第40話 うちのは何も悪くない
朝、家の前に来たのは有本さんの車だった。
小さい車である。助手席にタブレットと、紙の束と、コンビニの袋が置いてあった。有本さんはそれを全部後ろに移してから、俺を乗せた。
「おはようございます」
「おはようございます!」
有本さんの声は、朝から大きかった。
「犬飼さん、先に行きました」
「はい」
「六時に出ました」
「はい」
「わたし、五時に起こされました」
「はい」
有本さんはシートベルトを二回引っ張ってから、車を出した。後ろの席は紙の束で半分埋まっていた。角が揃っていない。
◇
途中の信号で、有本さんが言った。
「昨日、大丈夫でしたか」
「大丈夫です」
「怒ってないですか」
「怒ってないです」
「……そうですか」
有本さんはハンドルを握り直した。
「わたし、昨日、家で怒りました」
「はい」
「一人で」
「はい」
「誰にも言ってないので、内緒です」
俺は頷いた。
誰にも言っていないことを、今、俺に言っている。
内緒とは。
◇
ゲートを入ったのは八時二十分だった。守衛の小窓は閉まっていて、中の人は、こっちを見て一度だけ手を上げた。
降りて、セットのほうへ歩いた。
空気が、昨日と違っていた。門から建物までのあいだに、人が三人立っていた。三人とも黙っていた。
どこが違うのかは、はっきりしない。人の数は同じである。機材の位置も同じである。ただ、喋っている人が少なかった。少ないぶん、機材を動かす音がよく聞こえた。
俺の椅子は、昨日と同じところにあった。
背もたれの紙も、そのままだった。下の端が、昨日より一センチだけ垂れていた。
◇
九時に、助監督の人が来た。
A4を折った紙を持っている。持っているが、開かなかった。
「今日、朝いちで君のを行きます」
「はい」
「一つ目、二つ目、三つ目の順で、全部今日です」
「はい」
「……昨日は、ほんとにごめんね」
「はい」
助監督の人は、そこで紙を開いて、また閉じた。
「変わったから」
「何がですか」
「順番が」
「はい」
その人は行った。持っていた紙は、最後まで開かなかった。
順番が変わったのは、昨日から数えて五回目だった。
◇
メイクの部屋の前を通ったときに、声が聞こえた。
中で、誰かが喋っていた。
「朝、揉めたんだって」
「揉めたっていうか」
「マネージャー同士でしょ」
「ううん。うちの現場の人も入ってた」
「うわ」
「でも、静かだったよ。声、全然大きくなかった」
俺はそのまま通り過ぎた。ドアの隙間から、髪を乾かす音がしていた。
揉めたのに、静かだったらしい。
◇
衣装に着替えて、外へ出た。
廊下の途中で、室井さんとすれ違った。撮り足しは今日もあるらしい。
室井さんは、すれ違いざまに掃除の人に頭を下げた。俺の横は、そのまま通っていった。
セットの外廊下ではなく、今日は外の階段のほうである。撮影所の建物の裏に、鉄の外階段が付いていて、そこを使うことになっていた。本物の階段である。段の縁に滑り止めが貼ってあって、四段目だけが剥がれて丸まっていた。
着替えて出たところに、廊下があった。
その廊下の突き当たりに、人が三人立っていた。
一人は犬飼さんだった。
残りの二人は知らない人である。片方はスーツで、片方は首から札を下げていた。札は裏返っていた。紐が捻れている。
犬飼さんは、こっちに背中を向けていた。
背中は、まっすぐだった。壁にも寄りかからず、足も組まず、両手を体の横に下ろして立っていた。
声が、こっちまで届いた。
「間が長いというのは、こちらでは直せません」
「いや、そういう話じゃなくてね」
「では、どういう話ですか」
スーツの人が何か言った。短かった。
犬飼さんは、少しも動かなかった。
「うちのは何も悪くない」
それだけだった。
言ったあとで、犬飼さんは頭を下げた。深く下げた。下げてから、また同じ角度で立った。
◇
俺は廊下の反対側の端に立っていた。
三人は、こっちを見なかった。
俺は自分の衣装の袖を見た。袖の内側に、洗濯の札が付いている。前に着たときには気づかなかった。字は薄くて、二行あった。上の行だけ読めた。
顔を上げたら、三人はもういなかった。
犬飼さんが、こっちへ歩いてきた。
「着替えたか」
「着替えました」
「そうか」
「犬飼さん」
「なんだ」
「うちのって、車のことですか」
「……車?」
犬飼さんは足を止めた。
「うちの車、いつも入口から遠いところに停まるので」
「高町」
「はい」
「そういう話じゃない」
「はい」
「行け」
「はい」
俺は行った。
行きながら、じゃあ何の話だったのかを考えて、途中でやめた。腹が減っていた。
◇
外階段には、人が集まっていた。
カメラの後ろに人がいて、階段の下にも人がいて、上の踊り場にも人がいた。壁際に立っている人が、昨日より多かった。昨日は座っていた人が、今日は立っていた。椅子は畳んで壁に寄せてあった。
その中に、桧山さんがいた。
