第50話 誰も見ていなくてもできる人がいる
黒板の右端に、白い字が増えていた。
〈1/9(木) 高町 公欠〉
日付の下に、一行だけ書いてある。字の大きさが、隣の日直の欄より小さかった。書いた人が、そこに収めようとしたらしい。
三学期は昨日から始まっている。始業式で校長が十五分喋って、そのあと大掃除をして、それで終わりだった。今日は普通の授業がある日で、俺は二時間目までしかいない。
教壇の上に、出席簿が置いてあった。宮坂先生が来て、それを開いて、指で行をなぞった。
「高町。今日、二時間目までだな」
「はい」
「届は受け取った」
「はい」
「範囲は、来週の月曜に言う」
先生は出席簿を閉じて、教壇を下りた。
黒板の白い字のほうは、見なかった。
熊沢が前の席から振り返った。上履きのかかとを踏んでいる。
「高町、お前、今日どこ行くの」
「テレビ局」
「うわ、テレビ局」
熊沢は机に肘をついた。
「飯うまいの?」
「出ない」
「出ないの?」
「出ない」
「なんで」
俺も知らない。
「じゃあ何しに行くんだよ」
「台本を読みに行く」
「それ、ここでもできんじゃん」
できる。
「なあ高町、テレビ局って、廊下に芸能人歩いてんの」
「知らない」
「行ったことあんだろ」
「あそこは、一昨日が最初だ」
「一回行って何もわかんねえのかよ」
わからない。
入館証の紐は、直しても同じ方向にねじれる。
熊沢は前を向いて、それから、もう一度振り返った。
「弁当出ないの、おかしくない?」
俺もそう思う。
◇
二時間目が終わって、鞄を取った。
廊下に出たら、窓の外で自転車が一台倒れていた。風が強い。倒れたやつの隣の自転車も、少しずつ傾いていた。
昇降口で靴を履き替えているとき、美咲が階段の上から下りてきた。
プリントを持っていた。持っていたが、渡さなかった。
「三年の時間割、出た」
「うん」
「二枚あるから、私が一枚持ってる。あなた、なくすでしょ」
「わかった」
美咲はそれだけ言って、階段を上がっていった。
上がる音が、二階の途中で聞こえなくなった。
◇
校門の外に、車が停まっていた。
乗ってすぐ、犬飼さんが袋を後ろに寄越した。中に、パンが二つ入っていた。
「昼だ」
「はい」
俺は一つ目を食べた。コロッケが挟んであった。
二つ目に手をかけたところで、犬飼さんが言った。
「今日は、君の番じゃない」
「はい」
「残ってるのが六人だ。今日はそのうち三人を見る」
「はい」
「見るのは廉のほうだけだ。君は見られない」
俺は二つ目のパンを持ったまま止まった。
「じゃあ、俺は何をするんですか」
「相手役だ」
「相手役」
「相手役は、事務所が二人出す。うちと、アトリエ・キリシマだ」
俺は二つ目を食べた。中身は同じコロッケだった。
「高町、君の番は明後日だ」
「明後日」
「土曜だ。最後の日になる」
俺は袋を畳んだ。
畳んで、膝の上に置いた。
◇
大和テレビは、今日も四角かった。
石の目地に挟まっていた白いものは、まだ同じ場所にあった。
受付で入館証をもらった。紐がねじれた。直した。
七階に上がったら、廊下に有本さんが立っていた。今日は紙の束が薄い。
「高町さん、控室は通らないそうです」
「はい」
「そのまま部屋へ、と言われました」
有本さんは廊下の奥を指した。
「電話は、今日は二本です」
廊下の奥から、女の人が歩いてきた。
コートを腕にかけて、もう片方の手に紙袋を持っている。俺たちの前で止まって、有本さんに軽く頭を下げた。
「アトリエ・キリシマです。うちの、先に入っております」
「あ、ソレイユです」
「今日はお世話になります」
それだけ言って、その人はエレベーターのほうへ行った。
行ってから、有本さんが小さい声で言った。
「先に入ってるそうです」
