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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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50/199

第50話 誰も見ていなくてもできる人がいる

 黒板の右端に、白い字が増えていた。


 〈1/9(木) 高町 公欠〉


 日付の下に、一行だけ書いてある。字の大きさが、隣の日直の欄より小さかった。書いた人が、そこに収めようとしたらしい。


 三学期は昨日から始まっている。始業式で校長が十五分喋って、そのあと大掃除をして、それで終わりだった。今日は普通の授業がある日で、俺は二時間目までしかいない。


 教壇の上に、出席簿が置いてあった。宮坂先生が来て、それを開いて、指で行をなぞった。


「高町。今日、二時間目までだな」

「はい」

「届は受け取った」

「はい」

「範囲は、来週の月曜に言う」


 先生は出席簿を閉じて、教壇を下りた。


 黒板の白い字のほうは、見なかった。


 熊沢が前の席から振り返った。上履きのかかとを踏んでいる。


「高町、お前、今日どこ行くの」

「テレビ局」

「うわ、テレビ局」


 熊沢は机に肘をついた。


「飯うまいの?」

「出ない」

「出ないの?」

「出ない」

「なんで」


 俺も知らない。


「じゃあ何しに行くんだよ」

「台本を読みに行く」

「それ、ここでもできんじゃん」


 できる。


「なあ高町、テレビ局って、廊下に芸能人歩いてんの」

「知らない」

「行ったことあんだろ」

「あそこは、一昨日が最初だ」

「一回行って何もわかんねえのかよ」


 わからない。


 入館証の紐は、直しても同じ方向にねじれる。


 熊沢は前を向いて、それから、もう一度振り返った。


「弁当出ないの、おかしくない?」


 俺もそう思う。


   ◇


 二時間目が終わって、鞄を取った。


 廊下に出たら、窓の外で自転車が一台倒れていた。風が強い。倒れたやつの隣の自転車も、少しずつ傾いていた。


 昇降口で靴を履き替えているとき、美咲が階段の上から下りてきた。


 プリントを持っていた。持っていたが、渡さなかった。


「三年の時間割、出た」

「うん」

「二枚あるから、私が一枚持ってる。あなた、なくすでしょ」

「わかった」


 美咲はそれだけ言って、階段を上がっていった。


 上がる音が、二階の途中で聞こえなくなった。


   ◇


 校門の外に、車が停まっていた。


 乗ってすぐ、犬飼さんが袋を後ろに寄越した。中に、パンが二つ入っていた。


「昼だ」

「はい」


 俺は一つ目を食べた。コロッケが挟んであった。


 二つ目に手をかけたところで、犬飼さんが言った。


「今日は、君の番じゃない」

「はい」

「残ってるのが六人だ。今日はそのうち三人を見る」

「はい」

「見るのは廉のほうだけだ。君は見られない」


 俺は二つ目のパンを持ったまま止まった。


「じゃあ、俺は何をするんですか」

「相手役だ」

「相手役」

「相手役は、事務所が二人出す。うちと、アトリエ・キリシマだ」


 俺は二つ目を食べた。中身は同じコロッケだった。


「高町、君の番は明後日だ」

「明後日」

「土曜だ。最後の日になる」


 俺は袋を畳んだ。


 畳んで、膝の上に置いた。


   ◇


 大和テレビは、今日も四角かった。


 石の目地に挟まっていた白いものは、まだ同じ場所にあった。


 受付で入館証をもらった。紐がねじれた。直した。


 七階に上がったら、廊下に有本さんが立っていた。今日は紙の束が薄い。


「高町さん、控室は通らないそうです」

「はい」

「そのまま部屋へ、と言われました」


 有本さんは廊下の奥を指した。


「電話は、今日は二本です」


 廊下の奥から、女の人が歩いてきた。


 コートを腕にかけて、もう片方の手に紙袋を持っている。俺たちの前で止まって、有本さんに軽く頭を下げた。


「アトリエ・キリシマです。うちの、先に入っております」

「あ、ソレイユです」

「今日はお世話になります」


 それだけ言って、その人はエレベーターのほうへ行った。


 行ってから、有本さんが小さい声で言った。


「先に入ってるそうです」

「はい」


   ◇


 リハーサル室は、一昨日と同じ部屋だった。


 鏡はやっぱり布で覆ってある。長机も同じ位置にあった。人は七人いた。


 部屋の隅に、椅子が三脚だけ足してあった。壁にくっつけて並べてある。


 進行の人が、紙を一枚くれた。


 紙に、表が印刷してあった。左の列に廉、右の列にシンと書いてある。左の列には、知らない名前が三つ並んでいた。右の列に、俺の名前が二回と、桐生蓮という名前が一回、書いてあった。


「本日は、廉の側を見ます」


 進行の人が、部屋の全員に言った。


「相手役のお二人は、恐れ入りますが、そちらの椅子でお待ちください」


 俺は壁際の椅子に座った。


 三脚のうち、真ん中の一脚だけ、座面の色が違っていた。他の二脚より新しい。座ってみたら、高さも一センチくらい高かった。


 鞄を足元に置いた。置いたときに、口が開いた。


 布で覆った鏡の前に、細長い台が置いてある。台の上に、紙コップが三つ伏せてあった。水は無い。


 水があっても飲まない。飲むと、腹が水でいっぱいになる。


 長机の七人は、まだ手元を見ていた。左端の編成の人が、腕時計を見て、袖を戻した。


   ◇


 桐生さんは、いちばん端の椅子にいた。


 灰色のノートを開いていた。開いているページは、白いままだった。


 俺の隣ではなく、一つ空けた向こうに座っている。


「高町くん、そこ、上から風が来るよ」


 桐生さんは天井を指した。


 吹き出し口が、俺の頭のすぐ上にあった。手を上げたら、風が当たった。


「大丈夫です」

「うん」


 桐生さんはノートに目を戻した。


 戻すときに、俺の膝の上を見た。


 台本が置いてある。折り目が付いていない。付箋も、線も無い。買ってきたままの厚さで、角も丸くなっていない。


 桐生さんの目が、そこに一秒だけ止まって、それから上がった。


 桐生さんの膝の上には、灰色のノートだけがあった。台本は鞄の中で、鞄は椅子の下にあって、口が閉まっていた。


   ◇


 一人目が呼ばれた。


 線の上に立ったのは、俺より少し背の低い人だった。髪を後ろで結んでいる。


「では、二人で。頭から」


 俺は椅子から立って、線の横に立った。


 シンは九行ある。俺は台本を開いた。


「始発、あと二十分」


 俺は、それを言った。


 声は、普通に出た。


 部屋の音は、全部聞こえていた。外の廊下を台車が通る音がした。長机のいちばん右で、演出部の人が椅子を引く音がした。天井の蛍光灯は四本あって、そのうち一本だけが、他の三本より白かった。


