第54話 本読みができない
朝、茶碗が空になるたびに、母さんが黙って受け取って、また返してきた。
現場は待つ時間のほうが長いから飯を先に入れておけ、と犬飼さんに言われている。俺はそれを守っている。
母さんは何も言わない。ただ、炊く量が増えた。
妹が向かいで、パンを縦に持って食べていた。
「兄ちゃん、今日どこ」
「局だ」
「撮らないの」
「読むだけだ」
「読むだけで一日いるの?」
俺も、そこはよくわかっていない。
◇
黒板の右端に、白い字があった。
〈2/3(月) 高町 公欠〉
これを見たのは、教室に鞄を置きに寄ったからだ。八時に寄って、八時五分に出た。宮坂先生が廊下の向こうから歩いてきて、俺を見て、何も言わずに職員室のほうへ行った。
昇降口で靴を履き替えているとき、上履きの中に紙が入っていた。
二つ折りにしてある。開いたら、来週の時間割の変更が書いてあった。誰の字かは、見ればわかる。
俺はそれを鞄の内側に入れた。
◇
大和テレビの受付で、入館証をもらった。紐は、今日もねじれた。今日は直さなかった。
七階の会議室は、この前の顔合わせのときより広い部屋だった。
長机がロの字ではなく、二列に並べてある。前の列と後ろの列で、椅子の数が違う。前が十四で、後ろが八だった。全部で二十二脚ある。
俺の名前の紙は、前の列の左から三番目に置いてあった。
紙コップが、人数ぶん伏せてある。今日は、ポットが二つ置いてあった。中身は白湯だった。
窓は東を向いている。ブラインドは全部上げてあって、外の光がそのまま入っていた。前の列の右のほうの席は、机の上まで日が当たっている。左から三番目は当たっていない。
俺は椅子を引いて、座った。座ったところで、椅子の高さが合っていないことに気づいた。低い。膝が机の裏に当たる。
座面の横に、高さを変えるレバーがついていた。俺はそれを引いて、上げた。上げすぎた。
引き直して、下げた。今度は下がりすぎた。
三度目で、だいたい合った。
◇
第三話の台本は、金曜に届いていた。
六十ページある。表紙をめくったら、二ページ目から人の名前が並んでいた。
部屋に入ってきた人たちは、みんな自分の台本を持っていた。台本の小口から、付箋の色が出ているものが何冊かあった。黄色が多い。青が一冊あった。
桐生さんの台本には、何も挟んでいなかった。
桐生さんは、九時四十分に入ってきた。
入ってきて、部屋の中を一周するみたいに歩いて、席についている人に順番に頭を下げた。前の列の端まで来て、俺のところで止まった。
「高町くん、おはよう」
「おはようございます」
「今日、長いよ、第三話」
桐生さんは自分の椅子を引いた。俺の二つ隣だった。
「僕、昨日読んでて、二回止まった。あそこ、どうやって言うんだろうって」
どこのことなのかは、聞かなかった。
桐生さんは座って、台本を机に置いて、その上に手を置いた。それから、その手を膝に下ろした。
◇
芹沢さんは、九時五十八分に入ってきた。
入ってきて、いちばん端の椅子に座った。座って、紙コップを一つ取って、白湯を入れた。入れて、飲まなかった。
「はじめてください」
それだけ言った。
◇
最初に、脚本の人が第三話の話をした。
三分くらいだった。俺は聞いていた。聞いていたが、途中から、机の木目の話になっていた。
机の木目ではない。俺が机の木目を見ていた。
◇
読み始めた。
俺の台詞は、二ページ目からある。
最初の一行を読んだ。
「別に」
紙の上の字を、目で追った。字は追える。追った先に、次の字がある。一行ぶん追うと、一行ぶん声が出る。
二行目を読んだ。三行目を読んだ。行の終わりに丸があって、丸のところで一度切る。切ったら、次の行を追う。
俺の声は、部屋の中でまっすぐ前に出て、机の向こうで止まっていた。
◇
部屋の中で、二十二人が自分の台本を見ていた。
前の列の人は、指で行をなぞっていた。後ろの列の人は、片手で紙を押さえて、もう片方の手で何か書いていた。演出部の人が二人、机の上に小さい時計を置いて、それを見ていた。
誰も、こっちを見ていなかった。
この部屋には、同じ字が印刷してある紙が二十二冊あって、全員がそれを持っている。
◇
六ページ目で、桐生さんの長い台詞があった。
十四行ある。
桐生さんは、その十四行を、机の上に台本を置いたまま読んだ。手は台本に触れていない。膝の上にある。
読んでいるあいだ、前の列の何人かが顔を上げた。
上げて、また下げた。
◇
十二ページ目で、俺の長いのが来た。
十九行ある。
