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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第49話 同い年の化け物

 昼を、食べそこねた。


 集合が十四時で、家を出たのが十二時半だった。その一時間半のあいだに、飯を入れる場所が一つも無かった。犬飼さんの車に乗ったのが十三時十分で、そこから麹町まで二十分だと言われた。二十分では、何も食べられない。


 俺は後部座席で、鞄の中を探した。


 ゼリー飲料が一本だけ入っていた。緑だった。


 飲むかどうかで、少し迷った。緑は言われないと気づかない味だが、糖は入っている。ただし一本しかない。ここで飲むと、終わったあとに何も残らない。


「高町、腹か」

「腹です」


 犬飼さんは前を向いたまま、ハンドルに手を戻した。


「局には出ない」

「弁当ですか」

「オーディションは、飯が出る場所じゃない」


 俺はゼリー飲料を鞄に戻した。


   ◇


 高速に入ってから、犬飼さんがラジオをつけた。


 人が二人で喋っていた。道路の混み具合の話だった。どこの高架が何キロ、どこの出口が何分。数字がずっと並んでいる。


 犬飼さんは、その数字を聞きながら、一度だけ左のミラーを見た。


 見て、そのままにした。消さなかった。


 俺は窓の外を見ていた。正月のあいだは家にいた。昨日の月曜にレッスンが一コマあって、それだけだった。今日は七日で、冬休みの最後の日だった。


 明日から学校が始まる。始まるが、明日のことは明日でいい。


「高町、今日は監督が来ない」

「はい」

「オーディションに監督が来ない現場もある。今日はそっちだ」


 俺は「はい」と言った。


 言ったが、誰が見るのかも、何人来るのかも、そこで何をどこまで言えば終わりなのかも、この時点では一つも聞いていなかった。


「高町」

「はい」

「呼ばれてるのは十二人だ」

「十二人」

「そのうち、うちが聞いてるのは、一人だけだ」


 十二人。


「今日で全部決まる話じゃない」

「はい」

「呼ばれる日は、あと二回ある」


 三回ある。


 高架の下に、青いシートを掛けた建物がずっと続いていた。シートの向こうで、何かを外している音がした。シートの継ぎ目に、細い針金が通してある。針金は、一定の間隔で結んであった。結び目を数えようとしたら、車のほうが速かった。


   ◇


 大和テレビは、四角い建物だった。


 みなとテレビは全面がガラスで、上のほうが細くなっていた。こっちは、下から上まで同じ太さで立っている。噴水は無い。かわりに前が広くて、石が敷いてある。石の目地に、白いものが挟まっていた。ガムだと思う。