 俺は九行を言った。


 九行のうち、四行目と五行目が続いている。あいだに廉の台詞が無い。俺は四行目の終わりで息を吸った。


 言いながら、一度だけ、白い蛍光灯を見た。


 白い一本は、他の三本より少しだけ音がしていた。じじ、という音だ。天井が高くないので、下まで届いた。


 長机の七人は、全員、廉を読んでいる人のほうを向いていた。


   ◇


「はい、そこまでで」


 真ん中の人が言った。


 髪を結んだ人が頭を下げた。俺も下げた。手が勝手に下がった。


 俺は壁際の椅子に戻った。


 戻って、座って、腹に手を当てた。


 コロッケパンは二つとも入っている。だが十時に食べたので、そろそろ底のほうが空いてきた。


   ◇


 二人目も、俺だった。


 同じ九行を、もう一度言った。


 二人目の廉は、声の大きい人だった。三行目のところで、机の向こうの二人が同時に紙をめくった。


 終わって、俺は椅子に戻った。


 戻る途中で、桐生さんが立ち上がった。


 三人目である。


   ◇


 三人目の廉は、俺より年下に見えた。


 線の上に立って、台本を両手で持った。持ったまま、指で表紙の角を折った。折って、伸ばして、また折った。


 桐生さんは、その横に立った。


 台本を持っていなかった。


 手ぶらだった。手には何も無くて、腕が体の横に下りている。


 三人目のほうが、背は高かった。


 だが、線の上で場所を取っているのは、桐生さんのほうだった。


「では、二人で。頭から」


   ◇


 長机の七人は、三人目のほうを向いていた。


 全員が同じ向きだった。キャスティングの人の手元に紙が二枚出ていて、二枚とも、三人目の名前が上に印刷してあった。脚本の人は、鉛筆の先を三人目のほうへ向けて持っていた。


