第51話 今日だけは、見てほしい
朝飯が、入らなかった。
六時に起きて、台所に下りて、炊飯器を開けるところまでは普通だった。茶碗に半分よそって、味噌汁を注いで、座って、そこで止まった。腹は減っている。減っているのに、口の手前で止まる。
九時集合というのは、そういう時間らしい。
母さんが冷蔵庫の前で振り返った。
「食べないの」
「食べる」
「食べてないでしょ」
「これから食べる」
俺は味噌汁を先に飲んだ。飲んだら、ごはんが少し入るようになった。それでも半分残った。残った半分にラップをかけて、冷蔵庫の下の段に入れた。
妹が下りてきたのは、六時四十分だった。土曜なのに起きている。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「それ、あたしの日曜の分だから」
俺は冷蔵庫を閉めた。
◇
部屋に戻って、鞄の中を確かめた。
台本が一冊。ゼリー飲料が二本。青と緑を入れて、白は入れなかった。白は重い。飲むと腹が水でいっぱいになって、そのあとに何も入らなくなる。
机の上で、鉛筆立ての鉛筆が一本だけ横に倒れていた。倒れた先に、人形の腕があった。
「あんた、顔が白いわよ」
「朝飯を食ってない」
「食べなさい」
「入らなかった」
人形の腕が、鉛筆の上から下りた。
「今日だけは、見てもらいなさい」
俺は鞄の口を閉めた。
「向こうが見る気で座っているうちに、全部出すのよ。あとで思い出してもらおうなんて考えないこと」
「わかった」
「わかってないわね」
わかっていない。
ドアを閉めて、階段を下りた。下の段が一つ、いつもより鳴った。
◇
犬飼さんの車は、七時四十分に来た。
土曜の朝の道は空いていた。信号で二回止まって、そのあとは止まらなかった。窓の外を、シャッターの下りた店が続けて流れていった。開いているのは、コインランドリーと、朝からやっている定食屋だけだった。
定食屋の前を通ったとき、看板の写真が見えた。焼き魚と、白いごはんと、味噌汁が載っている。
「高町」
「はい」
「今日で決まる」
俺は前の座席の背を見た。
「監督は」
「今日も来ない」
「今日もですか」
「あの監督は、会わずに決める」
犬飼さんはハンドルの上のほうを持ち直した。
「一度も呼ばないで、撮ったものだけ見て決める人だ。十年前に、一人だけそういう人に当たったことがある」
「どうなりましたか」
「落ちた」
犬飼さんはそれだけ言って、右のウインカーを出した。出してから、けっこう長く出したままでいた。前の車が右に曲がりきるのを待っているらしかった。
「高町、今日は三人だ」
「三人ですか」
「六人が三人になった。そのうち一人が残る」
三人のうちの一人である。
俺は指を三本立てて、二本を折った。折ったところで、それが何の役にも立たないことに気づいて、手を膝に戻した。
俺は窓の外に目を戻した。
定食屋は、もう見えなくなっていた。
◇
大和テレビの受付は、三度目だった。
入館証をもらった。紐は、今日も同じ方向にねじれた。直した。直しても、エレベーターに乗るまでにまた戻っていた。
七階の廊下に、有本さんが立っていた。今日は紙を持っていない。手にはタブレットだけがある。
「高町さん、控室は右の突き当たりです」
「はい」
「お昼は、こちらで用意しています。もう車に積んであります」
有本さんはタブレットを見た。
「電話、四本でした」
「はい」
「昨日から、四本です」
有本さんはタブレットの角を持ち直した。
「終わる時間が、まだ決まっていません。九時からで、三人ですので」
「はい」
「早いほうと遅いほうで、二時間くらい違います」
