第52話 騒いでいるのは人形だけ
人形が、一昨日からずっと喋っている。
火曜の昼に犬飼さんから電話が来て、その日の夜からである。飯を食っているあいだも、風呂から上がってからも、朝、鞄に台本を入れているときも喋っていた。俺が寝ているあいだは、たぶん喋っていない。たぶんというのは、寝ているから知らないという意味だ。
「あんた、三ヶ月よ」
「らしいな」
「三ヶ月、毎日あの子と会うのよ。毎日。同じ現場で。同じ控室で」
「そうなるな」
「わかってるの?」
俺は靴下を履いた。左から履いた。
「あの子は、目がいいのよ。指から動く子は、だいたい目がいいの」
「そうか」
「三ヶ月あったら、見つかるわよ」
俺は鞄を持って、階段を下りた。
下りるときに、後ろで人形が何か言った。ドアが閉まっていたので、聞こえなかった。
◇
朝飯は普通に入った。
母さんが「今日は食べるじゃない」と言った。何日も前のことをよく覚えている。
妹が向かいで牛乳を飲んでいた。飲みながら、青い表紙のノートを机の端に置いていた。開いていない。
「兄ちゃん、四月」
「四月がどうした」
「日曜の十時」
妹はそれだけ言って、パンを取った。
放送の話らしい。四月の日曜の十時に何があるのかは、聞かなかった。
◇
学校は普通にあった。
一時間目が数学で、小テストが返ってきた。俺の紙には、赤いペンで数字が書いてある。四十四だった。前の席の熊沢が、返ってきた紙を二つに折って、そのまま筆箱に入れた。
「高町、お前、テレビ出るんだって?」
「まだだ」
「まだって、いつ」
「四月らしい」
「四月かよ。遠いな」
熊沢は椅子の背を持って、体ごとこっちを向いた。
「今度さ、うちの母親がサイン欲しいって言ってんだけど」
「書けない」
「書けよ」
「字が下手だ」
「そこじゃねえだろ」
俺は紙を鞄に入れた。四十四点の紙は、鞄の底のほうに入れた。
二時間目は世界史だった。先生が黒板に年号を三つ書いて、そのうち二つを消した。消した理由は聞き逃した。
三時間目のあいだ、俺は窓の外を見ていた。校庭の隅で、体育の授業がハードルを並べていた。並べ終わったところで、先生が一台だけ位置を直した。直したあと、生徒が走った。最初の三人は全部倒した。四人目が倒さなかったので、そこで拍手が起きた。
拍手は、こっちの教室まで届いた。
◇
昼休みに、廊下で美咲に会った。
プリントの束を持っている。持ったまま、俺の前で止まった。
「いつから」
「何がだ」
「撮るんでしょ。いつからいつまで」
「知らない」
「知らないの」
「今日、聞く」
美咲はプリントを持ち直した。持ち直して、俺の顔を見て、それから廊下の先を見た。
「決まったら言って」
「わかった」
「言わないと、私が学校に聞くことになるから」
美咲は行った。行ってから、途中で一度、階段の手前で止まった。止まって、プリントの一番上の一枚を裏返して、また歩いていった。
◇
放課後、校門の外に有本さんの車が停まっていた。
小型の白い車である。助手席に紙の束とタブレットが積んであって、俺が乗るあいだに、有本さんはそれを後ろに移した。
「犬飼は、局で先に入っています」
「はい」
「わたしが送ります」
車が動き出した。
「高町さん、今日は顔合わせです」
「はい」
「監督は、来ません」
俺は窓の外を見た。
「まだ、一度も会っていません」
「はい」
「わたしもです」
有本さんはそう言って、それきり喋らなかった。
信号で止まったとき、俺は後部座席で目を閉じた。閉じたつもりはなかったが、次に見たときには、車は麹町の坂を上っていた。
◇
顔合わせは、七階の会議室だった。
長机が四つ、口の字に並べてある。壁際に椅子が余っていて、そこに鞄を置いた。天井の蛍光灯は、この部屋のは全部同じ色だった。
人は十人くらいいた。
プロデューサーが二人。脚本の人。キャスティングの人。編成の人。それから、俺の知らない人が三人か四人いて、その人たちは最初から手元の紙を見ていた。
犬飼さんは、俺の後ろの壁際に立っていた。座らなかった。
部屋の隅に、紙の箱が四つ積んである。上の二つは封が切ってあって、下の二つは切っていない。箱の横に、丸めたコードが置いてあった。
机の上には、紙のコップが人数ぶん伏せてある。伏せたままで、水は無い。ここも水が無い。
窓のブラインドは、半分だけ下りていた。下りている側と上がっている側で、外の暗さが違って見えた。
桐生さんは、もう座っていた。
入ってきた俺を見て、片手を上げた。上げて、下ろした。
◇
「では、始めます」
プロデューサーの一人が言った。
紙が配られた。表紙に、四月期・日曜二十二時、と印刷してある。中を開いたら、名前がずらっと並んでいた。上から二番目に俺の名前があって、その下に桐生さんの名前があった。
最初に、脚本の人が話をした。
