第45話 今度は二十行
台本が届いたのは、月曜の夜だった。
有本さんが車で持ってきて、玄関で渡して、五分で帰っていった。門を出るときには、もう電話をかけていた。「はい、着きました。はい、お渡ししました」と言っていた。誰に何を報告しているのかは、わからない。
俺は部屋に上がって、封筒を開けた。
白い表紙に、題が印刷してあった。
〈捜査一課・沢渡班〉
厚かった。指で挟んだら、指が開いた。
いちばん最初のページに、名前が縦に二列並んでいた。左が役の名前で、右が人の名前らしい。上から順に見ていった。
下のほうに、俺のがあった。
柏木ユウ(十九) 高町灯真
括弧の中は年齢だと思う。俺より二つ上だった。
俺はページを繰って、自分の台詞を探した。
探すのに時間がかかった。ページの端を折りながら進んで、折り終わったところで、頭から数えた。
二十行あった。
犬飼さんが言った数と、同じだった。
◇
俺は椅子に座って、頭から読んだ。
最初の三十ページくらいは、刑事たちの話だった。誰かが死んで、沢渡という人が出てきて、部屋で紙を配って、みんなが出ていく。名前がたくさん出てくる。誰が誰なのかは、五ページで諦めた。
柏木ユウが出てくるのは、五十二ページからだった。
配達のアルバイトをしている男で、途中で刑事に呼び止められる。最初は歩きながら喋る。そのあと、部屋で座って喋る。最後がいちばん長い。
いちばん長いところは、十四行あった。
俺は台本を閉じて、机に置いた。
置いてから、ペン立ての向こうで赤いドレスが動いた。
「あんた、今の顔」
「顔は動いてない」
「動いてないわよ。動いてないけど、置き方が乱暴だったわ」
「厚いからだ」
「役はなんなの」
「犯人だ」
ミューナは台座ごと、こっちへ一度だけ向き直った。台座が机を、かたん、と鳴らした。
「殺したの?」
「わからん」
「わからないって、あんた、書いてあるでしょう」
「書いてあるけど、俺のところには書いてない」
俺の二十行の中に、俺が何をしたのかは書いていなかった。それは、他の人の台詞のほうに書いてあった。
「じゃあ読みなさいよ、全部」
「読んだ」
「頭から読みなさい」
「明日読む」
俺は電気を消した。
◇
夜中に一度、水を飲みに下りた。
階段を下りて、廊下を歩いたところで、妹の部屋のドアが半分開いていた。中で電気がついていた。妹は机に向かっていて、こっちに背中を向けていて、タブレットではなく、本を開いていた。
俺はそのまま台所へ行った。
◇
翌日、学校で熊沢が俺の机に来た。
「高町、明日休みだろ」
「休みだ」
「なんで知ってるかっていうとな」
「聞いてない」
「委員長が黒板に書いてた」
振り返ったら、黒板の端に小さく書いてあった。
〈12/11(水)〜13(金) 高町 公欠〉
字が小さい。小さいのに、教室のいちばん後ろからでも読める場所に書いてある。
「で、今度は何やんの」
「刑事ドラマだ」
「刑事!?」
「刑事じゃない」
「じゃあ何」
「犯人だ」
熊沢は三秒くらい黙って、それから両手で自分の口を押さえた。
「うわ、似合う」
似合うと言われた。
顔の話をしている。
昼休みに、早坂が机の横に来た。
「犯人って、悪い人だよね」
「たぶん」
「大丈夫なの?」
「何がだ」
「なんか、その、イメージとか」
俺には守るイメージがない。
「大丈夫だ」
「そっか。ならいい」
早坂は自分の席に戻って、後ろの席の子に何か言って、笑っていた。
◇
その日の夕飯は、ちらし寿司だった。
妹が十五歳になった日だった。母さんが朝から機嫌がよくて、父さんが箱を一つ渡して、妹が中を見て「これじゃない」と言って、それから普通に受け取った。
俺は皿を二回おかわりした。
妹は自分の皿を持ったまま、俺の向かいに座って、こう言った。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「明日から三日、休むんでしょ」
「休む」
「何時に帰ってくる?」
「知らん」
妹は箸を置いて、スマホを触った。触ってから、また箸を持った。
