第38話 本編より切り抜き
教室に入ったら、黒板の右端に何か書いてあった。
〈今日 24:12〉
数字だけである。作品名も、局名も、俺の名前も書いていない。書いていないのに、誰が書いたのかはわかった。
早坂千尋が自分の席で振り返って、俺を見て、黒板を見て、また俺を見た。
「消していい?」
後ろの席の誰かが言った。
「消さないで」
「はい」
早坂は消さなかった。消さないでほしいと言ったのは俺ではない。俺は消してほしかった。
「高町くん、消さないでって言った?」
「言ってない」
「言ってたよ」
言っていない。
だが、早坂の中ではもう決まっていた。俺は自分の席に座った。
◇
二時間目のあとで、熊沢が後ろから俺の椅子を蹴った。
「二十四時十二分って何時」
「夜中の零時十二分だ」
「は?」
「土曜の朝だ」
「土曜の朝に金曜のドラマやってんの?」
「そうらしい」
熊沢は腕を組んで、三秒くらい黙った。
「ねむ」
「寝てろ」
「録画する」
「そうしろ」
熊沢は自分の席に戻って、すぐ隣の男に「高町がドラマ出るらしいぞ」と言っていた。隣の男は「知ってる」と答えていた。
黒板の数字は、昼まで残っていた。チョークの粉が、下の受けに少し落ちていた。
俺より先に、全員が知っている。
◇
昼休みに、美咲が黒板を消した。
黒板消しを二回叩いて、粉を落として、それから俺の机の横に来た。
「あれ、先生に見つかると面倒だから」
「そうか」
「あなた、頼んでないでしょ」
「頼んでない」
「そう思った」
美咲はそこで一度、机の縁を指で叩いた。
「今日、何かあった?」
「何が」
「別に。なかったならいい」
美咲は行った。
行ってから、俺は「何かあった」の範囲を考えた。範囲がわからないので、考えるのをやめた。
◇
六時に家に帰ったら、廊下に延長コードが伸びていた。
玄関からリビングまで、床の端に沿って、丁寧にテープで留めてある。テープは養生だった。剥がしても跡が残らないやつである。俺はそれを最近覚えた。
リビングに入ったら、妹がテレビの前にしゃがんでいた。
「兄ちゃん、そこ踏まないで」
「踏んでない」
「踏みそうだった」
妹はコードの先を握ったまま、俺を見上げた。
「録画、三つ入れた」
「聞いた」
「あと、あたしの部屋のと、おばあちゃんちの」
「五つじゃないか」
「保険は多いほうがいい」
保険を五つ入れる人を、俺は初めて見た。
妹はコードの根元をもう一度押し込んで、テープの端を指で撫でた。撫でてから、リモコンを二つ並べて置いた。
◇
母さんが台所から出てきて、エプロンで手を拭いた。
「ご近所さん、明日ね」
「明日?」
「さすがに時間が時間だから。明日の昼に、うちで」
「何をするんだ」
「見るのよ」
「録画をか」
「録画を」
母さんは真顔だった。
俺は自分の部屋に上がって、鞄を置いて、下りてきた。下りてきたときには、リビングの椅子の一脚が、いつもと違う場所に移動していた。
◇
夕飯は肉じゃがの残りと、焼いた鮭だった。鮭は皮が剥がれていた。焼きすぎだった。
俺は二杯食べた。三杯目は残しておいた。夜中まで起きているなら、途中で腹が減る。腹が減ったときに何も無いのは困る。
二十三時に、俺は台所へ下りていって、茶碗に半分だけ盛って食べた。
食べているところに父さんが来た。
父さんは冷蔵庫を開けて、麦茶を出して、コップに注いで、それを持ってリビングへ戻っていった。
途中で一度止まって、こっちを見た。
「起きてるのか」
「起きてる」
「そうか」
それだけだった。父さんはリビングの椅子に座って、そのままテレビの前で待っていた。まだ一時間ある。
俺は茶碗を洗って、伏せて、水を切った。