「今回は、廉とシンの三か月を、ほぼ順撮りで追います。二人の距離が縮まるのではなく、離れていく話なので、撮る順番を入れ替えると、俳優の側に嘘が出ます」
順撮り、というのがわからなかった。
わからないまま、俺は「はい」と言った。言ってから、これは俺に言われたことではないと気づいた。部屋の全員に向かって言っていた。
「そういうわけで、スケジュールが硬いです。動かせません」
プロデューサーの一人が、机の上の紙を指で二回叩いた。
「動かせないので、押したら、押したぶんだけ夜が来ます」
夜が来る、というのもわからなかった。
あとで犬飼さんに聞いたら、「終わる時間が遅くなるということだ」と言われた。それなら、そう言えばいいと思った。
◇
自己紹介が始まった。
右から順に回っていく。みんな短い。長い人で三十秒、短い人は十秒で終わる。名前と、担当と、よろしくお願いします、で終わりだった。
俺の番が来た。
「高町灯真です。よろしくお願いします」
言った。
言ったあと、口の字の向こうで誰かが紙をめくった。俺の紙にも同じ字が印刷してある。みんな、その紙を見ていた。
◇
顔合わせは、二十分で終わった。
終わったあと、俺は自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。会議室は広くて、天井が高い。上のほうに音が逃げる部屋だった。
まあいい、と思った。
二十分のあいだ、部屋の中の全員が、手元の紙を見ていた。紙には、その日の予定と名前が印刷してある。そちらを見るのが正しい。
俺も見た。
俺の紙には、上から二番目に俺の名前が印刷してあった。四月期のドラマの主演というのは、そういう並びのことらしい。
◇
「高町くん」
人が動き出したところで、桐生さんが横に来た。
立つと、やっぱり俺より低い。頭一つぶんまではいかないが、六センチくらい低い。
「決まったって聞いたよ」
「はい」
「よかった」
桐生さんは、そこで笑った。目が細くなった。
「一緒にやれるの、嬉しいよ」
俺は「ありがとうございます」と言った。
言いながら、悪いことをした気がした。
三秒くらいした。
それから、腹が減った。
◇
「君、台本もう来た?」
「まだです」
「来週かな。僕も来てない」
桐生さんは会議室の窓のほうを見た。外はもう暗い。
「第一話と第二話が一緒に来るって。分厚いよ、たぶん」
「はい」
「僕は、届いた日に全部読むことにしてる」
俺は「はい」と言った。
桐生さんは、それ以上その話をしなかった。しないで、机の上の紙を集めて、端を揃えて、鞄に入れた。入れるときに、灰色のノートが一瞬だけ見えた。表紙は白いままだった。
「高町くん、砧って行ったことある?」
「ないです」
「遠いよ。麹町からだと、車で四十分」
桐生さんは鞄の紐を肩にかけた。
「僕は前に一回だけ入った。天井が高くて、寒いんだ。上のほうに暖房があるんだけど、上のほうにあるから、上のほうが暖かい」
俺は「はい」と言った。
立っている場所は、上ではない。
「靴下、厚いのを履いたほうがいいよ」
これは、たしかに役に立つ話だった。
俺は家に厚い靴下があるかどうかを考えた。あるとしたら、それは去年の冬に妹が買ってきて、色が合わないと言って一度も履かなかったやつだ。あれは、まだ引き出しにあるはずだった。
「じゃあ、また」
「お疲れさまでした」
桐生さんはマネージャーの人と一緒に出ていった。出ていくときに、部屋の人全員に頭を下げた。
◇
犬飼さんが壁際から離れた。
「高町」
「はい」
「クランクインは二十七日だ」
「二十七日」
「月曜だ。砧のスタジオに入る」
俺は紙を持ったままだった。
「学校は」
「公欠だ。書類は明日出す」
犬飼さんは廊下のほうへ歩き出した。歩きながら言った。
「香盤は来週来る。三ヶ月ぶんだ」
三ヶ月ぶんの紙というのが、どれくらいの厚さなのか、俺は知らなかった。
◇
エレベーターの前で、有本さんが待っていた。
タブレットを両手で持って、廊下の壁を見ている。壁には何も貼っていない。
「高町さん、三ヶ月です」
「はい」
「一月二十七日から、四月八日までです」
有本さんはタブレットを持ち替えた。
「土日も入っています」
「はい」
「入っていない日も、あります」
どっちなのかは、聞かなかった。
エレベーターが来た。乗ったのは、俺と犬飼さんと有本さんの三人だった。三人とも黙って一階まで下りた。
一階の受付の横に、透明の箱がある。
俺は入館証を外して、口に落とした。今日は、一回で落ちた。
◇
帰りの車は、犬飼さんだった。有本さんは局に残った。
高速に乗ってから、犬飼さんが一度だけ左のポケットに手をやった。やって、そのまま何も出さずに戻した。
「三ヶ月は長い」
俺は「はい」と言った。
「途中で、学校の試験もある」
「あります」
「試験は、俺にはどうにもならん」
