第53話 管理表が赤くなった
金曜の朝、鞄が重かった。
台本が二冊入っているせいだと思っていたが、それだけではなかった。前の晩に有本さんが玄関で渡していった紙が、思ったより厚かった。A3を三つに折ってある。折ってあるので、鞄の中で角が立つ。
その紙を、俺は一時間目の前に机の上で開いた。
開いたら、机からはみ出した。
左端に日付が縦に並んでいて、右へ行くほど細かい字になる。一月二十七日から、四月八日まで。日付の横に場所が書いてあって、その横に話数が書いてあって、その横に人の名前がずらっと並んでいた。
俺の名前の欄には、薄い色が塗ってある。
塗ってある日と、塗っていない日がある。塗ってある日のほうが、明らかに多かった。
◇
「それ、なに」
後ろから声がした。
美咲だった。プリントを持っていない。
「香盤だ」
「こうばん」
「予定表みたいなものらしい」
美咲は俺の横に来て、机の上をのぞきこんだ。のぞきこんで、そのまま何も言わなかった。
十秒くらい黙っていた。
それから、自分の席まで戻って、鞄からノートを一冊持ってきた。表紙に何も書いていない大学ノートだ。開いたページには、線が引いてあって、その線の中に日付と時間が書いてある。
美咲は俺の香盤と、自分のノートを、並べて見た。
「二月」
美咲が言った。
「二月の第二週、まるごと塗ってある」
「らしいな」
「その週、学年末の範囲が出る週」
俺は香盤を見た。二月の第二週は、たしかに全部塗ってあった。
美咲は赤いペンを出した。
出して、自分のノートの二月のところに、線を引いた。一本引いて、少し考えて、その下にもう一本引いた。二本目のほうが長かった。
それから、そのページを見て、ペンを持ち替えて、線の上に何か書いた。書いた字は、俺のところからは読めなかった。
俺は口を開けた。
「その、なんだ」
「いいから」
美咲はノートを閉じた。閉じて、ペンをしまって、自分の席に戻った。
戻ってから、一時間目のあいだずっと、そのノートを開いていた。
二時間目のあいだも開いていた。三時間目のはじめに、消しゴムを使う音がした。長かった。二段ぶんくらい消していた。
四時間目が終わったとき、美咲のノートの二月のページは、上から下まで赤い線が入っていた。線と線のあいだが狭い。狭いところは、字が線の外にはみ出していた。
俺の香盤の二月は、薄い色が塗ってあるだけである。塗ってあるだけのほうが、見た目は静かだった。
◇
昼休みに、熊沢が香盤を見にきた。
「これ、なに」
「予定表だ」
「うわ、ぎっしりだな。お前、三ヶ月これ?」
「そうらしい」
「学校どうすんの」
「公欠だ」
「公欠って、何日まで取れんの」
「知らない」
熊沢は紙の端を持ち上げて、裏返した。裏には何も書いていなかった。
「じゃあ、体育も出ないの?」
「出ない日が多い」
「ずるいな」
「そうか」
「持久走、来月あるんだよ」
持久走のことは、忘れていた。
◇
日曜の夜、俺は九時に布団に入った。
入ったが、寝たのは十時半くらいだった。天井を見ていたわけではない。目を閉じていたら、そのうち朝になっていた。
目覚ましは四時にかけた。
鳴る前に起きた。三時五十二分だった。
台所に下りたら、電気がついていた。母さんが立っていて、鍋の前にいた。何も言わずに、茶碗にごはんをよそって、俺の前に置いた。
味噌汁と、卵と、昨日の残りの鮭が出てきた。
俺は全部食べた。
母さんは、俺が食べているあいだ、椅子に座って向かいで湯呑みを持っていた。飲んではいなかった。
「行ってくる」
「うん」
それだけだった。
◇
玄関で靴を履いているとき、上から音がした。
妹が階段の途中に立っていた。パジャマの上に、上着を一枚羽織っている。髪が全部片側に寄っていた。
「何時に帰るの」
「二十二時までには終わるらしい」
「じゃあ、寝てる」
「寝てろ」
妹は階段を上がっていった。上がるとき、途中で一度こっちを見た。
見て、そのまま上がっていった。
◇
犬飼さんの車は、四時半に来た。
外はまだ真っ暗だった。街灯の下だけが明るくて、その明るいところを、白い息が通っていく。
乗ったら、後部座席が温かかった。先に暖房を入れておいたらしい。
「高町」
「はい」
「砧まで、この時間なら三十分だ」
俺はシートに背中をつけた。
つけたが、寝なかった。前に一度、行きの車で寝たことがある。着いたとき、顔が固まっていた。
高速はがらがらだった。前にも後ろにも車がいない時間が、何十秒か続いた。ライトが照らしているのは、路面の白い線と、壁の継ぎ目だけだった。
「今日は、第一話の頭からじゃない」
「違うんですか」