 俺は壁際に座っていた。


 俺の位置からだと、桐生さんの横顔と、三人目の正面が見えた。


   ◇


 桐生さんの右手の指が、動いた。


 台詞より、先だった。


 人差し指が、膝の横で一度だけ内側に曲がった。曲がってから、声が出た。


「始発、あと二十分」


 同じ九行だった。同じ字が並んでいる紙だ。


 俺はそれを聞いていた。


 三行目で、桐生さんは首をほんの少し前に出した。四行目で、下を向いた。下を向いたまま、五行目を言った。六行目で顔を上げたとき、顔が変わっていた。


 速かった。


   ◇


 三人目の手が、止まった。


 台本を持ったまま、次の行を言わなかった。


 部屋が静かになった。


 三人目は、台本を下ろした。下ろして、長机のほうを向いて、頭を下げた。


「……すみません。頭から、お願いします」


「はい、どうぞ」


 真ん中の人が言った。


 桐生さんは、その人のほうを向いた。


 向いて、笑った。目が細くなった。


「大丈夫だよ」


 それだけ言って、また腕を下ろした。


   ◇


 二回目が始まった。


 桐生さんの指が、また先に動いた。


 同じ場所で内側に曲がって、同じ場所で声が出た。三行目で首を前に出した。四行目で下を向いた。六行目で顔を上げた。


 俺は、長机のほうを見た。


 七人は、三人目を見ていた。紙も、鉛筆も、体の向きも、全部そっちを向いている。演出部の人は、途中で一度、手元の紙に何か書いた。書いたあと、また三人目を見た。


 俺は桐生さんを見た。


 桐生さんは、三人目のほうを向いていた。長机のほうは、一度も見なかった。


 七行目で、三人目の声が戻った。八行目で、少し大きくなった。


 九行目は、桐生さんの番だった。


 桐生さんは、そこで半歩だけ動いた。半歩ぶん、三人目の正面に入った。入ったので、三人目が長机のほうを向かなくてよくなった。


 すごいな、と思った。


   ◇


「はい、ありがとうございました」


 真ん中の人が言った。


 三人目が頭を下げて、部屋を出ていった。出ていくときに、桐生さんが「お疲れさま」と言った。三人目は、返事をしなかった。返事をしないで、二度、頭を下げた。


 桐生さんは、壁際に戻ってきた。


 戻ってきて、灰色のノートを取った。


 開いた。開いたページは、まだ白かった。


 閉じて、鞄に入れた。


「高町くん、土曜だよね」

「はい」

「僕も土曜」


 桐生さんはそう言って、部屋を出ていった。


 出ていくときに、進行の人に頭を下げた。頭を下げたのは、桐生さんだけだった。


   ◇


 十六時に、外へ出た。


 もう暗かった。地下から車を出して、大通りに入ったところで、止まった。


 止まったまま、動かなかった。


 犬飼さんがラジオをつけた。道路の話をしていた。数字が並んでいて、そのうちの一つが、たぶん俺たちのいる道路だった。


「二十分の道だ」

「はい」

「今日は、動かん」


 俺は窓の外を見た。


 右の車線に、トラックが一台いた。荷台の後ろに、白いテープで線が引いてある。線の下に、汚れた字で何か書いてあった。読めなかった。


 信号が青になった。二台進んで、また赤になった。


 歩道を、自転車が三台、続けて追い抜いていった。三台目は荷台に箱を積んでいて、箱がゴムで留めてあった。ゴムが二本、交差して掛かっている。


 歩道の縁に、コーンが三つ並んでいた。三つとも、上に細い棒が渡してある。棒の真ん中が、少したわんでいた。


 その向こうの店先に、傘立ての筒が出してあった。傘は一本も入っていない。筒だけが、風で少し動いていた。


 俺は腹に手を当てた。


 コロッケパンは十時だった。今は十六時半だ。腹が鳴った。


