第47話 昨日と違う、と言われた
取調室の机は、脚が四本とも短かった。
スタジオに入って最初に見たのがそれだった。近づいて見たら、四本とも同じ長さに切ってある。切り口が新しい。
「昨日、切りました」
美術の人が横から言った。
「高町くん、背が高いので」
「はい」
「机が高いと、顔が隠れるんです」
「はい」
「五センチです」
五センチ切られていた。
俺は椅子に座ってみた。座ったら、机の縁が腹のあたりに来た。昨日は胸のあたりに来ていた気がするが、昨日は座っていない。
切った脚の下に、木の粉が少し残っていた。掃いたあとらしく、まっすぐな筋になっていた。
◇
朝の八時に、犬飼さんが来た。
スタジオの入口で有本さんと二言だけ喋って、それから俺のところへ来た。上着を着たままである。
「高町」
「はい」
「今日で終わりだ」
「はい」
「長いのが一つある。あとは細かいのが二つだ」
「はい」
犬飼さんは取調室のほうを見た。
壁が三面あって、四面目が無い。四面目の側にカメラが二台置いてある。昨日は一台だった。
「二台ある」
「はい」
「二人を同時に撮る」
「はい」
「同じ芝居を二回やらなくていいという意味だ」
俺は頷いた。
たぶん、楽なほうだと思う。
◇
室井さんは、もう来ていた。
壁のほうに寄って、立っていた。上着の前を開けて、右手に丸めた台本を持っている。左手のマグは、床に置いてあった。
俺は近づいて、頭を下げた。
室井さんは顎を一度だけ動かした。
俺は自分の椅子のほうへ戻ろうとして、途中で止まった。
室井さんが、台本を開いていた。前の現場では、丸めたまま持っているか、脇に挟んでいるかのどちらかだった。
室井さんは開いたページを二秒見て、また閉じて、丸めた。
◇
午前中は、細かいほうを二つ撮った。
どちらも取調室の中だった。俺が座って、刑事が入ってきて、二行喋る。それだけだ。
一つ目は三本撮った。二つ目は一本で終わった。
二つ目のとき、ドアの外で誰かが咳をした。咳をしたあとで、その人は三歩ぶん離れた。足音でわかった。
三上さんは、どちらも止めなかった。
止めなかったが、二つ目のあとで、カメラの人のところへ行って、しばらく画面を指で示していた。指で示しながら、二回、後ろを振り返って俺のほうを見た。
俺は椅子に座って、それを見ていた。
――昼、何が出るんだろう。
昨日は鮭が二回来た。三日連続の鮭はあるんだろうか。
◇
待っているあいだに、若いスタッフの人が二人、俺の椅子の横に来た。
二人とも軍手をしていた。昨日の脚立の人も、していた。
「高町くん、昨日の川のやつ、見ました?」
「見てないです」
「見てないんだ」
「はい」
「うち、モニターで見てたんですけど」
「はい」
「なんか、止まったじゃないですか」
「止まりました」
「あれ、どっちですか」
「どっち」
「決めてたのか、出ちゃったのか」
俺は少し考えた。
止まる指示は出ていなかった。決めてもいなかった。
「わかりません」
「うわ」
「出た」
二人は顔を見合わせて、行った。
行ってから、少し離れたところで「出たってさ」と言っているのが聞こえた。
何が出たのかは、わからなかった。
◇
メイクの部屋に呼ばれた。
鏡の前に座らされて、髪をいじられた。今日は目をつぶらなくてよかった。
台の上に、櫛が三本並べてあった。その横の小さい皿に、黒いピンが山になっている。
「高町くん、今日で最後ね」
「はい」
「三日って早いよね」
「はい」
「わたし、三日の現場は久しぶり」
「はい」
「連ドラだと三ヶ月とかだから」
三ヶ月。
三日で終わる現場と、三ヶ月かかる現場がある。三ヶ月のほうは、弁当が何回出るのかを考えるのをやめた。
「はい、いいよ」
俺は立ち上がった。
◇
昼は、鶏だった。
鮭は来なかった。
鶏は二切れ入っていて、片方に骨がついていた。骨のほうから食べた。
俺は食べた。食べていたら、隣に助監督の人が来て、A4を折った紙を広げた。
「高町くん、午後の頭から長いのやります」
「はい」
「一時間半見てます」
「はい」
「たぶん押します」
「はい」
「押しても、二十二時にはなりません」
その人は笑って、行った。
二十二時という数字を、この現場の人が知っている。誰かが言ったのだと思う。俺の横で、ずっと誰かが電話をしていた。
◇
午後の一本目の前に、三上さんが取調室の中に入ってきた。
俺は椅子に座っていた。三上さんは向かいの椅子に座った。刑事が座る側だった。
「昨日の朝の話、覚えてますか」
「パンの話ですか」
「そう」
「覚えてます」
「今日も同じでいいです」
三上さんは机の上で両手を組んだ。
「一つだけ足します」
「はい」
「この場面の前に、この人は八時間ここにいます」
「八時間」
「途中で一度、水を飲んでます」
「はい」
「以上です」
三上さんは立ち上がって、出ていった。
俺は机の縁を見ていた。
八時間ここにいた人は、たぶん、腹が減っている。
◇
「回します」
スタジオの音が消えた。
