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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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40/204

第40話 うちのは何も悪くない

 朝、家の前に来たのは有本さんの車だった。


 小さい車である。助手席にタブレットと、紙の束と、コンビニの袋が置いてあった。有本さんはそれを全部後ろに移してから、俺を乗せた。


「おはようございます」

「おはようございます!」


 有本さんの声は、朝から大きかった。


「犬飼さん、先に行きました」

「はい」

「六時に出ました」

「はい」

「わたし、五時に起こされました」

「はい」


 有本さんはシートベルトを二回引っ張ってから、車を出した。後ろの席は紙の束で半分埋まっていた。角が揃っていない。


   ◇


 途中の信号で、有本さんが言った。


「昨日、大丈夫でしたか」

「大丈夫です」

「怒ってないですか」

「怒ってないです」

「……そうですか」


 有本さんはハンドルを握り直した。


「わたし、昨日、家で怒りました」

「はい」

「一人で」

「はい」

「誰にも言ってないので、内緒です」


 俺は頷いた。


 誰にも言っていないことを、今、俺に言っている。


 内緒とは。


   ◇


 ゲートを入ったのは八時二十分だった。守衛の小窓は閉まっていて、中の人は、こっちを見て一度だけ手を上げた。


 降りて、セットのほうへ歩いた。


 空気が、昨日と違っていた。門から建物までのあいだに、人が三人立っていた。三人とも黙っていた。


 どこが違うのかは、はっきりしない。人の数は同じである。機材の位置も同じである。ただ、喋っている人が少なかった。少ないぶん、機材を動かす音がよく聞こえた。


 俺の椅子は、昨日と同じところにあった。


 背もたれの紙も、そのままだった。下の端が、昨日より一センチだけ垂れていた。


   ◇


 九時に、助監督の人が来た。


 A4を折った紙を持っている。持っているが、開かなかった。


「今日、朝いちで君のを行きます」

「はい」

「一つ目、二つ目、三つ目の順で、全部今日です」

「はい」

「……昨日は、ほんとにごめんね」

「はい」


 助監督の人は、そこで紙を開いて、また閉じた。


「変わったから」

「何がですか」

「順番が」

「はい」


 その人は行った。持っていた紙は、最後まで開かなかった。


 順番が変わったのは、昨日から数えて五回目だった。


   ◇


 メイクの部屋の前を通ったときに、声が聞こえた。


 中で、誰かが喋っていた。


「朝、揉めたんだって」

「揉めたっていうか」

「マネージャー同士でしょ」

「ううん。うちの現場の人も入ってた」

「うわ」

「でも、静かだったよ。声、全然大きくなかった」


 俺はそのまま通り過ぎた。ドアの隙間から、髪を乾かす音がしていた。


 揉めたのに、静かだったらしい。


   ◇


 衣装に着替えて、外へ出た。


 廊下の途中で、室井さんとすれ違った。撮り足しは今日もあるらしい。


 室井さんは、すれ違いざまに掃除の人に頭を下げた。俺の横は、そのまま通っていった。


 セットの外廊下ではなく、今日は外の階段のほうである。撮影所の建物の裏に、鉄の外階段が付いていて、そこを使うことになっていた。本物の階段である。段の縁に滑り止めが貼ってあって、四段目だけが剥がれて丸まっていた。


