第46話 三分考えて、寝た
建物を出て、車に乗る前に、後ろから足音が来た。
振り返ったら、三上さんだった。
上着を着ていなかった。十二月の夜に、上着を着ないで外に出てきていた。手には、やっぱり何も持っていない。
「一つだけ、言い忘れました」
三上さんは俺の前で止まった。
止まって、少し息を整えた。走ってきたのだと思う。
「君が演じてるのは、犯人じゃないです」
俺は聞いていた。
「犯人になった人です」
三上さんはそれだけ言って、建物のほうへ戻っていった。
自動ドアが開いて、閉まった。
犬飼さんが運転席のドアを開けて、俺を見た。俺は助手席に乗った。
◇
車が動き出してから、犬飼さんが言った。
「高町」
「はい」
「今の、わかったか」
「わかりません」
「そうか」
俺は前を見ていた。
犯人と、犯人になった人。字が五つ多い。多い五つのぶんだけ、何かが違うらしい。
その五つが何なのかは、わからなかった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「あの人、上着を着ていませんでした」
「着ていなかったな」
「寒いと思います」
「思う」
それで会話が終わった。
◇
高速を降りたあたりで、膝から下が重くなった。
降りるときに、ドアの枠を持った。持って、そのまま降りた。
犬飼さんは俺が門を入るまで車を出さなかった。出さないでいるあいだ、ずっとハンドルに両手を乗せて前を見ていた。
◇
家に着いたのは、二十時二十分だった。
台所で麦茶を飲んでいたら、妹が来た。
「兄ちゃん」
「なんだ」
妹は壁の時計を見た。見てから、俺を見た。
「喋ったの」
「今」
妹はスマホを出して、画面を見て、何か打ち込んだ。
「四分」
「そうか」
妹はスマホを伏せた。
「あたし、今日、九時から見たいのあるんだけど」
「見ろ」
「兄ちゃんは?」
「怒られた」
「えっ」
妹は伏せたスマホを起こしかけて、やめた。
「怒られてないよ、それ」
「怒られた」
「怒る人は、そんな聞き方しないもん」
俺は麦茶を飲み終えて、コップを流しに置いた。
妹は俺のことを何も聞いていないのに、何かを言い当てた顔をしていた。言い当ててはいない。俺は三上さんの聞き方を、まだ妹に話していない。
◇
夕飯は、豚汁と、焼いた鮭だった。
鮭は昼にも食べた。昼のほうが厚かった。俺は何も言わずに食べた。
母さんが茶碗を出しながら言った。
「灯真、あんた、なんの役なんだっけ」
「犯人だ」
「犯人!」
「うん」
「悪い人?」
「たぶん」
「うちの子が」
母さんは笑っていた。笑いながら、二杯目をよそっていた。
父さんが顔を上げた。
「捕まるのか」
「捕まると思う」
「そうか」
それで終わりだった。父さんはまた鮭に戻った。
妹が横から言った。
「お父さん、それネタバレだから」
「……そうか」
父さんは箸を止めて、少し考えて、それからもう一度「そうか」と言った。
うちの食卓に、ネタバレという言葉が出た。
◇
夕飯のあと、インターホンが鳴った。
母さんが出て、玄関で少し喋って、それから俺を呼んだ。
美咲が立っていた。
鞄を肩にかけたままで、片手にクリアファイルを持っている。
「今日の分」
「うん」
「古典と、数学」
「ありがとう」
「数学、来週テスト」
「うん」
美咲はファイルを渡して、それで帰るかと思ったら、帰らなかった。
三和土のところに立ったまま、廊下の奥を見ていた。
「それ」
俺の手のほうを指した。俺はファイルと一緒に、台本を持っていた。二階から下りてくるときに、そのまま持ってきていた。
「台本だ」
「見ていい?」
「いい」
美咲は玄関に立ったまま、ページをめくった。
◇
美咲は、六分くらい黙っていた。
俺は横で待っていた。待っているあいだに、台所で母さんが皿を洗う音がしていた。
美咲がページを戻した。戻して、また進めた。
「これ」
「うん」
「全部あなたが言うの」
「言う」
「二十行、全部?」
「全部だ」
美咲は台本を閉じて、両手で持ったまま、少し下を向いた。
「どこも、大きい声出さないんだね」
「そうなのか」
「そうだよ。全部、普通の声で喋ってる」
俺はページの数を思い出した。五十二から、最後までである。大きい声を出すところがあるかどうかは、考えたことがなかった。
「この人、怖いよ」
「そうか」
「あなたが言うと、もっと怖いと思う」
美咲は台本を俺に返した。
返して、靴を履き直して、玄関を出ていった。
出ていくときに、一度だけ振り返って、こう言った。
「明日、何時起き?」
「四時半」
「……そう」
ドアが閉まった。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
台座が、机の上で小さく鳴った。
「あんた、あの子、変な顔してたわよ」
「見えてないだろ」
「音でわかるの。帰るときの足音が、来たときと違ったわ」
「そうか」
俺は椅子に座って、台本を開いた。
