第43話 人生でいちばん楽な三日間
前の晩に、犬飼さんからトークが来た。
〈明日から三日、何も入れていない〉
〈連絡もしない〉
〈行ってこい〉
三行だった。
俺は〈はい〉と返した。既読が付いて、それきりだった。
スマホを机に置いた。ドアは閉まっていた。閉めたのは、妹が勝手に入ってくるからだ。
机の右奥で、何かが倒れた。
「なにそれ」
「修学旅行だ」
「なにそれ」
「学校の行事だ。二泊三日で、京都と奈良に行く」
「奈良!」
ミューナが台座の上で一歩前に出た。
「わたし、奈良で三日ロケしたことあるわ。あのころの奈良はねえ」
「あのころっていつだ」
「四十年前よ」
「たぶん変わってる」
「鹿は変わらないわよ」
そこは、たしかにそうかもしれない。
◇
朝、玄関で靴を履いていたら、妹が下りてきた。
手にミューナを持っていた。
「おい」
「持ってきなよ」
「なんでだ」
「験担ぎ」
「何の験だ」
妹は答えずに、俺のボストンバッグの外ポケットのファスナーを開けて、そこにミューナを突っ込んだ。突っ込んで、閉めた。
「潰れるだろ」
「タオル巻いた」
巻いてあった。
妹は玄関の段に座って、こっちを見上げた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「おみやげ」
「わかった」
「甘いやつ」
妹はそれだけ言って、二階へ戻っていった。
◇
東京駅に集合したのが七時半で、新幹線に乗ったのが八時ちょうどだった。
席は班ごとに決まっていた。俺の班は六人で、熊沢と、美咲と、早坂と、あと男子が一人と女子が一人である。男子のほうは同じクラスで、二年間で三回くらい喋ったことがある。女子のほうは名前しか知らない。
三人掛けが前後で向かい合っていた。
熊沢は乗った瞬間に弁当を開けた。
「早くないか」
「新幹線は乗ったら食うんだよ」
「八時だぞ」
「新幹線に時間は関係ない」
言い切った。
俺は窓際に座って、外を見ていた。ビルが減って、家が増えて、そのうち畑になった。
二十分くらいで、熊沢が寝た。
三十分くらいで、俺も寝た。
目が覚めたら名古屋だった。
◇
京都で降りて、そこからバスで奈良へ行った。
バスは学年で五台出ていた。うちのクラスは三号車である。ガイドさんがマイクを持って、道の左右のことを喋ってくれた。
俺は喋りを聞きながら、シートに背中をつけていた。
バスのシートは、車の助手席より柔らかかった。頭を乗せるところが高い位置にあって、頭を乗せたら、首が動かなくなった。
――これは、寝るためのやつだ。
俺は寝た。
起きたら奈良公園だった。
◇
大仏を見た。
でかかった。
感想はそれで終わりだった。
周りの人間はもっといろいろ言っていた。「思ったより大きい」「柱の穴くぐりたい」「あれ、手の形に意味あるらしいよ」。俺は「でかい」と思った。それ以上は出てこなかった。
美咲が横に来た。
「感想は」
「でかい」
「うん」
「以上だ」
「知ってた」
美咲は自分のしおりを開いて、何かを書き込んでいた。班長の欄がある。
外に出たら、鹿がいた。
鹿は、思っていたよりも人を見ていなかった。人ではなく、人の手を見ていた。
俺は手に何も持っていなかったので、目の前の一頭は横を向いた。
熊沢が鹿せんべいを買って、三秒で全部持っていかれていた。
「高町! 助けて!」
「無理だ」
「囲まれてる!」
「せんべい捨てろ」
「もったいない!」
熊沢はせんべいを持ったまま、後ろ向きに歩いていた。
俺は少し離れたところに立って、それを見ていた。
早坂がスマホを構えていた。構えて、熊沢を撮っていた。俺のほうには向けなかった。
◇
夕方に、京都の旅館に入った。
木の階段があって、上る途中で二回、板が鳴った。どっちも、乾いた音だった。