 着替えて出たところに、廊下があった。


 その廊下の突き当たりに、人が三人立っていた。


 一人は犬飼さんだった。


 残りの二人は知らない人である。片方はスーツで、片方は首から札を下げていた。札は裏返っていた。紐が捻れている。


 犬飼さんは、こっちに背中を向けていた。


 背中は、まっすぐだった。壁にも寄りかからず、足も組まず、両手を体の横に下ろして立っていた。


 声が、こっちまで届いた。


「間が長いというのは、こちらでは直せません」

「いや、そういう話じゃなくてね」

「では、どういう話ですか」


 スーツの人が何か言った。短かった。


 犬飼さんは、少しも動かなかった。


「うちのは何も悪くない」


 それだけだった。


 言ったあとで、犬飼さんは頭を下げた。深く下げた。下げてから、また同じ角度で立った。


   ◇


 俺は廊下の反対側の端に立っていた。


 三人は、こっちを見なかった。


 俺は自分の衣装の袖を見た。袖の内側に、洗濯の札が付いている。前に着たときには気づかなかった。字は薄くて、二行あった。上の行だけ読めた。


 顔を上げたら、三人はもういなかった。


 犬飼さんが、こっちへ歩いてきた。


「着替えたか」

「着替えました」

「そうか」

「犬飼さん」

「なんだ」

「うちのって、車のことですか」

「……車?」


 犬飼さんは足を止めた。


「うちの車、いつも入口から遠いところに停まるので」

「高町」

「はい」

「そういう話じゃない」

「はい」

「行け」

「はい」


 俺は行った。


 行きながら、じゃあ何の話だったのかを考えて、途中でやめた。腹が減っていた。


   ◇


 外階段には、人が集まっていた。


 カメラの後ろに人がいて、階段の下にも人がいて、上の踊り場にも人がいた。壁際に立っている人が、昨日より多かった。昨日は座っていた人が、今日は立っていた。椅子は畳んで壁に寄せてあった。


 その中に、桧山さんがいた。


 上着を着ていた。昨日は肩にかけていた上着を、今日はちゃんと着ていた。ボタンは、上から二つ目まで留めてあった。


「おはようございます」


 俺は頭を下げた。下げたときに、鉄の匂いがした。階段の匂いだった。


 桧山さんは、こっちを見た。


 見て、それから、目を逸らした。逸らしてから、もう一度こっちを見た。


「……おはよう」


 返事は、それで終わりだった。


 俺は頭を上げた。


 昨日より、返事が一つ多い。


   ◇


 監督が来た。


 台本を持っていない。持たずに、階段の下から上を見て、それから俺のところへ来た。


「ここ、台詞やめよう」

「はい」

「黙ってて。上から見てるだけでいい」

「はい」

「いい?」

「はい」


 監督は言い終わってから少し待って、それから助監督の人のほうへ振り返った。


「台詞、抜きます!」

「抜きます!」


 声が回っていった。いちばん遠いところにいた人が、最後に一度だけ手を上げた。


 記録の人が台本にペンを入れた。入れる音が、ここまで聞こえた。入れたあとで、消しゴムを一度かけた。


 俺は覚えることが一つ減ったので、少し楽になった。台本は、椅子の上に置いたままにした。


   ◇


 段取りをやった。


 俺は階段の上の踊り場に立つ。下から桧山さんが上がってくる。途中で止まって、上を見る。それだけである。


 踊り場は、人が二人立てるだけの広さだった。手すりの外に、駐車場が見えた。


 俺は動かない。


「板付きね」

「はい」


 板付きが何かは、わからん。とりあえずここに立っていればいいらしい。


「手すりは、持っても持たなくてもいい」

「はい」

「じゃあ、行きましょう」


 助監督の人が床のテープを踏んで、位置を直した。


 照明の人が脚立を動かした。動かして、少し戻した。脚立の足が下の段に半分だけ乗って、乗ったところに誰かが手を添えていた。


 現場が静かになっていった。機材を動かす音だけが残った。


   ◇


「回します」


 現場の音が、消えた。


 俺は踊り場に立っていた。


 下を見た。カメラがあって、その後ろに人がいて、そのまた後ろにも人がいた。壁際の人が、全員こっちを向いていた。


「ヨーイ、スタート」


 鉄の階段を、靴が叩く音が上がってきた。


 現場の音が、遠のいた。


 カメラのモーターの音も、外の道の音も、遠くの工事の音も、全部が薄い膜の向こうに行った。


 代わりに、輪郭がはっきりした。


 階段の手すりに、錆が三か所出ているのが見えた。上がってくる人の上着の、右の肩だけが少し濡れているのが見えた。その人の目が、俺の顔ではなく、俺の肩のあたりで止まったのが見えた。