 中に入ると、受付が三つ並んでいた。


 いちばん左に人が二人いて、右の二つは誰もいなかった。誰もいないほうにも、椅子が置いてある。


 受付の人が、名簿を見て、透明のケースを一つ寄越した。


「入館証です」

「はい」

「建物の中では、首から下げたままにしてください」

「はい」

「お帰りのときに、そこの箱へ入れてください」


 箱は、受付の横にあった。透明の箱で、底のほうに同じケースが何枚か沈んでいる。


 俺は入館証を首にかけた。


 紐がねじれて、紙が裏返しになった。直した。少し歩いたら、また裏返しになった。


 傍から見れば、胸元をしきりに触っている高校生である。


 実際には、紐がねじれる方向が一定で、直しても同じ角度に戻るだけだった。


   ◇


 エレベーターの前に、有本さんが立っていた。


 立っていたというより、そこで足を止めたところだったらしい。紙の束を持っていて、いちばん上の一枚だけ、角が折れていた。


「高町さん、七階です」

「はい」

「控室が七階で、部屋が同じ階です」


 有本さんは、もう一度紙を見た。


「……いえ、控室が七階で、部屋も七階です」

「同じですね」

「同じです」


 有本さんはエレベーターのボタンを押した。押してから、押したのとは違うほうの扉が開いた。


 乗ると、有本さんが言った。


「わたし、この局、初めてで」

「はい」

「提出する紙が、三種類ありました」


 七階に着いた。


 扉が開いたところで、有本さんのスマホが鳴った。有本さんは「すみません」と言って、来たほうへ走っていった。


 走る音が、廊下の角で消えた。


   ◇


 控室は、廊下の突き当たりだった。


 入ってすぐの壁に、紙が貼ってある。〈オーディション 控室〉。その下に、もう一枚あった。〈お手洗いは、この階の反対側です〉


 中に入った。


 椅子が、壁に沿って並べてあった。四角い部屋の三面を、椅子が囲んでいる。真ん中は空いていて、何も置いていない。数えたら、十四脚あった。


 人は、十一人いた。俺を入れて十二人になる。


 全員が座っていて、全員が同じ厚さの台本を持っていた。表紙に〈ブルーアワー〉と書いてある。俺の鞄に入っているのと同じやつだ。


 部屋の真ん中が空いているので、人と人のあいだが遠い。誰かが咳をしたら、三面に届く。


 俺は空いている椅子に座った。


 座って、部屋を見た。


 右の面に、四人いた。いちばん端の人が、台本の背をテーブルの縁に当てて、まっすぐに直していた。二回やって、また端を揃えた。その隣の人は、上着を膝に畳んで置いている。畳み方が、店に並んでいるやつと同じだった。


 正面の面に、五人いた。真ん中の一人だけが、靴を脱いで、かかとを椅子の縁に乗せていた。


 窓は無い。壁の上のほうに、四角い吹き出し口が二つある。片方から風が出ていて、もう片方は紙が貼ってあった。〈使用中止〉と印刷してある。


 部屋の隅に、飲み物の自動販売機があった。差し込む場所にテープが貼ってあって、その上に手書きの紙が付いていた。


 〈故障中〉


 俺は、それを二回読んだ。


 鞄にゼリー飲料が一本入っている。まだ飲まない。


   ◇


 その男は、入口から数えて三つ目の椅子にいた。


 背は、俺より低い。座っているのに、それがわかった。座り方が、他の十人と違っていた。背もたれに寄りかかっていないのに、まっすぐしている。膝の上に、台本と、もう一冊が乗っていた。


 もう一冊は、灰色の表紙のノートだった。


 その人は、ノートを開いていた。開いているページに、何も書いていない。白いままだ。指がページの上に置いてあって、動いていない。


 俺は台本を出した。


 出したときに、目が合った。


 その人が、笑った。


 目が細くなって、口の端が両方とも上がって、頬のところに線が入った。人が笑うのを、俺は毎日見ている。妹も熊沢も早坂も笑う。だが、笑うのがこんなに速い人を、俺は知らない。