「第三話の、駅前のところからだ」
「順番に撮るんじゃなかったですか」
「順撮りは、大枠の話だ。中は前後する」
それなら、そう言えばいいと思った。
インターチェンジを出たところで、犬飼さんが左のポケットに手を入れた。入れて、箱を出した。出して、そのまま膝の上に置いた。
置いたまま、次の信号まで開けなかった。
「高町」
「はい」
「今日は、俺は昼で一回抜ける」
「はい」
「午後は有本が来る。夜はまた俺が来る」
一日に二回、往復するらしい。
◇
砧のスタジオは、大きい建物が三つ並んでいた。
そのうちの真ん中に入った。
中は、天井が高かった。見上げると、鉄の梁が何本も渡っていて、そこに照明がぶら下がっている。ぶら下がっているものの数は、数えようとしてやめた。
床は灰色だった。壁際に木材が積んであって、その横に、まだ何も貼っていない壁の板が立てかけてあった。
寒い。
上のほうに暖房があるのは、見えた。見えたが、暖かいのは上のほうだけだった。
俺は厚い靴下を履いてきていた。去年、妹が買ってきて、色が合わないと言って一度も履かなかったやつが、引き出しの奥にあった。
履いてきて、正解だった。
◇
セットは、駅前だった。
建物の中に、駅の外側が建ててある。改札の柵と、券売機が二台と、その横に自動販売機が一台。販売機の中には、飲み物の見本が並んでいる。取り出し口の下に、まだ値札のシールが貼っていない。
柵の向こうは、途中で終わっていた。
終わったところから先は、灰色の壁になっていた。
人は、四十人くらいいた。ケーブルが床を這っていて、そのケーブルの上に黄色いテープが貼ってある。俺はそのテープの上を歩いた。歩いていたら、若い人が来て、「そこ、踏んでいいです」と言った。
踏んでいいらしい。
◇
「水無瀬」
声がした。
振り返ったら、四十くらいの人が立っていた。厚い上着を着て、その上からもう一枚羽織っている。手にコーヒーの紙コップを持っていた。
「監督の芹沢だ」
俺は頭を下げた。
「芹沢さん、おはようございます。高町です」
「知ってる」
芹沢さんはコップを持ち替えた。
「水無瀬、そこ、寒いだろ」
「寒いです」
「今日は一日そこだ」
それだけ言って、芹沢さんはモニターのほうへ歩いていった。
犬飼さんが、俺の横に来た。
「あの人は、役名で呼ぶ」
「はい」
「オーディションにも来なかった」
「一度もですか」
「一度もだ」
◇
桐生さんは、六時に入ってきた。
入ってきて、スタッフの一人一人に頭を下げていた。俺のところまで来て、止まった。
「高町くん、靴下」
「履いてきました」
「よかった」
桐生さんは笑った。速い。
「僕は二枚履いてきた」
二枚という発想は、無かった。
◇
最初のカットは、七時四十分に始まった。
俺と桐生さんが、改札の前を歩いて通るだけだった。台詞は無い。
「伊吹、先。水無瀬、二歩あとから。速さは同じで」
芹沢さんはそれだけ言った。
どういう気持ちで歩くのかは、言わなかった。
◇
三本目までは、普通に歩いた。
四本目のとき、モニターの前にいた人が全部こっちを向いた。カメラの後ろに三人。ケーブルの脇に二人。柵の向こう側に、記録の人と、助監督と、その後ろに何人か。
芹沢さんが、コップを下に置いた。
◇
スタジオの音が、遠のいた。
輪郭も、背筋も、そのあとに来た。
自動販売機の見本の缶に、値札のシールが一枚だけ貼ってあるのが見えた。いちばん下の段の、右から二番目である。
◇
四本目が終わって、芹沢さんは何も言わなかった。
言わないで、隣の人に顔を寄せて、二言か三言、話した。それから戻ってきて、「次」と言った。
助監督の人が、俺の前まで来た。
「高町さん、次、券売機の前です」
「はい」
「立ち位置は、あとでテープ貼ります」
その人は床を指した。指した先には、まだ何も無かった。
三十分くらいして、床に白いテープが貼られた。二本の線が、直角ではなく、少しだけ開いた角度で交わっている。
俺はそこに立った。
「水無瀬、もう半歩、後ろ」
芹沢さんの声が、モニターのほうから来た。俺は半歩下がった。
「戻して。四分の一でいい」
四分の一というのが、どれくらいなのかがわからなかった。わからないので、半歩の半分の、そのまた半分ぶん動いた。
「そこ」
そこだったらしい。
◇
昼は、十二時半だった。
弁当が配られた。白い箱と、そうでない箱が積んでいた。俺のところに来たのは白い箱で、中は焼き魚とごはんと、煮物が三種類入っていた。
俺は全部食べた。
食べ終わって、蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。今日は一回でかかった。
