第39話 誰かの機嫌が悪いらしい
車が動き出してすぐ、犬飼さんが一枚の紙を寄こした。
助手席で受け取った。印刷した紙である。白黒の写真が上のほうにあって、下に細かい字が並んでいた。
写真の人は、こっちを見て笑っていた。目も笑っている。口も笑っている。全部が同じ方向に動いている顔だった。
「この人だ」
「はい」
「四十四だ」
「はい」
「長くやってる人だ。主演を張り続けてる」
「はい」
俺は紙を膝に置いた。紙の端が少し反っていた。刷ったばかりらしく、指が黒くなった。
「この人、笑ってますね」
「写真だからな」
犬飼さんはそこで少し黙った。
「挨拶はしろ」
「はい」
「それ以上は、するな」
「はい」
俺は頷いた。
それ以上というのが何なのかは、聞かなかった。
紙をもう一度見た。
写真の下の細かい字に、出た作品の名前が並んでいた。数えたら、俺が題名を聞いたことのあるものは一つも無かった。
うちの母さんなら、たぶん全部知っている。今度、この紙を見せてみようと思った。見せると、二時間かかる気がしたので、やめることにした。
◇
みなと撮影所は、二回目である。
ゲートは開いていた。守衛の小窓が開いていて、中の人が手を上げた。前に来たときと同じ人だった。俺も手を上げた。
ワゴンは敷地に入って少し先で止まった。止まる場所も同じだった。
降りたところに水たまりがあった。夜のうちに降ったらしい。俺は跨いだ。
降りて、セットのほうへ歩いた。
アパートの外廊下は、まだそのままだった。ドアが四つ並んでいて、一つだけが本物の部屋につながっている。三つは開かない。本物のドアの前の床に、前のバミりテープの跡が残っていた。
その手前に、折りたたみの椅子が一つ置いてあった。
背もたれに紙が貼ってある。
〈高町様〉
字が薄くなっていた。養生テープの端が丸まって、めくれ上がっている。テープは三重に貼ってあった。上の一枚だけが新しかった。
「取っといたんですよ」
後ろから声がした。制作進行の人だった。上着の前は今日も開いている。
「捨てなかったんですか」
「捨てられないでしょ、それ」
「はい」
「一回、掃除の人が剥がしかけたんで、止めました」
「はい」
その人はもう別の方向を見ていた。見ながら喋っていた。
「今日、押します」
「もうですか」
「もう押してます」
◇
挨拶回りをした。
監督、カメラ、照明、録音の順である。前に言われた順番を、そのままやった。四回下げた。
照明の人は脚立の上にいた。下から頭を下げたので、向こうからは頭の上しか見えていない。
最後に、セットの奥のほうに人が集まっているところへ連れていかれた。
その真ん中に、写真の人がいた。
写真より、髪が短かった。上着を肩にかけていて、手にペットボトルを持っている。周りに四人いて、四人ともその人のほうを向いていた。俺が近づいたら、四人のうち二人が体を向け直した。
「桧山さん、ソレイユの高町くんです」
助監督の人が言った。
俺は頭を下げた。
「高町です。お願いします」
桧山さんは、ペットボトルの蓋を閉めた。
閉めてから、助監督の人のほうを見て言った。
「あぁ、切り抜きの子ね」
それから、四人のほうへ体を戻した。話の続きが始まった。
俺は頭を上げた。
知っていてくれた。話が早い。
◇
犬飼さんが、俺の三歩後ろに立っていた。
振り向いたら、ポケットから何かを出しているところだった。
犬飼さんは細長い袋の端を歯で切って、口に入れて、水を飲まずに飲み込んだ。
俺はそれを見て、前を向いた。
◇
椅子は、一つしか無かった。
前に来たときは二つあった。俺のと、誰も座らないほうである。二つ目は、どこかへ行っていた。
◇
第六話の台本を渡された。
前のより厚かった。表紙に話数が書いてあって、その下に日付が入っている。
俺の名前が出てくるページに、付箋が貼ってあった。貼ったのは有本さんである。三枚あった。三枚とも同じ色で、端が少しずつずれて貼ってあった。
開いて、読んだ。
隣の部屋の子が、もう一度出てくる。今度は相手が違う。ドアの前でも廊下でもなく、外の階段のところだった。
読み終わって、椅子に座った。
「高町さん」
有本さんが来た。タブレットを抱えている。
「今日と明日で、全部撮ります」
「はい」
「今日が二つ、明日が一つです」
「はい」
「今日のうちの一つ目が、十時からの予定です」
「はい」
俺は時計を見た。九時四十分だった。
◇
十時になった。
俺は座っていた。
十時半になった。
俺は座っていた。
椅子の脚が一本だけ短かった。体重をかけると、床に当たって音がした。
十一時に、助監督の人が来た。
「高町くん、ごめん、順番変わった」
「はい」
「先に主演のシーンを固めることになって」
「はい」
「たぶん、昼過ぎになります」
「はい」
「……ほんとごめんね」
「大丈夫です」
助監督の人は行った。
行って、五分後にまた戻ってきた。
