第42話 全校生徒は多すぎる
台詞は、三日で全部覚えた。
台本の王様は、意味のわからないことばかり喋っていた。「余の耳は、余のものである」とか、「風は口を持たぬゆえ、余は安心である」とか、そういうやつだ。俺は昔から、そういうやつを覚えるのだけは速い。
覚えたので、教室の後ろで、それを最初から最後まで喋った。
喋り終わったら、誰も何も言わなかった。
実行委員の子が、台本を持ったまま固まっていた。熊沢が腕を組んでいた。ほかの出演者が床に座って俺を見上げていた。
「……今の、全部合ってました」
「うん」
「一字も間違えてなかったです」
「うん」
「なのに、なんで、こう、」
その子は両手で空気を掴むような動きをした。二回した。
「なんにも、聞こえてこないんですか?」
俺は自分の喉を触った。
声は出ている。
◇
その日から、稽古が始まった。
放課後、教室の机を全部後ろに寄せて、床に養生テープで線を引く。線が舞台の端で、黒板が城の壁ということになった。
俺は言われた場所に立って、言われたとおりに喋った。
実行委員の子は、いろいろなことを言った。
「もっと偉そうに」
「はい」
「胸を張って」
「はい」
「今、張りました?」
「張りました」
「見えないです!」
俺は張っていた。張っているのだが、外から見て変化がないらしい。
三日目に、その子は「王様は怒ってるんです」と言った。
俺は怒った。
「今、怒ってます?」
「怒ってる」
「……」
その子は台本を胸に抱えて、しばらく黙ってから、小さい声で言った。
「あたしの書き方が悪いんだと思います」
悪くない。俺の顔が動かないだけだ。
説明すると長い。俺は「そうかもな」と言った。
言ってから、隣で美咲が息を吐いたのが聞こえた。
◇
美咲は稽古の全部に立ち会っていた。
委員長としてではなく、照明の係として来ていた。教室の稽古に照明はない。無いのに、毎日いた。
四日目の帰り道に、美咲が言った。
「高町くん、あの子、昨日泣いてたよ」
「なんで」
「台本が悪いんだと思ってる」
「悪くない」
「知ってる」
「じゃあ言ってやってくれ」
「私が言っても意味ないの」
「じゃあどうする」
「私が毎日ここにいる」
「照明、無いのに」
「無いね」
美咲は自転車を押していた。前の籠に、養生テープが二巻き入っていた。
「やってる」
「やってるね」
「やってる」
「うん」
美咲はそれ以上言わなかった。
言わずに、横断歩道の手前で止まって、青になってから渡った。
◇
十月の終わりに、演劇部の人が稽古を見に来た。
三年生で、背が低くて、腕にストップウォッチを提げていた。教室の後ろで、うちの十五分を最初から最後まで見た。
見終わって、その人は何も言わずに出ていった。
実行委員の子が追いかけていって、廊下で何か聞いていた。戻ってきたときの顔が、行くときと違っていた。
「なんて言われた」
「……段取りは、覚えてる、って」
「それだけか」
「それだけです」
教室の中が、少し静かになった。
うちのクラスの三十六人のうち、劇に出るのは六人で、あとは大道具と衣装と照明と受付に分かれている。その全員が、そのとき同じ方向を見ていた。俺のほうである。
熊沢が立ち上がった。
「大丈夫だって」
「なにが」
「あいつ、台本ぜんぶ入ってる」
「それだけか」
「それだけで充分だろ」
充分ではないと思う。
だが、その一言で教室の空気が戻った。何人かが「たしかに」と言って、何人かが笑って、大道具の係が金紙を切る音を再開した。
俺は自分の席で台本を開いた。開いて、閉じた。中身は全部頭に入っていた。
◇
前日は、体育館でリハーサルをやった。
十一月一日の放課後だった。舞台の上に立つのは初めてで、床が思ったより硬かった。上履きの底が鳴る。
客席には誰もいなかった。
いや、正確には七人いた。実行委員が二人、うちのクラスの照明係が二人、演劇部の人が一人、宮坂先生が一人、あとは体育館の鍵を持っている用務員の人だ。
その七人は、全員が別のことをしていた。実行委員は進行表を見ていて、照明係は脚立の上にいて、演劇部の人は自分の劇の道具を運んでいて、先生は腕時計を見ていた。
