第44話 妹が学校で有名になった
玄関に、知らない靴が三足あった。
全部ローファーで、全部同じ形で、全部小さい。うちの中学の指定のやつだ。妹のもその横に並んでいた。四足が、きれいに揃えて置いてある。
うちの家で靴を揃えるのは母さんだけである。母さんは今、パートで六時まで帰らない。
俺は自分の靴を脱いで、揃えずに上がった。
廊下を三歩歩いたところで、リビングから声がした。
「あ」
「え」
「うそ」
「うそでしょ」
四人ぶんの声だった。
俺はリビングの入口で止まった。
床に、女子が三人座っていた。三人ともタブレットを覗き込んでいて、その真ん中に妹がいた。妹は振り返りもせずに言った。
「兄ちゃん、五時半って言ったじゃん」
「四時五十分だ」
「早い」
「学校が終わったんだ」
三人が同時に立ち上がった。
立ち上がって、そのまま動かなかった。
俺は台所へ行って、冷蔵庫を開けた。麦茶を出して、コップに注いだ。
背中に、六個の目があるのがわかった。
◇
三人は結局、一時間半いた。
その間、俺は二階にいた。二階にいたのだが、話し声は全部聞こえた。うちの家は床が薄い。
「これが五月」
「うそ、この動画から?」
「そう。四十万」
「四十万!?」
「で、これが九月のCM」
「二秒のやつでしょ、知ってる」
「二秒。ちょうど二秒」
正確でなくていい。
「で、十月がドラマ」
「見た見た。あの、隣の部屋の子」
「あれ、切り抜きのほうが伸びてるから」
「なんで?」
「短いから」
妹は即答した。
しばらく、下で三人が別の動画の話をしている音がした。
◇
六時に母さんが帰ってきて、三人は帰っていった。
帰り際に、三人が階段の下から俺のほうを見上げた。俺は廊下に出ていた。
「あの、」
真ん中の子が言った。
「サインとか、」
「持ってない」
「持ってない?」
「書き方を知らない」
三人は顔を見合わせて、それから「かっこいい」と言った。
書き方を知らないと言っただけである。
◇
三人が帰ったあと、妹はリビングの床に戻って、タブレットを開いた。
俺は麦茶のコップを持って、その前に立った。
「おい」
「なに」
「学校で何を言った」
「兄が高町灯真ですって言った」
「誰に」
「全校集会のあと、体育館で」
俺はコップを持ったまま、少し黙った。
「なんで体育館で」
「聞かれたから」
「誰に」
「三人くらいに。そのあと十人くらいに。そのあとは、もう全員」
妹は画面を触りながら答えた。指は止まらなかった。
「否定する選択肢は無かったのか」
「無いよ」
「なんで」
「本当だから」
言い切った。
妹は画面から目を上げなかった。
「兄ちゃん、困ってる?」
「困ってない」
「顔、動いてないもんね」
「動かん」
「じゃあ困ってない」
結論の出し方が雑である。
だが、結論そのものは合っていた。
◇
夕飯のときに、母さんが言った。
「ひなた、面談だったんでしょ」
「うん」
「先生、なんて」
妹は箸を持ったまま答えた。
「志望校、そのままでいいって」
「それだけ?」
「あと、最近有名ですねって言われた」
「有名?」
母さんが俺を見た。俺は味噌汁を飲んでいた。
「あたしが」
妹が言った。
「うちの学年で、あたしのこと知らない子いないよ」
「なんで」
「兄推しだから」
父さんが顔を上げた。
上げて、こう言った。
「なんだそれは」
「兄を推してるの」
「推す」
「応援すること」
「ああ」
父さんは頷いて、それで終わりだった。
そのまま魚に戻った。
◇
次の週の火曜に、妹の中学から家に電話が来た。
母さんが取った。俺は台所で麦茶を飲んでいた。
「――はい。はい。……ええ、はい」
母さんの声が、途中で少し高くなった。
「ええ。ええ、そうなんです。ええ」