 背筋が、伸びた。


 桧山さんが、階段の途中で止まった。


 上を見た。


 俺は見ていた。


 何も言わなかった。言うことは無い。台詞は抜いてある。


 二秒。三秒。


「……カット」


   ◇


 誰も動かなかった。


 監督が、モニターから顔を上げなかった。


 助監督の人が、ストップウォッチを持ったまま、押すのを忘れていた。記録の人はペンを持っていたが、紙に付けていなかった。


 俺は踊り場に立っていた。


 ――手すりが、思ったより細い。


 これに全体重をかけたら折れるんじゃないか、というくらい細かった。折れたら痛い。


「OKです」


 監督の声だった。誰かが息を吐いた。吐いた音が、階段の下から上がってきた。


 それから、少し間があって、もう一度言った。


「……押さえで、もう一本だけ撮らせてください」


   ◇


 押さえの一回が終わって、次のシーンに移った。


 記録の人が、台本から顔を上げずに言った。


「二回とも、目線は同じでした」

「はい」

「同じって、けっこう難しいんですよ」


 三つとも、昼までに終わった。


 最後の一つが終わったとき、桧山さんが階段の下で立ち止まった。


 立ち止まって、モニターのほうへ行った。


 モニターの前に座って、さっきの画を見ていた。長かった。誰も声をかけなかった。


 その人の膝が、少し揺れていた。貧乏ゆすりというやつである。俺の父さんはやらない。母さんはやる。


 しばらくして、その人は立ち上がって、スタッフの人のところへ行った。


「もう一段、下から入れますか」


 言われたスタッフの人は、少し驚いた顔をしていた。


 驚いた顔のまま、階段の下を見に行った。


 その人は結局、俺のところには来なかった。階段の下で、スタッフの人が段を三つ数えていた。


 弁当は出なかった。


「高町くん、ごめん、今日、君の分、数に入れてなくて」

「はい」

「昼までに終わる予定だったから」

「はい」


 俺は自販機の前を通った。百八十円入れて、青を買った。取り出し口の蓋が固くて、二回押したら開いた。


 俺は自分の椅子に戻った。


 椅子の背もたれの紙は、角が丸まっていた。俺は座った。


   ◇


 衣装の部屋は、来たときより暗かった。奥の蛍光灯が一本消えていた。


 着替えに戻ったときに、腕が上がらなかった。


 衣装の上を脱ごうとして、肘のところで止まった。


 止まって、そのままだった。


 鏡の前の椅子に座って、少し待った。腕は重くなかった。肘から先が、動かなかった。


「あ、脱がせるね」


 衣装の人が来た。


 その人は俺の後ろに回って、袖を引いた。片方ずつ引いて、抜いた。


「毎回これ、脱ぎにくいのよね」

「はい」

「ボタン、下から二個目が固くて」

「はい」

「みんな詰まるの、ここで」


 その人は上を畳んで、ハンガーにかけた。ハンガーの首を回して、番号の書いた札を外側へ向けた。


 俺は椅子に座ったまま、自分のシャツを着るのに、いつもの倍かかった。ボタンは下から留めた。三つ目で一度、手を止めた。


「わたし、いつもここで一本飲むの」


 その人は紙コップを二つ持ってきて、片方を俺の前に置いた。


 水だった。


 その人は自分のぶんを一息で飲んで、コップを潰した。


   ◇


 鞄が、足元にあった。


 開けたら、中から声がした。


「あんた」

(うん)

「今日、あの人、あんたを見たわね」

(見た)

「昨日は見なかったのに」

(そうだな)

「見ると、決まるのよ」

(何が)