部屋は六人だった。班とは別の分け方で、男子だけである。畳の部屋に、テーブルが一つ置いてあって、布団は押し入れに入っていた。
窓を開けたら、隣の建物の壁が見えた。
風呂は大浴場だった。
入ったら、他のクラスの男子が十人くらいいた。湯の中で誰かが「高町だ」と言った。言ったが、それだけだった。全員が湯に浸かっていて、全員が別の話をしていた。
俺は肩まで浸かった。すぐに顔が熱くなったので、上がった。
熊沢はまだ入っていた。
◇
夕飯は広間で食べた。
人数分の膳が並んでいて、真ん中に鍋がある。俺の膳の鍋は、火をつけて七分待つやつだった。
七分待った。
待っている間に、熊沢が自分のぶんの飯を食い終わっていた。
「お前、鍋は」
「待ってる」
「鍋が来る前に飯が無くなるだろ」
「おかわりする」
この男には計画性がない。無いが、困っていない。
俺は鍋を食べた。うまかった。豆腐と、鶏と、白菜が入っていた。
おかわりは二回した。
◇
九時に、先生の見回りが来た。
宮坂先生だった。廊下から顔だけ入れて、部屋を見て、それだけで行った。何も言わなかった。
九時半に、消灯の放送が入った。
布団を六つ敷いたら、部屋の床が全部埋まった。俺のところは窓際で、頭の上に窓がある。
俺は布団に入った。
入って、目を閉じた。
周りでは、まだ全員が起きていた。
「なあ、誰か好きな子いる?」
「出た」
「出たな」
「高町は?」
「寝てる」
「早すぎだろ」
俺は寝ていなかった。寝ていなかったが、返事をすると起きていることがばれるので、黙っていた。
そのとき、枕元のボストンバッグの中から声がした。
「ちょっと」
俺は目を開けなかった。
「ねえ、ちょっと」
(寝てる)
「暗いのよ、ここ」
(ファスナーが閉めてある)
「開けなさいよ」
(無理だ)
「なんでよ」
(鞄から人形を出す高校生になる)
「いつもいるじゃないの」
いつもとは違う。いつもは机の右奥に置いてある。今は、六人が同じ部屋で寝ていて、そのうち三人はまだ喋っている。
「京都なのよ。前に来たときは、まだ市電が走ってたわ」
(見えないだろ、鞄の中じゃ)
「見えないから言ってるんじゃないの!」
声が大きくなった。
誰も反応しなかった。当たり前だ。
俺は寝返りを打って、鞄のほうに背中を向けた。
「ちょっと! 背中向けたわね!」
俺は寝た。
◇
二日目は班別自由行動だった。
朝八時に旅館を出て、夕方五時に旅館に戻る。それ以外は自由である。しおりに、行き先を書く欄があって、班長が前日に提出することになっていた。
美咲が班長だった。
「経路は決まってる。金閣寺、それから伏見稲荷、そのあと駅前で解散まで自由」
「うす」
「昼は十二時に決めた店。予約入れてある」
「予約?」
「六人で入れる店が少ないから」
熊沢が手を挙げた。
「うまいもん食いたい」
「昼が店」
「それとは別で」
「別で?」
「京都で一番うまいもん」
美咲はしおりを閉じた。
「一番の定義は」
「うまいやつ」
「却下」
その後、熊沢は一日中「京都で一番うまいもん」を探していた。
熊沢は、駅の地下でコロッケを買った。
「これだ」
「それか」
◇
拝観券は、券ではなくて紙のお札だった。最初から折り目が付いていて、そこで二つに折れる。俺は二つに折って、ポケットに入れた。
金閣寺は、金色だった。
池があって、その向こうに建っている。人が多かった。全員が同じ方向を向いて、同じ場所にスマホを構えていた。
俺もそっちを向いて立っていた。
スマホは、全部、金色のほうを向いていた。
腹が減っていた。
早坂が班の写真を撮ることになった。
六人で並んで、通りかかった外国人の人に頼んで、撮ってもらった。撮ってもらったやつを早坂が確認して、少し困った顔をした。
「もう一枚いい?」
「いいけど」
「なんか、高町くんだけ別の写真みたいになってて」
撮り直した。