窓の外を、高速道路の壁がずっと流れていた。壁の上に等間隔で細い柱が立っていて、その柱の上に線が渡してある。線は、たまに一本増えたり、減ったりした。
俺は数えようとして、二十三でやめた。
やめてから、もう一度、上から数え直した。今度は十九までいって、トンネルに入った。トンネルの中には柱が無かった。
高速を降りて、下の道に入った。コンビニの前を通ったとき、駐車場に車が三台停まっていて、そのうち二台がドアを開けたままだった。開けたまま、誰も乗っていない。
「高町、明日から、飯を先に食え」
俺は前の座席の背を見た。
「現場は、待つ時間のほうが長い。腹が減ってから探しても、何も無い」
それは、たしかにそうだった。
◇
家に着いたのは、二十時前だった。
母さんが「ごはん、食べる?」と言った。
俺は食べると言って、座った。
豚汁だった。具が多い。大根と、にんじんと、ごぼうと、こんにゃくと、豚が入っていた。俺は椀を持ったまま、具だけ先に食べた。
父さんが向かいで新聞を折っていた。折って、置いて、椀を持った。
「四月だってな」
「四月だ」
「そうか」
それで終わりだった。
妹が二階から下りてきて、冷蔵庫を開けて、何も取らずに閉めた。閉めてから、俺の椀を見た。
「兄ちゃん、それ二杯目」
「一杯目だ」
「じゃあいい」
妹は二階に上がっていった。
俺は椀を置いて、ごはんをよそいに立った。よそって、戻って、座った。
父さんが新聞を持ち上げた。持ち上げて、下ろした。
「三ヶ月か」
「三ヶ月だ」
「体は」
「大丈夫だ」
父さんは新聞を畳んだ。畳んだあと、それを自分の椅子の横に置いて、湯呑みを持った。
母さんが台所から「ごぼう、あと入れる?」と言った。俺は「入れる」と言った。
◇
部屋に上がって、鞄を床に置いた。
机の上で、消しゴムが端から落ちた。落ちた先に、白い手があった。押したらしい。
「あんた、今日どうだったの」
「顔合わせだ」
「あの子は」
「いた」
人形の手が、机の縁から離れた。
「何か言われた?」
「一緒にやれるのが嬉しいと言われた」
「……それ、いちばん厄介なやつよ」
俺は椅子に座った。
「嫌われてたら、向こうは見ないの。好かれてたら、ずっと見るのよ。三ヶ月ずっと見られるのよ、あんた」
「そうか」
「そうかじゃないでしょ」
人形は台座の上で位置を変えた。変えて、こっちを向いた。
「クランクインは」
「二十七日だ」
「あと十一日ね」
「そうなるな」
「十一日で、何か考えなさい」
俺は台本を出そうとして、まだ台本が無いことを思い出した。
◇
「あの子は、何を見てると思う」
人形が言った。
「手よ。あの子は、人の手を見るの。今日、あんたの手はどこにあった」
「机の下だ」
「なら、いいわ」
人形は台座の上で少し動いた。動いて、また止まった。
「三ヶ月って、長いのよ。長いから、みんな油断するの。三日目までは誰でも持つわ。持たなくなるのは、二十日目くらいから」
「二十日目に何があるんだ」
「疲れるのよ」
それは、俺にもわかった。
◇
考えることは、特になかった。
俺は制服をハンガーにかけて、机の上の紙を揃えた。四十四点の紙が出てきたので、それは引き出しに入れた。
人形は、まだ何か言っていた。
俺は人形を持ち上げて、机の右奥に置き直した。置き直したあと、向きを窓のほうへ変えた。
「ちょっと」
「明日、朝練の時間に起きる」
「あんた、部活してないでしょ」
「そうだった」
俺は人形の向きを、もう一度こっちに戻した。
戻したら、それきり何も言わなくなった。
◇
次の週の水曜日に、台本が届いた。
玄関で受け取ったのは母さんで、母さんは「重いわね」と言って、そのまま台所の椅子の上に置いた。俺が学校から帰ったとき、封筒はまだそこにあった。妹が横を通るたびに、椅子ごと少しずつ動いていた。
封筒は厚かった。
俺は二階に持って上がって、机の上に置いた。置いたら、机が少し鳴った。
中に、二冊入っていた。
一冊目の表紙に『ブルーアワー』第一話、と書いてある。二冊目には第二話と書いてある。厚さは同じくらいだった。
俺は一冊目を開いた。
最初のページに、人の名前が並んでいた。上から二番目が水無瀬廉で、その下が伊吹シンだった。オーディションの紙と同じ順番である。
二ページ目に、場所と時刻が書いてあった。
その次のページから、台詞が始まっていた。
「あんた」
人形が言った。
「何ページあるの」
俺は最後のページをめくった。
六十二ページあった。二冊で百二十四ページになる。オーディションの紙は、両面で一枚だった。
俺は一ページ目に戻った。
戻ったところで、階段を上がってくる音がした。二段飛ばしの音だった。
妹がドアを開けた。
「兄ちゃん、それ何ページ」
「六十二だ」
妹はドアの枠に手をかけたまま、そこに立っていた。
「それ、全部覚えるの?」