リビングに戻ったら、父さんはまだ同じ姿勢で座っていた。テレビは違う番組をやっていた。音は小さかった。
◇
二十四時十二分になった。
画面が変わって、知らない音楽が流れた。アパートの外観が映って、雨が降っていて、誰かが階段を上がっていく。
「静かに」
妹が言った。誰も喋っていない。
俺は床に座って、テーブルに肘をついていた。ドラマを最後まで見るのは、たぶん去年の年末以来である。
床が冷たかった。座布団は一枚しか出ていなくて、それは妹が敷いていた。
三十六ページのシーンが来た。妹がテレビの前で座り直した。
画面の中に、俺がいた。
ドアが半分開いて、そこから顔が出て、一言だけ言う。それだけである。
「……いますよ」
言った。
俺は自分の声を、テレビのスピーカー越しに聞いた。知らない人の声だった。それは知っていた。だが顔まで知らない人になるとは思っていなかった。
画面の中の男は、何か重いことを抱えている人の顔をしていた。
実際には、あの日の俺は、ドアの縁が思ったより冷たいことを考えていた。
「動かないで」
「動いてない」
◇
四十一ページと四十二ページが来た。
室井さんが映っていた。
映っている室井さんは、現場で見た室井さんより、少しだけ大きく見えた。理由はわからない。カメラの位置だと思う。
俺の出ているところは、そこで終わった。
母さんが小さい声で言った。
「顔、いつもの顔ね」
「そうだな」
「よかったわ」
何がよかったのかはわからないが、母さんは満足していた。母さんの声が、少し低かった。
◇
途中から、まぶたが重くなった。
次に気がついたときには、画面にスタッフの名前が縦に流れていた。音楽が変わっていて、部屋が暗かった。
「起きた?」
「起きた」
「兄ちゃん、二十分寝てた」
「そうか」
「自分が出てるやつで寝る人、初めて見た」
妹はリモコンを持ったまま、俺の顔を見ていた。
俺は肩を回した。首が、おかしな向きで固まっていた。
五十ページのシーンは、最後のほうにあったはずである。見ていない。
「最後の、映ってたか」
「映ってた」
「どうだった」
「録画で見て」
妹は立ち上がって、コードを抜きはじめた。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
電気をつけて、机の右奥を見た。
「わたし、下で見てたのよ」
「棚の上か」
「妹さんが下ろしたの。置く場所は、あんたが決めたところよ」
ミューナは机の右奥で、いつもの角度を向いていた。
台座の縁に、埃が薄く乗っていた。俺は指の腹で一度だけ拭いた。
「どうだった」
「悪くないわ」
「あんたの出てるところは、みんな黙ってたわよ」
「寝てた」
「知ってる」
俺は制服の上を脱いで、椅子の背にかけた。
「あの箱の中の顔は、あんたの顔じゃないの」
「俺の顔だ」
「顔は、そうね」
ミューナはそこで一度、言い方を変えた。
「ああいうふうに切って並べたものを、あの箱は流すのよ。わたしのときもそうだった」
「切り方がうまいと、化けるの」
俺は電気を消した。
消してから、切り方という言葉について考えた。切り方、という言葉を、妹も使っていた。
◇
土曜の昼に、近所の人が三人来た。
母さんはリビングのテーブルにお茶と煎餅を並べて、録画を再生した。煎餅の袋は二つ開いていた。片方は塩で、片方は醤油である。
俺は二階にいた。下から時々、声が上がるのが聞こえた。
一回目は途中で止まって、巻き戻して、また流れた。同じところを三回流していた。
三回とも、同じところで音が小さくなった。母さんがリモコンを持っていた。
一度だけ、下りていった。麦茶を取りに行っただけである。
リビングに入ったら、三人が一斉にこっちを向いた。
向いて、それから、三人とも黙った。