 ――夕方の車の中で、腹のあたりを押さえたまま黙っている高校生。


 押さえていれば減るのが遅くなると思っている男だ。遅くはならない。


「犬飼さん」

「なんだ」

「今日、桐生さん、すごかったです」


 信号が変わった。車は動かなかった。


「そうか」


   ◇


 事務所に着いたのは、十七時四十分だった。


 四階に上がったら、有本さんが廊下に立っていた。


 立って、壁に貼ってある紙を見ていた。誰かの予定表だった。有本さんはそれを見て、それから自分のタブレットを見て、また紙を見た。


「高町さん、土曜は九時集合になりました」

「九時ですか」

「九時です。局が、その時間しか押さえられなかったそうで」


 有本さんはタブレットを下ろした。


「まだ、決まっていません」


 犬飼さんが階段のほうから上がってきた。


「有本、もう変わらんな」

「変わりません」

「そう言って、昨日も変わった」


 有本さんは、何も言わなかった。


 言わないで、タブレットをもう一度見た。見て、廊下の窓のほうを向いて、深く息を吸った。


 二回吸った。


 それから、こっちを向いた。


「高町さん、土曜のお昼は、こちらで用意します」

「はい」

「九時集合だと、終わりが早いか遅いか、どちらかなので」


 有本さんはタブレットを脇に挟んだ。挟んでから、持ち直して、両手で持った。


「どちらでも出るようにしておきます」


 俺は「はい」と言った。


 出る、というのが確定した。


   ◇


 俺は一階に下りた。


 下りたところで、受付の人に呼び止められた。


「これ、預かってます」


 入館証だった。昨日ではなく、一昨日のやつである。首から下げたまま持って帰ったやつを、犬飼さんが有本さんに渡して、有本さんが受付に置いていたらしい。


「明日、返しに行くそうです」

「はい」


 俺はそれを鞄に入れた。


 俺が行くわけではないので、一往復のことは、そこで終わった。


 入館証は鞄の底に沈んだ。


   ◇


 家に着いたのは、十九時前だった。


 母さんが「ごはん、食べる?」と言った。


 俺は「食べる」と言って、そのまま座った。


 カレーだった。


 鍋の底のほうを見たら、じゃがいもが残っていた。昨日の残りだ。二日目のやつだ。


 おかわりをした。じゃがいもは、二つとも俺のところに来た。


 妹が向かいに座って、俺の茶碗を見ていた。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「それ、二杯目でしょ」


 二杯目だった。


「あたしの明日のぶんなんだけど」


 妹は自分の皿をさっさと片づけて、二階へ上がっていった。上がる途中で、階段の三段目で一度止まった。止まって、また上がった。


   ◇


 部屋に上がって、ドアを閉めた。


 机の右奥で、付箋の束が斜めになっていた。人形が押しているらしい。押しても動かない大きさだ。


「あんた、道は混んでたの」

「動かなかった」

「都会って、そういうところよ」


 付箋の束が、二センチだけ動いた。


「あの子、指から動いたわね」

「桐生さんか」


 俺は椅子に座った。


「あの子ね」

「そうか」

「まばたきが、遅かったわ」


 俺は台本を出した。


 出して、机に置いた。


「あんた、土曜も行くのね」

「行く」

「九時ですって?」

「九時だ」


 ミューナは、それで何も言わなくなった。


 俺は台本を鞄に入れた。


 入れてから、思い出した。


 土曜は九時だ。朝飯が入るかどうかは、起きてみないとわからない。


50話までお読みいただき、ありがとうございます!

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