第48話 主演、という字を三回読んだ
十九日の夜、うちのテレビの前に四人が座った。
父さんが、夕飯のあと自分の部屋へ行かなかった。母さんが台所から出てきた。妹はもう床に座っていた。
二回目である。一回目は九月だった。
母さんがみかんを一皿持ってきた。妹が皿の位置を三回動かした。父さんが座布団に座って、腕を組んだ。
みかんは八つあった。皮を置く皿は、出ていなかった。
「灯真、あんたは?」
「立ってる」
「座りなさいよ」
「立ってる」
俺はテレビの横の壁にもたれて立った。
傍から見れば、自分の出るドラマを、家族と一緒に見るのが照れくさくて立っている高校生である。
実際には、座るところがもう一つ空いていなかった。父さんの座布団の隣は、みかんの皿が占めている。
◇
八時になった。
俺の出番は、五十二ページからだった。二時間のドラマで、五十二ページというのがどのあたりなのかは、見てみないとわからない。
最初の三十分は、刑事たちの話だった。
人がたくさん出てきて、名前がたくさん出てきた。母さんは全員の名前を覚えていた。父さんは一人も覚えていなかったが、話はわかっているらしく、途中で一度だけ「こいつじゃないな」と言った。
妹は、みかんを剥かなかった。
剥かないで、膝の上で両手を組んで、画面を見ていた。
◇
九時前に、俺が出た。
川沿いの道だった。荷物を抱えた男が歩いてきて、呼び止められて、止まる。
「あっ」
母さんが声を出した。
「出た」
「出たね」
「今の、うちの子?」
「うちの子だよ」
妹が言った。
画面の中の男は、俺だった。俺なのだが、上着が薄かった。あの日は寒かった。寒かったことを、画面は一つも映していない。
その男は、途中で一度、立ち止まった。
母さんが「あら」と言った。
◇
取調室になった。
机が映って、椅子が映って、俺が座っていた。机の縁が腹のあたりに来ている。五センチ切ったやつである。
向かいに、室井さんが座った。
そこから先は、長かった。
テレビの音以外、何の音もしなかった。母さんはみかんを持ったまま止まっていた。父さんは腕を組んだまま動かなかった。妹は、画面から一度も目を離さなかった。
途中で、母さんが一度、俺のほうを見た。
見て、すぐ画面に戻った。
画面の中の柏木ユウは、机の前に座っていた。八時間そこにいた人である。俺はその高さを知っている。腹のあたりに縁が来る。
最後の一行が終わって、場面が変わった。
誰も何も言わなかった。
十秒くらいして、母さんが小さい声で言った。
「……こわい」
◇
ドラマは、九時四十八分に終わった。
終わったあとで、母さんが台所に立った。立ったが、何もしないで戻ってきた。
「灯真、あんた、あんな声出るの」
「出た」
「あんな声、家で聞いたことない」
「家では出さない」
父さんが腕を組んだまま言った。
「……捕まったな」
「捕まった」
「そうか」
父さんはそれで立ち上がって、自分の部屋へ行った。
行ってから、五分して戻ってきた。戻ってきて、また座った。
何を取りに行ったのかは、わからない。手には何も持っていなかった。
母さんが「お父さん」と呼んだ。父さんは「ああ」と言った。それで会話が終わった。
◇
妹は、床に座ったままだった。
膝の上に、表紙が青いノートを開いていた。いつのまに持ってきたのかは、わからない。
鉛筆で、四つ書いていた。
放送日。放送時間。俺が映っていた秒数。台詞の行数。
書き終わって、鉛筆を置いた。
「兄ちゃん、二十行あった」
「そうか」
「あたし、数えた」
妹はノートを閉じた。
閉じてから、こう言った。
「今回、楽だった」
「なんでだ」
「あたし、ちゃんと座って見たから」
母さんが横から覗き込んだ。
「ひなた、それ、いつからつけてるの」
「テレビに出た日だけ」
「え?」
「出てない日は書かない」
母さんはノートを見て、それから俺を見た。
俺を見て、何も言わずに台所へ行った。行って、水を出して、止めて、また出した。
妹はノートを持って、二階へ上がっていった。
上がる途中で、一度だけ止まった。
「兄ちゃん、今の、面白かった」
それだけ言って、上がっていった。
◇
翌朝、学校に着いたら、下駄箱のところで熊沢が待っていた。
待っているというより、そこで俺を見つけて止まったらしい。上履きを片方持ったままだった。
「高町、お前、あれ」
「うん」
「あれ、こわ」
「そうか」
「うち、母ちゃんが見てて、俺も途中から見た」
「うん」
「途中から見たのに、途中で戻って見た」
「戻れるのか」
「録画」
熊沢は上履きを履いた。履きながら、こう言った。
「なあ高町、お前、ほんとに悪いことしてないよな」
「してない」
「だよな」
本気で確認された。
◇
教室に入ったら、宮坂先生が黒板の前にいた。
朝のホームルームの前だった。先生は出席簿を開いて、指で行をなぞっていた。
「高町。先週の三日、事務所から連絡が来てる」
「はい」
「課題は期限内に出てる」