消えたあとに、天井の照明がひとつ、じじ、と鳴っているのが残った。
室井さんは、まだ入ってきていない。ドアの外にいる。
「ヨーイ、スタート」
ドアが開いた。
現場の音が、遠のいた。
カメラのモーターの音も、床のパイプ椅子が一つ、誰かに寄せられる音も、床のケーブルを誰かがまたぐ音も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
机の切り口の、木の色が中だけ白いのが見えた。入ってきた人の手が、ドアの縁を上のほうで押しているのが見えた。壁の白が、椅子の背の当たるところだけ薄く汚れているのが見えた。
背筋が、伸びた。
◇
十四行あった。
俺は言った。
言うと、向かいの人が返した。返ってきたら、また言った。
途中で、向かいの人が机に手を置いた。置いた場所が、昨日の段取りより手前だった。手前に来たので、俺は顔を上げた。上げる指示は無い。
向かいの人が黙った。
黙っている時間が、長かった。
俺はそこで、水のことを思い出した。
八時間の途中で、一度、水を飲んでいる。飲んだのは、たぶんこの人が持ってきたものではない。
俺は机の上を見た。何も置いていなかった。
最後の一行を言った。
「……カット」
◇
誰も動かなかった。
カメラの後ろにいた人が、モニターのほうへ首だけ動かした。記録の人が、ペンを持った手を台本の上で止めていた。照明の人が、脚立の上で下を見ていた。
少し離れたところで、有本さんが、口を押さえていた。
俺は椅子に座ったままだった。
――机が、五センチ低い。
腹のあたりに縁が当たっていた。八時間座っていた人も、この高さで座っていた。
俺は椅子から立った。
立って、カメラのほうへ二歩歩いた。
三上さんがモニターから顔を上げた。
「もう一回、お願いします」
◇
言ってから、現場が静かになった。
静かになった、というより、静かなままだった。誰も何も言わなかった。
助監督の人が紙を持ったまま、三上さんのほうを見た。カメラの人がファインダーから顔を離した。制作の人が、持っていた箱を床に置いた。置いたときに、少し音がした。
三上さんは、俺を見た。
「どこが」
「机です」
「机」
「机の高さが変わったので、途中で一回、体が前に出ました」
「出てましたね」
「はい」
三上さんは、モニターをもう一度見た。
「要らないですね、あれ」
それから、助監督の人に言った。
「頭から」
「頭から行きまーす!」
◇
現場が動いた。
動き方が、今日いちばん速かった。
誰かが小走りで壁の裏へ回った。誰かが誰かにテープを投げて渡した。記録の人がページを戻して、指で一行を押さえた。照明の人が脚立から下りてきて、下りたところでもう一人と何か喋って、二人でカポックの角度を五センチ変えた。
俺は取調室に戻って、椅子に座った。
座ったところで、有本さんが小声で犬飼さんに何か言っているのが聞こえた。
「今の、高町さんが言ったんですか」
「言った」
「わたし、初めて聞きました」
「俺もだ」
◇
壁の裏で、二人が喋っていた。
壁は一枚しかない。落とした声が、こっちの椅子まで届いていた。
「あの子、自分で言ったな」
「言いましたね」
「十七だろ」
「十七です」
「俺、十七のとき、あんなこと言えたか」
「言えないです」
「言えないよなあ」
傍から見れば、取調室のセットの中で、次の合図を待って静かに座っている出演者である。
実際には、机の縁が腹に当たっていて、腹が鳴らないかを気にしていた。
◇
二本目を撮った。
俺は途中で体を前に出さなかった。出さないでいたら、向かいの人の顔が、遠かった。
最後の一行まで行った。
「……カット」
少し間があって、三上さんの声がした。
「OKです」
それから、もう一度言った。
「OKです。ありがとうございました」
◇
現場が拍手になった。
拍手は取調室の外で起きていて、中にいる俺には、壁の三面ぶんだけ遠く聞こえた。
壁の一枚が、そのあいだ少し震えていた。裏は薄い板らしい。
俺は立ち上がって、四面目のほうへ歩いた。
歩いたところで、後ろから足音がした。
振り返ったら、室井さんが立っていた。
丸めた台本を持っていない。両手が空いている。この人の両手が空いているのを、俺は初めて見た。
室井さんは俺の顔を、下から見上げた。
十二センチくらい、俺のほうが高い。高いのに、見下ろされている感じがした。
それから、こう言った。
「昨日と違うな」
◇
俺は、頷こうとした。
鼻の奥が、少し変だった。
俺の顔は、動かなかった。
◇
「はい」
出たのは、それだけだった。
室井さんは、手のひらで自分のもう片方の手の甲を一回叩いた。何も持っていない手だった。
それから、行ってしまった。
行く途中で、壁際に置いてあったマグを拾い上げた。拾って、蓋を開けて、飲まずに、また閉めた。
室井さんは、来た方向とは反対側へ歩いていった。そっちに出口は無い。
◇
俺はその場に立っていた。