「あ、あと、立ち位置なんだけど」
「はい」
「半歩、下がれる?」
「下がれます」
「うん。半歩ね」
「はい」
「……こっちの都合で、ごめんね」
「はい」
その人は行った。
半歩下がるのは、前にもやった。あのときは上手だった。今度は後ろだ。
◇
昼の弁当は、スタッフの人と同じ箱だった。
二回目の現場でも同じ箱だった。誰も何も言わずに同じ箱を持ってきた。
中身は生姜焼きと、キャベツと、たくあんが二枚だった。たくあんは、妹が嫌いなやつだった。
俺は食べた。食べているところに、制作進行の人が横を通った。
「桧山さん、今日は楽屋で食べるって」
「はい」
「珍しいんですけどね」
その人はそのまま行った。
珍しいのか。
俺はこの現場の桧山さんを、今日はじめて見た。
◇
弁当の箱を返しに行くときに、楽屋の前を通った。
ドアが半分開いていた。中で、桧山さんが椅子に座って、スマホを縦に持ったまま動かなかった。弁当の箱は、手をつけずに横に置いてあった。
画面に、数字が並んでいた。妹が俺に見せてきた画面と、並び方が同じだった。
桧山さんは指で画面を下へ送って、また上へ戻した。三回やった。
俺は通り過ぎた。
◇
昼過ぎに、室井さんが来た。
第六話には出ないと聞いていた。第一話の撮り足しがあるらしい。
室井さんはセットに入る前に、照明の人と録音の人のところへ行って、頭を下げた。それから壁際に立って、動かなかった。
呼ばれて、入って、一回で終わった。
終わったあと、また同じ二人のところへ行って、また頭を下げて、帰っていった。
俺の椅子の前を二回通ったが、二回とも同じ速さだった。
◇
午後になった。
俺は座っていた。
セットの向こうで、同じシーンを撮っていた。
「すみません、頭からお願いします」
声が飛んだ。桧山さんの声だった。
撮って、止まって、また撮った。
「頭から」
撮って、止まって、また撮った。
「すみません、今の、もう一度いいですか」
十一回のあいだに、照明の位置が二回変わった。脚立が動くたびに、床のテープが踏まれた。
記録の人が、台本に何かを書き足していた。書き足すたびに、ページの端が黒くなっていく。
助監督の人が、ストップウォッチを二回見た。
俺は数を数えていた。
同じシーンで、十一回撮っていた。
◇
十四時ごろ、監督が俺の椅子の前を通った。
通って、二歩戻ってきた。
「待たせてるね」
「はい」
「ごめんね」
「はい」
監督の首から、細い紐で名札が下がっていた。裏返っていて、字は見えなかった。
監督は現場のほうを一度見て、それから小さい声で言った。
「先に君のを撮りたかったんだけどね」
「はい」
「まあ、いろいろあるのよ」
「はい」
監督は行った。
いろいろ、と監督は言った。うちの母さんも使う。母さんが「いろいろあるのよ」と言うときは、だいたい買い物の話だ。
◇
十五時に、また助監督の人が来た。
「今日、一つ目は明日に回します」
「はい」
「二つ目だけ、今日やります」
「はい」
「夕方です。……たぶん」
「はい」
「ごめんね」
「はい」
その人は、今日これで七回謝った。
俺は謝られる理由を、一つも思いつかなかった。
◇
鞄の中から声がした。
「あの人、今日、あんたのほう一度も見てないわね」
(そうか)
「一度もよ。挨拶のときも、横を向いてたわ」
(見なくていいだろ)
「よくないわよ」
(見なくても、仕事は進んでる)
ミューナは黙った。
黙ってから、こう言った。
「そういうことじゃないの」
(じゃあ、どういうことだ)
「……あんた、いいわ、もう」
鞄の中で、何も言わなくなった。
俺はファスナーを半分閉めた。
◇
十六時に、桧山さんが俺の椅子の横を通った。
通りながら、後ろの人に喋っていた。
「若いっていいね」
「そうっすね」
「何やっても、誰か拾ってくれる」
「はは」
二人は行った。その人の靴は底が薄くて、歩いても音がしなかった。
俺は椅子に座ったまま、聞いていた。
拾ってくれる。たしかにそうだと思った。この現場に来るまでに、俺は事務所に拾われて、監督に拾われて、脚本の人に拾われている。
合っている。
◇
少し離れたところで、有本さんが立っていた。
立って、口を半分開けていた。
その隣に犬飼さんがいた。犬飼さんは何も言わなかった。言わないで、桧山さんが行った方向を、しばらく見ていた。
俺は椅子から立って、そっちへ行った。
「犬飼さん」
「なんだ」
「弁当、明日も同じ箱ですかね」
「知らん」
「はい」
犬飼さんは俺の顔を見た。
見て、口を開けて、それから閉じた。
「座ってろ」
「はい」
俺は座った。座ってから、足の裏を床に付け直した。踵が少し痺れていた。
◇
少し離れたところで、助監督の人と制作進行の人が喋っていた。
背中を向けたまま喋っていた。声はこっちまで来た。
「これ、今日入らないですよ」
「入れます」
「桧山さん、あと二つ残ってますよ」