俺は台本を持ち上げて、読んだ。
一行目。二行目。三行目。丸のところで切る。次の行を追う。字は全部読めた。読めない字は一つも無かった。漢字にはルビが振ってある。
十九行のあいだ、俺の声の大きさは変わらなかった。速さも変わらなかった。
最後の行を読んだ。
「……帰るよ」
◇
紙をめくる音が、止まった。
演出部の人の手が、時計の上で止まっていた。前の列の左端の人が、台本の同じページを二回めくって、戻した。後ろの列で、椅子が一つ、少し引かれた音がした。引かれたあと、また前に戻った。
脚本の人は、俺の台本のページを見ていた。自分の台本ではなく、俺の手元のほうである。
誰も何も言わなかった。
◇
俺は、次の行が来るのを待っていた。
次は桐生さんの台詞だ。
桐生さんは、一拍だけ置いて、読んだ。
読んで、それから、自分の前の紙コップを一つ手前に寄せた。寄せただけで、白湯は入れなかった。
◇
俺は自分の台本の、次のページを見た。
次のページに、俺の台詞は無い。無いので、目だけを字の上に置いておいた。
置いておくと、字が並んでいるだけになる。ルビの振ってある字と、振っていない字がある。振ってあるほうが、少しだけ大きく見えた。
演出部の人が、時計をもう一度見た。見て、机の上で位置を五センチくらいずらした。ずらしたあとで、指を離した。
◇
そこから先は、普通に進んだ。
俺は自分の行を読んだ。読む速さは、最初と同じだった。
三十ページを過ぎたあたりで、腹が鳴った。
小さかったので、たぶん聞こえていない。聞こえていたとしても、この部屋にいる人はみんな自分の台本を見ているので、どこから鳴ったのかはわからないはずだ。
俺は左手を、膝の上から腹の前に移した。
移したところで、前の列の右端の人が、白湯を注いだ。ポットの音だけが、部屋の中に響いた。注いで、飲んで、コップを置いた。
その音のおかげで、腹の音のほうは終わった。
◇
四十ページを過ぎたところで、脚本の人が一度だけ手を挙げた。
「すみません、そこ、直します」
全員が同じページを開いた。俺も開いた。
「四十二ページの三行目、削ります」
前の列で、鉛筆の音が二十くらい重なった。俺は指で三行目のところを押さえて、そのままにした。線を引く道具を持ってきていなかった。
隣の隣で、桐生さんが台本に何かした。何をしたのかは、角度で見えなかった。あとで見たら、そのページには何も書いていなかった。
◇
最後のページまで、一時間四十分かかった。
「以上です」
プロデューサーの一人が言った。
言ってから、少し止まった。
「……先、行きましょう」
もう一人のプロデューサーが、紙を揃えた。揃える音が、思ったより大きかった。
芹沢さんは、椅子から立った。
立って、白湯の入った紙コップを持って、そのまま部屋を出ていった。飲んだ形跡は無かった。
部屋を出るときに、こう言った。
「明日、六時半」
それだけだった。
◇
人が動き出した。
桐生さんが、席を立つ前に、机の上の紙コップを元の位置に戻した。伏せてはいなかったが、置いてあった場所には戻した。
戻して、こっちを向いた。
「高町くん、明日、六時半だって」
「はい」
「僕、五時に起きる」
桐生さんは鞄の紐を肩にかけた。
「起きてから家を出るまでに、四十分かかるんだ。前は二十分だったんだけど、増えた」
何が増えたのかは、言わなかった。
俺は台本を閉じて、鞄に入れた。
入れているとき、後ろの列の二人が、俺の後ろを通った。通りながら、片方がもう片方に何か言った。聞こえたのは、最後の三文字だけである。
「――かもね」
何がかもねなのかは、わからなかった。
◇
部屋を出るとき、脚本の人が入口の横に立っていた。
立って、俺のほうを見た。見て、口を開けて、閉じた。それから、手に持っていた台本を持ち直して、廊下の反対側へ歩いていった。
俺は頭を下げた。下げたときには、もういなかった。
◇
廊下に出たら、犬飼さんが立っていた。
壁にもたれている。もたれたまま、俺を見た。
「終わったか」
「終わりました」
犬飼さんは壁から背中を離した。離して、上着の内側に手を入れた。入れて、箱を出した。
出して、口に入れた。水は飲まなかった。
それから、俺の顔を見た。
「高町」
「はい」
犬飼さんは、そこで何も言わなかった。
言わないで、エレベーターのボタンを押した。
◇
一階で、有本さんが待っていた。
タブレットを持っている。持ったまま、こっちへ歩いてきた。
「高町さん、明日は五時半に迎えに行きます」
