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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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55/206

第55話 伝説がまた一つ増えた

 記録の人に、二回おはようございますを言われた。


 一回目はスタジオの入口で、二回目はその五秒あとに、同じ場所でだった。俺は二回とも返した。二回目のとき、その人は手元の紙を見て、それからもう一度こっちを見た。


 見て、柵の向こうへ歩いていった。


 靴下は二枚履いてきた。桐生さんの方式である。


   ◇


 壁際のパイプ椅子に鞄を置いたら、若い人が紙コップを持ってきてくれた。


 中は白湯だった。渡してから、その人はそこに立っていた。立って、俺の手元を見ていた。


「熱いので」

「はい」

「持つとき、下のほう持ってください」

「はい」


 その人は行った。


 白湯は、たしかに熱かった。


   ◇


 六時四十分に、助監督の人が今日の段取りを言った。


 声が大きい。スタジオの端まで届く声で、日付と場所と、何時に何を撮るかを順番に読み上げていく。読み上げているあいだ、みんなが自分の手元の紙を見ていた。


 俺は紙を持っていなかったので、助監督の人の顔を見ていた。


 見ていたら、目が合った。合ったところで、助監督の人が一度止まって、それから続きを読んだ。


   ◇


 段取りが終わったあとで、録音の人が来た。


 肩に細い鞄をかけて、手に黒い箱を持っている。箱から線が出ていて、その線の先が、鞄の中に入っていた。


「高町さん、すみません、声だけください」

「声ですか」

「なんでもいいです。台本の、そのへんの行を」


 俺は台本を開いた。開いたところに、俺の台詞が二行あった。


「始発、待ってる」


 読んだ。


「ありがとうございます」


 録音の人は箱を見て、つまみを一つ回した。回して、こっちを見ないでうなずいた。


「大丈夫です。よく通ります」


 通るらしい。


   ◇


 今日は、駅のホームのセットだった。


 この前の改札の隣に建ててある。ベンチが一つと、柱が二本と、その後ろに壁がある。壁の上のほうだけが青く塗ってあった。空の色らしい。


 柱に、時刻表の紙が貼ってあった。


 近くで見たら、数字が全部並んでいた。いちばん上が四時五十二分で、その下が五時六分で、その下が五時十九分だった。下のほうまで、全部書いてある。


 誰も読まないところに、数字が全部入っていた。


   ◇


 桐生さんは、六時五十分に入ってきた。


 入ってきて、スタッフに順番に頭を下げて、それから俺のところまで来た。


「高町くん、おはよう」

「おはようございます」

「今日、ベンチだよ」

「はい」

「僕、ベンチのカット好きなんだ。座ってるだけでいいから」


 座っているだけでいい仕事は、たしかにいい。


   ◇


 芹沢さんは七時ちょうどに来た。


 紙コップを持っている。今日は白湯ではなく、コーヒーだった。持ったまま、モニターの前に立って、それからこっちへ一度だけ顔を向けた。


「水無瀬、ベンチの右。伊吹、左。座るのは、伊吹が先」


 どういう気持ちで座るのかは、言わなかった。


   ◇


 一本目と二本目は、座るだけで終わった。


 二本目のあとで、照明の人が脚立を動かした。動かしたら、ホームの壁の影の位置が変わった。変わったので、芹沢さんが俺の立ち位置を五センチずらした。


 五センチと言われたので、五センチ動いた。


「そこ」


 そこだったらしい。


   ◇


 三本目のとき、モニターの前にいた人が、全員こっちを向いた。


 カメラの後ろに四人いる。ケーブルの脇に三人。柵の向こうに、記録の人と、助監督と、その後ろにも何人か立っていた。立っている人の顔が、全部こっちを向いていた。


 背筋が伸びた。


 寒い。


 桐生さんが先に座った。俺は二拍おいて、その右に座った。


 台詞は二行ある。


「始発、待ってる」


 言った。次の行までのあいだに、左で布の擦れる音がした。桐生さんが動いたらしい。俺は前を見たままだった。


「そっちも」


 二行目を言った。


 時刻表の紙の、四時五十二分の「五」のところが、少しかすれていた。印刷のときに掠れたやつだ。


   ◇


 三本目が終わった。


 芹沢さんは、コーヒーを持ったまま、モニターから離れなかった。離れないで、隣の人に何か言った。隣の人が紙に何か書いた。書いてから、その紙を斜めにして、もう一度見た。


「もう一本」


 芹沢さんはそう言って、コップを下に置いた。


   ◇


 もう一本の前に、スタジオの中で二つ、物が落ちた。


 一つは柵の向こうで、金属の音がした。もう一つは、モニターの近くで、たぶん紙だった。紙のほうは、拾うのに時間がかかっていた。何枚かに分かれて落ちたらしい。


 助監督の人が、香盤を持ったまま、指で行をたどっていた。たどって、上に戻って、また下りた。同じところを二度たどっていた。


 記録の人は、紙に書いていた。


 書いている時間が長かった。ペンが止まって、また動いて、止まった。止まっているあいだ、その人はホームのほうを見ていた。ホームには誰もいない。俺はベンチの横に立っていた。