それだけ言って、有本さんはエレベーターのほうへ歩いていった。歩きながら、途中で一度立ち止まって、廊下の壁に貼ってある紙を見た。見て、また歩いた。
◇
控室には、椅子が壁に沿って並んでいた。
先に二人いた。
一人は、背の高い人だった。もう一人は、俺より年下に見える人で、一昨々日の三人目である。あの日、途中で手が止まって、頭からやり直した人だ。
その人は、俺を見て、頭を下げた。
俺も下げた。
下げたあとで、その人は台本を開いて、膝の上に置いた。表紙の角が丸くなっている。前より丸い。
桐生さんは、いなかった。
部屋の隅に、灰色のノートが一冊だけ置いてあった。表紙に何も書いていない。閉じたまま、椅子の座面の真ん中に、まっすぐ置いてある。
窓の外は、麹町の通りだった。土曜なので、歩いている人が少ない。信号のところに自転車が一台停まっていて、乗っている人が片足を地面につけたまま、ずっと携帯を見ていた。信号が青になっても、しばらく動かなかった。
壁の時計は、八時四十六分だった。
◇
九時になって、進行の人が入ってきた。
紙を三枚持っている。三人に一枚ずつ配って、それから壁のほうを向いて、もう一枚を椅子の上に置いた。
「続きです」
紙は一枚だった。裏まで字がある。
「十五分後に始めます。持ったままで結構です」
俺は紙を見た。
廉が六行、シンが五行だった。場面は、始発前のホームの続きらしい。電車が来て、片方が乗って、片方が乗らない。乗らないほうが廉である。
背の高い人が、紙を椅子の上に置いた。置いて、目を閉じた。
年下に見えるほうも、少ししてから紙を置いた。置いてから、両手を膝に乗せた。
俺は紙を持ったままでいた。
持ったままでいいと言われたので、持ったままでいた。
◇
十五分は、長い。
俺は鞄の口を開けて、ゼリー飲料を見た。青と緑がある。
青は甘くない。甘くないぶん、飲んでも気持ちが悪くならない。緑はマスカットだが、言われないと気づかない味だ。糖の量は、たぶん同じくらい入っている。
問題は、どっちを今飲むかである。
今飲むなら、残るのは一本だ。終わったあとに残しておきたいのは、甘くないほうか、甘いほうか。甘くないほうを残すと、終わったあとに甘いものが要るときに困る。甘いほうを残すと、今、甘いものが要る。
俺は十五分のうち四分ほど、そのことを考えた。
考えて、鞄を閉めた。
どちらも飲まなかった。
◇
「では、こちらの順で」
進行の人が紙を見た。
「高町さん、お願いします」
一番目だった。
部屋を出て、廊下を歩いた。四歩ほど行ったところで、後ろの椅子が鳴った。二人のどちらかが、置いた紙をもう一度取ったらしい。
リハーサル室のドアの前に、桐生さんが立っていた。
台本は持っていない。手も何も持っていない。
「高町くん、おはよう」
「おはようございます」
「今日、三回やるんだ、僕」
桐生さんは笑った。笑うと目が細くなって、それから一瞬で戻った。速い。
「同じ場面を三度やっても、いいことがあるんだよ」
何がいいのかは、聞かなかった。
ドアが開いた。
◇
部屋の中は、一昨々日と違っていた。
長机が二列になっている。前の列に五人、後ろの列に六人いた。全部で十一人だ。鏡は今日も布で覆ってある。布の下の端は、床から二センチ浮いていた。
床の白いテープの線は、同じ場所にあった。
「では、頭から」
真ん中の人が言った。
俺は線の横に立った。桐生さんが、その正面に来た。
来て、そこから半歩、俺のほうへ寄った。
◇
最初の一行は、桐生さんだった。
「始発、あと二十分」
俺は「知ってる」と言った。
言ったとき、後ろの列で紙をめくる音がした。二枚。それから止まった。
三行目で、前の列の五人が、同じ速さで椅子の背から離れた。四行目で、後ろの列の一人が眼鏡を外した。外して、机に置かないで、手に持ったまま持ち上げた。