五十二ページから、最後まで。二十行のところに、鉛筆で薄く線を引いてある。線は自分で引いた。行を見つけるのに時間がかかったので、引いた。
「あんた、明日は何をするの」
「歩く」
「歩くだけ?」
「台詞は無い」
「無いのに撮るの」
「撮るらしい」
ミューナは台座の上で、少し体の向きを変えた。
「あの子、何を見て怖がったの」
「台本だ」
「読んだだけで?」
「読んだだけだ」
「じゃあ、よく書けてるのよ」
「そうか」
「書いてある紙が怖いなら、それは書いた人が上手なの。あんたじゃないわ」
俺は頷いた。
頷いてから、美咲が返してきたときに両手だったことを思い出した。
両手で返す理由は、わからない。
ミューナは黙った。
黙ったあとで、台座の上で顎を上げた。
「……いい演出家ね」
「知らん」
俺は台本を閉じて、電気を消した。
◇
布団に入った。
入ってから、三つの質問を思い出した。
朝ごはん。起きた時刻。ここへ来る前に誰かに会ったか。
三つとも、台本に書いていない。書いていないので、決めていいと言われた。
俺は天井を見た。
柏木ユウは、朝、何も食べていない。
いや、食べた。
パンを、半分。
残りの半分は、台所に置いてきた。あとで食べるつもりだった。
起きたのは、四時台だ。パンは、半分でよかった。
誰にも会っていない。玄関を出るときに、外で車の音がしただけだ。
俺は目を閉じた。
置いてきたパンのことを考えたのは、たぶん三分くらいだった。
それから、寝た。
◇
朝、四時半に起きた。
スマホを見たら、メッセージが二件来ていた。
一件目は有本さんで、集合の場所と時刻が書いてあった。
二件目は美咲だった。
時刻は、四時五十二分になっていた。
〈起きてる?〉
俺は〈起きてる〉と打った。
すぐ既読が付いた。
〈私、寝てない〉
〈なんで〉
〈知らない〉
少し間が空いた。
〈行ってらっしゃい〉
それで終わった。
俺は台所に下りて、パンを一枚焼いた。
焼いて、半分食べたところで、手が止まった。
止まったが、理由が思い当たらなかったので、残りも食べた。
台所の電気を消して、玄関に出た。外はまだ暗かった。門のところで車のライトが二回光った。犬飼さんではない。有本さんの小型車だった。
助手席には、いつもの紙束が積んである。俺は後ろに乗った。
「高町さん、今日、犬飼さんはお昼から合流です」
「はい」
「朝いち、局で打ち合わせがあるので」
「はい」
「わたし、運転は犬飼さんより遅いです」
「はい」
「でも、ちゃんと着きます」
ちゃんと着いた。
◇
二日目は、外だった。
都内だった。車で四十分くらい走って、川沿いの道で止まった。まだ暗かった。
制作の人が二回言ったとおり、寒かった。
俺は上を着ていった。着ていったが、衣装に着替えたら意味がなくなった。柏木ユウは薄い上着しか持っていない。
スタッフの人たちが、機材を道の端に並べていた。並べ終わっても、その場から動かない人が何人かいた。
三脚の脚に、緑のテープが一巻き、そのまま巻きつけてあった。巻いた端が浮いていて、風が来るたびに、そこだけが動いていた。
制作の人が、道の両端に一人ずつ立っていた。犬の散歩の人が来ると、頭を下げて、少し待ってもらう。待ってもらっているあいだ、その人はこっちを見る。見て、それから犬を見る。犬はこっちを見ない。
犬は白と茶だった。リードが長くて、長い分だけ道の端まで行って、それから戻ってきた。
テントが一つ張ってあって、中に折りたたみの机があって、その上にポットが二つ置いてあった。
机の脚は片方が短かった。短いほうの下に、紙の束が二つ折りにして挟んである。
俺は紙コップを一つもらった。
中身は白湯だった。
コップは薄くて、持つと指のところが凹んだ。凹ませたまま持っている人が、俺のほかに二人いた。
白湯を配っているのは、俺と同じくらいの背の人だった。ポットの横に立って、コップを人数ぶん並べて、注いで、また並べていた。並べる速さが、注ぐ速さより速い。
「すみません、まだお茶来てないんです」
「はい」
「八時には来ます」
「はい」
白湯を飲んだ。味がしなかった。手だけが温かくなった。
俺はもう一杯もらった。
二杯目は、一杯目より少なかった。ポットを傾ける角度が、途中から深くなっていた。
川のほうから、鳥が三羽まとまって飛んできて、道を横切って、向こうの木に入った。誰も上を見なかった。
◇
三上さんは、道の真ん中に立っていた。
俺が着替えて出ていったら、こっちへ歩いてきた。
「高町くん、聞きます」
「はい」
「朝ごはん、何を食べた?」
「パンを半分です」
「半分」
「残りは、置いてきました」
「なんで」
「あとで食べるつもりでした」
三上さんは、止まった。
眼鏡の位置を直そうとして、直さなかった。
「起きたのは」
「四時台です」
「誰かに会った?」
「会ってません」
三上さんは、二秒くらい黙った。
それから、モニターのほうへ歩いていって、助監督の人に何か言った。
助監督の人が声を張った。
「頭から行きまーす!」
