第56話 今日は早く帰れそうです
黒板の右端に、何も書いていなかった。
白い字が消してある。消したあとが少し残っていて、そこだけ黒板の色が薄い。今日の分は、はじめから書かれなかったらしい。
「高町、いんの?」
熊沢が後ろから来て、俺の机に手を置いた。
「いる」
「六時間目まで?」
「いる」
「じゃあ、掃除も?」
「する」
熊沢は自分の席に戻って、前の席のやつに何か言った。言われたほうが振り返って、こっちを見た。見て、また前を向いた。
◇
一時間目は数学だった。
黒板に問題が四つ書いてあって、そのうち二つを俺が解くことになった。前に出て、白いチョークで書いた。
一つ目は合っていた。二つ目は、途中で止まった。
止まったところで、宮坂先生が「そこまででいい」と言った。俺は席に戻った。
戻る途中で、誰も何も言わなかった。
◇
二時間目と三時間目のあいだの休みに、後ろの席のやつが俺の背中をつついた。
振り返ったら、その手には携帯があって、画面が消えていた。消えている画面を、そいつは俺のほうへ向けたまま、何も言わずにしまった。
「いや、なんでもない」
「そうか」
「なんでもないです」
なんでもないらしい。
四時間目の途中で、廊下を歩いていた別のクラスの生徒が、窓のところで止まった。止まって、教室の中をのぞいて、それから連れに何か言って、二人で行った。宮坂先生は黒板を書いていて、そっちを見なかった。
◇
昼休みに、美咲が来た。
プリントを二枚持っている。二枚とも、右上の角がきれいに揃っていた。
「今日、夜」
「夜だ」
「何時まで」
「二十二時まで」
美咲は俺の机の上に、プリントを置いた。置いて、置いた場所を一センチだけ直した。
「明日、いないでしょ」
「いない」
「それ、明日の分」
美咲は行った。
プリントは、二枚とも来週の分だった。
◇
掃除は、教室と、廊下の南側だった。
俺は廊下のほうに回された。回されたので、箒を持って、渡り廊下の手前まで掃いた。掃いていたら、途中から掃く範囲が増えていた。誰かが先に途中でやめて、そこから先が残っていたらしい。
残っていた分も掃いた。掃きながら端まで行って、戻ってきたら、廊下の反対側に三人立っていた。三人とも、こっちを見ていた。見ているだけで、手には何も持っていない。
「掃除、代わろうか」
一人が言った。
「いい」
「いや、代わるよ」
「もう終わった」
実際に終わっていたので、俺は箒を戻しに行った。
戻りながら、三人の横を通った。通ったとき、三人とも同時に一歩下がった。廊下は広いので、下がる必要はなかったと思う。
◇
十七時に、有本さんの車が来た。
外はもう暗かった。校門の少し先で、俺は乗った。乗ったら、後ろの席に紙束がなかった。今日は最初から空けてあった。
「高町さん、今日は河川敷です」
「はい」
「橋の下と、土手です。下りる道が細いので、車は上の道に停めたままになります」
窓の外を、明るい看板が三つ通っていった。四つ目は消えていた。
「電話、二十四本になりました」
「二十四本ですか」
「今日の午前で、二十四本です」
有本さんはそこで黙って、信号を二つ越えるあいだ、何も言わなかった。三つ目の信号で止まったときに、助手席のタブレットが滑って、シートの端まで行った。有本さんは片手でそれを戻して、また前を向いた。
◇
着いたのは、十七時四十分だった。
車を停めたのは、土手の上の道だった。そこから斜面を下りる。斜面には草が生えていて、踏むと湿っていた。
下りたところに、白いテープが張ってあった。テープの向こうが現場らしい。
橋があって、その下がコンクリートになっている。橋の外側に、街灯が四本立っていた。
四本のうち、一本が点いていなかった。
自販機が一台、土手の上にある。灯りはそれだけだった。
◇
スタジオと違って、天井がない。
照明は、地面から立てた棒の上についていた。棒は三本ある。三本とも、下に重しの袋が置いてあった。
人は、白いテープの内側に散らばっていた。散らばると、少なく見える。
「今日、十四人です」
制作進行の人が、電話に向かってそう言った。言ってから、こっちを見て、頭を下げた。
俺も下げた。
◇
弁当は、十八時に出た。
白い箱ではなかった。今日はみんな同じ箱で、中は生姜焼きとごはんと、キャベツだった。
生姜焼きは三枚あった。三枚とも食べて、キャベツも残さなかった。
食べているあいだ、隣に犬飼さんが来て、立っていた。座らなかった。
「高町」
「はい」
「二十二時だ」
「はい」
「二十二時になったら、俺が声をかける。そこから先は、誰が何を言っても関係ない」
わかりました、と言った。