   ◇


 四本目のとき、犬飼さんが立っている場所が変わっていた。


 壁際ではない。モニターの後ろに立っていた。立って、モニターを見ていなかった。モニターの前に集まっている人の背中のほうを見ていた。


 四本目が終わって、犬飼さんはそのまま動かなかった。


   ◇


 昼の弁当は、白い箱だった。


 中は、ごはんと、鶏の照り焼きと、卵焼きと、煮物が二種類入っていた。


 煮物は、二種類とも味が同じだった。同じでも、両方なくなるまで箸を動かした。ごはんのほうは、それより先に無くなった。


 蓋の内側に、煮物の汁が少しついた。輪ゴムをかけるとき、そこを指で押さえて曲げた。曲げたら、汁は箱の底のほうへ落ちた。


 桐生さんは、俺の隣で食べていた。灰色のノートを膝の上に置いている。今日は開いていなかった。


「高町くん、それ、蓋閉めるの上手だね」

「はい」

「僕、輪ゴム苦手なんだ。前に一度、蓋の上で弾いて、向かいの人の顔まで飛ばしたことがある」


 輪ゴムが飛ぶ人がいるらしい。


 桐生さんは、箸を置いて、ノートの角を指で撫でた。撫でて、鞄に入れた。入れてから、また出して、膝の上に置いた。


「今日、何時上がり」

「二十時くらいらしいです」

「いいなあ」


 いいなあと言われたので、俺は返事をしなかった。返事の代わりに、煮物の里芋の最後の一つを食べた。


   ◇


 午後は、二時間待った。


 照明を組み直しているらしい。俺は壁際のパイプ椅子に座っていた。座って、紙コップを持ったままだった。


 中身は昼前に飲み終わっている。空のコップをどこに置くかで、少し考えた。柵の横に、ゴミの袋が下げてある。あそこに入れるのが正しい。ただ、袋の口が細くて、その前に人が二人立っている。二人の後ろを通ると、ケーブルを踏む。踏んでいいと言われたケーブルと、そうでないケーブルの区別は、俺にはつかない。


 持っていることにした。


 一時間半、持っていた。


   ◇


 傍から見ると、空の紙コップを両手で持ったまま、ホームの時刻表の前で動かない主演である。


   ◇


 途中で、若い人が通りかかって、「捨てましょうか」と言った。


 俺は渡した。渡したら、両手が空いた。


 手が空くと、腹のことを考える。昼の煮物は二種類とも同じ味だった。量はあったが、食ったのは三時間前だった。


 ――帰りに、コンビニでコロッケパンを買う。二つ買っても、犬飼さんはたぶん何も言わない。


 そのまま、鞄の持ち手を握っていた。


   ◇


 途中で、便所を探して奥へ歩いた。


 壁の板が立てかけてあるところを回ったら、その裏側が広く空いていた。木材が積んであって、その上にビニールがかけてある。


 桐生さんが、そこに立っていた。


 誰もいない。照明も来ていない。上のほうの作業灯が一つついているだけで、足元は暗かった。


 桐生さんは、右手を膝の高さまで下ろして、開いて、閉じた。


 もう一度、下ろして、開いて、閉じた。


 速さが同じだった。二回とも、開くほうが先だった。


 俺は便所の場所がわからないまま、来た道を戻った。


 戻る途中で振り返ったら、桐生さんはまだ同じところにいた。


   ◇


 有本さんが来たのは、十四時だった。


 入り口でスタッフの人に何か聞いて、それから俺のところに来た。手にはいつものタブレットがあって、画面のほうは消えたままだった。


「高町さん、犬飼は十八時に戻ります」

「はい」

「電話、十九本になりました」

「十九本ですか」

「昨日と今日で、十九本です」


 有本さんは壁際の椅子に戻って、そこから動かなかった。動かないで、スタジオの中を見ていた。


   ◇


 十六時に、制作進行の人が香盤を貼り直しに来た。


 柵の内側の、壁の板のところに貼ってある紙だ。古いほうを剥がして、新しいほうを貼って、四隅にテープを押しつけていた。押しつけてから、少し下がって見て、また近づいて右下を押し直した。


 俺は横で見ていた。


「高町さん、二月の後ろのほう、まだ動きます。動いたら、そのたびにここを貼り替えますので」

「はい」

「動いたら、また貼り替えます」


 貼り替えるのは、制作進行の人らしい。


   ◇


 犬飼さんは十八時に戻ってきた。


 戻ってきて、俺のところには来なかった。柵の向こうで、制作進行の人と少し話していた。話しているあいだ、制作進行の人は手に持った紙を二回めくった。二回目のとき、紙を持ち替えて、指で一箇所を押さえた。