「はい」
◇
リハーサル室は、一昨日と同じ部屋だった。
鏡はやっぱり布で覆ってある。長机も同じ位置にあった。人は七人いた。
部屋の隅に、椅子が三脚だけ足してあった。壁にくっつけて並べてある。
進行の人が、紙を一枚くれた。
紙に、表が印刷してあった。左の列に廉、右の列にシンと書いてある。左の列には、知らない名前が三つ並んでいた。右の列に、俺の名前が二回と、桐生蓮という名前が一回、書いてあった。
「本日は、廉の側を見ます」
進行の人が、部屋の全員に言った。
「相手役のお二人は、恐れ入りますが、そちらの椅子でお待ちください」
俺は壁際の椅子に座った。
三脚のうち、真ん中の一脚だけ、座面の色が違っていた。他の二脚より新しい。座ってみたら、高さも一センチくらい高かった。
鞄を足元に置いた。置いたときに、口が開いた。
布で覆った鏡の前に、細長い台が置いてある。台の上に、紙コップが三つ伏せてあった。水は無い。
水があっても飲まない。飲むと、腹が水でいっぱいになる。
長机の七人は、まだ手元を見ていた。左端の編成の人が、腕時計を見て、袖を戻した。
◇
桐生さんは、いちばん端の椅子にいた。
灰色のノートを開いていた。開いているページは、白いままだった。
俺の隣ではなく、一つ空けた向こうに座っている。
「高町くん、そこ、上から風が来るよ」
桐生さんは天井を指した。
吹き出し口が、俺の頭のすぐ上にあった。手を上げたら、風が当たった。
「大丈夫です」
「うん」
桐生さんはノートに目を戻した。
戻すときに、俺の膝の上を見た。
台本が置いてある。折り目が付いていない。付箋も、線も無い。買ってきたままの厚さで、角も丸くなっていない。
桐生さんの目が、そこに一秒だけ止まって、それから上がった。
桐生さんの膝の上には、灰色のノートだけがあった。台本は鞄の中で、鞄は椅子の下にあって、口が閉まっていた。
◇
一人目が呼ばれた。
線の上に立ったのは、俺より少し背の低い人だった。髪を後ろで結んでいる。
「では、二人で。頭から」
俺は椅子から立って、線の横に立った。
シンは九行ある。俺は台本を開いた。
「始発、あと二十分」
俺は、それを言った。
声は、普通に出た。
部屋の音は、全部聞こえていた。外の廊下を台車が通る音がした。長机のいちばん右で、演出部の人が椅子を引く音がした。天井の蛍光灯は四本あって、そのうち一本だけが、他の三本より白かった。
俺は九行を言った。
九行のうち、四行目と五行目が続いている。あいだに廉の台詞が無い。俺は四行目の終わりで息を吸った。
言いながら、一度だけ、白い蛍光灯を見た。
白い一本は、他の三本より少しだけ音がしていた。じじ、という音だ。天井が高くないので、下まで届いた。
長机の七人は、全員、廉を読んでいる人のほうを向いていた。
◇
「はい、そこまでで」
真ん中の人が言った。
髪を結んだ人が頭を下げた。俺も下げた。手が勝手に下がった。
俺は壁際の椅子に戻った。
戻って、座って、腹に手を当てた。
コロッケパンは二つとも入っている。だが十時に食べたので、そろそろ底のほうが空いてきた。
◇
二人目も、俺だった。
同じ九行を、もう一度言った。
二人目の廉は、声の大きい人だった。三行目のところで、机の向こうの二人が同時に紙をめくった。
終わって、俺は椅子に戻った。
戻る途中で、桐生さんが立ち上がった。
三人目である。
◇
三人目の廉は、俺より年下に見えた。
線の上に立って、台本を両手で持った。持ったまま、指で表紙の角を折った。折って、伸ばして、また折った。
桐生さんは、その横に立った。
台本を持っていなかった。
手ぶらだった。手には何も無くて、腕が体の横に下りている。
三人目のほうが、背は高かった。