「順番、組み直します。もう一度」
「三回目ですよ、それ」
「四回目です」
紙をめくる音がした。
「あの子、朝から座ってるだけですよ」
「わかってます」
「椅子、片づけないでくださいね」
「片づけませんよ。あれ、うちの現場の名物なんで」
「怒らないんですか、あの子」
「怒らないみたいです」
「うわ」
二人は別々の方向へ行った。紙をめくる音が、遠ざかりながら二回した。
俺は椅子に座って、ドアを数えていた。四つある。開くのは一つだけである。開かない三つのうち、真ん中の一つだけ、ノブが少し曲がっていた。
◇
十八時になった。
照明が組み替えられて、外の階段のところにライトが二つ立った。ライトの前を虫が横切って、そのたびに壁へ大きい影が出た。
俺はメイクの部屋に呼ばれて、顔を直してもらって、衣装に着替えた。鏡の前に丸い椅子が四つ並んでいて、座面の高さが一つだけ低かった。
着替えて、セットの前まで歩いた。
歩いたところで、止められた。
「あ、ごめん、まだです」
「はい」
「もうちょっとだけ」
「はい」
俺は椅子に戻った。
着替えたまま座ると、背もたれの当たる位置が変わった。前に一度やったので、今度は最初から少し前に座った。
◇
十九時に、制作進行の人が紙コップを持ってきた。
中身は茶だった。ぬるかった。紙コップの縁が少し潰れていて、俺は潰れていないほうを口に付けた。
「すみません、これしか無くて」
「ありがとうございます」
「ほんとに、すみません」
「はい」
「今日、俺、高町くんに謝ってばっかりです」
「はい」
その人は箱の山に手をついた。ついて、そのまま少し体重をかけた。
「初日、お茶運んでもらったのに」
「はい」
「今日は、俺が持ってきました」
「はい」
「一往復です」
俺は飲んだ。
ぬるい茶は、夏に九回飲んだ。あれは仕事だった。
今日のは、ぬるいだけだった。
◇
二十時になった。
まだだった。
二十一時になった。
まだだった。
外は暗くなっていた。セットの中は、朝と同じ明るさだった。
二十一時二十分に、犬飼さんが現場のほうへ歩いていくのが見えた。歩いて、助監督の人と何か話して、それから監督のところへ行った。
戻ってきたときには、二十一時三十五分だった。
「今日は無い」
「はい」
「明日に回った」
「はい」
「着替えろ」
「はい」
俺は立ち上がって、メイクの部屋のほうへ歩いた。
歩きながら、生姜焼きの味を思い出した。
朝から、椅子から立ったのは四回だった。
◇
ゲートを出たのは二十一時五十分だった。
膝は普通だった。歩幅も、いつもと同じだった。
車に乗って、ドアを閉めた。シートベルトが途中で一度引っかかった。引き直したら通った。
「今日、何もしてないです」
「そうだな」
「明日は三つですか」
「三つだ」
「はい」
犬飼さんはエンジンをかけた。
かけて、しばらく出さなかった。ハンドルに両手を置いたまま、前を見ていた。
前には、閉まりかけのゲートがあった。
「高町」
「はい」
「何か食って帰れ」
「はい」
車が出た。
◇
帰り道で、有本さんから連絡が来た。
文字は四行に分かれて届いた。一行ずつ送ってきた。
〈高町さん、今日はお疲れさまでした〉
〈明日は入りが同じです〉
〈朝、ちょっと早めに現場に入ります〉
〈犬飼さんが、先に行くそうです〉
俺は〈はい〉と打った。
打ってから、先に行って何をするのかを考えた。
考えて、たぶん場所を押さえるとか、そういうことだろうと思った。うちの事務所の車は、いつも入口から遠いところに停まる。
◇
家に着いたのは二十三時前だった。
妹が階段の下に立っていた。腕を組んでいる。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「何時に喋った」
「今」
「今?」
「今だ」
「……ゼロじゃん」
妹はスマホを出して、画面を見た。
「今日、何したの」
「何もしてない」
「撮影は」
「明日になった」
「はあ?」
妹は階段を一段上がって、そこで振り返った。
「兄ちゃん、それ、怒っていいやつじゃないの」
「怒ることか」
「一日座ってたんでしょ」
「座ってた」
「怒りなよ」
「腹は減った」
妹は俺の顔を見た。
見て、それから、何も言わずに台所のほうへ行った。行って、鍋の蓋を開ける音がした。鍋はまだ温かかったらしく、蓋を置く音のあとに、湯気の匂いが上がってきた。
◇
部屋に上がって、明日の香盤表を開いた。
紙の右上に、綴じたときの穴が二つ空いていた。
俺の行は、三つあった。
いちばん右の欄に、二行だけ書いてある。
〈※高町 22時上がり〉
もう一行は、字が潰れていて読めなかった。
俺は香盤表を机の端に寄せた。
明日は三つある。今日は零だった。
朝に何か入れておこうと思って、電気を消した。
消してから、もう一度香盤表を見た。読めない一行が、俺の行のすぐ下にあった。