 それから、その人は自分のノートに目を戻した。


 戻した瞬間に、顔から温度が消えた。


 笑っていた顔が、笑っていない顔になるまでに、何も挟まっていなかった。段が無かった。上から下へ、一段も踏まずに落ちた。


 俺は、その横顔を見ていた。


 怖い、と思った。


   ◇


 ドアが開いて、犬飼さんが顔を出した。


「高町」

「はい」


 俺は廊下に出た。


 犬飼さんは、控室の中を一度だけ見た。見て、扉を閉めた。ポケットに手を入れた。


 出てきたのは、胃薬の箱だった。


「聞いていなかった」

「何をですか」

「あれが今日だと聞いていなかった」

「あれ、ですか」

「十三年のほうだ」


 犬飼さんは箱を持ったまま、開けなかった。


 廊下の先から、有本さんが戻ってきた。走ってきて、途中から歩きになった。


「犬飼さん、書類、二枚目が別の窓口でした」

「行ってこい」

「行ってきました」

「そうか」

「電話、三本来ました」


 有本さんはそう言って、また廊下の反対側へ歩いていった。今度は走らなかった。歩きながら、紙の束を持ち直していた。


「高町、終わったら、ここにいろ。俺は車を回してくる」

「はい」


 犬飼さんは箱をポケットに戻した。開けないまま戻した。


   ◇


 控室に入り直したら、進行の人が名簿を持って立っていた。


「番号順ではありません。読み上げますので、呼ばれたら廊下へ出てください」


 誰も返事をしなかった。


 進行の人は、二人の名前を読んだ。俺と、灰色のノートの人だった。


「お二人、続けてになります。どちらからでも結構です」


 ノートの人が立ち上がった。


 立ち上がると、やっぱり俺より低かった。頭一つぶんではない。十センチない。


 その人は、俺のほうを向いた。


「高町くん、だったね」

「はい」

「先にやる? 僕はどっちでもいいよ」


 声が、柔らかかった。速さが一定で、途中で上がったり下がったりしなかった。


「じゃあ、先に行きます」

「うん」


 その人は、それだけ言って、椅子に戻った。


 戻るときに、ノートを閉じた。


 俺は台本を持って、廊下へ出た。


 出るときに、有本さんが壁のところに立っていた。立っていて、俺を見て、それから壁の名簿の紙を見た。


 紙の上のほうに、その人の名前があった。


 桐生蓮、と書いてあった。


   ◇


 部屋は、リハーサル室だった。


 板の間で、片側の壁が全部、鏡になっていた。鏡は布で覆ってある。上から下まで、灰色の布が垂れていた。


 反対側に、長机が並べてある。人が七人座っていた。


 左の二人が、局の編成の人だと聞いた。真ん中の二人が、制作会社のプロデューサー。その隣が脚本の人で、その隣がキャスティングの人。いちばん右が、演出部の人だった。


 全員、手元を見ていた。


 床に、白いテープで印が貼ってある。四角ではなく、線が一本だけだった。俺は線の上に立った。


 進行の人が、机の端の椅子に座った。


「相手役は、こちらで読みます。棒読みになりますが、気にしないでください」

「はい」

「では、二人で。頭から」


 俺は台本を開いた。


 課題は、始発前の駅のホームだった。水無瀬廉が十二行、伊吹シンが九行ある。二人がベンチに座っていて、外がまだ暗い。空だけが、少し青い。


 進行の人が読んだ。


「始発、あと二十分」


 俺は言った。


「知ってる」


   ◇


 三行目まで来たところで、長机の向こうで、紙をめくる音が止まった。


 右端の演出部の人が、顔を上げた。


 上げて、下ろさなかった。


 その隣のキャスティングの人が、手元の紙を裏返した。裏返して、俺のほうを見た。脚本の人が、鉛筆を置いた。真ん中の二人が、同じ速さで椅子の背から離れた。左の二人は、最初から俺を見ていた。