だが、線の上で場所を取っているのは、桐生さんのほうだった。
「では、二人で。頭から」
◇
長机の七人は、三人目のほうを向いていた。
全員が同じ向きだった。キャスティングの人の手元に紙が二枚出ていて、二枚とも、三人目の名前が上に印刷してあった。脚本の人は、鉛筆の先を三人目のほうへ向けて持っていた。
俺は壁際に座っていた。
俺の位置からだと、桐生さんの横顔と、三人目の正面が見えた。
◇
桐生さんの右手の指が、動いた。
台詞より、先だった。
人差し指が、膝の横で一度だけ内側に曲がった。曲がってから、声が出た。
「始発、あと二十分」
同じ九行だった。同じ字が並んでいる紙だ。
俺はそれを聞いていた。
三行目で、桐生さんは首をほんの少し前に出した。四行目で、下を向いた。下を向いたまま、五行目を言った。六行目で顔を上げたとき、顔が変わっていた。
速かった。
◇
三人目の手が、止まった。
台本を持ったまま、次の行を言わなかった。
部屋が静かになった。
三人目は、台本を下ろした。下ろして、長机のほうを向いて、頭を下げた。
「……すみません。頭から、お願いします」
「はい、どうぞ」
真ん中の人が言った。
桐生さんは、その人のほうを向いた。
向いて、笑った。目が細くなった。
「大丈夫だよ」
それだけ言って、また腕を下ろした。
◇
二回目が始まった。
桐生さんの指が、また先に動いた。
同じ場所で内側に曲がって、同じ場所で声が出た。三行目で首を前に出した。四行目で下を向いた。六行目で顔を上げた。
俺は、長机のほうを見た。
七人は、三人目を見ていた。紙も、鉛筆も、体の向きも、全部そっちを向いている。演出部の人は、途中で一度、手元の紙に何か書いた。書いたあと、また三人目を見た。
俺は桐生さんを見た。
桐生さんは、三人目のほうを向いていた。長机のほうは、一度も見なかった。
七行目で、三人目の声が戻った。八行目で、少し大きくなった。
九行目は、桐生さんの番だった。
桐生さんは、そこで半歩だけ動いた。半歩ぶん、三人目の正面に入った。入ったので、三人目が長机のほうを向かなくてよくなった。
すごいな、と思った。
◇
「はい、ありがとうございました」
真ん中の人が言った。
三人目が頭を下げて、部屋を出ていった。出ていくときに、桐生さんが「お疲れさま」と言った。三人目は、返事をしなかった。返事をしないで、二度、頭を下げた。
桐生さんは、壁際に戻ってきた。
戻ってきて、灰色のノートを取った。
開いた。開いたページは、まだ白かった。
閉じて、鞄に入れた。
「高町くん、土曜だよね」
「はい」
「僕も土曜」
桐生さんはそう言って、部屋を出ていった。
出ていくときに、進行の人に頭を下げた。頭を下げたのは、桐生さんだけだった。
◇
十六時に、外へ出た。
もう暗かった。地下から車を出して、大通りに入ったところで、止まった。
止まったまま、動かなかった。
犬飼さんがラジオをつけた。道路の話をしていた。数字が並んでいて、そのうちの一つが、たぶん俺たちのいる道路だった。
「二十分の道だ」
「はい」
「今日は、動かん」
俺は窓の外を見た。
右の車線に、トラックが一台いた。荷台の後ろに、白いテープで線が引いてある。線の下に、汚れた字で何か書いてあった。読めなかった。
信号が青になった。二台進んで、また赤になった。
歩道を、自転車が三台、続けて追い抜いていった。三台目は荷台に箱を積んでいて、箱がゴムで留めてあった。ゴムが二本、交差して掛かっている。
歩道の縁に、コーンが三つ並んでいた。三つとも、上に細い棒が渡してある。棒の真ん中が、少したわんでいた。
その向こうの店先に、傘立ての筒が出してあった。傘は一本も入っていない。筒だけが、風で少し動いていた。