「じゃあ、待たない」
「寝ろ」
「寝る」
◇
水曜の朝、六時に犬飼さんの車が来た。
助手席に乗ったら、ドアポケットに胃薬が二つ入っていた。三つ入っていた日もある。減っているのか、まだ買っていないのかは、俺にはわからない。
車は空いていた。犬飼さんは前だけを見ていた。
高速に乗ったところで、犬飼さんが口を開いた。
「高町」
「はい」
「今日から三日だ」
「はい」
「初日と最終日がスタジオ。二日目が外だ」
「はい」
「木曜の八時からの枠に乗る。二時間ある」
「二時間」
「途中で切れない。一回で終わる」
俺は前を見ていた。
二時間のドラマというものを、俺は最後まで見たことがない。母さんが見ているのを、途中まで見て、そのまま風呂に入ったことなら何度かある。犯人が誰なのかは、翌朝、母さんが教えてくれる。
「犬飼さん」
「なんだ」
「二時間、途中で寝る人がいると思います」
「いる」
「はい」
「だから、頭の三十分で捕まえるように作ってある」
俺の出るところは、五十二ページからだった。
――昼飯は、何時になるんだろう。
赤坂で降りた。
建物が大きかった。ガラスが上まで続いていて、上のほうがどこで終わっているのかが、下から見てもわからない。入口で犬飼さんが受付に何か言って、俺は首から下げる札をもらった。
エレベーターで下りた。上ではなく、下だった。
廊下が長かった。壁が灰色で、床にケーブルが何本も這っていて、それを踏まないように歩く。突き当たりに、重い扉があった。扉の横に数字が書いてあった。
4
犬飼さんが扉を押した。
中は、思ったより暗かった。
◇
スタジオの床は、黒かった。
天井が高い。高いところに鉄の棚が組んであって、そこから照明が何十個も下を向いている。数えようとして、二十で諦めた。
床の真ん中に、部屋が建っていた。
建物の中に、部屋が建っている。壁が三面あって、四面目がない。四面目がないほうに、カメラが置いてある。中に机が一つと、椅子が二つ。壁は白くて、上のほうに小さい窓が一つある。窓の外は、壁だった。
「取調室だ」
犬飼さんが言った。
「はい」
「二日目と三日目は、ほとんどここだ」
「はい」
俺は部屋の中を見た。
机の脚に、養生テープが貼ってあった。床にも貼ってあった。テープの色が二種類ある。
◇
顔合わせは、スタジオの隅の長机でやった。
人が二十人くらい立っていた。俺は名前を呼ばれて、頭を下げた。
列の向こうに、背の低い人が立っていた。
立ったまま、右手に丸めた紙を持っていた。左手には銀色のマグを持っている。
俺は列を離れて、そっちへ行って、頭を下げた。
「室井さん、おはようございます」
その人は俺のほうを見た。
「ああ」
それだけだった。
俺が列を離れたのは、どこに立てばいいのかがわからなくて、知っている顔のほうへ寄っただけだった。
それだけだったが、俺は台本の一ページ目を思い出した。二列に並んだ名前の、上のほうにこの人の名前があった。役のところに、ちゃんと名前が付いていた。
前の現場では、この人の役は「男」だった。
◇
「高町くん」
声がした。
振り向いたら、若い人が立っていた。若いと言っても、犬飼さんくらいだと思う。眼鏡をかけていて、上着を着ていない。手に何も持っていない。この現場で、何も持っていない人を初めて見た。
「三上です。演出やります」
「よろしくお願いします」
「座って」
長机の端に台本が広げてあった。俺は座った。
本読みは一時間半かかった。
みんな座ったまま、順番に読んでいく。読むだけである。誰も立たないし、誰も動かない。ページをめくる音が、二十人ぶん、少しずつずれて鳴る。
俺の番が来て、俺は自分の行を読んだ。読み終わったら、次の人が読んだ。
誰も俺を見ていなかった。全員が自分の台本を見ていた。
終わったあとで、三上さんが立ち上がって、二か所だけ直した。
一か所は言葉の順番で、もう一か所は、ある人の台詞をまるごと消した。消された人が「はい」と言って、線を引いた。
どちらも俺のところではなかった。