◇
「回します」
道の音が消えた。
川の向こうを走る車の音が、急に聞こえなくなった。鳴ってはいたのだと思う。
「ヨーイ、スタート」
俺は歩いた。
現場の音が、遠のいた。
代わりに、輪郭がはっきりした。道の白線が、途中から引き直されている。
背筋が、伸びた。
俺は歩いた。歩いて、途中で一度、立ち止まった。
立ち止まる指示は、出ていなかった。
「……カット」
◇
誰も動かなかった。
カメラの人がファインダーから顔を離して、三上さんのほうを見た。三上さんは見返さなかった。モニターを見ていた。
録音の人が、ヘッドホンを片方外して、隣の人に何か言った。隣の人は首を振った。
俺は道の上に立っていた。
――足の裏に、砂利が一個入った。
靴の中である。歩いているあいだは気づかなかった。
三上さんが顔を上げた。
「今、なんで止まった?」
「わかりません」
「そう」
三上さんはモニターに戻った。
戻って、二十秒くらい黙って、それから顔を上げた。
「……OKです」
◇
現場が動き出した。
動き出したが、動き方が遅かった。
助監督の人が紙を見て、線を引こうとして、引く場所を探していた。制作の人が箱を運んできて、置く場所を間違えて、置き直した。
カメラの後ろにいた若い人が、隣の人に小声で言った。
「今の、止まりましたよね」
「止まった」
「指示、出てましたっけ」
「出てない」
少し離れたところで、有本さんが立っていた。
タブレットを胸に抱えたまま、動いていなかった。抱えたまま、こっちへ歩いてきた。
「高町さん、今の、すごかったです」
「はい」
「わたし、鳥肌が」
「はい」
有本さんは画面に何か打ち込んで、それから消した。
消して、また打ち込んだ。
◇
昼に、記録の人が俺の横に来た。
台本を開いて、指で一行を押さえていた。
「高町くん、これ」
「はい」
「今の、三本」
「はい」
「歩数、同じです」
「はい」
「同じなんですけど、三本目がいちばん長く見えます」
その人は自分で言って、自分で首をかしげた。
「変ですよね」
「はい」
俺も変だと思った。歩数が同じなら、同じだと思う。
その人は台本に何か書き足して、行った。
行ってから、二歩戻ってきた。
「あと、一つだけ」
「はい」
「わたし、こういうの、たまに書き間違えるんです」
「はい」
「今日は間違えてないと思います。たぶん」
今度こそ行った。
◇
弁当は、車の中で食べた。
外で食べると冷えるので、キャストは車、と決まっているらしい。俺は後部座席で膝に箱を乗せて食べた。運転席に有本さんが座っていて、こっちを向いて喋っていた。
「高町さん、さっき、みなさん言ってましたよ」
「はい」
「みなさん、モニターから離れなかったです」
「はい」
「三上さんが何か言ったんですか?」
「三つ聞かれました」
「三つ?」
「朝ごはんと、起きた時間と、誰かに会ったかです」
「……それだけ?」
「それだけです」
有本さんは口を半分開けたまま、止まった。
止まってから、タブレットを開いて、指を動かしはじめた。
「わたし、それ、明日の予定に足しておきます」
「はい」
「三上さんが、また聞かれるかもしれないので」
「はい」
何の役に立つのかは、聞かなかった。
◇
午後、道の反対側で人が集まりはじめた。
最初は三人だった。三人が五人になって、そのうち一人がスマホを構えて、制作の人が走っていって、頭を下げた。
頭を下げられた人は、スマホを下ろした。下ろして、そのまま立っていた。
俺はテントの下から、それを見ていた。
傍から見れば、テントの下で自分の順番を待っている出演者である。
実際には、あの人たちが立っている場所のほうが日が当たっていて、そっちに行きたいと思っていた。
◇
夕方の分は、荷物を置いて座るところだった。
台詞は無い。座るだけだった。
三上さんは一度も止めなかった。二本撮って、二本目でOKになった。
OKのあとで、三上さんが助監督の人に言った。
「今日、押さないですね」
「押してないです」
「珍しい」
「珍しいです」
二人はそのまま次の話をはじめた。
◇
午後の分を撮り終わって、車に戻る途中で、道の端に人が立っていた。
背が低い。上着の前を開けている。右手に丸めた台本、左手に銀色のマグ。
室井さんだった。
台本の、今日の分に、この人の名前は入っていなかった。
俺は頭を下げた。
室井さんは、頭を下げ返さなかった。
俺の顔を、下から見ていた。動かなかった。
「今日、何を撮った」
「歩くところです」
「台詞は」
「無いです」
「ふん」
室井さんは、道の先のほうを見た。
道の先には、機材を積んでいるトラックと、片付けをしている人たちがいた。日が落ちかけていて、川の水の色が変わっていた。
「明日、二人だ」
「はい」
「長い」
「はい」
室井さんはマグの蓋を開けて、一口飲んだ。
湯気が出ていた。十二月の夕方の、川沿いの道である。
俺は車に乗った。
乗ってから、明日の分のページを開いた。
十四行あった。