二枚目も同じだった。
三枚目で早坂が諦めた。諦めて、笑った。声を出して笑った。
その笑い方は、五月に教室でしていたのと同じだった。
◇
昼の店は、路地を二回曲がったところにあった。
引き戸が重くて、開けるときに音がした。中は細長くて、六人がちょうど座れるだけの席しかない。壁に品書きが貼ってあって、字が縦に並んでいる。
美咲が予約の名前を言った。
出てきたのは、丼だった。玉子で綴じた鶏が乗っていて、三つ葉が二本乗っている。
俺は食べた。
うまかった。
うまかったので、二杯目を頼もうとした。頼もうとしたところで、美咲が俺の腕を軽く押さえた。
「予約は一人一杯」
「そういうものか」
「そういうもの」
「わかった」
熊沢は自分のぶんを食べ終わったあとで、店の人に「京都で一番うまいものは何ですか」と聞いていた。
店の人は、少し考えてから「うちのです」と言った。
熊沢は「たしかに!」と言って、両手で膝を叩いた。
店を出て五分で、熊沢がまた店を覗きはじめた。
◇
参道の店先に、鈴が下がっていた。大きいのから小さいのまで、五種類くらいある。値段の札は、鈴ではなくて紐のほうに付いていた。
伏見稲荷の登り口で、後ろから声が聞こえた。
女子二人だった。制服が違う。うちの学校でも、この日の京都で何度もすれ違った他の学校でもない、また別の学校だ。
「ねえ、今の人」
「どの人」
「前の、背高い人」
「うん?」
「あの、緑茶の」
俺は歩いていた。歩きながら、聞いていた。
もう一人が、少し間を置いて言った。
「似てるだけでしょ」
「そうかな」
「テレビの人が修学旅行来ないって」
二人は横道に逸れていった。
俺は鳥居をくぐった。
前を歩いていた熊沢が、そこで振り返って言った。
「高町、水持ってる?」
「持ってる」
「一口」
「一口な」
熊沢は三口飲んだ。
◇
伏見稲荷は、鳥居が並んでいた。
赤い鳥居が、山の上までずっと続いている。全部くぐると二時間かかると書いてあった。
美咲が「往復四十分のところまで」と言った。
登った。
途中で熊沢が「これ何本あるんだ」と言い出して、数え始めた。
百二十本くらいで数えられなくなっていた。俺は数えなかった。
登っている間、前を歩いている人の背中と、次の鳥居の柱しか見えなかった。柱には字が彫ってあって、その字に墨が入っている。左の柱と右の柱で、彫ってある年が違う鳥居があった。
折り返しの場所で、班の全員が座った。
石の段に六人並んで座って、汗を拭いた。
誰も喋らなかった。
しばらくして、美咲が言った。
「三十分休憩でいい?」
「いい」
「いい」
「いい」
全員が同じ返事をした。
俺は石の段に座って、鳥居の隙間から下を見ていた。
――このまま、あと二時間くらい座っていたい。
二十八分後に、美咲が立った。
◇
下りの道は、来たときと同じ坂だった。石段の端に、乾いた竹の葉がたまっている。踏むと音がする段と、しない段があった。
夕方五時に旅館に戻った。
風呂に入って、飯を食って、九時に部屋に戻った。
二日目の夜は、一日目より人が集まった。
他のクラスの男子が三人、うちの部屋に入ってきた。入ってきて、テーブルの周りに座った。誰かがトランプを出した。
「高町、やる?」
「やる」
やった。
ルールがわからなかったので、途中まで見よう見まねでやっていた。三回目で覚えた。四回目で勝った。五回目からは誰も俺のカードを読めなくなった。
「顔に出ないの、ずるくないか」
「ずるくはない」
「じゃあ何なんだ」
「顔面の故障だ」
全員が笑った。
俺は笑わせようとしていない。
九時四十分に、廊下で足音がした。
三人が一斉に立ち上がって、押し入れに入った。三人ともである。
襖が閉まった直後に、宮坂先生が顔を入れた。
部屋を見た。
布団が六つ敷いてあって、俺たちが三人座っていて、押し入れの襖が半分開いていた。
