第41話 委員長が部隊を組んだ
カシャッ、と音がした。
駐輪場だった。八時五分。俺は自転車のスタンドを下ろしたところで、鍵はまだかけていなかった。
音のしたほうを見ると、女子が三人いた。
スカートが紺だった。うちの学校の女子は灰色である。俺のズボンも灰色で、シャツは白い。三人のうち二人が上着を着ていて、一人は着ていなかった。
三人は俺を見て、それから一斉に下を向いた。下を向いたまま、しばらく動かなかった。
俺は鍵をかけて、昇降口へ歩いた。
歩きながら、考えたことは一つだった。
――この時間、自分の学校にいなくていいのか。
◇
教室に入ったら、熊沢が入口で待っていた。
待っていた、というのは俺の想像ではない。あいつは入口の柱に肩をつけて立っていて、俺を見た瞬間に「来た」と言った。教室の何人かが振り返った。
「昨日の『来ればわかる』は何だ」
「わかっただろ」
「わからん」
「駐輪場、いただろ」
「いた」
「あれ、三日前から」
三日前から。
俺はその三日間、撮影所にいたり家にいたりした。学校にも来ていた。来ていたが、駐輪場の話は一度も聞いていない。
「なんで言わなかった」
「言ったじゃん。昨日」
「昨日は『すげえことになってる』としか書いてない」
「すげえことになってるだろ」
熊沢は自分の説明に一切の問題を感じていない顔をしていた。
◇
一時間目が始まる前に、廊下側の窓が埋まった。
二時間目には、窓の上半分が全部、顔だった。
うちの教室は南校舎の二階にある。廊下は北側で、窓の上半分がガラスで、下半分が壁である。廊下に立つと、顔だけがガラスのところに並ぶ。
二時間目の途中で、宮坂先生が黒板から振り返らずに言った。
「窓の外、見なくていい」
誰も見ていなかった。俺も見ていなかった。教科書の余白に、丸を三つ書いていた。
◇
三時間目のあと、化学室に移動することになった。
化学室は渡り廊下を越えた先の北校舎にある。廊下を歩く時間が、いつもの教室移動の倍あった。
俺は熊沢の後ろについて歩いた。
渡り廊下に出たところで、前が詰まった。
人がいた。
右側の壁に、六人。左側の窓のところに、四人か五人。渡り廊下の向こう側、北校舎の入口のあたりにも何人か立っていた。全員がこっちを向いていた。誰も喋っていなかった。
スマホを持っている手が、三つ見えた。
俺は歩いた。歩くしかない。
そのとき、廊下の音が遠のいた。
渡り廊下は音が響く場所で、いつもは上履きの音と、外の風の音と、下の中庭でボールが跳ねる音がしている。それが全部、薄い膜の向こうへ行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
右の壁の掲示物が、画鋲を四つとも使わずに三つで留めてあるのが見えた。左の窓の桟に、乾いた落ち葉が一枚挟まっているのが見えた。前を歩く熊沢のシャツの、いちばん上のボタンが取れかけているのが見えた。
背筋が、伸びた。
俺はそのまま歩いて、化学室に入った。
後ろで誰かがドアを閉めた。閉まった音がしたところで、元へ戻った。
――ボタン、教えてやったほうがいいのか。
俺は自分の席に座って、教科書を開いた。
化学室の机は木でできていて、真ん中に細い溝が彫ってある。ペンを置くと転がらない溝だ。俺はそこにシャープペンを置いた。
腹が減っていた。
二時間目に食べればよかった。
◇
化学が終わって廊下に出たら、熊沢が待っていた。
「さっきの渡り廊下」
「何かあったか」
「みんな止まってた。お前が通ったとこだけ、道が空いてた」
「空いてたか」
「気づいてないのかよ」
「腹が減っていた」
熊沢は「うわ」と言って、先に行った。
◇
昼休みに、美咲が来た。
俺の前の席の椅子を後ろ向きに借りて座る。いつもの座り方である。今日は手にプリントを持っていなかった。代わりに、四つ折りの紙を持っていた。