五行目のあたりで、部屋の中で動いているものが無くなった。
十一の顔が、全部こっちを向いていた。
◇
先に、背筋が伸びた。
部屋の音は、そのあとで遠のいた。
輪郭が、はっきりした。
布の端から出ている鏡の脚の金具に、細い傷が三本入っているのが見えた。
◇
俺は十二行を言った。
言い終わって、紙のほうへ移った。六行ある。持ったままでいいと言われた紙を、俺は持ったままで読んだ。
読んだが、目は二行先を見ていた。
四行目で、桐生さんが半歩下がった。下がったので、俺のほうが前になった。前になったところで、電車が来る音を、桐生さんが手で作った。手のひらを一度だけ、太ももの横で払った。音は出ていない。
五行目、桐生さんが乗る。
六行目は、俺が乗らない。
「行けよ」
それが最後の行だった。
◇
部屋は静かなままだった。
脚本の人が、紙の端を持った。持って、めくらないで、そのまま置いた。キャスティングの人は、俺の名前が印刷してある紙を、手前に引いた。編成の人が二人、同時に何か書いた。二人とも、書きながらこっちを見ていた。
「……ありがとうございました」
真ん中の人が言った。
俺は頭を下げた。
下げたとき、桐生さんが横で息を吐いたのが聞こえた。
◇
控室に戻った。
背の高い人と入れ替わりだった。すれ違うときに、その人は俺の顔を見なかった。前だけ見て歩いていった。
俺は椅子に座った。
座って、膝の上に紙を置いた。
指先の力が、少しずつ抜けていくのがわかる。紙が滑って、片方の端が膝から落ちた。落ちた端を、もう一度乗せ直した。乗せ直すのに、思ったより時間がかかった。
部屋には、年下に見えるほうが残っていた。
その人は自分の紙を見ていた。俺のことは見なかった。見られていないほうが、今はありがたい。
◇
廊下で、ドアが閉まる音がした。
控室からリハーサル室までは、四歩と少しだ。歩いている足音は、ドアが閉まると聞こえなくなった。壁の向こうで何をやっているかは、こちらまで届かない。届くのは、椅子を引く音と、ドアの音だけだった。
俺は膝の上の紙を見た。
六行のうち、最後の一行だけを目で追った。追ったが、頭には入らなかった。字の形は見えた。読めてはいなかった。
◇
二人目が終わって、三人目が呼ばれた。
俺は椅子に座ったままでいた。
背中を椅子につけると楽になるが、つけると、そのまま動けなくなる。俺は背中を離して、浅く座り直した。膝の上で、両手を組んだ。組むと、手の重さが膝に乗る。乗せておけば、手が震えているかどうかは、外から見てわからない。
窓の外は、まだ午前中の光だった。
――土曜の朝、控室のパイプ椅子に浅く腰かけて、膝の上で手を組んでいる高校生。
◇
十一時二十分に、全部終わった。
控室のドアが開いて、最後の一人が戻ってきた。戻ってきて、荷物を取って、進行の人に頭を下げて、そのまま出ていった。三人とも、同じ順番で同じことをした。
俺が最後に部屋を出るとき、廊下の端に桐生さんがいた。
壁にもたれずに立っている。手には何も持っていない。灰色のノートは、いつのまにか鞄の中に戻っていた。
「三回、やった」
桐生さんは指を三本立てた。立てて、そのまま下ろした。
「同じ十四行を三回やると、三回とも違う話になるんだよ。相手が違うから。おもしろかったな」
俺は「はい」と言った。
何がおもしろかったのかは、わからなかった。
◇
廊下に犬飼さんが立っていた。
「終わったか」
「終わりました」
犬飼さんは俺の顔を見た。見て、何も言わないでエレベーターのボタンを押した。
エレベーターの中で、俺は壁に手をついた。ついたのを、犬飼さんは見なかった。見なかったが、降りるときに、先に出て、開くボタンを押さえていた。