上着を着ていた。昨日は肩にかけていた上着を、今日はちゃんと着ていた。ボタンは、上から二つ目まで留めてあった。
「おはようございます」
俺は頭を下げた。下げたときに、鉄の匂いがした。階段の匂いだった。
桧山さんは、こっちを見た。
見て、それから、目を逸らした。逸らしてから、もう一度こっちを見た。
「……おはよう」
返事は、それで終わりだった。
俺は頭を上げた。
昨日より、返事が一つ多い。
◇
監督が来た。
台本を持っていない。持たずに、階段の下から上を見て、それから俺のところへ来た。
「ここ、台詞やめよう」
「はい」
「黙ってて。上から見てるだけでいい」
「はい」
「いい?」
「はい」
監督は言い終わってから少し待って、それから助監督の人のほうへ振り返った。
「台詞、抜きます!」
「抜きます!」
声が回っていった。いちばん遠いところにいた人が、最後に一度だけ手を上げた。
記録の人が台本にペンを入れた。入れる音が、ここまで聞こえた。入れたあとで、消しゴムを一度かけた。
俺は覚えることが一つ減ったので、少し楽になった。台本は、椅子の上に置いたままにした。
◇
段取りをやった。
俺は階段の上の踊り場に立つ。下から桧山さんが上がってくる。途中で止まって、上を見る。それだけである。
踊り場は、人が二人立てるだけの広さだった。手すりの外に、駐車場が見えた。
俺は動かない。
「板付きね」
「はい」
板付きが何かは、わからん。とりあえずここに立っていればいいらしい。
「手すりは、持っても持たなくてもいい」
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
助監督の人が床のテープを踏んで、位置を直した。
照明の人が脚立を動かした。動かして、少し戻した。脚立の足が下の段に半分だけ乗って、乗ったところに誰かが手を添えていた。
現場が静かになっていった。機材を動かす音だけが残った。
◇
「回します」
現場の音が、消えた。
俺は踊り場に立っていた。
下を見た。カメラがあって、その後ろに人がいて、そのまた後ろにも人がいた。壁際の人が、全員こっちを向いていた。
「ヨーイ、スタート」
鉄の階段を、靴が叩く音が上がってきた。
現場の音が、遠のいた。
カメラのモーターの音も、外の道の音も、遠くの工事の音も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
階段の手すりに、錆が三か所出ているのが見えた。上がってくる人の上着の、右の肩だけが少し濡れているのが見えた。その人の目が、俺の顔ではなく、俺の肩のあたりで止まったのが見えた。
背筋が、伸びた。
桧山さんが、階段の途中で止まった。
上を見た。
俺は見ていた。
何も言わなかった。言うことは無い。台詞は抜いてある。
二秒。三秒。
「……カット」
◇
誰も動かなかった。
監督が、モニターから顔を上げなかった。
助監督の人が、ストップウォッチを持ったまま、押すのを忘れていた。記録の人はペンを持っていたが、紙に付けていなかった。
俺は踊り場に立っていた。
――手すりが、思ったより細い。
これに全体重をかけたら折れるんじゃないか、というくらい細かった。折れたら痛い。
「OKです」
監督の声だった。誰かが息を吐いた。吐いた音が、階段の下から上がってきた。
それから、少し間があって、もう一度言った。
「……押さえで、もう一本だけ撮らせてください」
◇
押さえの一回が終わって、次のシーンに移った。
記録の人が、台本から顔を上げずに言った。
「二回とも、目線は同じでした」
「はい」
「同じって、けっこう難しいんですよ」
三つとも、昼までに終わった。
最後の一つが終わったとき、桧山さんが階段の下で立ち止まった。
立ち止まって、モニターのほうへ行った。
モニターの前に座って、さっきの画を見ていた。長かった。誰も声をかけなかった。
その人の膝が、少し揺れていた。貧乏ゆすりというやつである。俺の父さんはやらない。母さんはやる。
しばらくして、その人は立ち上がって、スタッフの人のところへ行った。
「もう一段、下から入れますか」
言われたスタッフの人は、少し驚いた顔をしていた。
驚いた顔のまま、階段の下を見に行った。
その人は結局、俺のところには来なかった。階段の下で、スタッフの人が段を三つ数えていた。
弁当は出なかった。
「高町くん、ごめん、今日、君の分、数に入れてなくて」
「はい」
「昼までに終わる予定だったから」
「はい」
俺は自販機の前を通った。百八十円入れて、青を買った。取り出し口の蓋が固くて、二回押したら開いた。
俺は自分の椅子に戻った。
椅子の背もたれの紙は、角が丸まっていた。俺は座った。
◇
衣装の部屋は、来たときより暗かった。奥の蛍光灯が一本消えていた。
着替えに戻ったときに、腕が上がらなかった。
衣装の上を脱ごうとして、肘のところで止まった。
止まって、そのままだった。