「今日、何回撮られた」
「わからん」
「私は十九回見た」
十九回。
美咲は紙を広げて、俺の机に置いた。
紙の上に、名前が書いてあった。うちのクラスの名前だ。八人ぶんある。名前の横に、時間割が引いてあった。一時間目から六時間目までと、昼休みと、放課後の欄。欄の中に、名前が一つずつ入っている。
「なにこれ」
「当番表」
「何の」
「移動教室の付き添い」
美咲は俺の返事を待たずに続けた。
「二人一組で、あなたの前と後ろを歩く。前は道を空ける係。後ろは撮ってる人に声をかける係。階段は先に降りる。人が多い日は渡り廊下じゃなくて、一階の中庭を通るルートに変える」
俺は紙を見た。
時間割の下に、さらに小さい字で三行書いてあった。
〈声をかけるのは一回だけ。二回言わない〉
〈相手が下級生でも敬語〉
〈高町くんの前で揉めない〉
三行目に線が引いてあった。
「揉めないって」
「揉めると、あなたが変な顔で写る」
「俺の顔は常に変だ」
「そうだね」
美咲は同意した。躊躇がなかった。
◇
昼休みが終わる十分前に、教室の前のドアが開いた。
一年生だった。男子が二人。両方とも上履きの色が緑で、うちの学年は青である。
二人は教室に一歩だけ入って、そこで止まった。止まったまま、俺の席のほうを見た。
クラスの何人かが気づいた。気づいたが、誰も何も言わなかった。
美咲が立ち上がった。
立ち上がって、ドアのほうへ歩いていって、二人の前に立った。背は美咲のほうが低い。低いのに、二人が半歩下がった。
「何か用?」
「あの、握手を」
「本人に言って」
「え」
「私じゃなくて、本人に」
二人は顔を見合わせた。
それから、俺のところまで歩いてきた。歩き方が、廊下を走ってきたあとの歩き方だった。
「あの、握手してください」
「いいけど」
俺は右手を出した。
一人目が握った。二人目も握った。二人目のほうが手が冷たかった。
「ありがとうございました!」
「はい」
二人は走って出ていった。走るなと言おうとしたが、その前にいなくなった。
美咲が戻ってきて、椅子に座り直した。
「なんで通したんだ」
「断ると、断られたって話が広がるから」
「握手は広がらないのか」
「握手は、握手したって話にしかならない」
美咲は自分の弁当箱の蓋を閉めた。閉めてから、輪ゴムを二重にかけた。
「それに、あなた、握手のとき顔動かないでしょ」
「動かん」
「じゃあ大丈夫」
何が大丈夫なのかは、聞かなかった。
◇
放課後の前に、その八人が集まった。
教室の後ろで、美咲が紙を持って立っていた。八人が半円になって聞いている。俺は自分の席に座って、それを後ろから見ていた。
「明日は土曜だから、月曜からね」
「はい」
「一組と二組の子が多いから、階段は西側を使って」
「はい」
「あなた、声が大きいから、声をかける係はやらないで」
「なんで!」
「大きい声で注意すると、それを撮られるの」
熊沢は納得のいかない顔をしたが、三秒で「なるほどな」と言った。この男の納得は速い。
傍から見れば、放課後の教室で委員長が当番表を配っているだけの光景である。
実際には、俺の通学路に部隊が編成されていた。
◇
その日、早坂千尋は一言も喋らなかった。
俺の席は窓際の後ろから二番目で、早坂の席は斜め前だ。あいつが喋っていれば、黙っていても耳に入っていた。
早坂はクラスで一番よく喋る。休み時間ごとにどこかで笑っている。その笑い声は教室の端まで届くし、たまに廊下まで出ていく。
今日は、届かなかった。
昼休みも、自分の席で弁当を開けて、閉めて、それで終わりだった。誰かが話しかけると答えるが、答えたら終わる。俺のほうは一度も見なかった。
六時間目のあと、当番表の話をしていた輪の中にも、早坂はいなかった。