俺は腹に手を当てた。
コロッケパンは十時だった。今は十六時半だ。腹が鳴った。
――夕方の車の中で、腹のあたりを押さえたまま黙っている高校生。
押さえていれば減るのが遅くなると思っている男だ。遅くはならない。
「犬飼さん」
「なんだ」
「今日、桐生さん、すごかったです」
信号が変わった。車は動かなかった。
「そうか」
◇
事務所に着いたのは、十七時四十分だった。
四階に上がったら、有本さんが廊下に立っていた。
立って、壁に貼ってある紙を見ていた。誰かの予定表だった。有本さんはそれを見て、それから自分のタブレットを見て、また紙を見た。
「高町さん、土曜は九時集合になりました」
「九時ですか」
「九時です。局が、その時間しか押さえられなかったそうで」
有本さんはタブレットを下ろした。
「まだ、決まっていません」
犬飼さんが階段のほうから上がってきた。
「有本、もう変わらんな」
「変わりません」
「そう言って、昨日も変わった」
有本さんは、何も言わなかった。
言わないで、タブレットをもう一度見た。見て、廊下の窓のほうを向いて、深く息を吸った。
二回吸った。
それから、こっちを向いた。
「高町さん、土曜のお昼は、こちらで用意します」
「はい」
「九時集合だと、終わりが早いか遅いか、どちらかなので」
有本さんはタブレットを脇に挟んだ。挟んでから、持ち直して、両手で持った。
「どちらでも出るようにしておきます」
俺は「はい」と言った。
出る、というのが確定した。
◇
俺は一階に下りた。
下りたところで、受付の人に呼び止められた。
「これ、預かってます」
入館証だった。昨日ではなく、一昨日のやつである。首から下げたまま持って帰ったやつを、犬飼さんが有本さんに渡して、有本さんが受付に置いていたらしい。
「明日、返しに行くそうです」
「はい」
俺はそれを鞄に入れた。
俺が行くわけではないので、一往復のことは、そこで終わった。
入館証は鞄の底に沈んだ。
◇
家に着いたのは、十九時前だった。
母さんが「ごはん、食べる?」と言った。
俺は「食べる」と言って、そのまま座った。
カレーだった。
鍋の底のほうを見たら、じゃがいもが残っていた。昨日の残りだ。二日目のやつだ。
おかわりをした。じゃがいもは、二つとも俺のところに来た。
妹が向かいに座って、俺の茶碗を見ていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「それ、二杯目でしょ」
二杯目だった。
「あたしの明日のぶんなんだけど」
妹は自分の皿をさっさと片づけて、二階へ上がっていった。上がる途中で、階段の三段目で一度止まった。止まって、また上がった。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
机の右奥で、付箋の束が斜めになっていた。人形が押しているらしい。押しても動かない大きさだ。
「あんた、道は混んでたの」
「動かなかった」
「都会って、そういうところよ」
付箋の束が、二センチだけ動いた。
「あの子、指から動いたわね」
「桐生さんか」
俺は椅子に座った。
「あの子ね」
「そうか」
「まばたきが、遅かったわ」
俺は台本を出した。
出して、机に置いた。
「あんた、土曜も行くのね」
「行く」
「九時ですって?」
「九時だ」
ミューナは、それで何も言わなくなった。
俺は台本を鞄に入れた。
入れてから、思い出した。
土曜は九時だ。朝飯が入るかどうかは、起きてみないとわからない。
50話までお読みいただき、ありがとうございます!
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