俺は十五分ぶんを喋った。
終わったら、演劇部の人が「はい、次のクラス入って」と言った。
それだけだった。
◇
帰りに、実行委員の子が校門のところで待っていた。
俺の顔を見て、深呼吸を一回してから、言った。
「明日、あたし、袖で見てます」
「はい」
「もし、その、失敗しても」
「はい」
「あたしのせいなので」
その子は頭を下げて、走っていった。
俺は自転車を押しながら家へ帰った。
――誰のせいでもないんだが。
◇
十一月二日、土曜日。
朝の八時に家を出た。玄関で、妹が靴を履いていた。
「なんでお前が制服なんだ」
「他校の文化祭、制服じゃないと入れないの」
「そうなのか」
「一般公開でしょ」
「そうだけど」
「行くよ。当たり前じゃん」
妹は鞄からタブレットを出して、確認するみたいに一度見て、また入れた。
「兄ちゃん、何時から」
「一時十分」
「わかった」
妹は先に出ていった。
母さんが廊下から顔を出した。エプロンをつけたままだ。
「お母さんも行っていい?」
「やめてくれ」
「そう」
母さんは引き下がった。
引き下がったはずだった。
◇
午前中は、うちのクラスの模擬店の番だった。
劇をやるクラスは、劇のほかに何もやらなくていい決まりになっていた。なっていたのだが、うちのクラスは劇と模擬店の両方をやることになっていた。誰かがどこかで手を挙げたらしい。
俺は焼きそばの列の整理をやった。
俺はコーンを二つ置いて、その間に立っていた。
立っていたら、列がだんだん長くなった。焼きそばの評判が良いのかと思ったが、途中で気づいた。列の後ろのほうの人が、焼きそばを受け取らずに帰っていく。
「高町くん、交代して」
美咲が来た。
「まだ十分しか経ってない」
「あなたが立ってると列が回らないの」
「立ってるだけだ」
「それが問題」
俺は交代した。
交代して、教室の中に入って、割り箸を袋に詰める係になった。
こっちのほうが向いている。
◇
十二時四十分に、体育館の裏で衣装を着た。
王様の衣装は、演劇部から借りたやつだった。赤いマントで、裏地が黄色い。肩のところに金色の紐が付いていて、その紐が首の後ろで結んである。
王冠は段ボールに金紙を貼ったものだった。実行委員の子が作った。
被ったら、内側の留め具が右の耳の上に当たった。
「痛いです?」
「少し」
「ごめんなさい、あたし、頭の大きさ、目分量で」
その子はガムテープを持ってきて、留め具のところに貼った。貼ったら、当たらなくなった。
俺はマントの裾を引きずらないように持ち上げて、袖のほうへ歩いた。
◇
舞台の袖から、客席が見えた。
埋まっていた。
パイプ椅子が並んでいて、その後ろに立っている人がいて、その後ろの壁際にも人がいた。二階のギャラリーにも人がいた。入口のドアが開けっぱなしで、そこにも人が立っていた。
昨日は七人だった。その七人が座っていた列も、今日は端まで埋まっていた。
熊沢が横に来た。床屋の役である。頭に白い布を巻いていて、手にハサミの模型を持っていた。
「やべえな」
「なにが」
「人」
「多いな」
「三年も来てる」
俺は袖の暗いところに立って、幕が開くのを待った。
――昼、焼きそば食っておけばよかった。
列の整理をしていて、自分のぶんを取り忘れた。
◇
幕が開いた。
最初は床屋の場面だ。俺は出ない。熊沢がハサミの模型を持って舞台の真ん中に立って、客席に向かって「困った、困った」と言う。
笑いが起きた。
熊沢は声がでかい。体育館でも一番後ろまで届いた。届いたぶん、笑いも大きかった。
俺の出番は、その次だった。
◇
舞台に出た。
右の袖から出て、五歩歩いて、真ん中に立つ。決めてあったとおりに立った。
立った瞬間に、体育館の音が遠のいた。
体育館は音が散る。咳と、椅子の軋みと、外の風と、遠くの模擬店の音が、同時に鳴っていた。それが一斉に薄い膜の向こうへ行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
