第57話 作戦会議、出席者三名
三時間目の途中で、消しゴムが落ちた。
俺のではない。前の席のやつのだ。転がって、俺の机の脚のところで止まった。
俺は拾って、返した。
返したところで、そいつが「ありがとう」と言った。言ってから、隣のやつの肩を叩いて、何か言った。隣のやつが振り返った。
消しゴムを拾っただけである。
拾ったときに、指で角が欠けているのがわかった。四つの角のうち、三つが丸くなっていて、一つだけ尖っている。尖っているほうで、細いところを消すのだと思う。
◇
昨日は四時半に家を出た。
橋の下のカットを撮り直して、昼過ぎに終わった。終わって、そのまま帰って、二時間寝た。
寝たので、今日は眠い。
二時間目のあたりから、まぶたが下りてくる感じがあった。下りてくるので、俺は上を向いた。上を向くと、天井の蛍光灯が目に入る。目に入ると、少し戻る。
三回やった。
四回目のとき、宮坂先生が黒板の前で止まった。
「高町、天井に何かあるか」
「ないです」
「そうか」
宮坂先生は続きを書いた。
書きながら、こっちを見ないで言った。
「学年末、二十四日からだ」
「はい」
「範囲は来週出す」
教室の中で、ノートを開く音が一斉にした。俺も開いた。開いたが、どこに何を書けばいいのかがわからないので、上のほうに日付だけ書いた。
書いた日付が、今日のではなかった。二日前のを書いていた。
消して、書き直した。
◇
昼休みに、熊沢が来た。
「お前、昨日いなかったのに、今日はいるんだ」
「いる」
「明日は?」
「いる」
「じゃあ、明後日は?」
「いない」
「その次は?」
「いない」
「もうよくわかんねえな」
俺にもよくわかっていない。
熊沢は俺の机に肘をついた。
「持久走、来週だぞ」
「そうか」
「お前、その日、いないだろ」
「いない」
「ずるいな」
「そうか」
持久走が無くなったわけではないらしい。
◇
放課後、有本さんの車で事務所に寄った。
四階の、六人入る小さいほうの部屋だった。長机が一つと、椅子が六脚ある。座ったのは三人だった。
犬飼さんが、机の上に紙を広げた。
香盤である。三ヶ月のやつではなくて、二月の下のほうだけを別に印刷したものだった。
「高町」
「はい」
「二月の残り、組み直しだ」
「はい」
部屋に入る前に、二階を通った。
レッスン室Aの前を歩いたら、中から音がしていた。誰かが入っている。入口から三枚目の床板を踏んだら、ぎ、と鳴った。鳴ったら、中の音が一度止まって、それからまた続いた。
三階と四階は、階段が一つずつ上にある。四階の廊下に入ったところで、紙と埃の混じった匂いがした。ここへ来ると、毎回その匂いがする。
犬飼さんは、紙の上を指でなぞった。なぞって、途中で止めた。
「夜が四日ある」
「四日ですか」
「四日だ。全部、二十二時までだ」
俺はうなずいた。
うなずいたが、四日と二十二時が、どうして並べて言われるのか、そこがわからなかった。
この部屋の椅子は六脚あって、そのうち二脚だけ座面が低い。俺が座ったのは低いほうだった。低いほうに座ると、机の縁が胸の下に来る。高いほうに座り直すには、いま立ち上がるしかない。立ち上がると、話が止まる。
そのまま座っていた。
◇
有本さんがタブレットを机に置いた。
「制作から、三本来ています」
「なんだ」
「二月十四日の時間と、二月十七日の場所と、二月十九日の局です」
犬飼さんは紙の上を見たままだった。
「十四日は」
「朝が一時間早くなります」
「十七日は」
「スタジオのままです」
「十九日は」
「撮影のあとに、局に寄ってほしいと」
犬飼さんは指を紙から離した。離して、上着の内側に手を入れた。入れて、そのまま出さなかった。
「十九日の局は、何の話だ」
「そこまでは書いてありません。撮影のあとに三十分、とだけです」
「誰が出る」
「先方の宣伝の方が二人と、あとは、まだ決まっていないそうです」
犬飼さんは椅子の背にもたれた。もたれて、天井のほうを一度見て、それからまた紙に戻った。
紙の二月十九日のところには、局の名前と、時刻が書き足してある。書き足した字だけ、周りより新しかった。
「三十分で済んだためしがない」
犬飼さんはそう言って、紙を裏返した。裏には何も印刷されていない。裏返してから、また表に戻した。
◇
俺はその横で、腹が減っていた。
昼を十二時二十分に食べて、いまが十六時だった。四時間が経つと腹が減る。腹が減ると、まず甘くないものが浮かぶ。今日は米の飯が浮かんでいた。
――今から帰れば、風呂に入ってから寝られる。
まだ十六時だった。
◇
「高町」
「はい」
「二十二時になったら、俺が行く。誰が何と言っても、そこで終わりだ」
「はい」