◇
掃除が終わって、教室に戻ったら、早坂が窓のところに立っていた。
窓を閉める係だ。閉め終わっていた。閉め終わったのに、まだ立っていた。
俺は自分の鞄を取りに行った。
鞄を持ち上げたところで、後ろから声がした。
「高町くん」
振り返ったら、早坂は窓のほうを向いたままだった。
「あの、」
そこで止まった。
俺は待った。
「五月の、」
また止まった。
早坂は窓の桟に手を置いて、それを一度、掌で撫でた。埃が付いた。付いた手を、スカートで拭こうとして、途中でやめた。
「あたし、」
三回目だった。
早坂の喋り方は速い。速くて、途中で自分の話に自分で笑う。早坂が三回止まるのを、俺は初めて見た。
俺は鞄を持ったまま立っていた。
立っていて、気づいたことがあった。
「消しゴム、落ちてる」
早坂の足元に、白い消しゴムが落ちていた。角が全部丸くなっていて、片側だけ黒い。俺のではない。俺は消しゴムを使わない。間違えたところは線を引いて消す。
早坂は下を向いて、消しゴムを見た。
しゃがんで、拾った。
拾って、立ち上がって、それを両手で持ったまま、こっちを見た。
目が赤かった。
「……ごめん」
「拾ったからいいだろ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何だ」
早坂は何も言わなかった。
言わずに、消しゴムを筆箱にしまって、鞄を持って、教室を出ていった。
出ていく途中で、ドアのところで一度立ち止まって、こっちを見ないまま、頭を下げた。
◇
俺は教室に残った。
残って、机の上を見た。何もなかった。日直でもない。
――何の話だったんだ。
消しゴムの話ではなかったらしい。三回止まって、四回目に「ごめん」と言った。謝りたいことがあったのだと思う。
思ったが、心当たりがなかった。
早坂に何かをされた記憶がない。強いて言えば、五月に写真を撮られた。撮られて、それが動画になって、四十万回再生された。それだけだ。
俺は鞄を肩にかけた。
◇
廊下に出たら、美咲がいた。
壁に寄りかからずに、まっすぐ立っていた。手に、さっきの当番表を持っている。
「見てたのか」
「見てた」
「趣味が悪い」
「委員長の仕事」
美咲は紙を広げて、俺に見せた。
八人ぶんの名前の、いちばん下に、一つ足してあった。
早坂千尋。
字が新しい。さっき書いたやつだ。ボールペンのインクが、まだ少し光っていた。
「入れたのか」
「入れた」
「本人は」
「まだ言ってない」
美咲は紙を折り直した。四つ折りにして、鞄の外ポケットに入れた。
「月曜に言う」
「断られたら」
「断られない」
美咲は歩き出した。俺も歩いた。廊下の窓から夕日が入っていて、床に窓枠の形が並んでいた。四つ並んでいる。
「あの子、五月から一回も、あなたのこと撮ってないよ」
俺は歩きながら、それを聞いた。
「知らなかった」
「知らないよね」
「うん」
「みんな知ってる」
美咲は階段の手前で止まった。
「あの子、あなたに謝れないんだよ」
俺は階段の一段目に足を乗せた。乗せたところで、意味がわからなくなって、止まった。
「どういうことだ」
「わからないならいい」
「わからん」
「知ってる」
美咲は先に降りていった。
俺は少し遅れて降りた。階段の踊り場に、ボールが一つ転がっていた。誰のかはわからない。俺は壁際に寄せておいた。
◇
昇降口の手前で、後ろから走ってくる音がした。
女子だった。うちのクラスではない。腕に、赤い腕章をつけている。
「文化祭実行委員です!」
その子は膝に手をついて、息を整えてから、顔を上げた。
「うちのクラスの出し物、劇に決まりました!」
「はい」
「創作劇です! あたしが書きました!」
「はい」
「王様の耳っていう話で!」