先生は押し入れのほうを見た。少し見てから、言った。
「十時には寝ろ」
行った。
押し入れから三人が出てきた。
「今、絶対バレてた」
「バレてたな」
「なんで何も言わなかったんだ」
俺にもわからなかった。
◇
三日目は、朝から雨だった。
バスで清水寺へ行って、傘をさして歩いて、坂を上って、坂を下りた。
坂の途中に土産物屋がずっと並んでいる。俺はその中の一軒に入って、甘いやつを買った。八つ入りの箱で、中身は生地に餡が入っているやつだった。
試食があったので、一つ食べた。
うまかった。
二箱買った。一箱は妹のぶんで、もう一箱は家のぶんである。買ってから、母さんと父さんと自分で三人だから、八つ入りで足りるのかを考えた。
考えているうちに、後ろに列ができていた。
俺はもう一箱買った。
◇
帰りの新幹線は、行きより静かだった。
半分くらいが寝ていた。俺も寝た。
途中で一度起きて、窓の外を見たら、暗くなっていた。
逆さになった字が、窓の上を流れていった。
そのまま寝た。
東京駅で解散になったのが七時半だった。
昇降口でも校門でもなく、東京駅の階段の下で、宮坂先生が「解散」と言った。それだけだった。
早坂が「またね」と言った。熊沢が「明日学校だぞ」と言った。美咲が「明日、現代社会」と言った。
俺は電車に乗って、桜坂駅で降りた。
二十七段の階段を、普通に上った。上から九段目が少し欠けている。雨が上がったあとで、そこだけ濡れていた。俺は端のほうを踏んだ。
◇
家に着いたのは八時二十分だった。
「ただいま」
誰も出てこなかった。
台所に人がいる音はする。母さんが何かを洗っている。父さんの靴があった。妹の靴もあった。
俺は土産物の袋を台所のテーブルに置いた。
「灯真、おかえり」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
母さんは袋を開けて、中身を見て、「あら、三つも」と言った。
俺は二階へ上がった。
部屋に入って、ドアを閉めて、ボストンバッグを床に置いた。外ポケットのファスナーを開けた。
タオルを取った。
ミューナは、腰に手を当てた姿勢のまま、こっちを見上げていた。
「三日」
「三日だな」
「三日、鞄の中」
「悪かった」
「謝らないでよ。腹が立つから」
ミューナはそこで黙った。
黙って、少ししてから、続けた。
「で、どうだったの」
「鹿がいた」
「それは知ってるわよ」
「大仏がでかかった」
「それも知ってるわよ」
俺は机に肘をついた。
「よく寝た」
「は?」
「新幹線で二回、バスで三回、旅館で二晩」
ミューナは口を開けた。
開けたまま、台座の上で一度、足を踏み替えた。
「……あんた、三日ぶんの顔してるわよ」
「どういう顔だ」
「よく寝た顔」
◇
下りていったら、リビングに妹がいた。
床に座って、タブレットを開いている。いつもの位置だ。
俺は土産の箱を一つ持っていって、妹の横に置いた。
「甘いやつだ」
「ありがと」
妹は箱を見ずに手を伸ばして、箱の角を指で触った。
触って、それからタブレットから顔を上げた。
上げた。
「あたし、有名になった」
俺は妹を見た。
「どこで」
「中学で」
妹はタブレットをこっちに向けた。
画面に、何かが映っていた。動画の一時停止の画面だ。制服の女子が三人、こっちを向いて手を振っている。真ん中にいるのが妹だった。
画面の下に、字が入っていた。
〈兄推し中3の日常〉
俺はその字を読んだ。
読んで、意味がわからなかったので、もう一度読んだ。二度読んでも、わからなかった。
「兄推しって」
「兄を推してる人」
「誰が」
「あたしが」
「誰を」
「兄ちゃんを」
妹は画面をスクロールした。
「明日から、うちの中学の子が来るから」
「どこに」
「うち」