三分くらい話して、電話が切れた。
母さんは受話器を戻して、しばらくそこに立っていた。
「なんて」
「ひなたの先生」
「怒られたのか」
「ううん」
母さんはエプロンで手を拭いた。
「受験には影響していません、って」
「それだけか」
「それだけ。……のはずだったんだけど」
母さんは台所に戻ってきて、鍋の蓋を開けた。
「最後に、先生が」
「うん」
「『第六話、見ました』って」
俺は麦茶を飲んだ。
「学校の先生が言うことか、それ」
「言うことじゃないと思う」
母さんは鍋をかき回した。かき回してから、こう続けた。
「でも、あの先生、ひなたのこと三年間見てるのよ。それが、あんたのドラマの話を三十秒したの」
母さんはそこで、少しだけ笑った。
「ひなた、面談のときも先生に、あんたの話を十分したらしいよ」
十分。
三者面談は十五分である。
◇
翌日、学校で熊沢が俺の机に来た。
来て、スマホをこっちに向けた。
「これ、お前の妹?」
「そうだ」
「俺、フォローした」
「なんでだ」
「なんかもう、してた」
してた、では説明になっていない。
昼休みに、早坂も来た。早坂はスマホを出さずに、机の横に立って、言いにくそうに切り出した。
「あのさ、高町くんの妹の」
「見たのか」
「うちのクラス、たぶん半分見てる」
「半分」
「ていうか、あたしも見た」
早坂は自分の指先を見ていた。
「五月のやつ、あの動画」
「うん」
「あの動画が、いちばん最初のとこに置いてあった」
俺は早坂の顔を見た。
早坂は顔を上げなかった。
「あれ、あたしが撮ったやつ」
「そうだな」
「あの子、知ってるのかな」
「知らないと思う」
早坂は少し黙って、それから「そっか」と言った。
言って、自分の席に戻った。
戻る途中で、後ろの席の子に何か言われて、笑っていた。声が教室の端まで届いた。
◇
放課後、校門の外に中学生が四人立っていた。
うちの中学の制服だった。四人とも鞄を前に抱えて、校門の柱の陰に固まっていた。
俺は自転車を押して出た。
四人は俺を見て、一斉に鞄で顔を隠した。隠したまま、指の隙間からこっちを見ていた。
美咲が横から出てきた。
「何年生?」
「二年です!」
「ここ、高校」
「知ってます!」
「じゃあ、次からは駅の改札で待って」
「はい!」
「そこなら、うちの生徒が固まらないから」
「はい!」
「じゃあ帰って」
「はい!」
四人は走っていった。
美咲は四人の背中を見送ってから、俺のほうを向いた。
「当番表、中学まで伸ばすことになる」
「やめてくれ」
「冗談」
「冗談か」
「半分」
◇
その日の帰りに、美咲が横に並んだ。
昇降口から校門まで、百メートルもない。
「妹さんの、見た」
「そっちも見たのか」
「クラスで見てないの、たぶんあなただけ」
「見る必要がない」
「なんで」
「あの動画に映ってるのは俺だ」
美咲は少し笑った。笑って、すぐ戻した。
「よくできてたよ」
「そうか」
「日付が全部入ってる。放送日と、時間と、あなたが映ってた秒数」
「秒数」
「秒数」
俺は自転車の鍵を出した。
「あの子、ちゃんと数えてる」
美咲はそう言って、先に校門を出ていった。
◇
家に帰ったら、妹がリビングにいた。
床に座って、タブレットではなく、紙のノートを開いていた。
帰った時間を書くやつではない。表紙が青い。
珍しい。
俺はその後ろを通ろうとした。妹が足を伸ばして、通路を塞いだ。
「第六話、見た?」
「見てない」
放送は金曜の深夜で、俺はその時間、寝ていた。
妹はノートを持ち上げて、こっちに向けた。
線が引いてあって、その上に数字が並んでいた。日付と、放送時間と、秒数。字が細かい。
「第一話、七行」
妹は言った。
「第六話、二行」
俺は数字を見た。
「台本は三行あった」