「はい」
「じゃあ、いい」
先生は出席簿を閉じた。
閉じてから、こう付け足した。
「うちは出席日数と課題だけ見る。それ以外は見ない」
「はい」
「見ないから、そっちで何があっても、こっちには持ち込まなくていい」
先生は出席簿を小脇に挟んで、教壇に行った。行って、日直の名前を呼んだ。
◇
一時間目が始まる前に、廊下側の窓に人が並んだ。
いちばん端から埋まった。埋まって、真ん中だけが最後まで空いていた。
真ん中が空いている理由は、わからない。
早坂が窓のほうを見て、それから俺のほうを見た。
「高町くん、昨日の、見た」
「うん」
「あたし、途中でスマホ置いた」
「置いたのか」
「置いた。見ちゃったから」
「うん」
「でも、あたし、途中でお風呂入った」
「入ったのか」
「入った。長いんだもん」
早坂は自分の机に戻った。
戻って、隣の子と喋りはじめて、途中で笑った。声は、いつもの大きさだった。
◇
昼休みに、美咲が来た。
プリントを二枚持っていた。持ってきたついでの顔をしていたが、プリントは俺の机の上に既にあるやつだった。
「高町くん、見たよ」
「うん」
美咲はそれ以上言わなかった。
言わないで、俺の隣の椅子に座った。座って、窓のほうを見た。
美咲は窓のほうを見たまま言った。
「先週の水曜の夜、私が読んだやつ」
「うん」
「あれ、字だったんだよね」
「字だ」
「字のときも怖かったけど」
美咲はそこで言葉を切った。
「……もういい」
「いいのか」
「いい」
美咲は立ち上がって、教室の前のほうへ歩いていった。
歩いていって、黒板の端に書いてあった〈12/11(水)〜13(金) 高町 公欠〉を、指で消した。
◇
その日の放課後、犬飼さんから電話が来た。
電話が来るのは珍しい。用件はだいたいメッセージで来る。
「高町」
「はい」
「明日、事務所に来られるか」
「行けます」
「十四時だ」
「はい」
「制服でいい」
それで切れた。
切れてから、俺は画面を見た。通話時間は十九秒だった。
◇
翌日、事務所に行った。
一階の受付を通ったところで、電話が鳴っていた。
受付の人が取って、二言喋って、保留にした。保留にしたところで、また鳴った。二台ある電話が、両方とも光っていた。
受付の机の横に、宅配便の箱が三つ積んであった。いちばん上の箱だけ、伝票の角が剥がれている。
四階に上がったら、廊下で有本さんに会った。
有本さんはタブレットを持っていなかった。両手が空いているので、歩き方が速かった。
「高町さん、こっちです」
「はい」
「会議室2です」
「はい」
「タブレット、机に置いたまま来ちゃいました」
有本さんは自分の手のひらを見た。
見て、少し笑って、それから歩き出した。
歩きながら、廊下の窓のほうを向いて、二回、深く息を吸った。
◇
小部屋のほうだった。
六人しか入らない部屋で、悪い話をするときに使う部屋だと、前に誰かが言っていた。
俺は入った。
入ってから、ドアを閉めるべきかどうかで止まった。悪い話をする部屋なので、閉めるのが普通だと思う。だが自分で閉めると、悪い話を自分から始めた形になる。開けたままにすると、廊下に聞こえる。
半分閉めた。いちばん良くない閉め方だった。
中に、犬飼さんと社長がいた。
社長と同じ部屋に入るのは、久しぶりだった。この人が自分の部屋から下りてくるのは、何かが決まったときか、これから決まるときのどちらかだと、前に有本さんが言っていた。
どちらなのかは、座ってみないとわからなかった。
◇
社長は、テーブルの向こうに座っていた。
テーブルの上に、羊羹が三つ乗っていた。切ってある。切ってあるということは、切った人がいる。
「座れ」
「はい」
俺は座った。
犬飼さんは立ったままだった。立ったまま、鞄から紙を一枚出して、俺の前に置いた。
A4が一枚。上のほうに、局の名前が印刷してあった。
その下に、枠が書いてあった。四月期。日曜の、二十二時から。
その下に、作品名の欄があった。
欄には〈仮題〉と書いてあった。
その下に、役の欄があった。
◇
俺は、その二文字を読んだ。
主演。
もう一度読んだ。
主演。
三回目に、その下の行を読んだ。〈オーディション〉と書いてあった。
「高町」
「はい」
「決まった話じゃない」
「はい」
「オーディションだ。受けるかどうかを、今日決める」
犬飼さんは紙の上のほうを指で押さえた。
「連ドラだ。全十話。三ヶ月拘束になる」
「三ヶ月」
「学校がある。だから、俺は反対の側から先に言う」
犬飼さんは指を離した。
「受かったら、三年生の一年間、まともに登校できない日が出る」
「はい」
「試験は受ける。それは動かさない」
「はい」
「それでも受けるかを、今、聞いている」
俺は紙を見ていた。
紙は一枚しかない。一枚に、四月から六月までのことが全部書いてある。書いてある量が、紙の半分にも届いていない。
◇
社長が羊羹を一つ取った。
取って、食べて、こう言った。