◇
休憩のあいだに、制作の人が俺のところへ来た。
名札を首から下げていて、その名札が裏返っていた。この現場に来て、俺はまだ誰の名前も読めていない。
「高町くん、控え室こっちです」
「ありがとうございます」
「あと、二日目の外なんですけど」
「はい」
「朝、寒いです」
「はい」
「本当に寒いです。上、着てきてください」
「はい」
その人は同じことを二回言った。二回目のほうが、大きかった。
◇
有本さんが、タブレットを持って寄ってきた。
「高町さん、今日の予定、上から読みますね」
有本さんは画面を指でなぞりながら、時刻と項目を読み上げた。八つあった。八つ目は〈終了〉だった。
「終了のところ、時間が書いてないです」
「そこは、書けないんです」
「はい」
「書くと、その時間に終わらないといけなくなるので」
「はい」
有本さんは画面を消して、走っていった。
走りながら、もう電話をかけていた。
◇
昼の弁当は、白い箱だった。
白い箱と、別の箱がある。俺は白いほうを渡された。
開けたら、鮭が入っていた。
食べていたら、隣に助監督の人が座った。
「高町くん、それ白いやつ?」
「はい」
「うちのは真ん中に梅が入ってんの」
「はい」
「見せて」
「どうぞ」
その人は俺の箱を覗いて、それから「同じだ」と言って、自分の箱に戻った。
同じだった。
俺は食べながら、少し離れたところを見ていた。制作の人たちが箱を積んだり配ったりしていて、その端で、室井さんが立ったまま何かを飲んでいた。座らない。椅子は、そこにある。
俺の椅子には、紙が貼ってあった。
〈高町灯真様〉
紙の横幅がぎりぎりで、最後の一画がテープの上に乗っている。
◇
午後から撮った。
最初は、廊下を歩くところだった。柏木ユウが荷物を抱えて歩いてきて、刑事に呼び止められて、止まる。台詞は二行。
段取りをやった。
助監督の人が床にテープを貼って、俺はそこまで歩いた。三上さんが端から見ていて、一度だけ止めた。
「高町くん、荷物」
「はい」
「重いです、それ」
「はい」
「中、空っぽですけど、重いです」
「はい」
俺は持ち直した。
「そう。そのまま」
三上さんはモニターのほうへ戻った。
何が変わったのかは、わからなかった。
鞄はスタジオの隅に置いてある。置いた場所から声がした。
「あんた」
(うん)
「あの若いの、いい目してるわ」
(そうか)
「四十年前はね」
(あとにしろ)
「回します」
スタジオの音が、消えた。
「ヨーイ、スタート」
俺は歩いた。
現場の音が、遠のいた。
空調の音も、天井の鉄の棚が軋む音も、外の廊下を誰かが台車で通る音も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
床の黒い塗料が、歩く場所だけ薄くなっているのが見えた。抱えている段ボールの、角が一つだけ潰れているのが見えた。呼び止めた人の靴の紐が、右だけ結び方が違うのが見えた。
背筋が、伸びた。
俺は止まった。
「……はい」
言った。
「配達です」
言った。
「カット」
◇
カメラの後ろの人が下を向いていた。モニターの前の人が三人、誰も顔を上げなかった。記録の人が、ペンを持った手を止めていた。
俺は段ボールを抱えたまま立っていた。
――角が、思ったより柔らかい。
中身が入っていないのだと思う。
「今の、無しで」
三上さんの声だった。
◇
現場が、動いた。
動いたが、動き方が変だった。何人かが顔を上げて、モニターのほうを見て、それから三上さんのほうを見た。誰も何も言わなかった。
「もう一本」
三上さんが言った。
俺は元の位置に戻った。
二本目を撮った。三本目も撮った。三本目のあとで、三上さんが手を上げた。
「ちょっといいですか」
三上さんは、俺のところへ歩いてきた。
歩いてきて、俺の正面に立った。俺のほうが背が高い。この人は、それを直そうとしなかった。見上げたままで喋った。
「三つ、聞きます」
三上さんは指を一本立てた。
「この人、今日の朝ごはん、何を食べた?」