「はい」
「六時半集合なので」
有本さんは指でタブレットの端を触った。
「電話、九本でした」
「九本ですか」
「今日の午前だけで、九本です」
犬飼さんが横で足を止めた。
「どこからだ」
「四本が局です。三本が制作です。二本は、わたしが取っていません」
犬飼さんは、それだけ聞いて歩き出した。
◇
――昼前の局の一階で、鞄を持ったまま、腹を押さえて立っている高校生。
◇
車に乗ってから、犬飼さんが言った。
「高町、飯はどうする」
「食べます」
「何が食いたい」
「あるやつでいいです」
犬飼さんは、途中でコンビニに寄った。
俺はおにぎりを三つと、温かい茶を買った。犬飼さんは何も買わないで、車の外で少し立っていた。立って、携帯を見ていた。見ていたが、かけなかった。
戻ってきて、乗って、エンジンをかけた。
俺は後ろの席でおにぎりを食べた。一つ目は鮭で、二つ目は昆布で、三つ目は何も入っていなかった。塩だけのやつだ。買うときに見ていなかった。
「高町」
「はい」
「明日は、朝から夕方までだ。そのあと、事務所に寄る」
窓の外で、車が一台、右から入ってきた。入ってきて、すぐ左に出ていった。
「レッスンですか」
「違う。人が来る」
「誰ですか」
「まだ言えん」
俺は三つ目を食べ終えて、袋を丸めた。
丸めた袋を、どこに置くかで少し困った。前の座席の後ろに網がついている。そこに入れると、たぶん犬飼さんがあとで捨てることになる。俺は上着のポケットに入れた。
入れたら、ポケットが膨らんだ。
◇
事務所に着いたのは、十四時だった。
二階のレッスン室Aが空いていた。今日は誰も使っていない。
入口から三枚目の床板を踏んだ。ぎ、と鳴った。この部屋は、いつ来ても同じところが鳴る。
バーの前に座って、台本を開いた。
開いて、明日の分のページを探した。明日は第一話の続きらしいので、第三話の台本は要らない。要らないが、持っている。
鏡が三面ある。三面とも、俺が三人いる。
俺は台詞を、一行だけ声に出して読んでみた。
読んでみて、やめた。
上のほうから足音が聞こえた。足音はこっちへ近づいてきて、レッスン室の前で少しだけ遅くなった。
足音は、三階の廊下を通って、行ってしまった。
行ってしまったあとで、俺は立ち上がって、鏡の前まで歩いた。
三面の鏡は、真ん中が正面で、左右が斜めについている。真ん中の前に立つと、左右にも自分がいる。左のやつと右のやつは、こっちを見ていない。角度の問題だ。
俺は口を開けて、閉じた。
顔は動かない。生まれたときからそうなので、今さら確かめることでもなかった。
バーの前に戻って、座った。座って、台本を膝に置いた。
置いたまま、二十分くらい何もしなかった。
◇
三階から人が下りてきた。
レッスン室の入口の前を、二人が通っていった。通りながら喋っていて、片方が「もう入ってんだ」と言った。もう片方が何か答えた。答えたほうの声は、聞こえなかった。
俺は台本を鞄に入れて、部屋を出た。
出るときに、また三枚目を踏んだ。ぎ、と鳴った。
◇
家に帰ったのは、十六時前だった。
早い。こんなに早いのは久しぶりだった。
妹が居間でテレビを見ていた。見ながら、青いノートを膝に乗せている。開いてはいなかった。
「兄ちゃん、早くない?」
「読むだけだったからな」
「読むだけで一日かかるって言ってなかった?」
「言ってない」
妹はテレビのほうを向いた。向いてから、こっちを見ないで言った。
「四月まで、あと二ヶ月」
それだけ言って、また前を向いた。
◇
二階に上がって、台本を机に置いた。
置いたら、机の上の消しゴムが、また端に寄っていた。
「あんた、今日は読むだけだったんですって?」
「そうだ」
「どうだった」
「全部読んだ」
「そうじゃなくて」
人形の腕が、机の上で少し動いた。
「点いたの」
「点いてない」
「そう」
俺は椅子に座って、背もたれに体を預けた。
預けても、今日は何も来ない。腹は減っているが、それはおにぎりを三つ食べてから四時間経ったからだ。
「あんた、明日は六時半でしょ」
「そうだ」
「じゃあ、早く寝なさい」
俺は目覚ましを四時に合わせた。
◇
次の日の朝、五時半に有本さんの車が来た。
乗ったら、後ろの席に紙の束が積んであった。今日は移してくれなかった。移す時間が無かったらしい。
「昨日から、十四本になりました」
有本さんは前を向いたまま言った。
「本数だけ、犬飼に言ってあります」
俺は紙の束の横に座って、窓の外を見た。
外はまだ暗かった。