俺は聞いていた。聞きながら、玄関の外で、部活の集合の声がしているのを聞いていた。
「それで!」
その子は息を吸った。
「高町くん、王様やってください!」
俺は口を開けた。
開けて、断るための言葉を三つくらい並べようとした。並べる前に、後ろから声がした。
「やります!」
熊沢だった。
いつからいたのかはわからない。上履きのまま昇降口に立っていた。
「やらん」
「やるって!」
「俺が決める」
「クラスのために!」
実行委員の子が、両手を胸の前で合わせた。
「お願いします! 台本、もう書いてあるんです!」
俺はその子の腕章を見た。
赤い布に、白い糸で「実行委員」と縫ってある。縫い目が細かい。たぶん、去年の誰かが使ったやつだ。
去年の誰が使ったのかを考えた。
考えているうちに、実行委員の子が鞄から紙束を出して、俺の手に押しつけた。
表紙に、字が印刷してあった。
〈王様の耳〉
その下に、小さく一行あった。
〈上演時間 十五分〉
十五分。
俺は紙束をめくった。
一ページ目から、蛍光ペンで線が引いてあった。二ページ目にも引いてあった。三ページ目は、ほとんど全部が黄色かった。
「これ、何の線だ」
「王様のセリフです!」
「全部?」
「主役ですから!」
実行委員の子は、そこで初めて笑った。
笑ってから、はっとした顔になって、両手で口を押さえた。
「あ、返事、まだですよね」
「まだだ」
「待ちます!」
その子は頭を下げて、走っていった。廊下を走るなと言おうとしたが、また間に合わなかった。
俺は紙束を鞄に入れた。入れたら、鞄の口が閉まらなくなった。
◇
家に着いたのは五時半だった。
台所で妹が牛乳を飲んでいた。飲みながら、片手でタブレットを触っている。
「兄ちゃん、何時に喋った」
「今」
「そう」
妹は指を動かした。動かして、それで終わりだった。牛乳を飲み干して、コップを流しに置いた。置いただけで、洗わなかった。
俺は鞄から紙束を出して、テーブルに置いた。
妹は横目でそれを見て、それから、正面から見た。
「なにこれ」
「台本」
「うそ」
「文化祭」
「うそでしょ」
妹はタブレットを置いた。
妹がタブレットから手を離したのを、俺は今年に入って二回しか見ていない。
妹は紙束を持ち上げて、一ページ目を読んだ。二ページ目を読んだ。三ページ目のところで、顔を上げた。
「兄ちゃん、これ、王様が全部喋ってる」
「そうらしい」
「十五分、ずっと?」
「らしい」
「無理でしょ」
妹は俺のほうを見て、それから、もう一度台本を見た。
「無理じゃないか」
訂正が速い。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
机の右奥から、声がした。
「その紙、何」
「台本」
「見せなさいよ」
俺は台本を机に置いて、ミューナの前で表紙を開いた。ミューナは腰に手を当てたまま、首だけを動かした。
「王様の耳」
「うん」
「これ、耳が長くなる話?」
「知らん」
「昔からあるのよ、その話。わたしも一回やったわ」
「王様を?」
「床屋よ」
床屋。
「穴を掘って、そこに向かって秘密を叫ぶの。それだけの役。台詞は四行」
「少ないな」
「多いのよ。四行あれば、舞台の端から端まで持っていけるわ」
ミューナはそこで、少し体の向きを変えた。
「で、あんた、どこでやるの」
「教室じゃないか」
「教室」
「たぶん」
そのとき、スマホが震えた。
知らない番号ではなかった。クラスのグループだ。実行委員の子が入っている。
〈連絡です!〉
〈うちの劇、体育館でやることになりました〉
〈教室だと入りきらないって言われたので〉
俺はその三行を読んだ。
読んで、もう一度読んだ。
うちの教室には机が四十ある。数えたことがある。
スマホが、もう一度震えた。
〈全学年、見に来るそうです!〉