犬飼さんは携帯を見た。見て、そのまま持っていた。
◇
芹沢さんは、十八時半に来た。
厚い上着の上に、もう一枚着ている。手には紙コップではなくて、金属の水筒を持っていた。
「水無瀬、橋の下から、土手のほうへ歩いてくる。伊吹は上で待つ」
「はい」
「歩く速さは、いつもの半分。橋の下に入ったら、そこからもう一段落とす」
いつもの半分がどれくらいなのかは、わからない。わからないので、いつもの速さを一度やってから、その半分をやった。
「そこ」
速さの話は、そこで終わった。
◇
一本目が始まった。
自分の靴の音が、壁に当たって、後ろから遅れて追いかけてきた。
カメラは土手の途中にあった。カメラの後ろに二人いる。棒の照明の横に一人。テープの外に、あとは散らばっていた。
現場の音が遠のいた。
橋の裏側に、白い数字が書いてあるのが見えた。塗料で書いてある。三桁で、真ん中が七だった。
◇
一本目が終わって、芹沢さんは何も言わなかった。
言わないで、モニターを見て、それから照明の人に何か言った。照明の人が棒を三十センチ動かした。
「もう一本」
二本目をやった。
二本目のあとで、芹沢さんは俺の歩き出す位置を一歩ずらした。三本目のあとで、歩き終わる位置を半歩ずらした。四本目のあとで、歩き出すまでの待ち時間を、二拍から三拍に変えた。
五本目のときに、後ろを電車が通った。
通ったので、六本目をやった。
六本目のあとで、芹沢さんが土手を下りてきた。下りてきて、俺の立ち位置まで来て、足元のコンクリートを靴の先で二回叩いた。叩いた場所に、白いテープが貼ってあった。
「水無瀬、ここ、踏まないで越えろ」
「はい」
「踏むと音が乗る」
音が乗るらしい。
芹沢さんは、来たときと同じ速さで土手を上がっていった。上がる途中で一度止まって、照明の棒のほうを見て、それからまた上がった。
七本目をやった。八本目をやった。
◇
八本目が終わったところで、助監督の人が時計を見た。
見て、香盤の紙を持ち上げて、指で下のほうをたどった。たどって、制作進行の人のところへ歩いていった。
二人は少し話した。話しているあいだ、制作進行の人は携帯を耳に当てていた。当てたまま、もう片方の手で紙を押さえていた。
記録の人は、ペンを動かしつづけていた。
書いて、消して、また書いた。消すときに、消しゴムを持ち替えていた。持ち替えたほうの手で、途中から紙を押さえていた。押さえないと、風でめくれるらしい。
九本目のとき、その人は書かなかった。書かないで、ペンを持ったまま、こっちを見ていた。九本目が終わってから、下を向いて、まとめて書いた。
◇
十本目のとき、風が強くなった。
土手の草が全部同じ方向に倒れて、戻って、また倒れた。棒の照明が少し揺れた。揺れたので、照明の人が二人がかりで押さえた。
「風、待ちます」
助監督の人が大きい声で言った。
俺は橋の下に立って、待った。
待っているあいだ、桐生さんが土手の上から下りてきた。下りてきて、俺の三歩手前で止まった。
「高町くん、寒くない」
「寒いです」
「僕、五枚着てる」
五枚という発想も、無かった。
◇
風を待っているあいだ、俺は橋の下のコンクリートに座った。
座ったら、冷たかった。冷たいので、鞄を尻の下に敷いた。敷いたところで、中に台本が入っていることを思い出して、出した。
橋の上を、車が通っていく。通るたびに、頭の上で低い音がして、その音がコンクリートに当たって、川のほうへ抜けていった。抜けていくのが、音でわかった。
目の前を、川が流れていた。
暗くて、水は見えなかった。見えないのに、流れている音だけがずっとしていた。
◇
風は十五分で止んだ。
十一本目と十二本目を、続けて撮った。
十二本目のあとで、芹沢さんはモニターから顔を上げて、助監督の人のほうを見た。
「あと何本いける」
助監督の人が時計を見た。
「二十二時までなら、二本です」
「二本か」
「二本です」
芹沢さんは水筒の蓋を開けた。開けて、閉めた。飲んではいなかった。
◇
そのあいだに、桐生さんのカットを二本撮った。
土手の上で、こっちを見下ろして、一言だけ言うカットである。一本目のとき、俺は下から見ていた。桐生さんは口を開ける前に、右の足の重心を少し前に移した。二本目も、同じところで同じだけ移した。
二本で終わった。
芹沢さんは「次」と言った。
助監督の人が、そこでもう一度時計を見た。見て、香盤の紙を折って、上着のポケットに入れた。折り目のところが、ちょうど今日の行のあたりだった。
◇
俺はその横で、生姜焼きのことを考えていた。
弁当のやつではない。家に残っている、母さんが昨日作ったほうだ。二枚残っていたのを、妹が一枚食べたと言っていた。残りは一枚である。