「あら」
「ほんとに、そのままの顔ねえ」
「テレビと同じだわ」
俺は麦茶を注いで、頭を下げて、二階へ戻った。
戻る途中の階段で、下から母さんの声が聞こえた。
「そうなの。あの子、家でもずっとああなの」
合っている。
俺は自分の部屋で、その音を聞きながら、五十ページのシーンを録画で見た。
男が階段を上がってきて、俺が部屋から出てきて、一言言う。
「おかえりなさい」
それで終わりだった。
一分は、無かった。
下で、煎餅の袋を開ける音がした。
◇
日曜の夕方に、妹が俺の部屋に入ってきた。
ドアが開いた音で、入ってきたのがわかった。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「これ、あたしじゃない」
妹はスマホを俺の顔の前に出した。
画面に、動画が並んでいた。全部『春待ちアパート』の切り抜きである。主演の人が出ているやつ、室井さんが出ているやつ、雨のシーンだけを繋いだやつ。
その中に、俺のところだけを切ったやつがあった。
題は〈隣の部屋の子〉とだけ書いてあった。
「これ、誰が上げたんだ」
「知らない人」
「知らない人が上げたのか」
「上げたのが誰かは、どうでもいいの」
妹は画面を指で叩いた。
「数字」
俺は見た。
並んでいる数字の桁が、他のより一つ多かった。
「本編の切り抜きより伸びてる」
「兄ちゃん、七行だよ」
「七行だ」
「七行のほうが伸びてるんだよ」
妹は俺の机に肘をついた。ついて、しばらく黙っていた。
黙ってから、言った。
「あたしのほうが編集うまいのに」
妹は本気で悔しがっていた。兄の話ではない。
◇
月曜の朝、教室に入ったら、机の上に紙が置いてあった。
ノートを破ったやつである。
〈見た〉
それだけ書いてあった。誰のかはわからない。字は丸かった。
紙は四つに折ってあった。折り目が、一度開いて閉じた形になっていた。
早坂千尋が席の前を通りながら言った。
「高町くん、見たよ」
「見たのか」
「あれ、めっちゃ回ってるよね」
「らしい」
「わたし、金曜に言っといたから」
「なにを」
「クラスのグループで。今日だよって」
早坂は自分の席に座った。座ってから、もう一度こっちを向いた。
「あ、勝手に言ってよかった?」
「もう言ってる」
「そうなんだよね」
早坂は笑った。
悪気は無い。早坂には無い。
◇
休み時間に、熊沢が俺の机に手をついた。
「お前、あれ、演技だったの?」
「演技だ」
「ドアのとこ」
「ドアのとこだ」
「うわ」
熊沢はしばらく黙って、それから言った。
「俺、あの回だけ三回見た」
「そうか」
「二回目から早送りした」
「どこを」
「お前が出てないとこ」
全部で八話あるドラマの、七行のところだけを三回。
同じことをしたやつが、教室にもう二人いた。
◇
月曜の放課後、事務所に行った。
ロビーに入ったら、受付の人がこっちを見て、それから受付の中のモニターに視線を戻した。二階へ上がる階段の途中で、知らない社員が二人、すれ違った。二人とも、スマホを見ながら喋っていた。
「ねえ、これ何回目」
「知らない。朝から見てる」
俺の横を通ったが、顔は上げなかった。
階段の踊り場に、段ボールが二つ積んであった。上の箱の口が開いていて、中は空だった。
みんな画面を見ていた。誰も俺を見ていなかった。
ただの階段だった。
◇
四階に上がったら、廊下で有本さんが電話をしていた。
電話をしながら、俺に向かって手を上げた。上げた手をそのまま横に振って、会議室2のドアを指した。
俺は入った。
悪い話をするときに使う部屋だと聞いたことがある。今日も悪い話ではなかった。
犬飼さんが座っていた。机の上にタブレットが置いてあって、画面がついている。