「それは君の仕事じゃない。俺の仕事だ」
犬飼さんは、そこで言葉を切らなかった。切らないで、有本のほうを向いた。
「二月の夜は、全部俺が行く。昼と入れ替えるな」
「はい」
「昼が抜けるぶんは、俺が戻る」
有本さんはタブレットに何か打った。打って、顔を上げた。
「わかりました」
打ったのは、たぶん予定である。
犬飼さんは、紙をたたみながら言った。
「金曜は、俺が四時半に行く」
「はい」
「集合が一時間早くなったから、前の晩は飯を食ったらさっさと寝ろ。朝は車で寝ても構わん」
◇
帰りは、有本さんの車だった。
乗ったら、後ろの席にまた紙束が積んであった。今日は移す時間があったらしくて、俺が乗る前に半分だけ横へ寄せてあった。半分は寄っていない。
「高町さん、明日は普通に学校です」
「はい」
「明後日は、犬飼が行きます」
「はい」
有本さんは、そこで一度だけ、こっちを見た。見て、すぐ前に戻った。
「四時半は、早いです」
「早いですね」
早いという話で終わった。
◇
家に帰ったのは、十七時半だった。
台所に妹がいた。参考書と、ノートと、赤いペンが机の上に並んでいる。
「兄ちゃん、早い」
「早い」
「ごはん、まだだよ」
「待つ」
俺は椅子に座った。
座って、妹の手元を見た。開いていたのは参考書のほうで、ノートは閉じたままだった。
参考書のページの端に、日付が縦に書いてあって、その横に丸と三角が並んでいる。解いた日と、合ったかどうかを付けているらしい。丸のほうが多かった。
「見ないでよ」
「見てない」
「見てるじゃん」
俺は上を向いた。天井には何もない。
母さんが鍋の前から言った。
「明日、ごはん何時」
「六時でいい」
「あんた、明後日は」
「四時半に出る」
母さんは、それだけ聞いて、鍋に戻った。戻って、蓋を取って、中を見て、また閉めた。閉めるとき、蓋の縁が鍋に当たって、短い音がした。
「兄ちゃん、三月三日って空いてる?」
「知らん」
「知らないの?」
「紙を見ないとわからん」
「じゃあ見てよ」
俺は鞄から香盤を出した。三ヶ月のやつのほうである。台所の机に広げたら、また端がはみ出した。
三月三日のところには、場所も話数も書いていなかった。俺の欄の色も塗っていない。
「空いてる」
「ふうん」
妹はそれ以上何も言わなかった。言わないで、参考書に戻った。
母さんが台所からこっちを見た。見て、鍋の蓋を開けて、また閉めた。
◇
飯を食って、風呂に入って、二階に上がった。
部屋に入って、窓を閉めた。
閉めるとき、下の道に人が二人歩いていくのが見えた。二人とも自転車を押していた。押しながら喋っていて、声は上まで届かなかった。
窓を閉めたら、部屋の中が静かになった。
「あんた、昨日の現場、人が少なかったでしょう」
机の上から声がした。
「十四人だ」
「誰が数えたの」
「制作の人が電話で言ってた」
人形は台座の上で、少し向きを変えた。
◇
「十四人でも、十四人が全部あんたのほうを見てたら、それで足りるのよ」
「見てなかった」
「そうでしょうね」
「みんな、自分の仕事をしていた」
俺は床に鞄を置いた。
置いて、椅子に座った。
「暗いところで、みんな手元を見てるのよ。手元を見てないと、転ぶから」
「転んでた」
「ほらね」
人形は腕を組むような動きをした。組めていない。腕はそこまで動かない。
「あんた、あの現場で、自分のほうを向いてる顔がいくつあったか、わかる?」
「わからん」
「わからないでいいのよ。わかるようになると、面倒だから」
何が面倒なのかは、言わなかった。
「だから、増やせばいいのよ」
「増やす」
「見てる人を」
「どうやって」
少し、間があった。
「頼みなさい」
◇
「頼む」
「頼むのよ。頭を下げて、見ていてください、って言うの」
「誰に」
「そこにいる全員によ」
「全員」
「全員」
俺は椅子の背に体を預けた。
預けたら、椅子が少し鳴った。この椅子は、後ろに体重をかけると必ず鳴る。妹が中学に上がったときに買ったやつで、そのときから鳴っていた。
「言うのか」
「言うのよ」
「言ったことがない」
「今日までは、ね」
「なんて言えばいい」
「見ていてください」
「それだけか」
「それだけよ。長くすると、みんな内容のほうを聞くから」
人形は、机の端まで動いた。動いて、こっちを向いた。
「あんた、恥ずかしいと思ったこと、ある?」
「ない」
「じゃあ、何も問題ないじゃないの」
問題は無いらしい。
◇
「一つ聞いていいか」
「なによ」
「見ていてくださいと言って、みんなが見なかったら、どうなる」
人形は、そこで少し動きを止めた。
「見るわよ」
「なぜだ」
「やってみればわかるじゃないの」
