていた。段ボールの上に置いて、蓋を横にずらして、そのままにした。


「みなさんどうぞ」


 記録の人はそう言って、自分の席に戻った。


 箱は、しばらく誰も触らなかった。


 二十分くらいして、照明の人が一つ取った。取ったら、そのあと三人が続けて取った。


 俺は四つ取った。


 取ってから、多いかもしれないと思った。思ったが、もう手の中にある。


   ◇


 昼は、十二時半に弁当が出た。


 白い箱の中は、ごはんと、鮭と、卵焼きと、煮物だった。残さずに食べた。


 箱を返しに行ったら、返す台の上に空の箱が三つ積んであった。俺のを乗せたら、四つになった。


 犬飼さんは、俺の斜め前で立って食べていた。座らない。座らないで食べているのは、犬飼さんだけだった。


「夕方の顔のやつ、二カットだ」

「はい」

「それが終わったら、月曜まで現場は無い。土日は家で寝てろ」


 月曜は十七日である。


   ◇


 俺は、その日の朝から、一つのことを考えていた。


 見ていてください、と言う。


 言うのは決まっている。決まっているが、どこで言うのかが決まっていない。


 いま言うと、みんな弁当を食べている。食べているあいだに言うと、箸を置かせてしまう。置かせてから言うと、飯が冷める。


 撮影の途中で言うと、止まる。


 終わってから言うと、みんな帰る。帰る前に言うと、帰るのが遅くなる。


   ◇


 昼のあいだ、俺は四回そのことを考えて、四回とも同じところで止まった。


 止まったので、チョコレートをもう一つ食べた。


 これで五つ目になる。箱の中には、はじめ十二個入っていた。俺が五つ食べて、ほかの人が四つ取っていて、残りは三つだった。


 三つは、俺のものではない。


   ◇


 午後は、二時間半待った。


 待っているあいだに、有本さんが来た。


 来て、俺の二つ隣の椅子に座った。座って、タブレットを膝の上で開いた。開いて、すぐ伏せた。


「高町さん、電話、十七本です」

「十七本ですか」

「午前で、十七本です」


 有本さんは、そこで画面を消した。


 消してから、しばらく座っていた。座っているあいだ、俺のほうも、タブレットのほうも見ていなかった。見ていたのは、たぶん壁の板のあたりだった。


「高町さん、今日、寒くないですか」

「寒いです」

「わたしもです」


 寒いという話で終わった。


 終わってから、有本さんは自分の鞄からカイロを一つ出した。出して、俺のほうへ置いた。置いてから、もう一つ出して、自分のポケットに入れた。


   ◇


 夕方の二カットは、十七時から始まった。


 一つ目は、机の前に座って、正面を向いているだけのカットだった。台詞は無い。


 二つ目は、立って、部屋の壁を見るカットだった。これも台詞は無い。


 モニターの前には、三人いた。


 芹沢さんは、二つ目のあとで、俺の顔の向きを二回直した。二回とも、直す角度は小さかった。


「そこ」


 直した角度がどれくらいだったのかは、こっちからは見えない。


 二つ目は、六本撮った。


 六本目のあと、芹沢さんはモニターの前で少し止まって、それから「次」と言った。次は無い。次が無いので、助監督の人が「本日、終了です」と言った。


 言われて、スタジオの中の人が一斉に動き出した。動き出したのは、片づけのほうである。


 俺はそれを、壁際で見ていた。


 見ていたら、片づけがどんどん進んだ。ケーブルが巻かれて、脚立が畳まれて、モニターの線が抜かれた。抜かれると、画面が黒くなった。


 このまま行くと、みんな帰る。


   ◇


 十八時四十分に、その日の撮影が終わった。


 終わったところで、助監督の人が真ん中に立って、月曜の段取りを言い始めた。


 言い始めたら、みんながその場で止まった。手を止めて、こっちを向いた人もいるし、作業をしながら聞いている人もいる。


 助監督の人は、月曜の集合時間と、場所と、撮る話数を言った。


 言い終わって、「以上です」と言った。


   ◇


 俺は手を上げた。


 上げたところで、助監督の人が俺を見た。見て、少し止まって、それから言った。


「はい、高町さん」

「すみません」


 俺は前に出た。


 出たところで、スタジオの中の音が、いくつか止まった。台車を押していた人が止まって、ケーブルを巻いていた人が止まった。芹沢さんは、モニターの前で紙コップを持ったまま立っていた。


   ◇


「月曜から、お願いします」


 言った。


「見ていてください」


 俺は頭を下げた。


   ◇


 ――スタジオの真ん中で、四十人に向かって腰から折れている十七歳。


   ◇


 下げているあいだ、誰の顔も見えない。


 見えるのは、床のケーブルと、その上に貼ってある黄色いテープと、自分の靴の先だけだった。靴の先は、右の甲のところが擦れている。九月に付いたやつだ。


 音がしなかった。


 しなかったのは、たぶん二秒か三秒だった。


   ◇


 最初に音を出したのは、犬飼さんだった。


 壁際で、椅子が一度鳴った。鳴ったので、そっちに顔が向いた人が何人かいた。俺は下を向いているので、見えていない。


   ◇


 俺は体を起こした。


 起こしたとき、犬飼さんは壁のほうを向いていた。有本さんは、その二歩後ろで、タブレットを胸の前で持っていた。画面は消えている。


 二人とも、こっちを見ていなかった。


   ◇


 助監督の人が、俺より先に頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 声が大きかった。助監督の人の声は、朝から大きい。