「そう書いてある」
「そうか」
妹はノートを膝に戻した。
「それ、あたし、数えたから」
「そうか」
「兄ちゃんは数えなくていいよ」
「数えてない」
「うん」
妹はノートを閉じて、その上に手を置いた。
俺は立ったままそれを見ていた。
――足が、どいてくれない。
◇
その夜、俺は一度だけ、妹のやつを見た。
見たのは、たまたまである。母さんがリビングのテレビにタブレットをつないで、父さんと二人で見ていた。俺は麦茶を取りに下りて、そこで足を止めた。
画面に、俺がいた。
うちの台所だった。俺はジャージを着ていて、カレーを食べていた。角度が低い。床のあたりから撮っている。
画面の下に、字が出た。
〈二日目のカレーを食べる兄〉
俺は麦茶を注ぐのをやめて、画面を見た。
画面の中の俺は、無言でカレーを食べていた。一口食べて、皿を少し回して、また一口食べた。
字が出た。
〈皿を回すのは、じゃがいもの位置を調整しているからです〉
合っている。
だが、それを説明されるのは、初めてだった。
母さんが「あら、ほんとだ」と言った。父さんは腕を組んで、画面を見ていた。
次の場面になった。俺が皿を洗っていた。撮られた記憶がない。
〈洗い物は必ず兄がやります。この家のルールではなく、兄が勝手にやっています〉
勝手にやっている。
やっているが、それを日本中に言わなくていい。
俺は麦茶を注いで、二階に上がった。
上がりながら、後ろで母さんが「はじめから見る?」と言うのが聞こえた。
父さんが「おう」と言った。
◇
十二月の最初の週に、犬飼さんがうちに来ることになった。
仕事の話を、親に直接するためである。前にもらった契約書のときは事務所でやった。今回は家でやるらしい。
母さんは前の日から準備をしていた。
「灯真、この座布団と、こっちの座布団、どっちがいい」
「わからん」
「お客さん用の湯呑み、どこにしまったっけ」
「わからん」
「あんた、少しは手伝いなさい」
俺は座布団を運んだ。
座布団は四枚あって、そのうち二枚だけ色が違った。違うほうが客用らしい。
当日、犬飼さんは十九時ちょうどに来た。
インターホンが鳴って、母さんが出て、玄関で挨拶があって、リビングに通された。犬飼さんはスーツで、鞄を一つ持っていた。座布団に座って、鞄から書類を出した。
母さんが出した湯呑みには蓋が付いていた。犬飼さんは蓋を取って、湯呑みの横に伏せて置いた。
テーブルの向こうに、父さんと母さんが並んで座った。
俺は横に座った。
妹は、部屋の隅に座っていた。呼ばれていないのに、いた。
◇
話は三十分くらいで終わった。
撮影の日程と、学校を休む日が何日あるか、休む日はどうやって埋めるか、という話だった。犬飼さんは全部を一つずつ説明して、そのたびに「学業が優先です」と言った。三回言った。
母さんは頷きながら聞いていた。父さんは腕を組んで、一度も口を挟まなかった。
母さんは途中で二回、台所へ立った。一回目はお茶を持ってきて、二回目は何も持たずに戻ってきた。
「学校のほうへは、こちらから連絡したほうがいいんでしょうか」
「うちからします」
「あ、そうですか」
「担任の先生のお名前だけ、あとで教えてください」
「宮坂先生です」
母さんが即答した。父さんが少しだけ母さんのほうを見た。
最後に、犬飼さんが書類を鞄にしまった。
しまって、それから、部屋の隅のほうを見た。
「妹さん」
妹が顔を上げた。
「さっきから、ずっと何か書いていますね」
妹は膝の上のノートを見て、それから犬飼さんを見た。
「書いてます」
「見せてもらっても?」
妹はノートを持って立ち上がって、テーブルまで来た。
来て、犬飼さんの前に置いた。置いてから、こう言った。
「妹さんじゃなくて、ひなたです」