それは答えになっていない。
「あんた、先に答えがほしい人だったかしら」
「ほしくはない」
「じゃあ、やりなさい」
人形は台座の上で、もう一度こっちを向いた。向いてから、机の上の消しゴムのほうへ二歩ぶん動いて、そこで止まった。押しはしなかった。
「一つだけ覚えておきなさい」
「なんだ」
「言うのは、はじめる前よ。終わってからじゃ遅いの」
はじめる前らしい。
◇
下で、玄関のドアが閉まる音がした。
閉まったあとで、階段を上がってくる音がした。上がる途中で一度止まって、それからまた上がってきた。音は、俺の部屋の前で止まった。
止まってから、動かなかった。
◇
ドアの外から聞けば、この部屋で喋っているのは一人だけだった。
◇
俺は立ち上がって、ドアを開けた。
美咲が廊下に立っていた。
プリントを二枚、右手に持っている。二枚とも、右上の角が揃っていた。
「……」
「……」
「下、開いてたから」
「そうか」
美咲は俺の後ろを見た。
机の上に人形が座っている。美咲の目は、その上で止まらなかった。机の端から、椅子と、床に置いた鞄まで、順番に動いて、それから俺のところへ戻った。
「誰かいるの」
「いない」
「そう」
廊下に出ていたのは、俺の声だけだった。
◇
美咲はプリントを差し出した。
俺は受け取った。受け取ったところで、美咲は一歩下がった。下がって、階段のほうを見た。見て、こっちを見た。
「明日、いるの」
「いる」
「明後日は」
「いない」
「明後日の次は」
「いない」
美咲はプリントの角を、指で一度そろえた。そろえる紙は、もう俺の手の中にある。
「あなた、いつ寝てるの」
「寝てる」
「何時に」
「日による」
美咲は、それ以上何も聞かなかった。
聞かないで、階段を下りていった。下りる音が、途中で一度止まって、それからまた続いた。
◇
その夜、俺は目覚ましを六時半に合わせた。
合わせてから、布団に入って、天井を見た。天井には、去年の夏に妹が貼ったシールの跡が一つ残っている。剥がしたあとの、丸い輪郭だけが残っているやつだ。
見ていたら、そのうち朝になっていた。
◇
次の日、教室に入ったら、俺の机の上に紙が一枚置いてあった。
プリントの裏だった。裏の白いほうに、手書きで表が書いてあった。
いちばん上に〈高町 ノート〉と書いてある。その下に、名前が九つ縦に並んでいて、名前の横に教科が書いてあって、その横に日付が入っていた。
九人のうち、二人は名前しか知らない。
いちばん下に、赤いペンで一行あった。
〈二月十四日から〉
◇
「これは」
「見ればわかるでしょ」
「わからん」
美咲は自分の席から立って、俺の机まで来た。
来て、表の上のほうを指した。
「あなたが公欠の日の、ノート」
「九人もいるのか」
「一人だと、その人が休んだとき止まるでしょ」
美咲は自分の席に戻った。
戻る途中で、名前の並んでいる二人のところを通った。通ったとき、二人とも顔を上げた。上げて、こっちを見て、それからまた下を向いた。
熊沢が横から紙をのぞきこんだ。
「うわ、俺の名前ある」
「あるな」
「聞いてないぞ」
「俺も聞いていない」
「なんで俺、数学なんだよ」
「知らん」
熊沢は紙を持ち上げて、日付のところを見た。見て、俺に返した。
「藤堂、こういうの、断れないやつなんだよ」
断れないのは熊沢のほうだと思う。
◇
一時間目のあいだ、俺は紙を机の右上に置いたままにしていた。
置いたままにしていたら、前の席のやつが振り返って、それを読んだ。読んで、何も言わずに前を向いた。二時間目のあいだに、その隣のやつも読んだ。読んだあとで、二人で少し話していた。話しているあいだ、二人とも一度もこっちを見なかった。
三時間目の前に、名前の並んでいるうちの一人が、俺の机まで来た。
「高町くん、来週の火曜、私の日だから」
「はい」
「ノート、汚いけど」
言うだけ言って、自分の席に戻っていった。
汚いかどうかは、まだわからない。
◇
六時間目が終わって、掃除も終わって、教室に人がいなくなった。
美咲は、教室に最後に残っていた。残って、黒板の右端に白い字を書いていた。書いたのは、明日の分だった。
〈2/14(金) 高町 公欠〉
書いて、チョークを置いて、手を叩いて、鞄を持って出ていった。
出ていくときに、こっちを見なかった。
◇
俺は紙を四つに折った。
折って、もう一度、半分に折った。折り目のところで、九人のうち三人ぶんの名前が内側になった。
折った紙を、鞄の内側に入れた。
入れたら、机の上に何も無くなった。何も無い机の上で、俺は明日のことを考えた。
――見ていてください。
声に出したことはないが、頭は、下げれば下がる。