「見えてないの、あんただけよ」


 ミューナはそこで黙った。


 俺は鞄を持ち上げた。軽かった。


   ◇


 椅子に座って、十五分くらいいた。


 通りかかった人が、三人か四人、何か言っていった。全部「お疲れさま」だった。そのうちの一人は、名前を知らない人だった。昨日も同じ場所を通っていた。


 犬飼さんが来たのは、十五時前だった。まだ現場の音がしていた。


「立てるか」

「立てます」

「そうか」


 犬飼さんは俺の前に立った。


「事務所に寄る」

「はい」

「十分で出る」

「はい」


 それから、行った。


 行く背中を、俺は見ていた。


 頭を下げたときと、同じ角度で歩いていた。


   ◇


 事務所に着いたのは十六時前だった。


 犬飼さんは四階へ上がっていった。俺は二階の廊下で待つことになった。階段は狭かった。上る人と下りる人が、途中で一度すれ違った。


 レッスン室Aの前である。壁に寄りかかると怒られそうな気がしたので、寄りかからずに立っていた。立っていると、足の裏が痛くなってくる。俺は床に座った。


 座って、三分くらい経った。床は冷たくなかった。掃除機をかけたあとらしく、細かい埃が壁際に寄っていた。


 レッスン室Aのドアは閉まっていた。中に誰かいるらしく、時々、音がした。足の裏が床を擦る音だった。同じところで二回止まった。


 入口から三枚目の床板が、一度だけ鳴った。


 ぎ、と鳴った。


   ◇


 廊下の向こうから、足音がした。


 神楽坂さんだった。


 紙の束を抱えている。抱えている手の、指の付け根にマメがあった。右の手のほうが多い。


 俺は立ち上がった。立つときに、膝が一度鳴った。


「おつかれさまです」

「……あなた」

「はい」


 神楽坂さんは足を止めた。止めて、抱えた紙を持ち直した。


「二日、待ってたんですって?」

「座ってました」

「座ってたの」

「はい」


 神楽坂さんは、俺の顔を見た。


 見て、それから、廊下の先のほうを見た。


「それだけ」


 神楽坂さんは行った。


 行きながら、一度だけ振り返って、こう言った。


「その椅子、大事にしなさい」


 椅子は撮影所のものだった。持って帰れない。


   ◇


 車に戻ったら、犬飼さんが先に乗っていた。


 乗って、ハンドルに手を置いたまま、動かしていなかった。


「終わりましたか」

「終わった」

「はい」


 車が出た。


 しばらく走ってから、犬飼さんが言った。


「今日、廊下にいたな」

「いました」

「聞いたか」

「聞きました」

「そうか」


 信号が赤になった。


「弁当は出たか」

「出ませんでした」

「そうか」


 窓の外に、コンビニがあった。看板の電気が、右の端だけ切れていた。


 車が動いた。


   ◇


 家に着いたのは十八時二十分だった。


 部屋に上がって、鞄を置いて、下りてきた。


 台所に入ったら、妹が立っていた。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「何時に喋った」

「今」

「今?」

「今だ」


 妹はスマホを出して、指を動かした。


「二十二分」

「そうか」

「あたし、今日のやつの音、合わせ直したから」

「そうか」

「兄ちゃんのじゃないよ。犬の動画」


 妹は麦茶を出して、自分のコップに注いだ。


   ◇


 夕飯は、鶏を煮たやつだった。骨が付いていた。妹の皿には、骨のないところが乗っていた。


 俺は食べた。食べているところに、スマホが震えた。


 熊沢だった。


 〈高町〉

 〈お前明日学校来る?〉

 〈行く〉

 〈来ないほうがいいかも〉

 〈なんでだ〉

 〈なんかすげえことになってる〉


 俺は箸を置いて、画面を見た。


 〈なにが〉


 既読が付いた。付いたまま、しばらく何も来なかった。その間に、妹が二階へ上がっていった。上で、ドアの閉まる音がした。


 それから、一行だけ来た。


 〈来ればわかる〉


 俺はスマホを伏せて、鶏の残りを食べた。汁が皿の底に残っていたので、そこに飯を入れた。


 明日は普通に授業がある。行かない理由が無い。


 俺はそう決めて、二杯目をよそいに立った。


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