俺は考えた。
書いていない。五十二ページから最後まで、朝ごはんのことは一行も書いていない。
「……わかりません」
二本目。
「この人、何時に起きた?」
これも書いていない。
「わかりません」
三本目。
「この人、ここに来る前に、誰かに会った?」
俺は台本のページを頭の中でめくった。会っていない。会ったとも、会っていないとも、書いていない。
「わかりません」
三上さんは指を下ろした。
◇
スタジオが静かだった。
少し離れたところで、犬飼さんがこっちを見ていた。有本さんはタブレットを胸に抱えたまま止まっていた。
三上さんは、怒っていなかった。
声も大きくしなかった。眼鏡の位置を一度直して、それから言った。
「わからないなら、決めていいです」
「はい」
「決めれば芝居になります。合ってなくてもいい」
「はい」
「合ってるかどうかは、僕が決めるので」
「はい」
三上さんは腕時計を見た。
「今日はここまでにします。明日、外です」
「はい」
「明日、もう一度、同じ三つを聞きます」
三上さんはそう言って、モニターのほうへ戻っていった。
戻りながら、助監督の人に何か言った。助監督の人が紙にペンで線を引いた。
◇
犬飼さんが、こっちへ歩いてきた。
歩いてくる途中で、有本さんが横から追いついて、何か言った。犬飼さんは足を止めずに、短く二言だけ返した。有本さんはそこで止まって、タブレットを持ち直した。
犬飼さんは俺の前まで来て、立った。
「わかったか」
「わかりません」
「そうか」
犬飼さんはそれ以上聞かなかった。
聞かずに、ポケットから箱を出した。出して、振って、中の数を確かめてから、一つだけ口に入れた。
少し離れたところで、有本さんがタブレットを開いて、指で画面を叩いていた。叩いて、消して、また叩いていた。
叩くのをやめて、電話をかけた。
俺のところまでは、内容は聞こえなかった。声の高さだけが、途中から変わった。変わってから、二回、頭を下げていた。電話の相手には見えない。
◇
室井さんが、通路を通った。
通るときに、俺のほうを見た。見て、そのまま行った。何も言わなかった。
行った先で、壁に寄って立った。丸めた台本を、伸ばして、また丸めた。
俺はそれを見ていた。
見ていて、腹が減っているのに気づいた。昼の鮭は、そろそろ切れかけている。
◇
俺は椅子に戻って、座った。
座ったら、立てなくなった。
膝から下が、自分のものではなくなっていた。手すりのない椅子だった。俺は背もたれに背中を預けて、そのままでいた。
通りかかった記録の人が、足を止めた。
「さっきの、廊下」
「はい」
「三本とも、止まる場所が同じでした」
「はい」
「同じって、けっこう難しいんですよ」
その人は台本を指で押さえて、行った。
◇
スタジオを出るとき、扉のところで三上さんとすれ違った。
三上さんは俺を見なかった。助監督の人と喋りながら歩いていて、その手には、やっぱり何も持っていなかった。
「明日、朝いちで柏木の前を撮ります」
「前、ですか」
「呼び止められる前です。歩いてるだけのところ」
「台詞、無いですよね」
「無いです。だから撮ります」
二人は行ってしまった。
台詞の無いところを撮る理由は、わからなかった。
俺は廊下に出た。
廊下が長かった。床のケーブルを、一本またいだ。
壁に手をついて、少し立ち止まった。
手のひらが、ざらついた。
傍から見れば、廊下の途中で壁を触っている高校生である。
実際には、明日の朝が何時なのかを思い出そうとしていた。思い出せなかったので、あとで有本さんに聞くことにした。
◇
エレベーターの前で、犬飼さんが待っていた。
鞄を提げて、壁のほうを向いて立っていた。上着の肩に、埃が一つ付いていた。
扉が開いた。
乗って、扉が閉まって、数字が上がっていくあいだ、犬飼さんは何も言わなかった。
地上に着いた。
外に出たら、風が冷たかった。制作の人が二回言ったのは、こういうことかもしれない。
鞄の中で、台本が重かった。
明日は、朝ごはんの話から始まるらしい。