鏡の前の椅子に座って、少し待った。腕は重くなかった。肘から先が、動かなかった。
「あ、脱がせるね」
衣装の人が来た。
その人は俺の後ろに回って、袖を引いた。片方ずつ引いて、抜いた。
「毎回これ、脱ぎにくいのよね」
「はい」
「ボタン、下から二個目が固くて」
「はい」
「みんな詰まるの、ここで」
その人は上を畳んで、ハンガーにかけた。ハンガーの首を回して、番号の書いた札を外側へ向けた。
俺は椅子に座ったまま、自分のシャツを着るのに、いつもの倍かかった。ボタンは下から留めた。三つ目で一度、手を止めた。
「わたし、いつもここで一本飲むの」
その人は紙コップを二つ持ってきて、片方を俺の前に置いた。
水だった。
その人は自分のぶんを一息で飲んで、コップを潰した。
◇
鞄が、足元にあった。
開けたら、中から声がした。
「あんた」
(うん)
「今日、あの人、あんたを見たわね」
(見た)
「昨日は見なかったのに」
(そうだな)
「見ると、決まるのよ」
(何が)
「見えてないの、あんただけよ」
ミューナはそこで黙った。
俺は鞄を持ち上げた。軽かった。
◇
椅子に座って、十五分くらいいた。
通りかかった人が、三人か四人、何か言っていった。全部「お疲れさま」だった。そのうちの一人は、名前を知らない人だった。昨日も同じ場所を通っていた。
犬飼さんが来たのは、十五時前だった。まだ現場の音がしていた。
「立てるか」
「立てます」
「そうか」
犬飼さんは俺の前に立った。
「事務所に寄る」
「はい」
「十分で出る」
「はい」
それから、行った。
行く背中を、俺は見ていた。
頭を下げたときと、同じ角度で歩いていた。
◇
事務所に着いたのは十六時前だった。
犬飼さんは四階へ上がっていった。俺は二階の廊下で待つことになった。階段は狭かった。上る人と下りる人が、途中で一度すれ違った。
レッスン室Aの前である。壁に寄りかかると怒られそうな気がしたので、寄りかからずに立っていた。立っていると、足の裏が痛くなってくる。俺は床に座った。
座って、三分くらい経った。床は冷たくなかった。掃除機をかけたあとらしく、細かい埃が壁際に寄っていた。
レッスン室Aのドアは閉まっていた。中に誰かいるらしく、時々、音がした。足の裏が床を擦る音だった。同じところで二回止まった。
入口から三枚目の床板が、一度だけ鳴った。
ぎ、と鳴った。
◇
廊下の向こうから、足音がした。
神楽坂さんだった。
紙の束を抱えている。抱えている手の、指の付け根にマメがあった。右の手のほうが多い。
俺は立ち上がった。立つときに、膝が一度鳴った。
「おつかれさまです」
「……あなた」
「はい」
神楽坂さんは足を止めた。止めて、抱えた紙を持ち直した。
「二日、待ってたんですって?」
「座ってました」
「座ってたの」
「はい」
神楽坂さんは、俺の顔を見た。
見て、それから、廊下の先のほうを見た。
「それだけ」
神楽坂さんは行った。
行きながら、一度だけ振り返って、こう言った。
「その椅子、大事にしなさい」
椅子は撮影所のものだった。持って帰れない。
◇
車に戻ったら、犬飼さんが先に乗っていた。
乗って、ハンドルに手を置いたまま、動かしていなかった。
「終わりましたか」
「終わった」
「はい」
車が出た。
しばらく走ってから、犬飼さんが言った。
「今日、廊下にいたな」
「いました」
「聞いたか」
「聞きました」
「そうか」
信号が赤になった。
「弁当は出たか」
「出ませんでした」
「そうか」
窓の外に、コンビニがあった。看板の電気が、右の端だけ切れていた。
車が動いた。
◇
家に着いたのは十八時二十分だった。
部屋に上がって、鞄を置いて、下りてきた。
台所に入ったら、妹が立っていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「何時に喋った」
「今」
「今?」
「今だ」
妹はスマホを出して、指を動かした。
「二十二分」
「そうか」
「あたし、今日のやつの音、合わせ直したから」
「そうか」
「兄ちゃんのじゃないよ。犬の動画」
妹は麦茶を出して、自分のコップに注いだ。
◇
夕飯は、鶏を煮たやつだった。骨が付いていた。妹の皿には、骨のないところが乗っていた。
俺は食べた。食べているところに、スマホが震えた。
熊沢だった。
〈高町〉
〈お前明日学校来る?〉
〈行く〉
〈来ないほうがいいかも〉
〈なんでだ〉
〈なんかすげえことになってる〉
俺は箸を置いて、画面を見た。
〈なにが〉
既読が付いた。付いたまま、しばらく何も来なかった。その間に、妹が二階へ上がっていった。上で、ドアの閉まる音がした。
それから、一行だけ来た。
〈来ればわかる〉
俺はスマホを伏せて、鶏の残りを食べた。汁が皿の底に残っていたので、そこに飯を入れた。
明日は普通に授業がある。行かない理由が無い。
俺はそう決めて、二杯目をよそいに立った。