 犬飼さんはうなずいた。うなずいて、こっちへ歩いてきた。


「高町」

「はい」

「飯は出た」

「出ました」


 犬飼さんはそれで終わりにした。終わりにして、壁際の椅子に座った。


 座って、上着の内側に手を入れた。入れたところで、膝の上の携帯が短く鳴った。犬飼さんは手を出して、そっちを取った。


 取って、画面を見て、伏せた。


   ◇


 記録の人が、俺の横を通るときに止まった。


 止まって、手元の紙を胸のところまで上げた。


「高町さん、さっきの四本目、ベンチに座るとき、右手が先でした」

「そうですか」

「一本目も右手でした。二本目と三本目もです」


 俺は自分の右手を見た。


「四本とも同じでした。こっちは前のカットに合わせるだけで済むので、正直、かなり楽です」


 記録の人は紙を胸のところに戻して、柵の向こうへ歩いていった。


 右手が先だったことは、知らなかった。


   ◇


 夕方から、また動いた。


 ベンチの、桐生さんの台詞のカットだった。俺は隣に座って、前を見ているだけだった。


 桐生さんの台詞は、六行あった。


 六行目のところで、桐生さんは膝の上の手を、いったん開いて、閉じた。開くほうが先だった。


 そのカットは、四本撮った。四本とも、開いてから閉じた。


 俺は横に座っていたので、四回とも見ていた。


   ◇


 最後のカットの前に、芹沢さんがモニターのほうから声を出した。


「水無瀬、伊吹が喋り終わってから、三つ数えて、立て」

「はい」

「三つは、速くない」


 速くない三つというのが、どれくらいか見当もつかなかった。わからないので、心の中で、いち、に、さん、と言った。言い終わってから立った。


「そこ」


 芹沢さんはコップを持ち直した。持ち直して、モニターのほうへ戻っていった。


   ◇


 二十時十分に、上がりになった。


「高町さん、上がりです」

「はい」

「あと三カット、伊吹さんだけで撮ります」


 俺は上着を返して、鞄を持った。


 持って、出口のほうへ歩いた。歩きながら振り返ったら、ホームのベンチに桐生さんが一人で座っていた。座って、こっちは見ていない。前を見ている。


 前には、青く塗った壁がある。


   ◇


 車に乗って、シートベルトを締めた。


「高町」

「はい」

「寝ろ」


 俺は寝た。


   ◇


 家に着いたのは、二十一時半だった。


 台所の電気がついていた。


 妹が机の端で、参考書を開いていた。開いたまま、こっちを見た。見て、鉛筆を置いた。


「おかえり」

「ただいま」

「風呂、沸いてる」


 母さんが立っていて、ラップのかかった皿をレンジに入れた。皿は二枚あった。俺が食べているあいだ、母さんは向かいに座っていた。今日は湯呑みを持っていなかった。


 妹は参考書を閉じて、ノートを出した。


 定規で線を引いて、日付を書いて、その横に字を書いた。


「なし」

「そうか」

「車で寝たんでしょ」

「寝た」

「じゃあ、なし」


 妹は定規をノートのあいだに挟んで、そのまま閉じた。閉じてから、参考書のほうをまた開いた。開いたページの上のほうに、赤いペンで丸が三つ並んでいた。


「兄ちゃん、うるさくしないでよ」

「する予定はない」

「風呂で歌わないでよ」

「歌ったことがない」


 妹は前を向いた。


   ◇


 風呂に入って、上がって、二階に上がった。


 床に座った。


 鞄は横に置いた。上着も置いた。座ったら、しばらく立ち上がらなかった。畳ではないので、床は冷たい。冷たいところに座っていると、そのうち冷たくなくなる。


「あんた、床に座る人だったかしら」

「疲れた」

「そう」


 人形は机の上にいる。今日は台座ごと、こっちを向いていた。


「今日、何人見てたの」

「知らん」

「知らないの」

「数えてない」


 人形は腕を動かした。


「数えなさいとは言ってないわよ」

「じゃあ何だ」

「別に」


 それきり、何も言わなかった。


   ◇


 次の朝、五時半に有本さんの車が来た。


 後ろの席の紙束は、今日は横にずらしてあった。俺は座って、窓の外を見た。外はまだ暗かった。


 高速に入ったところで、有本さんが言った。


「高町さん、朝、食べましたか」

「食べました」

「何を食べましたか」

「ごはんと、味噌汁と、卵です」


 有本さんは前を向いたまま、うなずいた。うなずいて、それから何も言わなかった。


 タブレットは助手席にあった。今日は触っていない。


 スタジオに着いたのは、六時二十分だった。


   ◇


 入口の内側で、二人が立って喋っていた。


 俺のほうは見ていない。片方が紙の束を抱えていて、もう片方が手袋をはめ直していた。


 通りすぎるときに、聞こえた。


「――紙の上では作らないんだって」


 その先は、機械の音で消えた。


   ◇


 柵の内側へ入って、パイプ椅子に鞄を置いた。


 置いたところで、後ろでもう一人が言った。


「読むのと、立つのは、別の仕事だからさ」


 何の紙の話か、わからなかった。


 俺は白湯をもらいに行った。


 もらって戻ってきたら、二人はまだ喋っていた。


 途中に、もう一人増えていた。増えたほうは、紙の束を抱えていた片方から、紙を一枚受け取っている。受け取って、それを見ながら喋っていた。


 通りすぎるときに、自分の名字が聞こえた。


 名字のあとに、二文字ついていた。


「――伝説」


 その先は、聞こえなかった。


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