◇
一階の受付の横に、透明の箱がある。
入館証を返す箱だ。上の面に細長い口が開いていて、そこから落とす。
俺は入館証を外して、口の上に持っていった。
入らなかった。
指が開かない。カードの端が箱の縁に当たって、かつ、と鳴った。もう一度やった。同じところに当たった。カードは口の手前で止まったままで、俺の手はそこから先へ動かなかった。
犬飼さんが横から手を出した。
カードを取って、口に落とした。落ちる音がした。
「先に、そこ座れ」
受付の横に、長い椅子がある。俺は座った。
「俺は車を回してくる」
犬飼さんは自動ドアのほうへ歩いていった。
俺は座って、膝の上に手を置いた。
受付の前を、人が何人か通った。誰もこっちを見なかった。それでよかった。
◇
車の中で、有本さんが積んでいった昼が出てきた。
紙の箱だった。開けたら、鶏が入っていた。ごはんの上に、黒い胡麻がかかっている。
俺は座席に浅く座ったまま、それを食べた。箸を持つのに、少しかかった。持ってしまえば、あとは動いた。
「高町」
「はい」
「結果は、月曜か火曜だ」
俺は鶏を食べた。
「はい」
「電話が来たら、俺が学校に連絡する」
俺は蓋を閉めて、輪ゴムをかけた。かけるときに、輪ゴムが指から二回逃げた。
◇
家に着いたのは、十三時四十分だった。
玄関で靴を脱いで、そのまま台所に行った。冷蔵庫の下の段に、朝の半分が入っている。ラップをかけたままのやつだ。
俺はそれを出して、レンジに入れた。
温まるまでのあいだ、俺は流しの縁に手をついて立っていた。立っているだけでよかった。座ると、そこから動かなくなる。
レンジが鳴った。
俺は茶碗を出して、そのまま台所で立って食べた。
◇
二階に上がって、机に紙を置いた。
六行の紙は、二つに折れていた。控室で握っていたところが、少し湿っている。
「終わったのね」
「終わった」
「点いたの」
「点いた」
人形は、それ以上聞かなかった。
俺は椅子の背に体を預けた。預けたら、そのまま十分くらい動かなかった。
◇
妹が部屋に入ってきたのは、十四時二十七分だった。
ドアは開けたままだった。
「兄ちゃん、今日、なに食べた」
「鶏だ」
「あたし、朝から何も食べてない」
「食べろ」
「兄ちゃんが日曜の分まで食べたからでしょ」
妹はそう言って、廊下に出ていった。
出ていく前に、手に持っていたノートを開いて、何か書いた。書いてから、閉じた。表紙は青くなかった。
◇
月曜の朝、電話は来なかった。
火曜の一時間目にも、二時間目にも来なかった。三時間目のあいだに、俺のクラスの後ろのドアが開いて、隣のクラスの担任が宮坂先生を呼んだ。宮坂先生は廊下に出て、すぐ戻ってきた。
戻ってきて、黒板の端に何か書いた。
書いたのは、来週の掃除当番の割り振りだった。
熊沢が前の席から振り返った。
「高町、お前、なんかあった?」
「なんで」
「顔がいつもと同じだから」
「いつもと同じだ」
「そこがおかしいんだよ」
熊沢は前を向いた。向いてから、もう一度振り返って、消しゴムの角を俺の机に置いた。何のために置いたのかは、言わなかった。
◇
四時間目は現代文だった。
宮坂先生は教科書を読ませて、そのあいだ窓際を歩いていた。俺の席の横で一度止まって、そのまま何も言わずに前へ戻っていった。
美咲が、廊下側の列で手を挙げて、当てられて、二段落読んだ。読み終わってから、こっちを見なかった。
◇
昼休みに、鞄の中で携帯が鳴った。
犬飼さんだった。
「高町。今から言うことを、廊下に出て聞け」
俺は廊下に出た。
窓の外で、体育の授業が走っていた。誰かが二周遅れている。
「決まった」