――今から帰れば、その一枚がまだある。
まだ二十一時だった。
◇
十三本目と十四本目をやった。
十四本目が終わったとき、二十一時四十分だった。
犬飼さんが、テープの内側に入ってきた。入って、助監督の人の横に立った。何も言わないで立っていた。
助監督の人が、犬飼さんを見た。見て、時計を見た。見てから、芹沢さんのほうへ歩いていった。
◇
現場の動きが、そこから速くなった。
制作進行の人が土手を上がっていって、上で誰かと喋って、下りてきた。下りてくるとき、途中で一度滑った。滑って、手をついて、そのまま立ち上がった。
照明の人が棒を一本倒した。倒して、袋の重しを外して、次の位置へ運んだ。
記録の人は、紙を三枚めくった。めくって、二枚戻した。
誰かが、テープの杭を一本抜いた。
抜いてから、また刺し直していた。刺し直すとき、土が硬かったらしくて、二回やり直していた。
◇
芹沢さんは、モニターの前から動かなかった。
動かないで、助監督の人に三つだけ言った。
「橋の下、明日の朝」
「はい」
「土手の上は、今日で終わり」
「はい」
「明日の朝は、六時に明るくなる」
それだけだった。
声の大きさは、六本目のときと同じだった。俺のほうは、一度も見なかった。
助監督の人は、三つとも復唱した。復唱した。復唱して、制作進行の人のところへ走っていった。走るのは、今日はじめて見た。
◇
「高町さん、上がりです」
助監督の人が来た。声が少し高かった。
「はい」
「明日の朝、また同じ場所です。橋のところ、撮り直します」
「はい」
助監督の人は、言い終わる前にもう次の人のほうを向いていた。
そのあとで、土手の上で、制作進行の人が電話を二本かけた。二本目は長かった。
◇
上がる前に、記録の人に呼び止められた。
呼び止めて、その人は自分の紙を見ていた。見て、ペンの尻で、書いてある行を上から下までなぞった。
「高町さん、明日の朝、同じところからで大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「歩き出しの足、左でしたよね」
「左でしたか」
「左でした。十四本とも左です」
左だったらしい。
「じゃあ、明日も左でお願いします」
「はい」
その人は紙をめくった。めくったところで、手が止まった。止まったまま、少しのあいだ動かなかった。ペンの先が、紙の上の同じ場所に置いてあった。
俺は待った。
「……いえ、なんでもないです」
なんでもない、と今日二回言われた。
◇
俺は鞄を持って、斜面を上がった。
上がったところで、制作進行の人とすれ違った。顔が白かった。寒いからだと思う。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「今日は早く帰れそうです」
制作進行の人が止まった。
止まって、こっちを見て、それから土手の下を見た。下では、まだ十人以上が動いている。棒の照明は三本とも点いたままで、誰も片づけを始めていない。
「……はい」
「お先に失礼します」
「……はい」
制作進行の人は、そのまま土手を下りていった。
下りるほうが、俺が上るより速かった。
◇
車のところで、犬飼さんが待っていた。
ドアを開けて、俺を先に乗せた。乗って、シートベルトを締めようとしたら、金具が入らなかった。
二回目で入った。
犬飼さんは、その手元を見ていた。見て、何も言わないで前を向いた。
前を向いてから、暖房のつまみを右に回した。回して、送風口の向きを、後ろの席のほうへ変えた。
俺は上着の袖の中で、指を一度握って開いた。開くほうに、少し時間がかかった。手袋をしたまま握ったときの感じに近い。手袋はしていない。
「明日は、朝からだ」
「はい」
「明後日、事務所に来い」
俺は返事をした。
犬飼さんは、エンジンをかけないで、一度外に出た。
出て、ドアの二歩先で電話をかけた。窓が閉まっているので、声は聞こえない。話しているあいだ、犬飼さんは空いているほうの手で、上着の襟のあたりを一度つかんだ。つかんで、離した。
三分くらいで戻ってきた。
戻ってきて、エンジンをかけた。
「明日、四時半だ」
「はい」
「今日より早い」
俺は窓の外を見た。土手の下の照明が、一本ずつ消えていくところだった。
◇
一本目が消えたとき、テープの内側にいた人の輪郭が、いっぺんに見えなくなった。
二本目が消えて、川のほうが黒くなった。
三本目が消えて、橋の下が暗くなった。
残ったのは、街灯だけだった。
四本のうち、三本が点いている。
残りの一本は、最初から点いていなかった。