 長机の向こうで、七つの顔が全部こっちを向いていた。


   ◇


 リハーサル室の音が、遠のいた。


 代わりに、輪郭がはっきりした。


 鏡を覆っている布の、下の端が床から二センチ浮いていた。その隙間に、鏡の脚の金具が見えた。


 背筋が、伸びた。


 伸びたところで、腹が鳴らないかを一瞬だけ心配した。


   ◇


 俺は台本を、下ろした。


 下ろしてから、十二行を言った。


 どこで息を吸ったかは覚えている。四行目のあとで一度、床を見た。見たかったから見た。台本には何も書いていない。


 六行目で、進行の人の読む速さが変わった。棒読みだったのが、棒読みでなくなった。読み終わってから、進行の人が自分の台本を見直していた。


 最後の一行は、短かった。


「ここにいる」


   ◇


 脚本の人が、鉛筆を持ち上げた。持ち上げて、置いた場所とは違うところに置いた。


「……そこまでで結構です」


 真ん中の人が言った。


 俺は頭を下げた。


 ――今日、飯はどこで食うんだ。


 今朝、冷蔵庫の下の段に肉が入っていた。じゃがいもも出してあった。


   ◇


 ドアを閉めた。


 閉めてから、閉まったドアに頭を下げた。


 廊下に、桐生さんが立っていた。


 壁にもたれずに、まっすぐ立っていた。台本を持っていない。手には、灰色のノートだけがあった。


 俺と目が合って、桐生さんは笑った。


 また速かった。


「終わった?」

「終わりました」

「ありがとう」


 礼を言われる理由が、思いつかなかった。


 桐生さんはドアを押して、中に入っていった。


 ドアが閉まる前に、中から「では、二人で。頭から」と聞こえた。


   ◇


 廊下の角から、有本さんが来た。


 紙の束が、来たときより厚くなっていた。いちばん上の一枚に、判子が二つ押してある。片方が斜めだった。


「高町さん、犬飼さんは地下です」

「地下ですか」

「車を回されました。ここ、地上に停める場所が無いそうで」

「はい」

「エレベーターで、いちばん下です」


 有本さんは、そこで一度、紙を持ち直した。


「電話、また三本です」

「はい」


 有本さんはそう言って、控室のほうへ歩いていった。歩きながら、いちばん上の紙の角を、指で伸ばしていた。伸ばしても、折れたところは戻らなかった。


   ◇


 エレベーターの前で、膝が笑った。


 来た。


 俺は壁に手をついた。ついてから、下りのボタンを押した。押すのに、指を伸ばす距離が長かった。


 箱が来た。乗った。犬飼さんが「地下だ」と言っていたので、いちばん下を押した。


 扉が閉まって、床が下がりはじめた。


 俺は手すりを掴んだ。


   ◇


 地下は、駐車場だった。


 天井が低くて、太い管が横に走っている。管に、黄色いテープが巻いてあった。車が停まっているのは奥のほうで、扉の前は空いていた。


 扉の正面に、コンクリートの車止めがあった。


 俺は、そこに腰を下ろした。


 低かった。膝が胸の近くまで来た。俺は腕を膝に置いて、そのまま止まった。


 入館証が、胸から下がったままだった。ケースが膝に当たっている。


 肉じゃがは、たぶんもう出来ている。


 俺は、その紐を握った。


   ◇


 車が来た。


 ヘッドライトが天井の管を照らして、そこで止まった。


 犬飼さんが降りてきた。降りて、俺のところまで歩いてきて、目の前で止まった。


 しゃがまなかった。立ったままだった。


「歩けるか」

「歩けます」

「歩いてみせろ」


 俺は立ち上がった。


 立ち上がるのに、車止めの縁に一度手をついた。


 それから、扉のほうへ一歩出した。二歩目で、右に寄った。


「そこにいろ」


 犬飼さんは車に戻って、後ろのドアを開けた。開けたまま、こっちへ戻ってきた。


 戻ってきて、俺の横に立った。


 それから、歩いた。歩幅を、俺に合わせていた。


   ◇


 車に乗って、シートに背中をつけた。


 入館証が、まだ首にかかっていた。


「犬飼さん、これ、箱に入れてないです」


 犬飼さんはミラー越しに一度見て、それから車を出した。


「有本に渡しておく」

「はい」


 俺は入館証を外して、膝の上に置いた。


 置いてから、足元の鞄を見た。口が開いたままだった。閉めるのは、あとでいいと思った。


   ◇


 家に着いたのは、十八時十分だった。


 玄関を開けたら、廊下の電気が点いていた。妹が階段の下に立っていた。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「おかえり」


 俺は靴を脱いだ。揃えるのに、少しかかった。


 リビングに入って、床に座った。座って、テーブルに背中をつけた。


 母さんが台所から「ごはん、食べる?」と言った。


 俺は「あとで」と言った。


 言ったつもりだったが、母さんがもう一度聞いた。


   ◇


 肉じゃがが出てきた。


 俺は皿を見て、「これ、昼のか」と言った。


 母さんが「夜のだよ」と言った。


 妹が二階から下りてきて、テーブルの角に立って、こう言った。


「二十九分」

「そうか」

「あたし、明日から学校なんだけど」


 妹はそれだけ言って、冷蔵庫を開けた。開けて、プリンを一つ取って、また二階へ上がっていった。


 俺は肉じゃがを食べた。


 じゃがいもが四つあった。三つ食べた。四つ目は、皿の縁に寄せて残した。


   ◇


 部屋に上がって、ドアを閉めた。


 机の右奥から、椅子を引く音がした。人形が椅子を持っているわけではないので、たぶん台座の縁を蹴った音である。


「あんた、遅かったわね」

「遠かった」

「どうだったの」

「わからん」

「机の向こうに、並んでたわ」

「並んでた」

「点いた?」

「点いた」

「そう」


 それから、こう続けた。


「あの子、何なの」


 俺は椅子に座った。


「どの子だ」

「灰色の帳面の子よ。あんたが座ったとき、こっちを見たわ」

「見てないだろ」

「見たのよ。鞄の口が開いてたの」


 俺は鞄を見た。


 口が、五センチほど開いていた。


「あの子ね」


 ミューナはそこで一度切った。


「まばたきを、しなかったわ」


 俺は電気を消した。


 消してから、思い出した。


 四つ目のじゃがいもを、皿の縁に残したままだった。


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