犬飼さんは、少し間を置いた。
息を吸う音が、電話のときと同じだった。
「ひなたちゃん」
妹は頷いた。
頷いて、ノートを一ページめくった。
◇
犬飼さんは、そのノートを二分くらい見ていた。
途中で、指で一行を押さえて、こう言った。
「これは、何の数字ですか」
「放送日と、放送時間と、兄ちゃんが映ってる秒数と、台詞の行数です」
「全部?」
「五月から全部」
犬飼さんはページを戻した。戻して、また進めた。
「五月というと」
「教室の動画からです」
「あれは仕事じゃない」
「仕事じゃないけど、始まりなので」
犬飼さんはページを見たまま、少し黙った。
それから、ノートを閉じて、妹のほうへ両手で戻した。
「うちにも、こういう表があります」
「へえ」
「作っているのは、大人が三人がかりです」
妹はノートを受け取って、胸に抱えた。
抱えて、それから、こう言った。
「三人もいらないと思います」
母さんが「ひなた」と言った。
犬飼さんは何も言わなかった。
言わずに、少しだけ顎を引いた。頷いたのだと思う。角度が浅かった。
◇
玄関まで見送りに出た。
俺と、妹の二人である。母さんは湯呑みを片付けに台所へ行っていた。
犬飼さんは靴を履いて、それから振り返った。
「高町」
「はい」
「次の現場は、今までと違う」
「はい」
「役が違う」
犬飼さんは鞄を持ち直した。
「今までは、隣の部屋にいる高校生だった。今度は、二時間のドラマの、犯人だ」
犯人。
「台詞は二十行ある」
二十行。
「一話の七行の、三倍近い。覚えられるか」
「覚えられます」
「そうか」
犬飼さんはドアに手をかけて、そこで一度止まった。
止まって、妹のほうを見た。
見て、何も言わずに出ていった。
妹は何も言わなかった。
言わずに、ノートを抱え直した。抱え直した手が、少し強くなっていた。
ドアが閉まった。
妹は玄関に立ったまま、ドアを見ていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「あの人、名前で呼んだ」
「呼んだな」
「一回」
「一回だな」
妹はノートを抱えたまま、廊下を歩いていった。
歩き方が、いつもより速かった。
母さんが台所から顔を出した。
「ひなた、お風呂」
「あとで」
「先に入りなさい」
「あとで!」
妹は二階へ上がっていった。
母さんは俺のほうを見て、湯呑みを持ったまま言った。
「あの子、機嫌いいわね」
「そうか」
「わからないの?」
「わからん」
母さんは台所へ戻っていった。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
返事をする前から、もう喋っていた。
「あの子、いいわね」
「どの子だ」
「妹よ」
「そうか」
「数える子は、伸びるわ」
ミューナは台座の縁から足を出して、そう言った。
俺は椅子に座った。
「あんたは数えないの」
「数えない」
「なんで」
「面倒だ」
ミューナは黙った。
黙ったまま、台座の上で一度、足を踏み替えた。
「……まあ、いいわ」
◇
夜、階段の下から音がした。
降りていったら、リビングの電気がついていた。
妹が床に座って、ノートを開いていた。
妹は定規を当てて、線を引いていた。
横の線を、上から順に引いていく。一本、二本、三本。
俺は階段の途中で立ち止まって、それを見ていた。
妹は線を引き終わって、鉛筆を置いた。
置いてから、下敷きを入れ直して、ページを一枚めくった。
俺は二階に戻った。
戻って、布団に入って、目を閉じた。
目を閉じたところで、思い出したことがあった。
――あのノート、二十行ぶん引くには、ページが足りないんじゃないか。
俺が見たページには、線が十本しか入らなかった。
俺は寝た。