「座れ」
「はい」
俺は座った。
机の天板に、丸いあとが二つ付いていた。コップを置いたあとだった。
「見たか」
「はい」
「どっちを」
「両方です」
「そうか」
犬飼さんは俺の顔を見た。それから、タブレットを裏返して机に置いた。
「高町」
「はい」
「撮影の最終日に、君のぶんは終わったと言ったな」
「はい」
「訂正する」
「はい」
犬飼さんは背中を椅子から離した。
「第六話に、もう一度出ることになった」
「はい」
「聞こえたか」
「はい」
犬飼さんは、俺の返事を一度置いてから、続けた。
「向こうの脚本が、隣の部屋の子をもう一度出したいと言ってきた。それだけだ」
「はい」
「もっと驚いてもいい」
「はい」
驚いてはいる。顔は、動かなかった。
◇
有本さんが入ってきた。タブレットを胸の前で抱えている。抱えたまま、早口で喋りはじめた。
「高町さん、日程が来ました」
「はい」
「二日間です。前と同じ、みなと撮影所です」
「はい」
「学校は、こちらから連絡します」
「はい」
「あと、あの、その」
有本さんはそこで一度、息を吸った。
「切り抜き、わたしも見ました」
「はい」
「五回見ました」
「はい」
「すごいです!」
犬飼さんが横から言った。
「仕事の話を先にしろ」
「はい!」
有本さんはタブレットを開いて、日付を読み上げはじめた。日付のあとに、曜日も付けて読んだ。
俺はそれを聞いた。聞きながら、二日間なら学校を二日休むのだな、と思っていた。
◇
俺は廊下に出て、壁際に立って待っていた。
壁は冷たかった。背中を付けると、シャツ越しに冷たさが来た。
会議室2のドアは閉まっていない。半分だけ開いている。中で犬飼さんと有本さんが喋っていた。声を落としていなかった。
「局からは何件来た」
「今日だけで九件です」
「編成は」
「編成が四件、宣伝が三件、あとは知らない番号です」
「出るな」
「出ちゃいました」
「そうか」
「全部、メモは取りました」
「見せろ」
「時間と、言われたことだけです」
「それでいい」
「番号の主が誰かは、書いてません」
「書かなくていい」
紙をめくる音がした。
「昼から、電話しか取っていません」
「飯は」
「まだです」
「犬飼さん、これ、うちで受けきれますか」
「受ける話じゃない。断る話だ」
「断るんですか」
「順番を決めるだけだ。全部受けたら、あの子が高校をやめることになる」
有本さんが何か言った。今度は聞こえなかった。
「学校が先だ。契約にそう書いてある」
「はい」
俺は壁から背中を離した。
高校をやめる予定は無い。やめると、昼に弁当が出なくなる。
◇
帰りの車の中で、犬飼さんが言った。
「高町」
「はい」
「第六話は、相手が変わる」
「はい」
「室井さんじゃない」
「はい」
信号が赤になった。
「主演の人だ」
「はい」
「桧山涼介さんだ」
「はい」
犬飼さんは、そこで俺の顔を横目で見た。
「知らないんだな」
「はい」
「テレビを見ない家か」
「見ます」
「そうか」
犬飼さんは前を向いた。左手が一度ハンドルから離れて、また戻った。
「明日、写真を持ってくる」
「はい」
信号が青になった。車が動いて、前の車のブレーキランプが一度だけ光った。
窓の外を見た。
あの撮影所に、また行くらしい。
俺は明日の朝、何時に起きればいいのかを聞き忘れたことに、家に着いてから気がついた。
玄関を開けたら、妹が階段の下に立っていた。
「まだ伸びてる」
「二日で、本編の一番いいやつを抜いた」
「本編を抜いたのか」
妹はスマホを持ったまま、俺の顔を見上げた。
「あれ、七行だよね」
「七行だ」
「次は」
「知らん」
俺は靴を脱いだ。
次は二日ある。二日あって、弁当が二回出る。