舞台の床の、養生テープが二重に貼ってあるのが見えた。前から三列目の右端に座っている一年生の、上履きの片方だけ紐が緩んでいるのが見えた。二階のギャラリーの手すりに、去年の垂れ幕の金具が一つだけ残っているのが見えた。
背筋が、伸びた。
俺は台詞を言った。
「余の耳は、余のものである」
声が、体育館の一番後ろまで行った。
◇
そこから先は、覚えている。
覚えているのだが、順番がうまく並ばない。
熊沢が二つ目の台詞を飛ばした。飛ばしたので、俺が先に喋った。熊沢は少し遅れて追いついた。追いついたところで、客席の誰かが息を吸う音がした。体育館の後ろのほうで、吸った。
照明が変わった。美咲の係だ。予定より一拍早かった。
風の場面になった。
葦が生えて、秘密が広がる。実行委員の子が書いた台本では、そこで王様が全部知る。知って、何もしない。
俺は舞台の真ん中で、帽子に手をかけた。
台本には、こう書いてある。
〈王、帽子を取る。何も言わない〉
俺は取った。
段ボールの王冠が、手の中で少し曲がった。
◇
誰も、何も言わなかった。
舞台の上でも、客席でも、誰も何も言わなかった。
二秒。三秒。四秒。
どこかで、椅子が一度だけ鳴った。
俺はそこに立っていた。立って、客席を見ていた。台本には「客席を見る」とは書いていない。書いていないが、帽子を取ったら、そっちしか見るところがなかった。
――この王冠、直したところ、また当たってる。
ガムテープが剥がれかけていた。
幕が下りた。
幕は、下りるのが遅かった。
◇
幕の内側で、熊沢が俺の肩を叩いた。
叩いた手が、震えていた。
「今の、なんだった」
「劇だ」
「いや、そうだけど」
熊沢は自分の頭の布を取って、それで顔を拭いた。
幕の向こうで、音がした。
拍手だった。
始まるのが遅かった。三秒くらい、何も鳴らなかった。それから、後ろのほうで一人が始めて、そこから前まで来た。
鳴りやまなかった。
次のクラスの人が舞台の袖で待っていて、実行委員の一人が「一回、幕上げますか」と言った。実行委員の子は、幕の紐を握ったまま、動かなかった。
握ったまま、袖でしゃがみ込んだ。
「立ってください」
「立てないです」
その子は台本を抱えて、顔を伏せていた。
「あたしの、書いたやつです」
「そうだな」
「あたしの書いたやつ、なんですけど」
そこから先は聞き取れなかった。
◇
舞台の裏の廊下で、俺は壁に寄りかかった。
寄りかかって、そのままずるずると下まで行った。床に座った。
マントは着たままだった。首の後ろの結び目に指が届かなかったので、そのままにした。
俺は壁に頭をつけて、天井を見た。
体育館の裏の廊下の天井は、配管がむき出しになっている。灰色の管が二本と、細いのが一本。細いほうに、埃が乗っていた。
足音がした。
美咲だった。
脚立を運んでいる途中らしく、腕に軍手をはめていた。俺の前で止まって、脚立を壁に立てかけた。
「立てる?」
「あとで」
「わかった」
美咲は隣に座った。
座って、軍手を外して、膝の上に置いた。
「片付けの当番、三時から。あなたは名簿から外しといた」
「いいのか」
「照明係の権限」
「そんな権限あるのか」
「ない」
美咲は前を向いたままだった。
「月曜、現代社会のプリント。それと、来週の火曜が古典の小テスト」
「わかった」
「範囲、教科書の八十二から九十五」
「わかった」
美咲は立ち上がって、脚立を持った。
「三時に、また来る」
俺は座ったまま頷いた。
美咲は行った。
行く途中で一度も振り返らなかった。
二時前に、一度立った。
水飲み場まで歩いて、戻って、また座った。座ったほうが楽だった。
◇
二時ごろ、妹が来た。
紙皿を二つ持っていた。片方に焼きそば、片方にフランクフルトが乗っている。
「兄ちゃん、なんで床にいるの」
「疲れた」
「ふうん」
妹は俺の隣にしゃがんで、紙皿を床に置いた。割り箸を割って、焼きそばを一口食べた。
「これ、兄ちゃんのクラスの」
「そうだ」
「まずい」
「そうか」
妹はもう一口食べた。
「兄ちゃん、食べる?」
「食う」
「自分で取ってよ」
「お前が持ってろ」
妹は紙皿を俺の膝の上に置いた。置いて、自分は割り箸だけ持っていた。
俺は食べた。
「まずいでしょ」