「高町。昨日、犯人をやったな」
「はい」
「二十行あった」
「はい」
「二十行やる子はね、たくさんいるんだよ」
社長は湯呑みを持ち上げた。
「二十行で、電話が四本来る子はいない」
湯呑みを置いた。
「四本のうち三本は、断った」
犬飼さんが言った。
「順番を決めるからです」
「そうだ」
「一本だけ残しました」
犬飼さんは、俺の前の紙を指した。
◇
俺は紙をもう一度見た。
仮題。四月期。日曜の二十二時。主演。オーディション。
考えたことが三つあった。
一つ、三ヶ月というのは、弁当が何回出るのかわからない長さである。
二つ、四月にやるものは、その前に撮るらしい。この前の三日で、十二月の朝がどれくらい寒いかはわかった。一月と二月は、たぶんもっと寒い。
三つ、三年生になったら、教室の階が上がる。上履きの色も変わる。
三つ目は、どうでもよかった。
俺は顔を上げた。
「受けます」
◇
社長はしばらく俺を見ていた。
見ていて、それから犬飼さんのほうを向いた。
「日程」
「年明けです」
「相手は」
「もう一人、候補がいます」
犬飼さんはそこで、少しだけ間を置いた。
「うちの子ではありません」
社長は湯呑みを持ち上げて、また置いた。
置いてから、俺のほうを見た。
「主演というのはね、いちばん長く現場にいる役のことだよ」
「はい」
「いちばん上手い役のことじゃない」
社長は立ち上がった。
立ち上がって、部屋を出ていった。出ていくときに、羊羹の皿を持っていった。三つのうち二つが残っていた。
◇
残された俺と犬飼さんは、しばらく黙っていた。
黙ってから、犬飼さんが座った。俺の正面ではなく、斜め前だった。
「もう一人の候補は、君と同い年に近い」
「はい」
「十八だ」
「はい」
「五歳から現場に出ている」
俺は羊羹を見ていた。二つ残っている。
「十三年だ」
「はい」
「君は、今年からだ」
「はい」
犬飼さんはポケットに手を入れた。入れて、何も出さずに手を出した。
「それだけの話だ」
「はい」
「年明けに会う」
◇
帰り道、桜坂駅の階段を下りた。
二十七段ある。上から九段目が少し欠けていて、雨の日に滑る。今日は雨ではなかった。
俺は下まで下りて、改札の前で立ち止まった。
改札を出たところで、スマホが鳴った。
美咲だった。
〈事務所だったんでしょ〉
〈だった〉
〈何だったの〉
〈オーディション〉
〈いつ〉
〈年明け〉
既読が付いて、しばらく何も来なかった。
それから、二行来た。
〈受かったらどうなるの〉
〈三ヶ月、撮るらしい〉
また止まった。
今度は長かった。歩道橋を渡って、下りて、コンビニの前を過ぎるまで、何も来なかった。
〈三年の時間割、まだ出てないんだけど〉
〈うん〉
〈出たら送る〉
〈わかった〉
〈時間割、私も持っとく〉
〈わかった〉
最後に、一行だけ来た。
〈おめでとうは、受かってから言う〉
俺は〈わかった〉と打った。
三回続けて同じことを打った。他に打つことが思いつかなかった。
◇
家まで歩いた。
歩きながら、頭の中にあったのは、羊羹の残り二つのことだった。あれは誰が食べるんだろう。社長が皿ごと持っていったので、たぶん社長が食べる。二つとも食べるんだろうか。
俺は一つも食べていない。切ってあったのに。
◇
家に着いたら、玄関に妹の靴があった。
揃えて置いてある。母さんは台所にいた。
リビングに入ったら、妹が床に座って、教科書を開いていた。タブレットは、閉じて横に置いてある。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「事務所、なんだったの」
「オーディションだ」
「また?」
「また」
「今度は何の役」
俺は鞄を下ろした。
「主演らしい」
妹は、鉛筆を落とした。
落とした鉛筆が床を転がって、テーブルの脚に当たって止まった。
妹はそれを拾わなかった。
拾わないで、こっちを見ていた。
妹は口を開けて、何も言わずに閉じた。
それから、床の鉛筆を拾って、教科書に戻った。
戻ったが、ページはめくらなかった。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
机の上で、台座の縁から足が二本、出ていた。
「あんた、何かあったわね」
「ある」
「言いなさいよ」
「オーディションだ」
「それは前もあったでしょう」
「今度は、いちばん上だ」
ミューナは黙った。
長かった。この人形がこんなに長く黙るのを、俺は数えるほどしか見ていない。
「その役、何人が見るの」
俺は少し考えた。
二時間のドラマは、一回で終わる。連ドラは、十回ある。
「十回ぶんだ」
「そう」
ミューナは、それだけ言った。
それから、台座の上で足を組み直して、こう続けた。
「わたしのときは、九回だったわ」
俺は電気を消した。
消してから、思い出した。
三ヶ月の現場は、弁当が何回出るのか、まだ数えていない。