カメラの後ろで、誰かがヘッドホンを首に下ろした。モニターの前の三人が、誰も画面を見ていなかった。
全員が、こっちを向いていた。
記録の人が、こっちを見ていた。見て、それから台本に顔を落として、何かを書いた。書いてから、また顔を上げた。
俺は自分の靴の先を見た。
右の甲のところが擦れている。九月に付いた擦れだ。まだいける。
顔を上げたら、助監督の人がこっちへ歩いてくるところだった。
「高町くん、上がりです。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「うちの記録が、今日いちばん暇だったって言ってました」
「はい」
「あと、さっきのやつ」
「はい」
「あれ、うちの若いのが四人、袖で見てました」
「はい」
「仕事しないで見てました。あとで怒っときます」
その人は笑って、行った。
怒られる人が四人いるらしい。
腹が減っていた。昼の鶏は、もう遠い。
◇
着替えて、外に出たのは十七時前だった。
廊下を歩いているときに、膝が抜けた。
俺は壁に手をついた。ついた手のひらが、壁の冷たさだけを拾った。指には力が入っていない。腹の底が空いている。まぶたが重い。
「高町」
犬飼さんが横に来た。
「歩けます」
「歩いてみせろ」
「……あとで歩きます」
「そうしろ」
犬飼さんは俺の右側に立った。
「こっちは人が通る」
通らなかった。
俺は壁に手をついたまま、十五分くらいそこにいた。
途中で有本さんが来て、紙コップを差し出した。
「わたし、いつもここで一本飲むんです」
「はい」
「ここ、自販機が近いので」
中身は、甘かった。甘すぎた。
有本さんは、俺の隣に立って、自分のぶんを飲んでいた。二本あったらしい。
「わたし、さっきの、モニターで見てました」
「はい」
「わたし、途中で息を止めてました」
「はい」
有本さんはそこで、いったん言葉を切った。
「言うようなことじゃないんですけど」
有本さんは紙コップを見ていた。
俺は飲み終わって、コップを潰さずに持っていた。潰すと、ゴミ箱までの間に指がべたつく。
◇
そのくらいで、歩けた。
エレベーターまで歩いて、乗って、地上に出た。
エレベーターの中に、荷物用の毛布が畳んで置いてあった。角が一つ、床に落ちている。
外はもう暗かった。建物の上のほうで、赤い灯が一つ点滅していた。
車に乗った。
「放送は今月の十九日だ」
「はい」
「木曜の、二十時から」
「二十時」
「二十一時四十八分までだ」
俺は数字を三つ、頭の中で並べた。並べたところで、眠くなった。
「今日、あの人が何か言ったな」
「言われました」
「なんと」
「一言だけです」
犬飼さんは、ウインカーを出した。
出してから、しばらく何も言わなかった。信号を二つ越えて、三つ目で止まった。
「高町」
「はい」
「あの人が若い役者を褒めたのを、俺は二回しか聞いていない」
「はい」
「一回目は、俺が新人のときに担当していた子だ」
「はい」
「その子は、今もやってる」
信号が青になった。
犬飼さんは車を出した。出してから、こう続けた。
「二回目が今日だ」
「はい」
犬飼さんはポケットに手を入れた。入れて、箱を出して、袋を切らずにポケットへ戻した。
それから、ラジオをつけて、すぐ消した。
俺は窓の外を見ていた。
外は暗くて、看板の字が光っていた。読もうとしたが、一つも読めなかった。目が開いていなかったのだと思う。
◇
起きたら、家の前だった。
玄関を開けたら、廊下の電気がついていた。
妹が階段の下に立っていた。腕を組んでいた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「明日、休み?」
「休みだ」
「腹減ってるでしょ」
「減ってる」
「じゃあ、いいや」
妹は二階へ上がっていった。
上がりながら、途中で振り返った。
「兄ちゃん、十九日って何?」
「なんで知ってる」
「有本さんがお母さんに電話した」
妹は先に知っていた。俺は聞いていない。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
鞄を床に置いた。置いたところで、机の上で、台座が半回転して止まった。
「あんた、今日は喋らないのね」
「喋ってる」
「短いわ」
「短い」
俺は椅子に座った。
「褒められたわよ、あんた」
「見えてないだろ」
「聞こえたの」
ミューナは、少し黙った。
「あの人、褒めるとき、何も足さないでしょう」
「足さない」
「足せる人は、いくらでもいるのよ」
俺は何も言わなかった。
俺は台本を鞄から出した。
「聞こえてないだろ」
「音でわかるって、何回言わせるの」
台本を机に置いた。
五十二ページから最後まで、鉛筆の線が引いてある。線の引いてあるところは、今日で全部終わった。
ページの端の折り目は、伸ばしても戻らなかった。表紙の角が、鞄の中で丸くなっている。
電気を消した。
消して、布団に入ってから、一つだけ思い出した。
――パンの残り、あの朝、全部食べた。