 そのあとで、あちこちから同じ言葉が返ってきた。返ってきた数は、数えていない。


 照明の人が、脚立の上から言った。


「見ますよー」


 誰かが笑った。


 笑ったのは一人だけで、そのあとは誰も笑わなかった。笑わないで、みんな自分の手元に戻った。戻ったが、戻る前に、何人かがこっちを一度見た。


 見た人の中に、朝、白湯を持ってきた人がいた。


 その人は、両手を体の前で合わせたまま、動かなかった。動かないので、隣の人に肩を押されて、それでやっと動いた。


   ◇


 芹沢さんは、紙コップを持ったまま、出口のほうへ歩き出した。


 歩きながら、助監督の人に言った。


「月曜、六時半」

「はい」

「頭から順に撮る」


 芹沢さんは、俺の横を通った。


 通るときに、一度だけ足が止まった。止まって、また歩き出した。何も言わなかった。


   ◇


 記録の人が、俺のところへ来た。


 来て、紙を胸のところまで上げて、それから下ろした。下ろして、言った。


「高町さん、あの、こっちは仕事なので、言われなくても、いつも見てますから」

「はい」

「仕事なので」

「はい」

「いや、そうじゃなくて」


 そうじゃないらしい。


 記録の人は、段ボールの上の箱を持って戻っていった。中身は、まだ二つ残っていた。


 残った二つは、たぶん明日の現場に行く。明日の現場に俺はいない。


   ◇


 照明の人が、脚立を畳みながら言った。


「高町さん、月曜、何時入りですか」

「六時半です」

「じゃあ、こっちは五時ですね」


 五時に来る人がいるらしい。


 その人は脚立を肩に担いだ。担いで、こっちを見て、それから空いているほうの手を目のところまで上げた。上げて、指を二本出して、自分の目のほうへ向けた。


 何の合図なのか、わからなかった。


   ◇


 制作進行の人が、月曜の香盤を配っていた。


 配りながら、俺のところにも一枚くれた。くれてから、少しそこに立っていた。


「高町さん、うち、こういうの、あんまり無いんです」

「そうですか」

「主演の人が、頭を下げるやつ」

「はい」


 その人は、紙の束を持ち直した。


「巻き込まれるほうは、大変ですけど」

「すみません」

「いや、いい意味です」


 制作進行の人は、紙の束を反対の腕に移した。移して、一歩だけ前に出た。


「座長のいる現場って言うんです、こういうの。呼び方は古いですけど、うちは久しぶりです」


 座長が何なのか、わからなかった。


 巻き込んだ覚えも無い。


   ◇


 俺は鞄を持って、出口へ歩いた。


 歩きながら、まだ少し下を向いていた。下を向いていると、床のテープの継ぎ目が見える。継ぎ目は、二メートルごとに一つあった。


 外に出たら、寒かった。


 犬飼さんが車の横に立っていた。立って、こっちを見ないで言った。


「乗れ」

「はい」


 俺は乗った。ベルトの金具は、一回で入った。


 車の中は、朝と同じ温度だった。窓の内側の、朝に指で触ったところが、まだ丸く残っている。残っているところだけ、外の灯りが透けて見えた。


 犬飼さんは、運転席に座ってから、しばらくエンジンをかけなかった。


「高町」

「はい」

「あれは、誰に言われた」


 答えは、すぐには出なかった。フロントガラスの内側が、また少し白くなってきている。


「自分で決めました」


 嘘ではない。決めたのは俺である。決めるまでの経緯に、机の上の人形が入っているだけだ。


 犬飼さんは、それきり何も聞かなかった。


 聞かないで、上着の内側に手を入れた。入れて、今日は箱を出した。


 出して、蓋を開けた。開けて、中を見て、そのまま閉めた。閉めてから、ドアポケットに入れた。ドアポケットには、もう二つ入っている。入れたら、三つになった。


 それから、エンジンをかけた。


   ◇


 車が動き出してから、俺はもう一度、後ろを見た。


 スタジオの入口の灯りが、まだ点いていた。


 入口の前に、人が三人立っている。三人とも、車のほうを向いていた。見ているというより、車が出ていくのを見送っている形だった。


 俺は座り直した。


 座り直して、前を向いた。


 前を向いて、顔を上げた。


   ◇


 高速を下りたところで、犬飼さんの携帯が鳴った。


 犬飼さんは取らなかった。次の信号で止まったところで、画面を一度見た。


 見て、台の上に伏せて、前を向いたまま言った。


「月曜、集合が三十分早くなった」

「はい」

「局が決めたんじゃない。現場のほうが言い出したそうだ。俺は誰にも頼んでいない」


 俺の入りは、六時半のままだった。


 三十分ぶん、向こうが先にいる。


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