桐生さんは、俺の三つ隣で食べていた。食べながら、灰色のノートを開いていた。開いているページは、まだ白かった。
有本さんが来たのは、十三時だった。
入り口のところで、スタッフの人に何か聞いて、それから俺のところまで来た。手にタブレットを持っている。
「高町さん、犬飼は十九時に戻ります」
「はい」
「わたし、この建物、初めてです」
「俺もです」
有本さんはタブレットを見た。
「電話、二本でした」
それだけ言って、有本さんは壁際の椅子に座った。座って、そこから一時間くらい動かなかった。動かないで、スタジオの中を見ていた。
◇
午後は、三時間ぶん待った。
照明を組み直しているらしい。俺は壁際のパイプ椅子に座っていた。座って、台本を開いて、閉じて、また開いた。
寒い。
上着を借りた。撮影用ではない、スタッフが着ている厚いやつだ。着たら、暖かかった。暖かくなったら、眠くなった。
――今から帰れば、家の風呂に入れる。
まだ十四時である。
◇
夕方から、また動いた。
券売機の前で、桐生さんが台詞を言って、俺が言わない、というカットだった。
俺は言わない側なので、立っているだけだった。
立っているだけだが、芹沢さんは俺の顔の向きを三回直した。三回とも、直す角度は小さかった。「もう半歩、右」「顎、そのまま」「先に息だけ」。芝居の話は、一度もしなかった。
桐生さんの台詞は、四行あった。
四行目のところで、桐生さんは券売機のボタンに指を伸ばして、押さないで下ろした。下ろしてから、俺のほうを見た。
そのカットは、六本撮った。
六本とも、指を伸ばす高さが同じだった。ボタンの、上から二段目の右端だった。俺は横で立っているだけだったので、それを六回とも見ていた。
記録の人が、六本目のあとで、紙に何か書いた。書いてから、桐生さんのほうに何か言った。桐生さんは笑った。速い。
◇
「二十一時四十分です」
助監督の人が、大きい声で言った。
スタジオの中で、何人かが同時に動いた。ケーブルを巻いていた人が手を止めて、時計を見た。記録の人が紙をめくった。
「高町さん、上がりです」
「はい」
「あと二カット、伊吹さんだけで撮ります」
スタジオの中の動きが、そこから速くなった。
照明の人が脚立から下りて、下りたところで別の人に何か言った。その人が走って、柵の向こうへ行った。制作の人が二人、同じ方向に歩いていって、途中で片方だけ戻ってきた。
助監督の人が、俺の前を通るときに、時計をもう一度見た。
俺は上着を返して、鞄を持った。
持って、出口のほうへ歩いた。歩きながら振り返ったら、桐生さんが券売機の前に一人で立っていた。
立って、こっちに手を上げた。
俺も上げた。上げたが、あっちのほうがまだ二カット残っている。上げるものでもなかったかもしれない。
◇
車に乗った。
乗って、シートベルトを締めた。
そこから先は、覚えていない。
次に気づいたときには、車が止まっていて、犬飼さんが後ろを向いていた。外は家の前だった。
「着いたぞ」
「はい」
「明日は無い。明後日から三日ある」
俺は鞄を持って降りた。
降りるときに、足が思ったより普通に動いた。寝たので、たぶん、そういうことだ。
◇
家の中は暗かった。
台所にラップのかかった皿が置いてあって、その横に紙が一枚あった。母さんの字で「レンジ二分」と書いてある。
俺はそれを温めて、食べた。生姜焼きだった。
食べているあいだ、家の中で音がしなかった。冷蔵庫の音だけがしていた。
◇
二階に上がって、鞄を床に置いた。
机の上で、消しゴムがまた端に寄っていた。今度は落ちなかった。
「あんた、寝てきたわね」
「寝てきた」
「顔に線がついてるわよ」
俺は頬を触った。シートの縫い目の線が、たしかについていた。
「監督は」
「役名で呼ぶ人だった」
「ああ、いるわね、そういうの」
人形は、それきり何も言わなかった。
◇
次の朝、階段を下りたら、妹が先に台所にいた。
牛乳を飲みながら、定規で線を引いていた。引いてから、日付を書いて、その横に字を書いた。
「昨日、なし」
妹は言った。
「そうか」
「車で寝たんでしょ」
「寝た」
「じゃあ、なし」
妹はノートを閉じて、二階に上がっていった。
◇
俺は鞄から香盤を出した。
台所の机の上で、また端がはみ出した。二月のところを指でたどっていったら、三日のところで止まった。
三日は月曜である。
その欄には、場所も話数も書いていなかった。
書いてあったのは、二文字だけだった。
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