「まずい」
妹はまた一口食べた。まずいと言いながら、二人で全部食べた。
紙皿が空になったところで、妹が言った。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「あたし、いちばん後ろにいた」
「そうか」
「後ろから三列目の、右のほう」
妹はフランクフルトを食べた。
◇
三時に、美咲が来た。
一人ではなかった。片付けの当番が四人と、実行委員の子と、熊沢がいた。全員が段ボールを抱えていて、抱えたまま、俺の座っている前で立ち止まった。
そこから、順番に喋りだした。
「二場面目の明かり、私、一拍早く入れちゃったの」
美咲が言った。
「あれ、逆に良かったって言われた」
照明係の一人が言った。
「俺が台詞飛ばしたじゃん。あれで間が空いたのがよかったんだと思う」
熊沢が言った。
「マント、うちの部の中でいちばん重いやつを貸したんです。重いと動きが遅くなるので」
いつのまにか演劇部の人が混ざっていた。
「あたし、あの場面、三回書き直したんです」
実行委員の子が言った。言ってから、段ボールを抱え直して、続けた。
「四回でした」
俺は床に座ったまま、六人を下から見上げていた。
全員が、自分の話をしていた。
◇
六人が行ったあと、一人だけ残った。
早坂だった。
両手に何も持っていなかった。当番表では、片付けの列に入っていた。
早坂は俺の三歩手前で止まって、ポケットからスマホを出した。
出して、持ったまま、下ろした。
「撮ってない」
「うん」
「一枚も」
「うん」
早坂はスマホをポケットに戻した。
それから、体育館のほうを一度見て、こっちを見ないまま言った。
「みんな撮ってた」
「そうか」
「あたしだけ、撮ってない」
その声は、いつもの早坂の声より低かった。
早坂は歩いていった。歩いていって、途中で足を止めて、振り返らずにもう一言だけ言った。
「よかったよ、すごく」
行ってしまってから、俺は自分の腹が鳴ったのに気づいた。
焼きそばとフランクフルトでは、足りなかったらしい。
◇
五時前に、俺は立った。
立ったら、普通に立てた。マントの紐も解けた。指が結び目まで届いた。
衣装を演劇部に返して、王冠を実行委員の子に返した。その子は王冠を両手で受け取って、それを見て、ガムテープのところを指で押さえた。
「直します」
「もう終わりだぞ」
「来年も使うので」
その子は王冠を抱えて行った。
◇
家に着いたのは六時半だった。
飯を食って、風呂に入って、部屋に上がった。ドアを閉めた。
台座が、机の板を鳴らした。
「今日、いくつ見てたの」
「知らん」
「知らないの」
「数えなかった」
ミューナは台座の上で、少し黙った。
「わたし、昔、あれくらいの箱でやったことがあるわ」
「箱?」
「劇場よ。二階まである箱」
「多いな」
「多くないわよ。あんたのほうが多いわ」
俺は椅子に座って、机に肘をついた。
肘をついたところで、スマホが鳴った。
着信だった。犬飼さんだ。
◇
「高町」
「はい」
「今日、学校で何かやったか」
「劇をやりました」
「劇か」
犬飼さんは、そこで少し間を置いた。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「学校に電話が入ってる。うちにも入った」
「はい」
「動画が上がってる。誰かが客席から撮ったやつだ」
「はい」
「学校側は、週明けに消す方向で動く。うちも一緒に動く。君は何もしなくていい」
「はい」
俺は机の上を見た。台本があった。
「それと」
犬飼さんは続けた。
「今日の夕方から、うちに話が来ている」
「話」
「仕事の話だ」
「はい」
「ほとんどは断る」
俺はスマホを持ち直した。
「ほとんど、ということは」
「一つだけ、明日、事務所で話す」
犬飼さんは、そこで一度、電話の向こうで椅子を引いた。
「高校の文化祭の動画で仕事が来るのは、初めて見た」
電話が切れた。
俺は机の上の台本を閉じて、引き出しに入れた。
入れてから、思い出した。
――割り箸、まだ袋に詰めてる途中だった。
三十袋くらい残っていたはずだ。




